邪馬台国までの道程をたどる(9)~「水行10日、陸行1月」の中身はこれだ!!

前回までで、”邪馬台国までの道程と位置、また帯方郡から邪馬台国までが、距離で12000里(短里で約900km)、日数で水行10日・陸行1月であり、それが等しい”ことをお話しました。

ところで、読者の皆さんのなかには、「”距離で12000里(短里で約900km)、日数で水行10日・陸行1月であり、それが等しい”とあるが、では、実際にそれが整合しているのか?」との疑問をもたれた方も多いと思います。もう少し、掘り下げていきましょう。

改めて、おさらいをします。

1.帯方郡を船で出た一行は、韓国西北端に上陸、陸を歩き、狗邪韓(こやかん)国に到着します。ここまでで7000余里(約525km)、詳細は不明ですが、船で1000余里(75km,2~3日)、陸を歩いて6000余里(450km,20数日)ほどでしょうか。
2.狗邪韓国から、船で、対海(たいかい)国を目指し、対海国の西北端に到着します。この間、1000余里(約75km、2~3日)です。
3.対海国に上陸した一行は、島内を歴観しつつ、島の南東部へ到着。この間、800里(約60km,3日)ほど。
4.対海国南東部から乗船、島の南端まで進み、そこで一泊、翌日、一大(いちだい)国へ到着。この間、1000余里(75km,2~3日)。
5.一大国北西部から上陸、島内を歴観して、島の南西部へ到着。この間、600里(45km,2日)。
6.一大国南東部から乗船、末蘆(まつろ)国へ向かいます。。途中、馬渡島で一泊、翌日、唐津へ到着。この間、1000余里(75km,2~3日)。
7,唐津から、上陸、歩いて伊都(いと)国へ500里(37.5km,2日)。
8.伊都国から、不弥(ふみ)国へ100里(7.5km,1日)。
9.不弥国から邪馬台国へ100里未満(7.5km未満,0~1日)。

なお、魏志倭人伝には、対海国と一大国の島内歴観距離は具体的に記載されていませんが、島を正方形とした一辺の距離の2倍として計上してます。以上を表にして、整理します。

邪馬台国行程内訳

12000里のうち、水行が4000里で10日、陸行が8000里で1月すなわち30日となります。
ここから、1日あたり進んだ距離は、
・水行の場合
  4000里÷10日=400里/日=400里/日×75m/里=30,000m/日=30km/日
・陸行の場合
  8000里÷30日=267里/日=267里/日×75m/里≒20,000m/日=20km/日
ですから、妥当な速度ではないでしょうか?。

もちろん、これは目安の数字であって、たとえば帯方郡から狗邪韓国までの7000里の水行、陸行距離を変えれば、それぞれの総距離も変わりますが、おおまかなイメージは、つかめたかと思います。

ここまで、魏志倭人伝を基に、魏の一行が、邪馬台国に到着するまでの道程をたどってきました。あまりに、すんなりと解釈されているので、驚かれた方もいると思います。皆さんのなかには、「こんなに簡単に結論が出るなら、どうして長年の論争に決着がつかないのか?」と、不思議に思われたかたも多いと思います。まさにその通りなのですが、少なくとも「魏志倭人伝を素直に読むと、こうなる。」ということです。

もちろん、反論も多々あろうかと思います。ただし、実際には結論は、なかなか出にくいでしょう。なぜなら、今回は、魏志倭人伝の原文を分析していきましたが、本当に当時の中国人が、このように読んだのか、はわからないからです。たとえば、原文分析は、言ってみれば、数学の方程式を解くようなものですが、本当に当時の中国語の記載方式が、私たちの考えるような数学的な考え方にしたがっていたものなのか、はわかりません。当時の中国人にでも聞いてみないと・・・という話になってしまいます。
また、現代の日本人が、現代の常識をもって解釈するわけですから、おのずと限界もあるでしょう。当時の中国人が、今の私たちの及びもつかない考え方をしていた可能性は、充分にあります。何せ、今から1700年以上前の、文献ですから。

したがって、仮説の検証をする上では、自分たちの枠にとどまらず、巾広い観点からみていくことが必要です。そういう意味では、古代中国語研究者の、専門的見地からの意見は大いに参考にすべきでしょう。

ここで、以前のブログで紹介した張莉氏(元同志社女子大学准教授)の論文(「倭」「倭人」について)を、再度見ます。張莉氏は、古代中国の甲骨文字等の研究対象としている中国人です。「古事記」「日本書紀」などの日本の史書をさしはさまず、中国文献からのみ検証するという方法を採って、論文を書いてます。
その論文中、「翰苑」を引用しています。「翰苑」とは、660年に編纂された中国史書です。わずか、92文字の中に、日本古代史の要諦が見事に凝縮されている、たいへん貴重な文献です。

【原文】
a.憑山負海鎮馬臺以建都
b.分職命官統女王而列部
c.卑弥娥惑翻叶群情
d.臺与幼歯方諧衆望
e.文身黥面猶太伯之苗
f. 阿輩雞弥自表天児之称
g.因禮義而標秩即智信以命官
h.邪届伊都傍連斯馬
i. 中元之際紫綬之栄
j. 景初之辰恭文錦之献
 
この、hの「邪届伊都傍連斯馬」は、読み下し文は、「邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわら)斯馬(しま)に連なる」です。この解釈について、張莉氏は、
”この文の主語は「邪馬臺(壹)国」を経て「俀国」に至までの一連の倭国か或いは「俀国」であり、その都は北九州の伊都に接していたことが書かれている。”
と述べています。ここで、「俀国」とは、「倭国」のことであり、ようするに、
倭国の都、邪馬台国は、伊都国に斜めの方向で接していた。”
ということです。
なお、斯馬国とは、糸島半島にあった旧斯馬郡であり、「傍ら斯馬に連なる」の「連なる」とは、「間に国がある」ことを示しているので、「向こうに斯馬国がある」との意です。
図示すると、下図の位置関係になります。

邪馬台国まで(13)
張氏の見解は、ここまでの邪馬台国の位置比定結果と、ぴったり一致しています。つまり、ここまでの仮説の正しさを、充分に後押ししてくれていると言って、いいのではないでしょうか?

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邪馬台国までの道程をたどる(8)~最大の難問である「水行十日、陸行一月」は12,000里に等しい!!

前回までで、邪馬台国まで、たどり着きました。ここで、大きな論点があります。

【原文】
南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、(中略)、可七万余戸、自女王国以北、其戸数道里得略載、其余旁国、遠絶不可得詳
【読み下し文】
南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。女王国自(よ)り以北、其の戸数・道理、得て略載す可し。其の余の旁(ぼう)国は遠絶にして、得て詳(つまびら)かにす可からず。

【解説】
”南にある邪馬壹(台)国に到着したが、そこは女王のいる首都である”とありますが、この直後に、「水行十日、陸行一月」が、出てきます。この解釈をめぐり、長年の論争が起こっているわけです。ようするに、「どこを起点として、水行十日、陸行一月かかったのか」です。
多くの学者は、これを、「投馬国」、または「伊都国」から、としました。さらに、南邪馬壹国の「南」を「東」の書き間違いとすれば、うまいことに、「畿内」へ行き着く、というわけです。「邪馬台国畿内説」の完成です。

ずいぶんと都合がいい解釈ですが、多くの論者はこれを、自明としています。

一方、古田氏は、この日程を、帯方郡から邪馬台国までの旅程日数としています。その根拠として、魏志倭人伝が書かれた目的ー軍事報告書ーを挙げています。
つまり、以前お話ししたように、倭国は魏に対して忠誠を誓っており、倭国が他国から攻められた場合、援軍を出す必要があります。その際、どれだけの軍隊を送ればいいのかから始まり、兵站すなわち兵器や食料も用意しなければなりません。その際、首都である邪馬台国まで、どのくらいの日数がかかるのか、それが最も重要なはずです。
それが、記載されていなければ、意味がありません。戦時において、「文中の日数をたせばわかります」みたいな悠長なことを言っている暇はないはずです。
これひとつ考えてみても、答えは明らかですが、さらに別の観点からも、はっきりします。

先に進みましょう。

【原文】
(中略)、此女王境界所尽、其南有狗奴国、男子為王、(中略)、不属女王、自郡至女王国、万二千余里
【読み下し文】
此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南、狗奴(こぬ)国有り。男子王為(た)り。(中略)、女王に属せず。郡より女王国に至る、万二千余里。

【解説】
女王国に属する国の名前が、21国続き、最後の国名が挙げられたのち、ここが女王国の境界の尽きるところである、と記載しています。その南に、邪馬台国のライバルである狗奴(こぬ)国がある、とあります。そして、最後の最後に、[郡より女王国に至る、万二千里]とあります。これが、「帯方郡から邪馬台国までの距離が、12,000里である」ことは、明らかでしょう。
となると、古田説によれば、「水行10日、陸行1月」は、当然のことながら、12,000里に等しいことになります。

本当にそれでつじつまがあっているのか、検証してみましょう。

帯方郡から、狗邪韓国、そこから海をわたり、対海国、一大国、そして末蘆国へ上陸し伊都国へ行きましたが、そこまでの距離は、わかっているだけで、7,000里+1,000里+1,000里+1,000里+500里=10,500里です。厳密には、対海国と一大国の島内の距離がありますが、話がややこしくなるので、ここでは加算しません。

帯方郡から邪馬台国までの距離が、12,000里ですから、伊都国から邪馬台国までは、単純な引き算で、
12,000里-10,500里=1,500里
となります。

放射線式読法では、
伊都国~邪馬台国まで、水行10日、陸行1月
です。
直線式読法で、
伊都国~奴国~不弥国~投馬国~邪馬台国
であり、不弥国から投馬国まで水行20日、さらに投馬国から邪馬台国まで、水行10日、陸行1月ですから、約2ケ月近くかかったことになります。

いずれにしろ、
水行10日(或はさらに+20日)+陸行1月=1,500里
となります。

これは、きわめておかしな数字です。1500里と言えば、
短里で、
1500里×75m/里=112,500m=約112km
です。たかだか、約100kmの距離を、水行10日、陸行1月かかるはずもありません(投馬国を経由する場合は、さらに20日プラスされます。)。
どう考えても、計算上成立しないことは、おわかりいただけたと思います。
そもそも、伊都国から100kmでは、とてもではないが、畿内には行き着きません。
なお「長里であれば、1500里×400m/里=600,000m=600kmとなり、方角を東にすれば、畿内に行き着く。」
というのが、畿内説ですが、前にもお話した通り、長里すなわち1里=400mは、ここまでの行程を検証してみても、成立不可能です。
以上を、図示します。

邪馬台国行程2  


ここまでの話で、「水行1日、陸行1月」=12,000里(短里で900km)であることが、おわかりいただけたと思います。

ところで、中国史書のなかに、このように同じ区間を、距離と日数の両方で記載した事例はあるのでしょうか。あれば、この仮説にグッと現実味が増します。実はあるのです。再び「邪馬台国はなかった」からです。

”わたしたちは、陳寿が史書の先例とし、表記の模範とした「漢書」西域伝の中に、その端的な例を見出すのである。
(難兜国) 西南、罽賓(けいひん)に至る、三百三十里。
(罽賓国)  東北、難兜(なんとう)国に至る、九日行。
これは、一方が「西南」、一方が「東北」とあって、方角相応じている点から見ても、両国間の同一ルートをさしているのは当然である。ところが、その同一区間について、一方は「里程」でm一方は「所要日数」で表記されているのである。”

このように、同じ区間を、一方は330里と記載し、他方では9日と、記載している事例があるわけですから、魏志倭人伝でも、同じ区間を、水行10日・陸行1月と記載しても、何ら不自然ではないことがわかります。


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邪馬台国までの道程をたどる(7)~中国史書のルールにしたがえば邪馬台国の位置はここだ!!

  前回は、中国史書における行路表記法を基にして、邪馬台国までの行路を、お話しました。皆さんの最大の関心は、「それはわかったが、具体的に、邪馬台国はどこにあったのか?」だと思いますので、今回は、いよいよそれをお話ししたいと思います。

おさらいしますと、伊都国までは、ほぼ確定で、問題はここからです。
まず、伊都国から東南に行くと奴(ぬ)国に至ると記載されてますが、前回お話しした邪馬台国までの行路図Dをご覧ください。 この図からわかる通り、これは傍線行路となります。つまり邪馬台国へ向かう主線行路から分岐するわけです。

次に、東へ進むと不弥(ふみ)国に至るとあります。これは、邪馬台国までの、主線行路にあたります。不弥国の位置は、博多湾に面する姪浜(めいのはま)あたりではないかと、推測されます。

不弥国から南へ水行、つまり船で二十日行くと、投馬(つま)国に至る、とあります。これも傍線行路です。不弥国の北に海はありますが、南は山です。そこで、川を南下したのだ、という説明もありますが、二十日も南下できる川はありません。不弥国は、港湾都市と考えられますから、不弥国の港から出て、東へ陸地沿いに進み、やがて南下したことになります。二十日船に乗れば、1日500里として、10000里、すなわち750kmとなりますから、かなりの遠方です。鹿児島あたりかと考えられます。

そして、南、邪馬壹(台)国に至る、です。これは、もうおわかりの通り、不弥国からの主線行路です。距離が記載されていないのは、両国が接していたから、あるいは最終到着地がその国の中央政庁もしくはそれに準ずる機関とすると、そこまでの距離が、100里に満たない距離であったためでしょう。
以上を図示します。

邪馬台国まで(12)

邪馬台国を中心として、北に不弥国、西に奴国、西南に伊都国、南に投馬国と、四至に沿って、表現されていることが、わかります。(東方面は、これから出てきます。)
では、邪馬台国の中心拠点、つまり卑弥呼の住んでいた宮殿は、どのあたりでしょうか?。不弥国を姪浜として、そこから南に向いすぐ、ということから、そこに中央政庁あるいはそれに準ずる機関があったと考えられます。古田武彦氏は、
"「長垂山ー叶山ー飯盛山ー王丸山ー西山」の線を西限とし「西公園ー大濠公園ー鴻ノ巣山ー片縄山」の線を東限とする、室見川流域と周辺山地が、少なくとも、三世紀 女王国の中心の、第一の候補地といえよう。そして第二の候補地は、那珂川と御笠川(那珂川の東に並行して流れる川)の流域である。"
と比定しています(「邪馬台国はなかった」より)。
もちろんこれはおおむねの位置であって、日本本土への上陸地点が、末蘆国の呼子あたりとすれば、西にずれますし、1里の距離が、75mより長いとすれば、東にずれます。

下に図示しました。
邪馬台国中心領域 
 
不弥国の南側すぐの位置に、室見川があることが、確認できるかと思います。

ところで、邪馬台国は、どのくらいの広さがあったのでしょうか?。簡単な計算をしてみましょう。何か基準がないと現実味がありませんので、ここでは、吉野ヶ里遺跡のデータを基にします。
吉野ヶ里遺跡は、外環濠集落が約40haです。人口は、最盛期で外環濠集落内が1200人、クニ全体で、5400人くらいではなかったかと、推定されています(吉野ヶ里歴史公園HPより)。
すると、人口密度は、
1200人÷40ha=30人/ha
となります。100メートル四方に、30人の人が住んでいたことになりますが、これだけではピンとこないかもしれません。私はかつて都市開発の仕事をしていたことがありますが、ニュータウン開発では、一戸建て住宅とすると、100人/haが一般的でした。となると、現代の一戸建て住宅のニュータウンの、3分の1程度の人口密度だったことになります。
弥生時代の住居というと、広い平原に、竪穴式住居がポツポツと点在して、そのなかでゆったりと人々が住んでいる姿を想像していましたが、そうではないようです。

さて、その外側にクニが広がっていて、クニ全体で5400人くらい、とあります。クニ全体の面積がはっきりしませんが、仮に外環濠集落の10倍として、400haとなります。人口密度は、
5400人÷400ha=13.5人/ha
となります。

一方邪馬台国には、7万戸の人々が住んでいた、と記載されています。1戸当たり何人の人々が暮らしていたかわかりませんが、仮に6~7人とすると、42~49万人となります。これは、すさまじい数です。弥生時代に、これだけの人が住む都市があったのか、想像しにくいですが、魏志倭人伝の記載を事実とすると、こうなります。
さて、吉野ヶ里のクニが、ha当たり13.5人とすると、邪馬台国の人口を45万人として、邪馬台国の面積は、
450,000人÷13.5人/ha = 約33,000ha
となります。
上の図の邪馬台国の範囲は、ほぼこの面積に合わせてます。

ちなみに、福岡市の面積は、34,100ha、人口は約150万人ですから、福岡市の広さにほぼ等しく、人口は、約3分の1となります。今の福岡市には、高層マンションもあるわけで、そうしたなかで、人口密度が3分の1とは、ずいぶんと高い数字ですね。

もちろん、これは仮定を置いての計算結果なので、仮定を動かせば、結果も変わりますが、イメージをつかむことはできたと思います。

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邪馬台国までの道程をたどる(6) ~ 中国史書の行路表示のルールとは?

伊都国までやって来ました。ここまでは、論者の間で、さほどの違いはありません。問題はここからです。ここからをどう解釈するかで、邪馬台国の位置が、まったく異なったものとなります。魏志倭人伝解釈上のハイライトの一つと言ってもいいかもしれません。

【原文】
東南至奴国、百里、有二万余戸、東行至不彌国、百里、(中略)、有千余家、南至投馬国、水行二十日、(中略)、可五万余戸、南邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、(中略)、可七万余戸、
【読み下し文】
東南奴(ぬ)国に至ること、百里。(中略)、二万余戸有り。東行不弥(ふみ)国に至ること、百里。(中略)、千余家有り。南、投馬(つま)国に至ること、水行二十日。(中略)、五万余戸なる可し。南、邪馬壹(やまいち)国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。(中略)、七万戸なる可し。

【解説】
原文、読み下し文をそのまま読めば、
「帯方郡治→狗邪韓国→対海国→一大国→末蘆国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」
となります(下図A参照、連続式読法)。したがって、邪馬台国の位置が、上陸した九州北部からはるか遠い南の場所になり、沖縄説まで出てくるわけです。一方、畿内説の人は、「南は東の間違いだ」として、つじつまを合わせようとしています。

これらの説に対して、榎一雄氏は、伊都国までを、「直線行程」(主線行程)とし、以下は、「伊都国→奴国」「伊都国→不弥国」「伊都国→投馬国」「伊都国→邪馬台国」というように、伊都国を中心とした「傍線行程」として理解しました(下図B参照、放射線式読法)。榎氏が中国史書の文脈上の見地より疑いの一石を投じたことは、大きな意義がありますが、論争の結論は出ませんでした。

直線・放射線式読法

そこに衝撃的に登場したのが、古田武彦氏です。昭和46年に「邪馬台国はなかった」を発表して、一大センセーションを巻き起こしました。私も衝撃を受けた一人ですが、発想が奇想天外であり、内容が複雑多岐にわたるせいもあり、なかなか世間的には理解が進んでいません。また、論証方法が理工系出身の私からみて、正直わかりにくいところがあります。ここでは、古田氏の著作を基に、自分なりの理解をお話ししたいと思います。

まず、最初に押さえておくべきポイントがあります。それは、
中国史書の行路表示法には、ルールがある”
ということです。そのルールを理解することなしに、勝手に一部分を取り出して解釈してはならない。ということです。
三国志魏志倭人伝を著した陳寿に先立ち、中国西域を記録した漢書を編纂した班固(AD32-AD92)も、当然のことながら、そのルールにのっとって書いています。では、そのルールとは、何でしょうか?。それは、
”実際にたどっていった「道行き」にそいつつ、その途において「傍線行路」を記載し、また終着点(首都)において、「四至」を記載する”
というものです。具体的には、下図のCを参照ください。

中国史書道程ルール
このルールによれば、先の<図A、連続式読法>は傍線行程、四至がないので、×です。また<図B、放射線式>も、主要行程であるはずの「帯方郡治~邪馬壹国」が傍線行程となっているのはおかしいし、さらに本来首都すなわち邪馬壹国を中心として四至を記載すべきところ伊都国を中心として四至を記載しており、×です。

では、どのように読み解くべきか、ですが、まず、主線行路、傍線行路を見極める必要があります。主線行路は「帯方郡治~邪馬台国」であることに異論がはありませんが、傍線行路が、はっきりしません。ここで、傍線行路かどうかを見極めるキーとなるのが、「至る」「到る」の表現です。
古田氏は、「三国志」すべてを調べた結果、全体のなかで、「至」は1096個、「到」は194個あり、その使用法を分類しました。それを今回の事例に即してまとめると、
(1)「動詞+至」の形(~して~に至る)が基本形である。
(2)主語・動詞が存在しない形について
  a.文脈上、明らかであるから省略された場合
  b.はじめから主語・動詞を欠いている「四至・傍線行路」の場合
の三つの場合があります。

ここで、帯方郡治から邪馬壹(台)国までに出てくる「至る」「到る」を動詞との関係で整理します。
①従・・・至倭
②循、行、歴、・・・到狗邪韓国
③度・・・至対海国
④渡・・・至一大国
⑤渡・・・至末蘆国
⑥行・・・到伊都国
⑦<ナシ>・・・至奴国
⑧行・・・至不弥国
⑨<ナシ>・・・至投馬国
⑩<ナシ>・・・至邪馬壹国
*②と⑥の「到」は、「邪馬台国はなかった」にはありませんが、「至」と「到」はほぼ同意義であり、わかりやすくするために付け加えました。同じく⑥もありませんが、付け加えました。

さて、以上のうち、①から⑥と⑧は、(1)の基本形「動詞+至」(~して~に至る)です。つまり実際に行った主線行程です。
問題となるのは、先行動詞のない、⑦、⑨、⑩です。このうち、⑩の「至邪馬壹国」(邪馬壹国に至る)ですが、①の「従郡至倭」(郡より倭に至るには)は、「倭の首都に至る」と同義であり、⑩の「至邪馬壹国」(邪馬壹国に至る)と同義です。したがって、⑩の「至」は①~⑨のすべての動詞を受けているとも言いえます。よって、この⑩は、(2)のa、すなわち先行動詞が省略された場合ということになります。
では、⑦の「至奴国」(奴国に至る)と、⑨の「至投馬国」(投馬国に至る)は、どうでしょうか?。両国とも倭国の首都ではありませんから、⑩とは異なり先行動詞はなく、(2)のb、すなわち「四至・傍線行路」の場合となります。
以上を整理して図示します。

中国史書ルールの邪馬台国までの道程

つまり、「帯方郡~邪馬壹国」の主線行程に対し、それぞれ伊都国、不弥国を分岐点として、傍線行程がのべられているのである。伊都国の場合は、東南に位置する奴国への道が陸路であるのに対し、不弥国の場合は、ここが港湾都市で、ここから「投馬国」までが「水行二十日」の距離であることがのべられている(この場合、「南」は直線方向だが、「水行」は迂回行路であって、さしつかえない)。
なぜ、「奴国」「投馬国」の二国は、都への主線行路に当たっていないのに、特記されるのであろうか?。その理由は、両国の人口を見れば直ちに判明する。奴国二万、投馬国五万、つまり都の「邪馬壹国」七万に次ぐ大国だからである(他はすべて千戸単位)。
ちょうど、後代の「道行き文」において、ひたすらみずからの目指す目的地に向かいながら、かたわら、右手や左手に分岐する風物を点綴しながらのべてゆく-それと同じ、実際行路の経験に立った、実地的・実際的表記法なのである
”(以上「邪馬台国はなかった」より)

いかがでしょうか?。複雑で難解な話を、私なりに理解してお話しましたが、かなりわかりづらいかと思われます。それでも少なくとも、この行路図Dを、中国史書のルールに則った先の行路図Cと比べてもらうと、ルール通りになっていることがわかるかと思います。



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邪馬台国までの道程をたどる(5)~日本本土への上陸地点はどこか?

今回から、いよいよ日本本土へ上陸して、邪馬台国へ向かいます。

【原文】
又渡一海千余里、至末蘆国、有四千戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之
【読み下し文】
又、一海を渡る、千余里、末蘆(まつら)国に至る。四千余戸有り。山海に濱(そ)うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る。

【解説】
一大国(壱岐)の南西部から出港したとして、果たしてどのルートを取ったでしょうか?。ここで考慮しなくてはいけないことは、この場所すなわち壱岐水道が海の難所であったことです。”現在でも、海難事故防止のため、島や周辺の岩礁地帯にも配慮し、航海測度を落とすことが求められています。また、最近まで呼子から壱岐南東部の印通寺港までフェリーが通っていたが、壱岐水道の激しい揺れで、船酔いが激しかったという。”(正木裕氏資料より)

そこで考えられるルートとして、壱岐南西部を出港したのち、馬渡島まで一気に南下30km(約400里)、ここで一泊し、翌日東松浦半島を目指すルートです。さて、それでは、東松浦半島のどこへ向かったでしょうか?。ルートとしては、2つ考えられます。松島半島北端の呼子と、東側の唐津です。
A.呼子の場合、馬渡島~呼子が15km(200里)、なので、壱岐南西部~呼子が45km,(600里)
B.唐津の場合、馬渡島~唐津が30km(400里)、なので、壱岐南西部~唐津が60km(800 里)
です。
「千余里」に近いという点では、Bの唐津のほうに分があると言えます。
一方、
「山海に濱(そ)うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る。」という記載は、、呼子からの道程で見聞きした事柄を表現したものとも、考えられます。

唐津か呼子か甲乙つけ難いところですが、距離の点を重視して、ここでは唐津として話を進めます。
邪馬台国まで(10) 

【原文】
東南陸行五百里、到伊都国、(中略)、有千余戸、世有王、皆統属女王国、郡使往来、常所駐
【読み下し文】
東南陸行、五百里、伊都国に到る。(中略)、千余戸有り。世に王有るも、皆女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。

【解説】
唐津から伊都国へ向かいます。”東南陸行”とありますが、ここで伊都国が末蘆国の東南にあったと解釈する必要はありません。魏志倭人伝の目的の一つは、軍事報告書であったわけですから、最も重要な情報は、”軍隊が唐津に上陸した場合、どちらの方角に向かって進めばいいのか”です。今回の場合は、唐津に上陸してのち、東南の方向へ進み、そのまま海岸線の道に沿ってどんどん進めば、伊都国へ到着するわけです。そういう意味で、唐津から東南の方向へ向かう道を進んだことを表現している考えられます。
唐津からの実際の歩行距離を500里すなわち約37.5kmとすると、伊都国の中心地と考えられる現在の福岡県糸島市前原~周船寺付近に到着します。いよいよ邪馬台国に近づいてきました。

邪馬台国まで(11)

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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