新唐書日本伝を読む その6(最終回) ~ 大和朝廷(日本国)の本当の始まり

国内体制も安定し、律令国家が確立します。

【現代訳】
長安元年(701年)、日本の国王に文武が立ち、大宝と改元した。文武は、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)を遣わして、日本の産物を唐に朝貢させた。朝臣真人とは、ちょうど唐の尚書(しょうしょ)のような役である。粟田は進徳冠(しんとくかん)をかぶり、冠の頂には四本の花飾りがあり、紫の上衣を着、白絹の帯をしめている。真人は学問を好み、文章を書き連ねることができ物腰が美しかった。則天武后は彼を麟徳殿(りんとくでん)に招いて宴を開き、司膳卿(しぜんけい)の位を授けたうえで帰国させた。
文武が死ぬと、その子の阿用(あよう)が位を継いだ。
元明(げんめい)が死ぬと、その子の聖武が位を継ぎ、白亀(はくき)と改元した。
開元年間(713-741年)の初め、粟田は再び来朝し、唐の儒者たちから経書の額を教えてもらいたいと願い出た。そこで帝は、四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(げんもく)に、鴻臚寺(こうろじ)に出向き、粟田の指南役になってやるようにと詔(みことのり)した。粟田は趙に大幅の布を献じて弟子入りの礼とし、帰国する時ぬは、唐朝から贈られた物をすべて書物に換えて持ち帰った。
粟田の副使として来朝した朝臣仲満(なかまろ)は、中国を慕って帰国を承知しなかった。彼は姓名を中国風に変えて朝衡(ちょうこう)と名乗り、左補闕(さほけつ)・儀王(ぎおう)の学友を歴任し、広く知識を備え、長期間滞在したのちにやっと帰国した。
聖武が死んで、その娘の孝明が位を継ぎ、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)(749年)と改元した。
天宝十二年(753年)、朝衡は再び来朝し、そのまま住みついて、上元年間(760-762年)には、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・安南都護(あんなんとご)に抜擢された。
【解説】
701年に、あの有名な大宝律令が制定されるとともに、年号が大宝に定められます。
すでに九州王朝(倭国)は、白村江の戦いで破れ疲弊して没落し、それに代わり大和朝廷(日本国)が、実権を握っていきます。その実権を完全掌握したのが、701年です。
古田武彦氏は、701年を「ONライン」と名付けています。つまり、OLD(倭国)からNEW(日本国)へ変わる境目という意味です。
それを内外に高らかに宣言したのが、大宝律令の制定と大宝という年号開始というわけです。

引き続いて、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)の話になります。旧唐書にも出てきましたが、破格の扱いです。私たちにとっては、のちほど出てくる 阿部仲麻呂の方が有名ですが、彼をしのぐ賞賛ぶりです。
ちなみに朝臣真人粟田とは、唐より帰国後、その知見を活かして藤原不比等らとともに大宝律令の編纂にかかわるなど、大きな功績を挙げ、大宰帥も歴任、正三位になってます。

朝臣真人粟田
粟田真人

【現代訳】
当時、新羅が海路を封鎖したので、日本は航路を変更して明州(めいしゅう)・越州(えっしゅう)経由で朝貢するようになった。
日本では孝明が死に、大炊(おおい)が位を継いだ。淳仁が死ぬと聖武の娘の高野姫(こうやひめ)を王とした。高野姫が死ぬと、白壁(しらかべ)が位を継いだ。
建中元年(780年)、日本国の使者の真人興能(まひとおきよし)が国の産物を献上した。真人とは、おそらく官名を氏(うじ)とした者であろう。興能は書にすぐれており、彼の用いる日本産の紙は、蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった。
貞元年間(785-805年)の末、日本国王は桓武といい、使者を遣わして来朝させた。使節団の中にいた学士の橘逸勢(たちばなのはやなり)と仏僧の空海は、そのまま唐に残留して学問を習得したいと望んだ。それから二十年以上たって、日本国の使者の高階真人(たかしなのまひと)が来朝した(806年)。そして橘逸勢たちと一緒に帰らせてほしいと願い出た。憲宗(けんそう)は「よろしい」と詔した。
桓武の次に諾楽(なら)が位を継いだ。その次は嵯峨(さが)、その次は浮和(ふわ)、その次は仁明(にんみょう)である。仁明は、開成(839年)にまた唐に入貢した。その次は文徳(もんとく)、その次は清和(せいわ)、その次は陽成(ようぜい)である。その次の光孝(こうこう)が即位したのは、わが光啓(こうけい)元年(885年)にあたる。
【解説】
歴代天皇の話が続きます。この時代になると、事実関係もしっかりとしてきますので、さらりと流すことにします。
細かい話になりますが、真人興能がもっていった紙が「蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった」とあります。日本での紙づくりは、日本で始まったとの説と、中国・朝鮮より伝わったと説があります。いずれにしろ、当時の技術先進国である中国の人が驚くほどの紙製造技術をもっていた、というのは驚きです。当時から、様々な技術を取り入れながら改良していく技術立国であったことを示していると言えますね。

【現代訳】
日本国の東海の島々の中には、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たに)の三つの小国の王がいる。日本国の周囲は北は新羅と海をへだて、西北は百済と海をはさんで向いあい、西南は越州(えっしゅう)の方角にあたる。日本には絹糸や綿を産し、珍しい物があるということである。
【解説】
最後に、総論的な話になります。
三つの国がどこなのかはわかっていませんが、表音から邪古(やこ)は屋久島、波邪(はや)は隼人つまり九州南部、多尼(たに)は種子島とも言われています。
ここであえて3つの国名を挙げ、国王がいる、とまで言っているということは、ウラを返せば日本国に完全には服属していなかったということでしょう。

以上で、新唐書日本伝は終わりです。

これまで中国王朝の正史として、二十四史を順に紹介してきました。次に宋史があるのですが、だいぶ時代が下ってから編纂されたものであり、日本古代史からみた同時代史とは言い難いので、新唐書までとします。今後、必要に応じて随時取り上げることとします。

実はもうひとつ、二十四史ではありませんが、同時代史として価値のある史書「翰苑(かんえん)」があります。次回は、その翰苑を読んでいきます。

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新唐書日本伝を読む その5 ~ 謎が残る白村江の戦いから壬申の乱まで

前回とりあげた白村江の戦いに続き、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が勃発します。

【現代訳】
天智が死ぬと、その子の天武が位を継いだ。
天武が死ぬと、その子の総持(そうじ)が位を継いだ。
咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
「わが国は太陽の出るところに近いから、それで国名としたのだ。」と。
また、こういう説もある。
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。また、その使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向こうは毛人(もうじん)の住む地だ、などと言っている。
【解説】
天智が亡くなり、弟の天武、そして総持(そうじ)へと、天皇が代わります。原文の総持は、持統天皇のことでしょう。
この時期も、日本では大きなことがありました。

白村江の戦いで破れ(663年)、唐が九州北部に進駐してきます。
天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京へ遷都します(667年)。
そして天智天皇が亡くなり(671年)、後継をめぐり、天智天皇の子供である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利します(672年)。
そして倭国から日本国へと改名されます。

これらは一般には別個の話として語られますが、そんなはずはなく、一連の流れのなかで捉えるべきでしょう。

不思議なのは、なぜ天智天皇が大津京に遷都したのかです。唐の進軍から避難するためと説明されますが、地政的に言って、飛鳥に比べさほど有利とも言えません。
また、白村江の戦いではほとんど姿の見えない大海人皇子が突然出てきて、大友皇子に勝利して、天武天皇になります。

天武天皇
Emperor_Tenmu.jpg


当時は、唐の占領下にあったも同然です。そのなかで、日本を二分する大きな戦いに関し、唐が無関心であったはずもありません。言ってみれば、マッカーサー占領時代に、日本国内でクーデターが起こったようなものです。アメリカが、無関係ということはなかったでしょう。
これらについて、詳細は古田武彦氏の「壬申大乱」をご覧ください。

さて、では一連の流れを、どのように理解すればいいでしょうか?。

あくまで推測になりますが、ひとつの説としてあるのは、天智天皇が倭国とともに反唐派であり、天武天皇が親唐派だったという説です。
すなわち、反唐派の天智天皇が、大和朝廷での勢力争いを避け、大津京へ逃れます。子供の大友皇子に位を譲りますが、大海人皇子が唐のバックアップを受け、壬申の乱で大友皇子に勝利する、という説です。

いかがでしょうか?。あくまで数ある説のひとつで仮説ですが、このように考えるとつじつまが合ってきます。
もちろん反論も多々あるでしょうし、慎重な論証が必要でしょう。それがなければ単なるトンデモ説になってしまいますが、長くなりますので、ここでは仮説を紹介するにとどめます。
いずれにしろ、この時代の一連の流れを解釈するには、明らかになっていない何かがあると考えざるを得ません。

皆さんも是非、この時代について、なぜなぜ?とあれこれ考えてみても面白いと思います。

また、旧唐書にもありましたが、
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
と日本が説明した話。中国側があやしいと思ったというのが、面白いところです。ようは説明があやふやだったわけです。そしてなぜあやふやだったのかと言えば、一連の経緯、すなわち今までお話しした
倭奴国(九州王朝)
     ↓
倭国(九州王朝)
     ↓
日本国(大和朝廷)
へと変わった経緯を、明確に説明できない、或いはしたくない事情があったのでしょう。つまり自らの正統性に確信がもてなかった、ということではないでしょうか?。

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新唐書日本伝を読む その4 ~ 白村江(はくすきのえ)の戦いが記載されていない理由とは?

天皇の系譜が続きます。教科書で習った大化の改新ころからです。
【現代訳】
永徽(えいき)年間(650-656年)の初め、日本国王の孝徳が即位し、改元して年号を白雉(はくち)(650-654年)に改めた折に、一斗枡ほどもある琥珀(こはく)と、五升入りの容器大の瑪瑙(めのう)とを唐に献上してきた。当時、新羅は高句麗と百済に侵されて損害を受けていた。そこで高宗(こうそう)は詔勅を下し、軍を発して新羅を救援させた。
【解説】
さて、ここで突然日本の年号が出てきます。「650年に、白雉(はくち)に改元した。」とあります。
日本の年号がいつ始まったのかについては、645年の大化改新の大化からとされています。ところが、この従来説には、白雉(650-654年)のあと次の朱鳥(しゅちょう)(686年)までの間に空白期間が30年以上もあるなど、説明のつかない点が多々あります。
また畿内における当時の木簡からも、使用が確認されていません。
そもそも日本は、はるか以前から中国との交流があり、年号の存在を知っていたわけです。それを考えると、もっと早い時期の年号があってしかるべしではないか?と考えておりました。

実は、年号にはもう一つ、もっと古い時代のものがあります。九州年号と呼ばれるものです。呼び名のとおり、九州王朝で使われていたとされます。
継体(517-521年)から始まり、大化(695-700年)で終わってます。そのなかに、大化のほか、白雉、朱鳥などもあります。
一般的には、後世の創作とされていますが、九州王朝があったのなら、むしろ年号がないほうがおかしいと思われますが、いかがでしょうか?。

【現代訳】
ほどなく、日本国では孝徳が死に、その子の天豊財(あめのとよたから)が位を継いだ。死んでその子の天智があとを継いだ。
翌年(662年)、日本の使者が蝦夷人(えぞひと)とともに唐に入朝してきた。蝦夷もやはり海中に住み、その使者はあごひげの長さが四尺ほどもあり、矢をつがえて引きしぼり、耳にはさんで構え、人にひょうたんを頭上にのせて数十歩離れたところに立たせて、そのひょうたんを射ると、百発百中であった。
【解説】
孝徳天皇が亡くなり、異母姉弟の天豊財(あめのとよたから、皇極天皇)が、重祚(再び天皇になること)します。天皇名としては、斉明天皇になります。
実は、斉明天皇は九州王朝の王の名前ではないかとの説を、古田武彦氏が提唱してますが、いずれお話ししたいと思います。

皇極、斉明天皇
Empress_Kogyoku-Saimei.jpg

さて663年、日本を揺るがす大事件が起こりました。白村江(はくすきのえ)の戦いです。日本・百済遺民連合軍と、唐・新羅連合軍が、朝鮮半島白村江で激突し、日本・百済遺民連合軍が、大敗します。
ところが、不思議なことに、その大事件がここには記載されていません。それどころか、前年の662年、蝦夷を連れて入朝し、蝦夷のパフォーマンスを見せるなど、とても戦の前の緊迫感はありません。これはどうしたことでしょうか?。唐にとっては、とるに足らないことだったのでしょうか?。
そんなはずはありません。実際、高句麗と百済に攻めらた新羅に援軍を送ったことは記載してます。まして白村江の戦いは、敵方です。当然勝利を自慢気に記載するはずです。

答えはシンプルです。白村江の戦いで唐・新羅連合軍が戦った相手は、日本ではなかったのです。

えっ、そんな、と思われた方も多いと思います。では、相手はどこだったのでしょうか?。

このブログを読まれている勘のいい方は、お分かりでしょう。そうです。戦った相手は、倭国すなわち九州王朝です。日本すなわち大和朝廷は、直接の当事国ではなかったというわけです。

実際、日本書紀を読むと、敗色濃厚にもかかわらず悲壮感は伝わってきません。また、敗戦後、唐は九州北部に進駐してきますが、そこから畿内には向かってません。戦いで勝ったのなら、当然のことながら、占領軍は国の都を目指し、進軍するでしょう。その記載は、ありません。
唐は、倭国に勝利し占領して目的を達したということです。

天智天皇(中大兄皇子)
Emperor_Tenji.jpg

それでは、大和朝廷は、なぜ占領されなかったのでしょうか?。倭国と共に戦ったのなら、占領されて当然でしょう。単なる傍観者だったのでしょうか?。そんなこともあり得ません。

ここからは推測になりますが、大和朝廷は裏で唐とつながっていた可能性はあります。そう解釈すると、大和朝廷に切迫感が感じられなかったのも、うなずけます。

そして白村江の戦いを機に、実権が倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に移っていくことになりますが、詳しくはいずれ・・・。

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新唐書日本伝を読む その3 ~ 謎の多い古代天皇の系譜

天皇の系譜が続きます。

【現代訳】
その次は応神、その次は仁徳、その次は履中(りちゅう)、その次は反正(はんぜい)、その次は允恭(いんぎょう)、その次は安康(あんこう)、その次は雄略(ゆうりゃく)、その次は清寧(せいねい)、その次は顕宗(けんぞう)、その次は仁賢(にんけん)、その次は武烈(ぶれつ)、その次は継体(けいたい)、その次は安閑(あんかん)、その次は宣化(せんか)、その次は欽明(きんめい)である。欽明の十一年は、梁(りょう)の承聖(しょうせい)元年(552年)にあたる。
その次は海達(かいたつ)、その次の用明はまた目多利子比孤(めたりしほこ)ともいい、隋の開皇(かいこう)(581年-600年)末にあたる。このときはじめて中国と国交を通じた。その次は崇峻(すしゅん)である。崇峻が死ぬと、欽明の孫娘の雄古(ゆうこ)が王位を継いだ。その次は舒明(じょめい)、その次は皇極(こうぎょく)である。
【解説】
さらに歴代天皇の名前が続きます。天皇の系譜は、次のとおりです。
天皇系譜Ⅰ 

天皇系譜Ⅱ 

さりげなく系譜が続いてますが、この系譜については、多くの研究者から疑問が持たれています。
例えば、25代の武烈から26代の継体の間です。武烈は、日本書紀に残酷無比の人物に描かれていますが、子供がないまま亡くなります。跡継ぎがいなかったため、応神天皇の五世孫とされる継体を越前国に探し出し、天皇として迎えたとされます。
その話に無理があるため、継体は、本当は天皇の系譜でない人だったのではないか、と言われるわけです。

よくよく考えてみれば、武烈に子供がいなかったとしても、何も五代も遡らなくとも、血縁者はいくらでもいたはずです。それをわざわざ五代も遡り、しかも越前の国から呼び寄せるのは不自然です。さらに最終的に大和に入るのに20年もかかっており、それもへんです。
となると、この話には何か別の意味があったのでは、と考えられます。つまり、継体による権力奪取を正当化するための作り話ではないか?という疑問です。

また、特に武烈が暴虐に描かれていますが、注意が必要です。なぜ正当な天皇を、そこまで貶める必要があったのか?。権力奪取を正当化するために、「前の天皇は、こんなにひどい人でした。」と宣伝するためだったのではないか?、という疑いです。

この系譜は、一般的に言われているものですが、古事記、日本書紀のなかには、矛盾のある記載もあり、ひとつには確定できません。

その他、字の誤りなどおかしいと思われる記載もありますが、ここではスルーします。

【現代訳】
日本国人の風俗は、槌型(つちがた)の髷(まげ)を結い、冠や帯は着用せず、はだしで歩き、ひと幅の布で身体の後部を蔽(おお)っている。身分の高い者は錦のかづきをかぶっている。婦人は模様のない無地のスカート、長い襦袢を着用し、髪は頭のうしろで結っている。
隋の煬帝のとき(604-617年)に煬帝は使者を遣わして日本の役人に錦綫冠(きんせんかん)を賜り、その冠を金の玉でかざり、模様織りの布で衣服をつくり、左右の腰に長さ八寸の銀の花飾りを下げ、そのかざりの数によって、身分の高低が明らかになるようにさせた。
唐の太宗(たいそう)の貞観(じょうがん)五年(631年)、日本国は使者を派遣して唐に入朝させた。太宗は、日本からの距離が遠いのに同情し、役人に命じて、無理に毎年朝貢しなくともよいようにとりはからわせた。また新州刺史(しんしゅうしし)の高仁表(こうじんひょう)を遣わし、日本国王に勅諭(ちょくゆ)を伝えさせようとしたが、高仁表は日本国王と儀礼の問題でいさかいを起こして立腹し、天子の命を読み上げることを拒否して国へもどった。しばらくして、日本はあらためて新羅の使者に託して上奏文を送呈してきた。
【解説】
このあたりの記載は、これまでに書かれた旧唐書倭国伝と日本国伝にあるものとほぼ同じです。
隋の煬帝が日本の役人に錦綫冠(きんせんかん)を賜った話は、初出です。また、旧唐書倭国伝に、ほぼ同じ内容で
「 婦人は無地のスカートをはき、丈の長い襦袢を着、髪はうしろで束ね、長さ八寸の銀製の花を腰の左右に二、三本ずつ下げ、それによって身分の高下の等級を表している。」
との記載がありました。これは役人の話ではありませんが、身分の等級を表すやり方は、隋の煬帝の指示だったことがここでわかります。

いずれにしろ、新唐書日本伝の記載は、これまでの倭国伝と日本国伝の両方から取り込んでいると思われます。

参考までに、当時の貴婦人の様子が描かれている高松塚古墳壁画を再掲します。ここでの記載と多少違いはありますが、雰囲気はつかめるかと思います。

Takamat1.jpg


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新唐書日本伝を読む その2 ~ やっぱり大和朝廷の前身は九州にあった!

前回は少し話が広がったので、お話できなかった重要なポイントがありました。
それは、
「国王の阿海(あめ)氏が自ら言うには、神武天皇の父親の彦瀲まで三十二代、筑紫城に住んでいた」
と、記載されていることです。そして
「神武天皇のときに、大和州に遷した」
とあります。
つまり、ここからも大和朝廷の前身(神武天皇まで)が、九州北部(筑紫)にあったことは明らかとなります。
一般的には、神武天皇が九州からやってきた話(神武東征)は、古事記、日本書紀を編纂した8世紀の史官による創作とされています。ところが、文脈から言って、この話は6~7世紀ころの日本との会話を元にしているでしょう。すると当時(6~7世紀ころ)から、神武天皇の出身が九州北部(筑紫)であることは国王以下共通認識としてあったことを示していると言えるでしょう。つまり、古事記、日本書紀の神武東征神話は、決して8世紀の史官による創作ではない、ということになります。

興味深いのは、「筑紫城に住んでいた」との記載など彦瀲の代まではあたかも九州筑紫の王朝であったかのように表現されていることです。実は、古事記、日本書紀には、「九州筑紫にいた神武天皇が、東征し畿内に侵入した。」とはありますが、そこまではっきりとは記載されていません。
この記載をそのまま受け取ると、九州北部にあった王朝が畿内大和に移動したという邪馬台国東遷説になります。

ただしここで気をつけなくてはいけない点は、これは、日本(大和朝廷)の役人が、唐の中国側へ説明した話でしょう。当然のことですが、自分達にとって都合の悪い話は、作りかえて話すはずです。例えば、この話には「倭国」と「日本」の関係が、触れられていません。
いかにも片手落ちの説明ですが、さすがに中国もあやしいと思ったのでしょう、そのへんを疑っているのが、面白いところです。それは後ほどでてきます。

以後、歴代天皇の話が続きます。

【現代訳】
次は綏靖(すいぜい)、その次は安寧(あんねい)、その次は懿徳(いとく)、その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(てんあん)、その次は孝霊(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、その次は開化(かいか)、その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいじん)、その次は景行(けいこう)、その次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)という。仲哀が死ぬと、開化の曾孫娘の神功(じんぐう)を王とした。
【解説】
第二代の綏靖以下、あまり聞きなれない名前が続きます。実は、綏靖から第九代の開化までの八人は、「欠史八代」と呼ばれ、実在性が疑われています。
その根拠として、神武天皇については、東征神話など華々しい話が多く残されているのに対して、次からの八人には、事績がまるで残されていないことが、挙げられています。
つまり奈良時代に日本書紀などを編纂した史官によるでっちあげの人物たちというわけです。

しかしながら、ここで疑問がわきます。

ではなぜ奈良時代の史官は、それら八人の逸話を創作しなかったのでしょうか?。例えば「誰々天皇がどこどこに宮を構えた」などの創作は、いとも簡単にできます。
そのように創作していれば、今挙げた疑いを受けなくてすんだはずです。たまたま書いておくのを忘れたのでしょうか?。

私は、神武天皇以下八代の天皇について、簡単には非実在と断定できないと考えます。では、実在の人物だったとすると、なぜ八人については記載が少ないのでしょうか?。

簡単に言えば、神武天皇の東征説話に比べ、たいした実績を残していないからでしょう。なぜ実績を残せなかったと言えば、神武天皇はたしかに飛鳥地方に入ったかもしれませんが、磐石な基盤を築いたとは言えず、その後の八人は、そのなかで四苦八苦していたからと推察されます。
この話は、回を改めてお話しします

次の崇神(すじん)から実在とみなされ、垂仁(すいじん)、景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)と続きます。仲哀が死んで、仲哀の皇后の神功(じんぐう)があとを継ぎます。
一般的には、神功皇后と呼ばれますが、ここで王と記載しているとおり、近年まで、第十五代天皇とされていました。

神功皇后
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神功皇后は、長らく武人の間で崇拝されてきましたが、古事記、日本書紀のなかでも、特異な存在です。新羅出兵など三韓征伐し、帰国後、息子(のちの応神天皇)を出産、畿内に向かい応神天皇の異母兄弟を破ります。また魏への朝貢など、あたかも卑弥呼、壹与と同一人物と思わせる記載となってます。
特に日本書紀においては、わざわざ神功皇后のために一章を設け、事績、分量ともほかの天皇にひけをとりません。
また、祀られている神社も、九州をはじめ全国でかなりの数にのぼります。

こうした背景には、神功皇后が仲哀天皇の正室ではないにもかかわらず、天皇(応神)の母となったことも関係していると思われます。
あるいは、卑弥呼や壹与など女性支配者の事績を日本書紀に取り込むために、あえて神功皇后という存在を設定した、との説もあります。
この話についても、詳細は回を改めてお話しします。


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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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