一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(6) ~ 「国譲り」と「天孫降臨」はいつだったのか?

前回は、「二倍年歴」を基にして、神武天皇が東征したのはいつ頃か?、を試算しました。

今回は、「二倍年歴」から推測される、もう一つの事例を取り上げます。
”大国主命(オオクニヌシノミコト)が「国譲り」をして、ニニギノミコトが九州北部に上陸した「天孫降臨」はいつか?”です。

「国譲り」とは、”天照大神(アマテラスオオミカミ)が大国主命に国譲りを迫り、大国主命が譲った”という神話です。「天孫降臨」とは、国譲りを受けた「天(あま)族による日本本土進出」のことで、天照大神の孫であるニニギノミコトがリーダーであったため、「天孫降臨」と呼ばれています。
ニニギ、ホヲリ、コノハナ、神武 


ここで、神武天皇即位年が、「紀元前50~紀元前100年」とすると、そこから時代を遡ると、興味深いことがわかります。

ニニギノミコトの天孫降臨すなわち天(あま)族による日本本土進出から神武天皇即位まで、3代を経ています。仮に1代20年とすると、
20年×3代=60年
の年月が経っていることになります。

単純計算すると、天孫降臨は、神武天皇即位年である「紀元前50~紀元前100年」からさかのぼり、
-50(または-100)-60=-110(または-160)年=紀元前110年~紀元前160年
となります。

ただしここで注意すべきは、火遠理命(ホヲリノミコト)の代です。以前のブログでお話ししたとおり、ホヲリノミコトの代は、古事記によれば、580年です。これは1代ではなく、何代かの襲名と考えられます。これは「二倍年歴」ですから、「一倍年暦」では290年です。これを考慮して、上の数字を290年遡らせると、
ニニギノミコトの天孫降臨は、
-110(または-160)-290 = -400(または-450) = 紀元前400年~紀元前450年
になります。

神話の世界の話に、ずいぶんとリアリティが出てきましたね。

もっとも、「こんなのは、仮定に仮定を重ねた結果にすぎないではないか。実証できるものはないのか?」
との声が、聞こえてきそうです。

では、別の角度から検証してみましょう。

まず、天(あま)族が、そもそもどこからやってきたのかから、考えなければいけません。すなわち、
”「倭人の源流」はどこか”というテーマです。

以前のブログ
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6号)
、お話しましたが、中国古代史書の「翰苑(かんえん)」のなかに、
”中国にやってきた倭人が自分たちのことを、「呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だ」と言った。”
という記載があります。

呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、紀元前12-11世紀の人物です。おおまかな流れは、
”周王朝(黄河流域中原)にいた太伯が、やがて揚子江下流域に行き、もともと住んでいた倭人とともにを建国します。時代を経て、呉は越(えつ)との戦いに敗れ(紀元前473年)、呉の地を追われ、四散しました。そのなかで、朝鮮半島に逃れた人々、あるいは海で逃れた人々が、九州北部にやってきました。”
となります。
図示します。
周から呉・日本へ


「それがいつか?」について、「資治通鑑」という中国史書のなかに、興味深い記載があります。
「資治通鑑」とは、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した編年体の歴史書です。坂本龍馬、西郷隆盛、水戸光圀、北畠親房、 そして毛沢東が愛読したとも言われています。

呉亡条記事に、「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」とあります。この記事から、
”紀元前473 年、越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。”(「日中歴史共同研究」より)
ということになります。

、呉が越に敗れた後、多くの人々が朝鮮半島に逃れたことでしょう。そして、朝鮮半島を南下して、朝鮮半島南部に住み着き、さらに対馬、壱岐まで渡った人々もいたことでしょう。そして、ついに、九州北部に上陸したと、推定されます。なかには、舟で呉から日本に直接漂着した人々もいたと思われます。

呉が越に敗れた年は紀元前473年ですが、その後、朝鮮半島に行き着き、さらに九州北部に上陸するには、相当年かかったことでしょう。

先に、天孫降臨の年を、紀元前400~紀元前450年頃と試算しましたが、ほぼほぼこの年代と合ってくることが、確認できるかと思います。

もちろん、中国本土から逃れてきたのは、この年代だけではないはずです。
呉をお滅ぼした越は、紀元前334年に、楚(そ)の国に滅ぼされます。そして、その楚も、紀元前223年に、あの始皇帝の秦(しん)に滅ぼされます。こうした戦乱のなかで、多くの人々が戦乱を逃れ、朝鮮半島、あるいは日本にたどりついたと考えられます。

さらには、もっと時代をさかのぼれば、周が東周となった時代(紀元前771年)にも、動乱はあったわけです。そのようにとらえると、春秋戦国時代(紀元前770-紀元前221年)にわたる長い時間をかけた移動があったのではなすいかと、推察されます。そのなかの一大イベントが、「国譲り」と「天孫降臨」だったというわけです。

ちなみに、”将来の成功を期して苦労に耐えること。”を意味する故事熟語に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」がありますが、これは呉と越の戦いのなかで生まれた熟語です。
”中国春秋時代、呉王夫差(ふさ)が、父の仇である越王勾践(こうせん)を討つために薪の上に寝て復讐心をかきたて、長い艱難(かんなん)の末にこれを破った。一方、会稽かいけい山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。”(「新明解四字熟語辞典」より)

中国で生まれた熟語の由来が、われわれ現代の日本人にも関連しているかと考えると、面白いですね。

では、以上のことに科学的根拠はあるのか、ですが、いくつか挙げたいと思います。

まず、この時代すなわち弥生時代に、日本に鉄器および青銅器が大陸からもたらされたことが知られています。これは、単なる貿易ということのみならず、当然、人の移動もあったことでしょう。

弥生式土器が作られるようになったのも、この頃からです。

<弥生式土器>
 弥生式土器

イネも、日本にもたらされました。最近の研究では、その時期は紀元前1000年頃までさかのぼるのでは、という説も出されています。そして、温帯ジャポニカ米(水稲)については、DNA解析の結果、揚子江流域が原産であることが報告されています。

そして極め付けは、ヒトのDNA分析結果でしょう。
「古代揚子江下流域の古代人の骨と、北部九州、山口の渡来系弥生人の骨のミトコンドリアDNAが一致した」
との調査報告があります。
(1999年、中日共同調査団)

まさに、
揚子江下流域(呉) ⇒ (朝鮮半島) ⇒ 九州北部
の流れに、文献、考古学および科学的根拠が一致していることがわかります。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか

ここまで、「二倍年歴」について、みてきました。”魏志倭人伝が描いた3世紀頃の日本では、「二倍年歴」であったこと、それよりさらに遡った古代では、「二倍年歴」さらには「多倍年歴」が使われていた可能性があること”を、お話しました。

ところで、皆さんのなかには、「何でそんなことにこだわるのか。古代の人が「二倍年歴」だろうが、たいした話ではないじゃないか?」と思われた方もいるかもしれません。

ところが、そうではないのです。

古代の日本の年代は、西暦〇〇年のように、絶対年代が定められているわけではなく、古事記、日本書記にある、天皇在位による年歴だけが、手がかりとなっています。たとえば、神武天皇の在位年数が75年、仁徳天皇が86年、などです。

古事記、日本書記の各記事が、西暦何年にあたるのかについては、実在の天皇であり、かつ記事の記載が史実とみなされる天皇、たとえば推古天皇の即位年である西暦593年を基準にして、そこから各天皇の在位年数をさかのぼって比定するわけです。

ですから「二倍年歴」とすると、そのさかのぼる年数が今までの半分になり、各時代の出来事が、今まで考えられていたよりずっと新しい時代の話になってしまいます。

たとえば、神武天皇の即位年です。一般的には紀元前660年とされ、それが皇紀元年とされています。そこから、今年2016年が、660年+2016年で、皇紀の2676年になります。それが、大幅に変わってきます。

まずは、古代天皇の寿命と在位年数を、みてみましょう。古事記、日本書紀の記事からまとめると、以下の通りです。

古代天皇の寿命と在位年数
 代天皇名寿命在位年数
古事記日本書紀他日本書紀
1神武13712775
2綏靖458430
3安寧495739
4懿徳457733
5孝昭9311382
6孝安123137100
7孝霊10612875
8孝元5711656
9開化6311160
10崇神16812068
11垂仁153140100
12景行13710660
13成務9510760
14仲哀52528
 神功皇后10010069
15応神13011040
16仁徳8311086
17履中64705神武~允恭
18反正60594在位年数計
19允恭788140 1,090
20安康56563  
21雄略1246224
22清寧 414
23顕宗38483安康~武烈
24仁賢 5011在位年数計
25武烈 189 54
   1,144
26継体438224即位年507


ご覧のとおり、寿命、在位年数とも、ずいぶんと長いですね。もう少し詳しく見ると、興味深いことがあります。

たとえば、2代の綏靖天皇は、古事記では45歳、日本書紀では84歳で亡くなってますが、ほぼ「二倍」です。
同様に、8代の孝元天皇、9代の開化天皇も、日本書紀が、古事記のほぼ「二倍」です。
逆に、21代の雄略天皇は、古事記では124歳、日本書紀では62歳と、古事記が「二倍」です。
26代の継体天皇は、古事記43歳、日本書紀82歳と、日本書紀が、ほぼ「二倍」です。

これは、後世に伝えられた年齢にも二通りあり、通常の「一倍年歴」で伝えられた記事と、「二倍年歴」で伝えられた記事が混在していたためと考えられます。逆の見方をすれば、「二倍年歴」が存在していた痕跡、とも言えます。

さて、ここから、神武天皇即位年を推測してみましょう。

実は、26代の継体天皇については即位の経緯が釈然としないこともあり、前の武烈天皇と系統的に断絶しているとの説が、多くの論者から指摘されています。このことから、古田氏は、”継体天皇以降、「二倍年歴」になったのではないか”と、推定してます。
継体天皇の即位年は、西暦の507年でほぼ間違いないとされているので、この年を基準にします。神武天皇即位から、継体天皇即位までの年数を単純にたしますと、
1144年
となります。
ここから、神武天皇即位年は、継体天皇即位年からさかのぼり、
507年-1144年=-637年=紀元前637年
となります。

皇紀によれば、神武天皇即位は紀元前660年ですから、23年ほどずれますが、天皇在位空白期間もあったでしょうから、ほぼほぼ合っていると言えます。

ところで、この紀元前660年即位の根拠は、あるのでしょうか?。これは、日本書紀神武天皇の条にある、
辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)”
とあり、60年に一回巡ってくる「辛酉(かのととり)」の年を手掛かりに、定められたようです。

ただしこの皇紀ですが、もともと日本で古来から使われていたのかと思いがちですが、実はそうではありません。江戸時代ころに出てきた考え方をもとに、明治期になって初めて制定されました。
それまでの日本人は、長い歴史を、西暦のように絶対年代で表すことはなく、”〇〇天皇の△年”のように、表していました。それが、西洋文明がはいってきた影響もあったのでしょう、”われらが日本でも、それに匹敵する暦が必要だ”となり、皇紀が定められた、と言っていいかもしれません。
話が少し広がりましたが、そもそもの神武天皇即位年も、強力な根拠があったわけではないことだけは確かです。

話を、元に戻します。
次に、1144年すべてが「二倍年歴」だとして、「一倍年歴」に直すと、
1144÷2=572年
です。
すると、神武天皇即位年は、
507年-572年=-65年=紀元前65年
となります。

当然、「二倍年歴」が「一倍年歴」に変わった時点を変えれば、結果も変わります。19代の允恭天皇は寿命81歳、在位40年とかなり長いので、「二倍年歴」の可能性があります。次の安康天皇からは、寿命、在位年数ともに少なくなっているので、「一倍年歴」に変わった可能性があります。そこで、神武天皇から允恭天皇までを「二倍年歴」、次の安康天皇から武烈天皇までを「一倍年歴」として、計算してみます。

神武天皇~允恭天皇  1090年(二倍年歴)
安康天皇~武烈天皇    54年(一倍年歴)

1090年を「一倍年歴」に直すと
1090÷2=545年
これに、54年をたすと
545+54 = 599年

継体天皇即位年からさかのぼり、
507年- 599年=-92年=紀元前92年
となります。

以上、二つのケースをまとめると、神武天皇即位年は、
紀元前65年~紀元前92年
となります。
ただし、在位空白期間があったり、在位年をだぶってカウントしている場合もあるので、巾をみて、
紀元前50年~紀元前100年
すなわち、
紀元前1世紀後半
と推定されます。

ところで、皆さんのなかには、「古事記、日本書紀の記事だけから推定しても、説得力がない。もっと、はっきりした証拠はないのか?」との感想を持たれた方も、おられるかもしれません。そこで、もう少し掘り下げてみます。

一つ参考になりそうな資料は、「七支刀」です。「七支刀」とは、以前のブログ
「七支刀(しちしとう)銘文を読む ~ 物部氏ゆかりの石上神社秘宝が物語る古代日本の真実とは?」
 
(2016/2/11号)
でもお話しましたが、奈良県天理市にある石上神社に伝来している鉄剣です。その銘文の解釈については諸説あるものの、
"369年に百済王が倭王に七支刀を贈った"
との説が有力です。

一方、日本書紀神功皇后摂政52年条に、
”百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上された”
との記述があり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められています。

このことから
神功皇后摂政52年=西暦369年
が確定します。

神武天皇即位から、神功皇后の前の仲哀天皇までの在位期間846年になるので、これをたすと神武天皇即位から七支刀献上までは、「二倍年歴」では、
846年+52年=898年
となります。これを「一倍年歴」に直すと、
898年÷2=449 年
となります。

ここから、神武天皇即位年は、
369年-449 年=-80 年=紀元前80年
となります。

この結果が、先ほどの「紀元前50年~紀元前100年」との試算結果の範囲内であることが、確認できます。

これで、考古学から見た根拠ができました。

★神武天皇東征は、紀元前1世紀後半に行われたのか・・・?
 下は、神武天皇絵図です。

神武東征1
(月岡芳年「大日本名将鑑」より)

後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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一年で二回の年を数えたという「二倍年暦」説は本当か?(4) ~ 古代世界は「多倍年暦」だった?

さて、孔子の時代、すなわち紀元前5~6世紀が「二倍年暦」だとすると、それ以前はどうだったのでしょうか?。 

孔子は、中国山東省にあった魯(ろ)の国の人です。魯は、周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した国です。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っており、この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子です。

周公旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めました。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどでした。

その周王朝の王について、見てみましょう。
*「新・古典批判「二倍年暦の世界」3 孔子の二倍年暦」(古賀達也氏)を、参考にします。

・成王(前1115~1079)    在位37年
・昭王(前1052~1002)    在位51年
・穆王(前1001~ 947)     在位55年
・厲王(前878~ 828)   在位51年
・宣王(前827~ 782)      在位46年
・平王(前770~ 720)      在位51年
・敬王(前519~ 476)      在位44年
・顯王(前368~ 321)      在位48年
・赧王(前314~ 256)      在位59年
  ※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。

以上のとおり、古代周王朝において、在位年数が突出して長い王が、多くいます。在位五十年を超えるということは、10代前半で即位したとしても亡くなった歳は60歳代以降ということになります。もちろん長寿の王がいておかしくはありませんが、当時の平均的な寿命を30歳台とすると、「長生きの王が多すぎる」といった印象はもちます。

さらに、古賀氏は、”司馬遷の『史記』において、周王朝に先立つ夏王朝において、黄帝・堯・舜の各王の年齢が百歳を越えていることから、夏王朝前後の中国は二倍年暦であったことがうかがえる”としています。さらに、その後の『管子』、『列子』『論語』『礼記』の内容も詳細に検証して、”いずれも[二倍年歴」とみなさざるをえない”としています。

ところで、もし孔子以前の中国で、「二倍年歴」が一般的であったとすると、大きな問題が発生します。”周代の絶対年代が、現在考えられているより新しい年代になる”ということです。

この点に関して、古賀氏も
”このように周代の天子が二倍年暦で編年されているとすれば、その実年代は軒並み新しくなり、中国古代史の編年は夏・殷・周において地滑り的に変動する可能性が大きい。あまりにも、重大かつ深刻なテーマだ。今後の研究課題としたい。”と、慎重な見解を述べています。

他文献とつじつまが合うのか、遺跡、出土物との整合性があるのか、など多くの事柄を検証して、結論づけるべきテーマです。

ところで、古代西洋は、どうだったのでしょうか?。

たとえば聖書をみてみましょう。聖書にも多くの神々が出てきますが、皆並はずれて長命です。列記します。

アダム     930歳
セツ         912歳
エノス         905歳
カイナン     910歳
マハラレル  895歳
ヤレド         962歳
エノク    365歳
メトセラ   969歳
レメク       777歳
ノア      950歳

<アダムとイヴ>
アダムとイヴ  
      (アルブレヒト・デューラー画)

アダムから始まり、軒並み900歳台が続きます。平均857歳です。もちろん、神話の世界と考えれば、なんら問題はありません。

しかしながら、なぜエノクを除いて、皆一様に900歳前後なのでしょうか?。「神々さ」を出すのには、ちょうどいい年齢なのでしょうか?。不思議な気はします。

それはそれで結構ですが、これを1年を24年とする「24倍年歴」で考えるとどうでしょうか。

857÷24=35.8歳

となり、昔の人の寿命を考えれば、妥当な年齢です。

「1年を24で割るなど、単なるつじつま合わせだ」と思った方も多いでしょう。実は、これには根拠があります。古代は、月の満ち欠けを元にした「太陰暦」だったことが知られています。これは、新月⇒満月⇒新月までのサイクルを、一か月としていますが、はるか昔は、
新月⇒満月を1年、満月⇒新月を1年
としていた、とする説です。確かにそれだと、1年が24年になりますね。

最近は、聖書考古学が盛んなようで、遺跡の発掘によって、聖書の記述が何らかの歴史的事実を基にしたものではないか、とする説が出てきてます。まさに、「シュリーマンの法則」です。聖書に出てくる神々も、そうした視点で考えることができるかもしれません。

ただし、この年齢の件については、単純にはいきません。たとえば、
アダムは、130歳でセツを生んだとされ、セツは、105歳でエノスを生んだ、とされています。
「24倍年歴」だと、4~6歳で子供を生んだことになり、いくらなんでもありえません。もっとも、実子だったとしたらの話ですが・・・。

私は、聖書については詳しくないので、これくらいにしておきますが、ここでは、”古代の世界では、「二倍年歴」あるいは「多倍年歴」が使われていた可能性がある”、ということを、頭の片隅に入れておいてください。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(3) ~ 孔子も「二倍年歴」だった?

前回、古代「二倍年歴」が、現代にもその痕跡をとどめているというお話をしました。では、古代の中国では、どうだったのでしょうか?

魏志倭人伝が書かれた当時の中国(3世紀)において、「二倍年歴」が使われていなかったことは確実です。なぜなら、使われていなかったからこそ、あえて魏志倭人伝のなかで倭人のことを、
"其の俗、正歳・四節を知らず 。但春耕・秋収を計りて年紀と為す。 (当時の倭人は暦をもっておらず、春と秋、つまり種まきや苗の植え付けの時期と、刈り入れの時期をもって、1年と数えている)”
 と、、珍しい、あるいはあたかも文明が未開の民族のように記したわけです。

では、それより以前の中国では、どうだったのでしょうか?

古代中国で有名な人と言えば、孔子(BC552-BC479)が挙げられます。孔子は、春秋戦国時代の春秋の時代に生きた、思想家、哲学者であり、儒家の始祖でもあります。多くの弟子をもち、自らの思想を伝えました。その語録が、論語です。論語は、日本においても、江戸時代に として、広く読まれ、思想的にも大きな影響を与えました。

<孔子>
孔子


その一節に、あの有名な言葉があります。
[読み下し文]
子(し)曰(いわ)く、
a.吾(われ)十有五(じゅうゆうご)にして学に志こころざす。
b.三十にして立つ。
c.四十にして惑わず。
d.五十にして天命を知る。
e.六十にして耳(みみ)順(したが)う。
f.七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。

[現代訳]
師(孔子)がおっしゃるには、
a.十五歳で学問で身を立てる決心をした。
b.三十歳で学問の基礎が確立した。
c.四十歳であれこれ迷うことがなくなった。
d.五十歳で天が自分自身に与えた使命を悟った。
e.六十歳で何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった。
f.七十歳で、心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった。

男子の一生のそれぞれの段階における心構えを、端的に表現したものです。我々現代人からみても、感覚的にも合っており、さまざまな場面で引用されてますね。つまり、実用的な言葉であるとも言えます。

ところが、よくよく考えてみてください。当時の寿命は三十歳台と言われていますから、十五歳と言えば、人生の半ばに近づきつつある歳です。そんな歳で、「学問で身を立てる決心をする」とは、あまりに遅すぎないでしょうか?。また、四十歳で「惑わず」は今でもよく使われますが、当時の世の中の大多数の人が亡くなる歳に、「惑わず」といっても、遅すぎはしませんでしょうか?

五十歳で「天命を知る」とありますが、たとえ長生きしたとしても、「残りの人生あとわずか」で、一体何ができるというのでしょうか?。「天命」などもっと若いときに知っておかなければ意味がありません。さらに、六十歳、七十歳での心境を語られても、そこまで生きる人はほとんどいないわけで、当時聴いてる人たちにとって、あまりにピンとこない話になってしまいます。それとも、「だから孔子さまは、われわれ凡人には及びもつかない、お偉い、超人的なお方なのだ」と理解すべきなのでしょうか?。

これを、「二倍年歴」で解釈してみます。

a.七歳半ばで、学問で身を立てる決心をした。
     ⇒ 現代でも、小学校入学は六歳ですから、合ってますね。
b.十五歳で、学問の基礎が確立した。
  ⇒日本では、十五歳で元服、つまり成人とされたわけですから、これも合ってますね。
c.二十歳で、あれこれ迷うことがなくなった。
  ⇒現代の感覚では、二十歳はまだまだ「青い」年頃とされますが、当時は十五歳で成人となり、
    さまざまな経験を積むわけですから、迷いもなくなると表現したのでしょう。
d.二十五歳で天が自分自身に与えた使命を悟った。
  ⇒平均寿命三十歳台の時代、二十五歳と言えば、残りの人生十数年、いよいよ自分が何を
    成し遂げるべきかを、悟ったというこでしょう。
e.三十歳で何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった。
     ⇒天命を悟り、人生経験を積み、人間としての円熟味が増す年代です。
f.三十五歳で、心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった。
  ⇒人生の終わりが見え、心が何ものにもとらわれず、自由自在になったということでしょう。
         こうした心境を目指したいものです。

いかがでしょうか?。当時の三十台という平均寿命を考えると、ぴったりくるのではないでしょうか?。

なお、当時が二倍年歴とすると、孔子の寿命(73歳前後)は、36~37歳となります。孔子というと、何となく髭を生やした老人をイメージするのですが、それも大きく覆しますね。

もっとも、この説が正しいかどうかは、今の段階では何とも言えません。たとえば、孔子は、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚して、翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生しています。幵官(けんかん) 氏が当時何歳だったのかは定かではありませんが、二倍年歴とすると、孔子が10歳のときに子供を作ったことになりますから、無理があります。もちろん、その子供が実子であったとしたら、ですが。

ということで、ここでは、孔子が二倍年歴であったかどうかは、あくまで”可能性がある”ということにしておきます。

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一年で二回年を数えたという「二倍年暦」説は本当か?(2) ~ 現代にも残る二倍年暦の痕跡

前回は、二倍年暦について、古代天皇の例をもとにみました。

では、二倍年暦は、近現代にもその痕跡が残っているのでしょうか?

たとえば、昔の人の休暇です。私たちは、一週間7日を単位として、あたりまえのように(土曜日と)日曜日を休みますが、それは明治時代になり、西洋文明(キリスト教)が日本に正式にはいってきてから、その風習が取り入れられたからです。それまでは、盆と暮・正月しか休みが無かったのです。今でも慣用句として「盆暮れ正月」と言いますよね。最近は少なくなってきましたが、付け届けも、盆(お中元)と暮(お歳暮)の年二回です。

神社の祭りを考えてみましょう。春と秋の、年二回あるところが多いのではないでしょうか?。

また、大祓(おおはら)いの儀式も、6月と12月の晦日です。大祓いとは、
”我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢れ、そのほか、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としています。
記紀神話に見られる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらひ)を起源としています。
年に二度おこなわれ、六月の大祓を夏越(なごし)の祓と呼びます。大祓詞を唱え、人形(ひとがた・人の形に切った白紙)などを用いて、身についた半年間の穢れを祓い、無病息災を祈るため、茅や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを三回くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」と唱えます。また、十二月の大祓は年越の祓とも呼ばれ、新たな年を迎えるために心身を清める祓いです。”(神社本庁HPより)

<茅の輪くぐり>
 大祓い 茅の輪くぐり

<人形>
大祓い 人形 
                                                   (鶴岡八幡宮HPより)

私も、昔から近くの神社に毎年人形を納めていますが、「年の終わりの12月に納めるのはわかるが、何で6月にも納めるのかなあ?」と不思議に思っていました。これも「半年ごとに新たな年が始まる」と考えれば、自然ですね。

以上のとおり、現代日本においても、二倍年暦の痕跡とおぼしきものがあることが確認できました。
では、日本に限らず、現在でも、二倍年暦を使っている人々はいるのでしょうか?

それが、いるのです。古田氏が、面白い話をしていました。

”昭和薬科大学をやめる年に太平洋の二倍年暦の島に行ったことがあります(パラオ島)。そうしたら、行ったらすぐ解りました。つまり教育委員会の女の子たちと会った時に聞きました。
「私たちは困っています、私たちは一倍年暦にしなければならないと絶えず通達を出しているのですが、田舎の人は全く聞いてくれません。二倍年暦でずっとやっています」。
お墓に行くと百何十歳というのがやたらにあるわけです。そういう悩みを打ち明けてくれて、二倍年暦が現在でも行われているということが解りました。それもそのはずで気候が一年の半分が全然違う。雨ばっかりの半年と晴ればっかりの半年に分れている。天候から見ても二倍年暦が当然です。私の推定では、そういう二倍年暦が北上してきて日本列島や中国に入って行ったと思っています。”
(「第七回 古田武彦古代史セミナー講演録 日時 2010年11月6日、8日」より)

この話は、とても示唆に富んでいます。二倍年暦というのは、何も人間が自分勝手に思い付いたのではなく、”その土地の気候風土を反映したものだ”ということです。パラオの例で言えば、まさに”雨季と乾季というふたつの気候が交互にやってくる、それに合わせて、自分たちの生活も変えていかなければいけない、それを教えてくれるものだ”とも言えます。

日本の場合はどうでしょうか?。冬が終わり春になると、種をまいて畑を耕さなければならない、そして畑の手入れをしなければならない、秋になると刈り入れの時期です。言ってみれば、春から秋は「動」、秋から春は「静」と言ったところでしょうか。まさに、魏略の言うところの、「其の俗、正歳・四節を知らず。但春耕・秋収を計りて年紀と為す。」ですね。
なお、「二倍年暦が北上した」とありますが、逆の場合(南下した)もありうるわけで、これに関しては、慎重な検証が必要でしょう。

ところで、この「二倍年暦説ですが、これまでにも何人かの学者が唱えていました。
”民族学者の岡正雄や、東洋史学者の江波波夫は、天皇のお年などが長い原因を、かつては半年を一年に数えたためではなかろうかと述べている。春の正月と秋の正月と、一年を二つに分けて考える北方民族が存在するからである。”
”なぜ「古事記などの天皇のお年は、ほんとうのお年の二倍になっているのであろうか。半年を一年に数えた可能性が考えられる。「年」という字も、「歳」という字も、「そのとしの作物のみのり」という意味をもっている。春のみのりと、秋のみのりごとに、年を数えた可能性が考えられる。
(「天照大神は卑弥呼である」(安本美典著)より)

安本氏(元産業能率大学教授)は、歴史に統計学の概念を取り入れ、”邪馬台国はもともと九州筑後にあり、神武天皇の時代に畿内へ東遷した”という「邪馬台国東遷説」をはじめ、ユニークな説を唱えています。古田武彦氏の説を激しく攻撃することで知られていますが、この「二倍年暦説」については、同じ立場です。ちなみに三国志時代の距離についても、一里を90~100mとするなど、古田氏の考え(一里を75~76mとする「短里」説)とほぼ同じです。そうでありながら、最終的な結論は違ったものになってしまうのは、不思議な感じはします。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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