【シリーズ第二弾 出版しました!!】

みなさまにお知らせです。3月27日に、シリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎~その後の邪馬台国から日本国誕生まで」を出版しました。

昨年8月に、「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国まで」を初出版いたしました。読まれた方々から、
「今までもやもやしていた日本古代史が、よく理解できた」
「多くの図表があり、とてもわかりやすかった。」
「邪馬台国の位置が、どうして今まで結論が出ていないのか、不思議。」
など、多くの感想をいただきました。この場を借りまして、深く御礼申し挙げます。

さてそれでは、邪馬台国はその後どうなったのでしょうか?。そして、大和朝廷との関係は?・・・。
学校の歴史の授業でも、そのあたりはさらっと流したのではないでしょうか。

その問いに答えたのが、今回の本です。

他にも、
・なぜ金印「漢倭奴国王」は、福岡県の志賀島で発見されたのか?
・倭の五王とは、本当は誰だったのか?
・日本国はいつどのように誕生したのか?
など、さまざまな疑問について、科学的に解き明かしていきます。



詳しい内容はこちらから・・・

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【訪問ありがとうございます!】初めて訪問くださった方へ

・・<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は、下にあります。>・・

訪問ありがとうございます。このブログは、様々な資料をもとに、日本古代史の真のすがたを解き明かしていくブログです。全体として、ひとつの読み物になってます。初めて訪問された方にわかりやすいよう、これまでの流れをまとめました。

【これまでの流れ】
日本の神話から始まり、中国史書、朝鮮史書を一通り読みながら、日本人(弥生人)の源流である倭人がどこからやってきて、邪馬台(壹)国、そして大和朝廷となったのかを、ひとつの壮大な仮説として導いてきました。その仮説のストーリーとは


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日本人は、どこからやってきたか? (19) ~ 3万年前の航海 徹底再現プロジェクト

前回、前々回と、日本人の祖先が、南方の東南アジアにあった「スンダランド」から舟でやってきた、という話をしました。その舟で海を渡ってきたルートを、「海上の道」と呼ばれていることも紹介しました。そして、実際のルートを、距離や黒潮の流れをもとに、たどってみました。

しかしそれでも、なおかつ「そのような航海技術を、本当に古代人がもっていたのか?」という疑問は残りますね。

そう思っていたところで、昨年(2016年7月)に興味深い実験が実施されたので、紹介します。

実験の名称は、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」です。主催は、国立科学博物館、リ-ダーは海部陽介氏です。




mainImg.jpg


HP冒頭に、

"新たな発見:祖先たちは偉大な航海者だった!?

最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやってきたことがわかってきました。その大航海の謎に迫るために始動したのが、このプロジェクトです。

3万5000~3万年前に、突如として現われる琉球列島の人類遺跡。これは人類が海を渡り、遠くの島へ進出できるようになったことを物語っています。"

とあります。

彼らは台湾から舟で琉球諸島にやってきたとの仮説を立て、それを実証するのが、このプロジェクトの目的です。

 
okinawa_map.jpg 

今回はその第一段階の実験航海です。自分たちで草から作った舟で、与那国島から西表島への渡航を試みました。ちなみに、2019年には、台湾から与那国島への渡航を計画してます。

<左から実験航海の計画、 台湾の伝統竹筏、 ユリ遺跡(福井県)出土の縄文時代の丸木舟
丸木舟掲載元:若狭三方縄文博物館常設展示図録>


planning.jpg 

2016年7月17日 6時53分、与那国島カタブル浜を出航しました。


結果は、潮の流れが速く、北へ流され、失敗に終わりました。潮の流れは、時速3~4 km(約2ノット)で、通常の倍程度になっていたことが、要因と考えられます。レポートにも、「西表島が見えていて、風と波がほとんどない日が訪れるまで待ち、さらに海流の条件が合えば、計算上は十分に行けます。」とあります。

ただし、そこまで条件がそろわないと渡航できないとなると、成功する確率が極端に低くなります。

この実験には、いくつかポイントがあると考えます。

一つは、舟の材質です。与那国島に自生する草(ヒメガマ)とツル(トウツルモドキ)から作りましたが、草の舟とは、いかにも頼りなさげです。私は、木をくりぬいて作る丸木舟ではなかったかと考えているのですが、
与那国島で当時の石斧が発見されていないことから、草舟となったとのことです。ただし、3万数千年前の磨製石斧が日本本土では見つかってますので、当時から丸木舟はあったと思われます。

二つ目は、渡航ルートです。図を見ればわかるとおり、与那国島→西表島の方向は、黒潮の流れと直角の向きです。ここを横切ろうとすれば、当然北側へ流されます。むしろ、もっと南の地点からスタートすれば、黒潮な流れに乗りつつ、渡航できると思われます。2019年に計画している台湾島中部からスタートしたほうが、距離の問題は別にすればスムーズにいくと考えられます。

三つめは、漕ぎ手の問題です。漕ぎ手の体力、スキルがどのレベルだったのかはわかりませんが、当時の漕ぎ手は、舟を生活の糧にしていた「海洋性ハンター」です。それと同じだけの、体力、スキルを持った人が参画しないと、再現できないと思います。

四つめは、これが一番大きいかもしれませんが、自然条件等が当時と現在と全く同じ状況だったのか、という問題です。当時の陸地の状況の詳細資料がないのですが、氷河期においては、海水面が現在より100m以上低下していたと推測されてます。だからスンダランドが存在したのであり、東アジアも、中国本土と台湾は陸地でつながっていました。

当時の陸地の状況を、現在の海底の状況から、推測します。まずは、現在の、海の深さです。

琉球諸島海深 
図で、白色~薄白色にかけては、水深100m以下です。大きな地殻変動が生じていなければ、当時は、陸地だったところです。そうすると、与那国島から西表島までの距離は、現在より短かったことになります。台湾~石垣島も、同様です。

陸地と陸地の距離が短く、海の深さが100m以上浅ければ、潮の流れも現在ほど強くなかった可能性があります。少なくとも、距離が短かかったことは確実ですから、横断も今より難易度は低かったはずです。

また図で、東シナ海と記載されている白色のエリア一帯は、当時陸地だったわけで、そうなると、北上する黒潮も、今よりも東(図で右)の方向へ向かう流れが強かった可能性も考えられます。そうなると、石垣島→西表島の方向と同じですから、渡航も今回より楽だったかもしれません。

いずれにしろ、このような取り組みは、興味深く、またロマンがありますね。第二段階の実験航海に期待したいです。

ちなみに、このプロジェクトの模様は、テレビ放送されました。

テレビ東京「日本人はどこから来たのか?」“実験航海”3万年前を徹底再現
ナビゲーター:宮崎美子(2016.12.28放送 58分)
txbiz.tv-tokyo.co.jp/feature/vod/post_123919/

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日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②

小田静夫氏論文の続きです。


”最新の分子人類学の成果によると、約7万年前頃ホモ・サピエンス(新人)たちがアフリカを出てユーラシア大陸に拡散した(第2の出アフリカ)。その後、彼ら新人たちは、約6万年前頃には東南アジアの「スンダランド」と呼ばれる広大な大陸に定着した。やがて海岸や島嶼部に生活した集団は、筏舟(竹材、丸太材、動物の浮き袋)や丸木舟などの渡航具を開発して、河川や沿岸海域さらに外洋にまで出漁(貝塚遺跡、骨角製釣針)し、豊かな海洋資源を主生業にした「海洋漁撈民」に成長していた。

 約5万年前頃、このスンダランドからウォーレス線を越えて、ニューギニアとオーストラリアが陸地で繋がっていた「サフルランド」と呼ばれる大陸に移住した新人集団がいた。京都大学の片山一道氏、国立民族学博物館の小山修三氏、同志社大学の後藤明氏らによると、この移住行為は単なる1グループの偶発的な拡散ではなく、意図的に複数回行われ、その移住人数は1,000人規模の多数に及んだという。彼ら新人たちはその後、この新天地に定住しオーストラリア先住民(アボリジニ)、ニユーギニア高地人(パプア人)の祖先になった。スンダランドからサフルランドへは、海面が現在より120m以上低下した最終氷期最寒冷期(約1万8,000年前)でも「ウォーレシア」と呼ばれる多島海を最大約80~100km航行する必要があった(大塚柳太郎編1995『モンゴロイドの地球2 南太平洋との出会い』、片山一道2002『海のモンゴロイド』、後藤明2003『海を渡ったモンゴロイド』、海部陽介2005『人類がたどってきた道』、小田2005ほか)。”


50000年前に、「スンダランド」から「ウォーレス線」を超えて「サフルランド」へ移動した集団がいた、とあります。彼らが、アポリジニ、ニューギニア人となったわけですが、注目すべきは、その航海技術です。「ウォーレシア」と呼ばれる多島海を最大80~100km航海した、とあります。当時も陸地とつながっていなかったわけですから、そのように考えるしかない、となります。われわれの想像をはるかに上回る技術をもっていたことになります。

ちなみに「ウォーレス線」とは、図中では「Wallace Line」と記載されている線です。この海峡を境に、生物の特徴が大きく異なる線のことであり、西側は東洋区、東側はオーストラリア区の生物が見つかることで、知られています。陸上生物は、海を渡れなかったから、進化の過程で、大きな差異が生じたということです。逆に、われわれの祖先はその海を渡れた、ということになります。

スンダランド・サフルランド


"ここで日本列島に渡来した最初のホモ・サピエンスたちのルートを探ってみることにしたい。1995・96年國學院大学の加藤晋平氏は、台湾島を含めた東南アジア地域の剥片石器群を「不定形剥片石器文化」と呼称し、古期と新期に区分した(國學院雑誌96-7、地学雑誌105-3、月刊地球206)。古期は更新世にスンダランド海岸部から、サフルランドと黒潮海流を北上して琉球列島を北上して奄美諸島まで到達した旧石器人集団である。新期は完新世になって、東南アジア大陸沿岸や島嶼部に分布していた土器を持たず中石器的な生活段階の海洋航海民の文化と考えられている。共に「南方型旧石器文化」とも呼べるもので、黒潮海流を北上した「黒潮圏」からの渡来ルートの軌跡であった(小田2007b)。

 この「新・海上の道」とも呼称できる南方ルートの旧石器人集団は、①ウォーレシアの道、②琉球列島の道、③黒曜石の道の三つの海洋航行行動が知られ、最古の渡来は①の段階の旧石器人たちで、それは日本の旧石器時代編年で、「先ナイフ形石器文化」(約3万5,000年前頃)に相当する(小野昭・春成秀爾・小田静夫編1992『図解・日本の人類遺跡』)。彼らはスンダランド海岸部で世界に先駆けて「海洋適応」を獲得し、サフルランドへ拡散するとともに世界最強の「黒潮海域」を北上し、琉球列島を経由して本州島の太平洋沿岸部を遊動した「海洋航海民」であった。そして伊豆諸島の神津島で石器製作の優れた原材である「黒曜石」の大原産地を発見し、この島を海に浮かぶ神聖な「宝の島」として、旧石器・縄文・弥生時代に亘って大切に利用してきた歴史を知ることができる(小田2002,2014a)。”

スンダランドから黒潮に乗って、日本列島にやってきたルートとして、「ウォーレシア」→琉球列島→本州太平洋沿岸と渡り、神津島で黒曜石を発見した、としています。図示します。

新・海上の道

<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>

                   

ここで当然のことながら、「本当にこんな遠距離を、当時の舟で渡れたのか?」という疑問は湧きますので、少し考察してみます。


まず、当時から80~100km渡航できたことは、スンダランドからウォーレンス線を越えてサフルランドへやってきたことから明らかです。


ウォーレンス線は、図中では、左下のボルネオ島(たぬきの形をした島です。たぬきの頭の部分が見えますね。)からフィリピン諸島南部を通る線です。


そのフィリピン南端から、黒潮に乗って、一気に宮古・八重山諸島まで来れるかです。距離にして、ざっと2000kmです。


”黒潮は世界最大の規模の海流で、最大流速は最大で4ノット(約7.4km/h)にもなる。また、600 - 700mの深さでも1 - 2ノットになることも珍しくない。”(Wikipediaより)


そこで黒潮に乗った舟の速度を、2ノット(3.7km)としてみます。すると、一日で、

3.7km/hr×24hr=88.8km

進みます。

2000km航行するのに必要な日数は、

2000km÷88.8km/日=22.5日

となります。


黒潮に乗れば、自然と23日で宮古・八重山諸島周辺の海域に行き着きます。そのあたりへ来れば、島々が見えてきますから、無事どこかの島へたどり着くことができます。彼らはもともと海洋民ですから、舟の操縦は得意ですし、魚を釣ることで食料を確保することもできたはずです。雨は豊富な気候だったので、器状のものがあれば、水も問題なかったでしょう。

ただし、もともと何の情報もないまま、つまり目的地もないまま大海原へ漕ぎ出したのか、という疑問は残ります。出発した時点では、目的地が視界のなかにないからです。


そこで、もう一つのルートとして、島から島へと進んだとしてみます。


ウォーレンス線に沿い、フィリピン南から、フィリピン諸島東を海岸線沿いに進めます。あるいは、スンダランドとフィリピンは、ほぼ陸続きであったことから、フィリピン諸島の中を通ることもできたでしょう。


そのようなルートで最北のルソン島北端まで進むと、当時大陸と陸続きであった台湾まで300kmほどです。途中にバタン諸島という小さい島々がありますから、それらの島から島へ渡ると、台湾まであと150kmほどですので、黒潮に乗れば、台湾に到着します。


台湾にたどり着き、東海岸沿いに進めば、100kmほど東に与那国島、さらに石垣島、そして宮古島がありますので、渡航できます。そして宮古島から沖縄本島まで250kmほどで到着します。


沖縄本島に、3万五千年前の人骨が発見されてます。ということは、当時人類が住んでいたということです。彼らは250kmの海を渡ってくる他なかったわけですから、当時の航海技術の高さが証明されます。また彼らは南方のオーストロネア系であったことがわかってますから、以上のルートで渡ってきた可能性は高いでしょう。


もちろんこの移動は、幾世代もかけた壮大な旅であったはずで、少しづつ大移動をしていったことの積み重ねでしょう。


いずれにしろ、このように細かくみていくと、南方のスンダランドから日本列島へ「海上の道を通ってやってきた」という仮説も、現実性が出てきますね。


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日本人は、どこからやってきたのか?(17) ~ 古代に「海上の道」があった!!①

前回、「局部磨製石斧」が、日本列島では3~4万年前のものが出土しており、世界じゅうみても飛び抜けて古い、ということを、小田静夫氏(元東京都教育庁文化課職員)の論文などをもとにお話しました。

その小田氏ですが、「新・海上の道」という、とても面白くかつわかりやすい説を唱えてますので紹介します。以下、「黒曜石分析から解明された新・海上の道-列島最古の旧石器文化を探る④-」からの、抜粋です。


”近年の分子人類学の進展で、縄文時代人の祖先は東南アジアの「スンダランド」から北上したホモ・サピエンス(新人)たちが、琉球列島や日本本土に移住・拡散した「南方起源」(DNA分析)の人々であることが判明している(溝口優司2011『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』)。”


はじめに、縄文人の祖先が東南アジアの「スンダランド」から北上してやってきたことを、溝口氏の著作を引用して説明してます。ここで「スンダランド」という言葉が出てきました。「スンダランド」は、今から72000年前~16000年前に、古代に東南アジア島嶼部にあった大陸の一部です。その後の海面上昇により、海面下になり現在の地形になりました。「サフルランド」とともに、われわれの祖先がどのように移動したのかを語る際のキーワードです。

<スンダランドとサフルランド>

スンダランド・サフルランド

(Wikipediaより)

見てのとおり、現在のインドシナ半島・マレー半島からジャワ島、バリ島、ボルネオ島までは一帯の土地となっており、フィリピンまでも、ほぼつながっていました(スンダランド)。また、オーストラリア、パプアニューギニアも一つの大陸でした(サフルランド)。


”70年代に武蔵野台地の発掘調査で出土した黒曜石石器を、東京大学の鈴木正男氏に依頼して理化学的分析を行った(鈴木1971ab,1977)。その結果、太平洋上の伊豆諸島「神津島」から海を渡って本州島に多数の黒曜石が搬入されていた事実が判明し、日本の先史時代人が世界最強級の「黒潮」激流を乗り越えるほどの「海上航行」技術を持っていたことが証明された(小田1981)。その理化学的証左に裏付けられて、筆者はかつて柳田國男氏が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮説になぞって、「黒曜石」の分析結果から「新・海上の道」とも呼称できる最古の日本列島人の南方渡来説を追跡してきた経緯がある(小田2000,2002)。”


東京の武蔵野台地から出土した黒曜石のなかに、伊豆諸島の神津島産のものがあったことは、衝撃を与えました。しかも約35000年前というとても古い時代のものです。


”黒曜石は火山ガラスで割れ口は鋭く、また加工し易い美しい石材で、他の石材(チャート、砂岩、安山岩)に比べて群を抜いて優れた「石器」に適した岩石であった。特に細かい整形を必要とする両面加工の尖頭器や特に「石鏃」、また鋭い刃部が要求されるナイフ形石器、スクレイパーなどに多用された。この事実から、黒曜石は日本の先史時代(旧石器、縄文時代)を通じて、石器製作の材料として重要な役割を果たした石材でもあった(小田1984)。

黒曜石は、どの火山でも産出するものではない。つまり酸性の火山岩-流紋岩-に伴う火山ガラスで、日本では北海道(白滝、置戸、十勝)、本州中央部(長野・和田峠、霧ヶ峰、静岡・箱根<柏峠>、東京・神津島<恩馳島>)、九州地方(佐賀・腰岳、大分・姫島)に良質の産出地が存在し、京都大学の藁科哲男・東村武信の集計で全国には80ヵ所近くの原産地が登録されている(藁科・東村1988)。したがって先史時代人はこうした利用価値の高い原石を、現地に出かけて直接に、または「交易」活動を通じて入手し利用したことが知られている(小田1982,2007a)。”


ちなみに武蔵野台地の遺跡の黒曜石の産地は、神津島のほか、長野・和田峠、静岡・箱根などであり、広域的な交易システムができていたことが想定されます。驚きですね。


”日本列島中央部の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の神津島と本州島との間に、石器の材料としての「黒曜石」を目的にした旧石器人の渡島活動が判明した(鈴木1971a)。約1万8,000年前の最終氷期最寒冷期でも、神津島と本州島の間には海深200m、幅30km以上の「海峡」が存在し、この島の黒曜石を入手するには「渡航具」(筏舟、丸木舟)を利用した「海上航行」が必要であった。石器を主道具とする旧石器時代にあっては、黒曜石を多量に産出する神津島は「宝の島」であったに相違ない(小田1996)。”


当時の古代人が、30km以上の海を渡れるだけの舟の築造技術と、航海技術をもっていたことは疑いえないわけです。また「黒曜石」を当時の「宝」と表現しています。


神津島を最初に発見した旧石器人は、約4万年前頃に「スンダランド海岸部」を船出した「海洋航海民」であった。彼らは「黒潮海流」を利用してフィリピン諸島、台湾島を経て琉球列島に上陸(約2万6,000年前<宮古島・ピンザアブ洞人>、約3万2,000年前<沖縄本島・山下町第1洞人>、約1万8,000年前<沖縄本島・港川人>)し、その後南九州、四国、本州の太平洋沿岸地域を遊動・拡散していった。その移住過程で本州島中央部の太平洋上で黒曜石の一大産地であった伊豆諸島の「神津島」を発見し、いち早くその有効性を認め利用したのであろう(小田2005)。近年、本州中央部山岳地の長野県矢出川遺跡の細石刃文化(約1万4,000年前)の黒曜石製石器に、200km以上も離れた太平洋上の神津島産(恩馳島)が多数確認され注目されている(堤隆2011『旧石器時代』列島の考古学)。”


「神津島を発見したのはだれか?」についてです。本州の人々が発見したのだ、との説もありますが、小田氏は、スンダランドから舟でやってきた「海洋航海民」としてます。近年次々と発見される古代琉球人も、その途上にいた人々としてます。前回お話した、「南方ルート」です。


”約1万2,000年前の縄文時代になっても、神津島産黒曜石は伊豆諸島の全島嶼遺跡や本州島に運ばれ、約5,000年前の縄文中期には関東・中部地方の太平洋岸を中心に、伊勢湾や霞ケ浦沿岸、さらに日本海側の能登半島へと本州中央部約200km範囲に分布した。このような遠隔地にまで運ばれた背景には、黒曜石を専業にした集団の存在が考えられる。そうした「専業集団」の基地的遺跡が、神津島が望見できる伊豆半島東岸部の静岡県段間遺跡(縄文中期)に確認され、ここからは約500kg以上の黒曜石石核・剥片と約19kgの大型原石が出土している(金山)。

野川遺跡の理化学的な黒曜石分析で、武蔵野台地の約2万年前の「旧石器時代」に、太平洋上の伊豆諸島・神津島産黒曜石を利用していたことが判明した(鈴木1971ab)。

ちなみに世界最古の海洋航行は、地中海のエーゲ海周辺の約1万2,000~1万年前の「中石器時代」の交易活動が定説になっていたからであった(ハドソン1988)。”


ここで面白い仮説を立ててます。「黒曜石を生業とした専門的集団」の存在です。確かに、日本各地に黒曜石を運ぶとなると、片手間ではできませんね。全国規模のネットワークが存在したということです。また世界的にみると、最古の「海洋航行」による交易活動が12000年前とされているのに比べて、けた違いに古いことも驚きです。


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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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