邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは(11)? まとめ ~ 出土物からみても邪馬台国はここだ!

さて、ここまで三国志魏志倭人伝から比定した邪馬台国の位置について、考古学的見地からみてきました。具体的には、鉄、鏡、勾玉、銅矛、絹、そして、三種の神器(剣、鏡、玉)が出土した位置、出土物の中身などからみて、これらすべてが、福岡県北部、特に博多湾岸近辺に集中していることがわかります。

それでは、これらの出土位置と邪馬台国を推定した範囲を、地図で確認します。わかりやすいものとして、絹および三種の神器出土位置を、地図に落とします。

三種の神器位置と邪馬台国
ご覧のとおり、邪馬台国想定範囲およびその周辺に集中していることがわかります。三雲、井原、平原の3遺跡は、伊都国及びその周辺で異論がないところです。吉武高木、須玖岡本遺跡が、邪馬台国内、そのなかでも特に中心領域に位置していることが見てとれます。

すでにお話したように、須玖岡本遺跡周辺は、青銅器、鉄、ガラス製造工房が集中していました。さらに、"現在の博多の南に位置する比恵遺跡~那珂遺跡~須玖岡本遺跡までの広い範囲"は、一体の遺跡群とみなされますが、その範囲もこの中心領域内です。

地名も、天孫降臨に関係する「日向」「くしふる山」、君が代の歌詞の「千代」「さざれ石」「いわら」「こけむすめ」が、あります。また、三雲遺跡は、天孫降臨した「ニニギノミコト」とその妻「コノハナサクヤヒメ」のお墓との言い伝えがあります。さらに、志賀海神社は、「君が代」の元歌と思われる歌を歌う「山ほめ祭り」があります。もちろん、金印「漢委奴国」を出土したのは、志賀島です。

さらに、古事記のなかに、もう一つ、興味深い記載があります。
ホヲリノミコト、すなわちヒコホホデミノミコトは、高千穂の宮にいて、五百八十年に及んだ。その陵は、その高千穂の山の西にある”

ホヲリノミコトとは「山幸彦」のことですが、彼が”高千穂に宮があり、五百八十年にわたり王として君臨した”というのです。五百八十年とは、二倍年暦としても二百九十年で、非現実的です。これは一人ということではなく、襲名つまり、同じホヲリノミコトという同じ名称の王の治世が、二百九十年間続いた、と解釈できます。

そして、注目すべきは次です。”そのお墓は、(代々)高千穂の西にある。”とあります。どうでしょうか?。高千穂つまり高祖山から日向峠にかけての西側に、三雲、井原、平原と、王の墓があるではありませんか。現在では、3つの墓しかみつかっていませんが、実際にはその数倍以上の墓があった考えるのが自然です。つまり、古事記記載のとおりということです。

ここで、日本の神々の系譜を、改めてみてみます。
ニニギ、ホヲリ、コノハナ、神武  


ニニギノミコト、ホヲリノミコト、そして神武天皇の流れが、よくわかると思います。

以上のとおり、三国志魏志倭人伝や古事記の記述、考古学上の成果、地名、神社言い伝えなど、すべてにおいて、一致しています。まさに、以前のブログ
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
でお話しした"シュリーマンの法則'です。すなわち、"神話は、何らかの歴史的事実を反映したものである"ということを、見事に示しています。

「こんなのは、単なる偶然じゃないか。」
とか、
「こじつけに過ぎない」
との考えをもたれた方もいるかと思われます。

それはそれで結構ですが、問題は、
「では、同じようにすべての条件を満たしている地域が、他にあるのか?」
です。

一つ、二つの条件に合致している場所はあるでしょうが、すべて、つまり、三国魏志倭人伝、古事記、考古学上の成果、地名や神社言い伝えなどすべてが一致して、きれいに説明できる場所は、他にはないのでしょうか?

これに対して、
「魏志倭人伝の記載は、あてにならないのだ。」
「古事記など、ただの神話に過ぎない。」
「新たな遺跡が、これから発掘されるのだ。」
という反論もあるでしょう。

しかしそうであるなら、そもそも魏志倭人伝や古事記を、真面目に研究する意味がありません。また、遺跡については、確かに新たな遺跡が発見される可能はあります。例えば、卑弥呼が魏の皇帝からもらった「親魏倭王」の金印がどこからか出土すれば、一気にそこが卑弥呼の墓と確定するでしょう。

そういう観点から言えば、あくまで'現時点での考古学上の成果からみて"という、前提条件はつきます。

しかしながら、逆に言えば、「"現時点での考古学上の成果から見れば'邪馬台国の位置は、ここ博多湾岸近辺と考えるのが、最も合理的である。」と言い得るのではないでしょうか?。あとは、読者の皆さんの判断に、お任せいたしたいと思います。

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邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは?(10) ~ 三種の神器出土遺跡⑤(平原遺跡)

三種の神器出土遺跡の最後は、再び糸島市へ戻り、平原遺跡です。これまでの5つの遺跡のうち最も時代が新しく、弥生時代後期から晩期のものと推定されています。5つの墳丘墓があります。このブログでも取り上げている日本最大の大型内行花文鏡(直径46.5cm)が出土した遺跡です。

主な出土品
1号墓
・大型内行花文鏡5面、別称「内行花文八葉鏡」
・内行花文鏡 2面、方格規矩鏡 32面、四螭文鏡 1面
・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
 耳璫 3破片
・素環頭大刀 1

<大型内行花文鏡>
平原遺跡 内行花文鏡2 

<勾玉>
平原遺跡 勾玉

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられており、この遺跡を発掘した 原田大六氏はこの平原1号墓の主を玉依ヒメ(神武天皇の母)であるいう説を提示していることは、以前お話しました。

1号墓の東南に直径約70センチメートルの縦穴が発見されてます。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示しています。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六氏は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としています。

三雲遺跡に続いて、またしても「日向」との関連が出てきましたね。

ところで、三雲遺跡の東には、細石(さされいし)神社がありましたが、平原遺跡から北西の方向 kmの位置に、桜谷神社があります。現在は、若宮神社と呼ばれています。祭神は「苔牟須売神(コケムスメ)」と「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」の二柱です。
祭神の苔牟須売神とは地元ではコノハナサクヤヒメの姉である「盤長姫命(イワナガヒメ)」の事として伝承されています。

さてこれまで、細石神社の「さされいし」、井原遺跡の「いわら」、そしてここ桜谷神社の「こけむすめ」と出てきましたが、何か気づきましたでしょうか?

ここでピンときた方は、かなりの古代史通とお見受けいたします。

そうです。わたくしたち日本の国家「君が代」に、似たような歌詞がありませんでしょうか?
「君が代」の歌詞は、

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで
です。

確かに、
「さざれ石」→「さざれいし」
「いわお」→「いわら」
「こけのむすまで」→「こけむすめ」
など、音が同じあるいはよく似ている言葉が続きますね。
さらに福岡市博多の海岸沿いには「千代」の地名が残ります。

古田氏は、君が代の発祥をここ博多湾岸とし、「君が代は九州王朝への讃歌だ」との説を発表して、古代史ファンの度肝を抜きました。そして、その根拠として、上に挙げた地名との一致を挙げています。

「地名との一致など、単なる偶然じゃないか」と思われる方が、多いと思います。わたくしも、初めてその説を聞いたときは、そう思いました。

しかし、必ずしもそうとばかりは言えないのです。

実は、「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島にある志賀海神社で、古くから行われている「山誉め祭り」の神楽歌のなかに、「君が代」が出てくるのです。社伝によれば、神功皇后が三韓征伐へ向かう際に立ち寄った際、皇后にこの神楽を披露したとされています。

<山誉め祭り>
山誉め祭り
            (福岡市の文化財HPより)

YOUTUBEです。確かに「君が代」を歌ってますね。


神功皇后が実在かどうかは、議論が分かれますが、実在したとすると4世紀前半です。その頃には、「君が代」は存在したことになります。

そして
”元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと推定している。”(wikipediaより)
としています。
図示します。
君が代地名

また、”「君」とは、もともとは「女性の王」のことであり、「君が代」とは、「九州王朝の女王」のことを讃えた歌ではないか?”と指摘しています。九州王朝の女王と言えば、「卑弥呼」とその宗女「壹与」がいますね。

だいぶ話が広がり興味が尽きないところですが、今回はここまでとします。ここでは、博多~糸島一帯は神話に結びつく地名が非常に多い地域である、ということを、覚えておいてください。


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邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは?(9) ~ 三種の神器出土遺跡④(須玖岡本遺跡)

次は、三種の神器出土遺跡の中では、一番東にある須玖岡本(すくおかもと)遺跡です。博多を流れる那珂川の中流、春日市に位置している南北2km、東西1kmにわたる大規模な遺跡(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡)群です。
昭和54、55年の調査で、弥生時代中期〜後期初頭の116基以上の甕棺墓、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、合わせて約300基が、確認されました。
この遺跡の中の、D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)に、三種の神器が出土しました。明治期に発見されたもので、遺物は散逸していますが、当時の記録を合わせ考えると、強大な勢力を誇った王の墓と推定されています。
D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)の副葬品
・銅剣2、銅矛1、銅戈1
・銅鏡(前漢鏡)32面以上
・ガラス璧(瑠璃璧)2個片以上
・ガラス勾玉(長さ4.8cm、弥生時代最大級)、ガラス管玉

<銅鏡破片>
須玖岡本 銅鏡 

<勾玉・管玉>
 須玖岡本 勾玉 

副葬品の豪華さもさることながら、特徴的なのは、なんと言っても、墳墓を覆っている上石でしょう。長さ3.3m、幅1.8m、重さ4tという巨石です。

<発掘現場>
須玖岡本 発掘現場 

<上石>
須玖岡本遺跡 上石 

周辺も含めた須玖遺跡群からは、青銅器鋳型が200点以上、広さが2000㎡に及ぶ国内最大のものも含めた工房跡がいくつも発見されました。ここでつくられた青銅器は、西日本の各地にもたらされました。さらに、ガラス玉も作られたと考えられるガラス工房跡や、鉄器工房跡も見つかってます。
つまり、このあたり一帯は、当時の先端技術の一大生産拠点だったわけです。これらを、支配したのが、巨石下甕棺に眠る王だったのでしょう。

<青銅器鋳型>
須玖岡本 鋳型 
                                                                   (奴国の丘歴史資料館HPより)

一般的には、この王を、「奴国王」と称しています。金印「漢委奴(な)国王」が出土した志賀島に近いことや、那珂(なか)川に代表されるように、このあたりはかつて「那(な)」と呼ばれていたと考えられることがその理由ですが、はたしてどうでしょうか?皆さんは、どのように考えますか?

ここまでこのブログを読まれている方にはおわかりと思いますが、「奴国王」というのは成り立ちません。奴国の位置は、伊都国の東南約7.5km(東南百里)のところにあるわけですから。

では、どこの国の王なのか?ですが、位置、副葬品の豪華さ、当時の先端技術を支配していたことを考えると、倭国の首都すなわち「邪馬壹国」以外考えられない、ということになります。つまり、「邪馬壹国王」の墓です。以前のブログで示した「邪馬壹国」想定エリア内にもあります。

また、須玖遺跡群は、南北2km、東西1kmという広大な範囲(約200ha)に広がってます。これだけでは、ピンとこないかもしれませんが、吉野ケ里遺跡が、外環濠の内側の面積が、約40haです。須玖遺跡群には明確な環濠がないとの指摘もありますが、それは”丘陵があり、敵から守るための環濠を作る必要がなかったからで、平野に面したところには環濠があります。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われます。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在しています。この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっています”(柳田康男氏、国学院大学教授の話による)。
図示します。

須玖岡本遺跡周辺

ご覧のとおり、吉野ケ里遺跡の規模を、はるかに上回る巨大な遺跡群であるわけです。少なく見ても、吉野ヶ里の10倍以上です。周辺にも同じように人々が暮らしていたことでしょう。そうなると、以前、魏志倭人伝に記載されている邪馬壹国の人口7万戸を40~50万人と仮定しましたが、ぐっと現実味を帯びてきますね。

ところで皆さんは、これだけ全国的にみても「質・量」ともに傑出した遺跡群の存在をご存じでしたでしょうか?知っていたという方は、少ないのではないでしょうか?。わたくしも、かつて知らなかった一人です。

ではなぜこうした事実が世間に知られていないのかというと、須玖遺跡群をはじめとした遺跡群は、昔から人々の生活していたエリアにあるため、長い年月の間に発見されずに破壊されたものが多いうえ、発見されたにしても発掘の歴史が古く、記録も正確に残っていなかったり出土物も散逸していることが、大きな要因かと思われます。また柳田氏によれば、吉野ケ里はマスコミなどへの打ち出し方がうまいこともあるようです。

これだけ素晴らしい観光(?)資源となりうるものがあるのに、今一歩活かしきれていないのは何とももったいない話と感じるのは、わたくしだけでしょうか?

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邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは(8) ~ 三種の神器出土遺跡③(井原鑓溝遺跡)

次は、三雲南小路遺跡の南に隣接する井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡です。井原鑓溝遺跡は、江戸時代に偶然発見されたこともあり、詳細な記録がなく、正確な墳墓の位置は、わかっていません。出土物も散逸しており、拓本が残るのみですが、最近の発掘調査で中国製鏡も発見され、当時の記録も合わせ考えると、強大な勢力を持った王の墓と推定されます。
拓本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作と考えられることから、遺跡の年代は、おおむね1世紀後半~2世紀初頭の間に収まると推定できます。


出土物としては、
江戸時代の調査で
 方格規矩四神鏡21面分、巴形(ともえがた)銅器2(拓本)、刀剣の類、壺(甕棺のことか?)

平成の調査で
 方格規矩四神鏡、雲雷文内行花文鏡、ガラス玉、  
が、報告されています。 

<方格規矩鏡>


                                                                                




現在も、発掘調査が進められています。
実は、この墳墓の被葬者は、埋葬品の豪華さや時代からみて、倭国王帥升(すいしょう)との説があります。
帥升とは、外国史書に初めて登場する倭国王です。
”107年に、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。”(後漢書東夷伝)
とあります。
今の段階では何とも言えませんが、これからの調査の成果が楽しみです。

さらに、ここでの最近のビッグニュースは、なんと言っても、硯(すずり)の出土でしょう。

産経新聞WEB版(2016年3月1日)によると、
”破片は長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリ。実際に使用されたようなすり減りがあり、市教委は墨が使われた跡がないか詳しく調べる。当時のすずりは板状で、水と粉末や粒状の墨を乗せ、取っ手を付けた薄い正方形状の「研石」ですりつぶしていたという。

 昨年12月、弥生~古墳時代の人々が不要になった土器を捨てたとみられるくぼ地を調査して見つかった。ここでは中国・前漢が朝鮮半島支配のために設けた「楽浪郡」製の弥生後期とみられる土器が多数見つかっているため、市教委はすずりも同時期の1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。

 市教委は「伊都国では、楽浪郡からの渡来人が外交を担っていたと考えられる。中国からの賜り品への返礼書などを作るため、半島から持ち込んだのでは」と推察する。”

とあり、実際に使用されていたことがわかります。


<出土した硯>

井原遺跡 硯 

この発見がなぜビッグニュースかと言いますと、日本に漢字が伝えられた時期が、これまで考えられている時期より、大きく遡ることになるからです。日本に漢字が伝えられた時期については諸説ありますが、一般的には3~5世紀頃とされているようです。それが、200年ほども前の時期になるわけです。もちろん、この硯を誰がどのように使っていたのかはわかりません。中国や朝鮮半島からやってきた人が使用していた可能性は高いでしょう。しかしそれでもその時代に、日本において漢字が使われていたのは間違いないわけで、ことの重要性は変わりません。
倭国の人々のなかにも、漢字を読み書きできる人がいたことでしょう。外国との折衝をする役人、今でいう外務官僚は当然として、支配者層の人々も、日常のたしなみとして、読み書きできたかもしれません。

では、倭国に漢字が伝わったのはいつ頃でしょうか?

AD57年に、倭国の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王(かんのいな(ど、ぬ)こくおう)」を下賜されましたことは、すでにお話しました。漢字が刻印された金印を与えたということは、”相手が漢字を読めるから、あるいは少なくとも読める人がいたから与えた”と考えるのが合理的です。つまり、1世紀半ばには伝わっていたことになります。

また、卑弥呼が魏の皇帝に書を送ったのが、240年です。漢字伝来から2世紀も経ってますから、そのころには、漢字も広がり、卑弥呼自身も、漢字を読み書きできた可能性はありますね。

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邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは?(7 ) ~ 三種の神器出土遺跡②(三雲南小路遺跡)

次に、三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡です。福岡県糸島市に所在し、周溝を持つ墳丘墓で、甕棺墓 2器を持つ弥生時代の王墓です。甕棺の形式から、弥生時代中期中頃と考えられてます。

1号甕棺の出土物として、
  銅剣 1、銅戈 1、銅矛 2、銅鏡(前漢鏡) 31面以上、ガラス璧(瑠璃璧)破片 8個以上、ガラス勾玉 3個、ガラス管玉 60個以上、金銅製四葉飾金具 8個以上
2号甕棺の出土物として、
  銅鏡(前漢鏡) 22面以上、ガラス垂飾 1、勾玉 13個(硬玉製 1、ガラス製 12)など

銅鏡(重要文化財)
銅鏡

銅剣(重要文化財)
銅剣        
ガラス璧
ガラス璧

碧玉製勾玉碧玉製勾玉
                      (糸島市HPより)

1号甕棺から、三種の神器(剣、鏡、玉)のほかに、璧(へき)が出土しています。璧とは、
”古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ、春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた。”(WIKIPEDIAより)
という、たいへん貴重な品です。

1号墳墓の被葬者は、一般的には伊都国王と言われていますが、これだけの出土品が出たとなると一国の王にとどまらず、倭国王の墓である可能性もあります。また、1号墳墓には、銅剣のほか、銅戈、銅矛など、武器系の品が埋葬されているのに対し、2号墳墓からは、武器系の品はなく、装飾系の品が埋葬されていることから、1号墳墓は王墓、2号墳墓は王妃墓と考えられます。

西側の周溝に「祭祀跡」とみられる痕跡があり、東側の「高祖山系」の山並みとの関連性がうかがえることは注目すべき点です。
また、東隣に「細石(さされいし)神社」拝殿があり、「もともとは、「細石神社」は、墳墓の拝殿であろう。」と地元民は伝えています。
三雲・井原遺跡

そして、神社拝殿の祭神が、「石長姫(イワナガヒメ)と木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」の女神二柱です。

「古事記」に、二人の姉妹にまつわる話があります。
コノハナサクヤヒメは、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である。”
(以上WIKIPEDIAより)

天孫降臨、つまり九州北部へ進出したニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメと夫婦になったわけです。このことから、三雲南小路遺跡の墳墓の被葬者は、ニニギノキコトとコノハナサクヤヒメではないかと、言われています。

神話の世界と思っていた人物の墓が、現代に存在するとしたら、何ともロマンあふれる話ですね。また、ニニギノミコトの墳墓であるなら、三種の神器が埋葬されていて当然ですね。

もうひとつ、高祖山との関係についてです。
天孫降臨については、一般的には神話に世界であり、場所も宮崎県の日向(ひゅうが)とされていますね。
そこへ、古田武彦氏が、「史実に基づく話である」と発表し、世間に衝撃を与えました(「盗まれた神話」他)。その舞台が、高祖山なのです。

天孫降臨ですが、ニニギノミコトが天降(あまふ)ったのが、
筑紫日向高千穂久士布流多気(くじふるたけ)
です(「古事記」による)。
ここで、「筑紫」はまさにここ筑前のことでしょうし、「日向」と言えば、墳墓のちょうど東に「日向峠」があります。「高千穂」とは、固有名詞ではなく、「高くそそり立つ連山」という意味の一般名詞です。問題となるのが、「久士布流多気(くしふるたけ)」ですが、なんと高祖山と日向峠にある山のひとつは、かつて「くしふる山」と呼ばれていたという記録があります。どんぴしゃり、ですね。位置関係を、上の図で確認してみてください。

”コノハナサクヤヒメの話があり、天孫降臨の話があり、そして豪華な品が埋葬されていた墳墓がある”となると、これほど神話と現地が合致する場所は、ここを置いて他にないのではないでしょうか?

★はたして、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは、この地で永遠の眠りについたのだろうか・・・?

<ニニギノミコト>
ニニギノミコト
 
   
(楊州周延画)


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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