太宰府は、倭国の都だった!?(4) ~太宰府は当時の東アジア最大の羅城だった!

3回にわたり、3月27日に出版したシリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 ~ その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を一部公開してます。その最終回です。

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さらに、最近、太宰府の南方にある前畑遺跡より、巨大な土塁遺跡が発掘され、話題を呼びました。(以下、「新発見 大宰府を守る土塁(平成28年12月3,4日)」(筑紫野市教育委員会 文化情報発信課)より 抜粋)

”今回の丘陵部での調査では、7 世紀に造られたと考えられる長さ500 メートル規模の土塁が、尾根線上で発見されました。
今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川から特別史跡基肄城跡(きいじょうあと)に至るライン上に構築されたもので、丘陵尾根上に長く緩やかに構築された、中国の万里の長城のような土塁となっています。また、土塁の東側は切り立った斜面になっており、西側はテラス状の平坦面を形成しています。これは東側から攻めてくる敵を想定した構造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する意図を持って築かれたと考えられます。    
このように都市を防御するために城壁(土塁や石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれていました。
前畑遺跡の土塁は丘陵尾根上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると宝満川へ至ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代の東アジア最大となる全長約51Km におよぶ大宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってきました。
前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡です。”

以上のとおり、この土塁の発掘は、単なる山城の一部ということではなく、古代の東アジア最大となる全長約51Km におよぶ大宰府羅城が存在した可能性が出てきたという、きわめて意義の大きいものです。なお、築造時期について、7世紀としてますが、
7世紀前後すなわち600年前との報道もされています(西日本新聞、2016年11月28日)。
太宰府羅城 
土塁断面図 



ちなみに、”日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見された古代百済の首都・泗沘(サビ)を守る扶余羅城(プヨナソン、全長8.4Km)があります。”とあります。百済の首都をはるかに上回る規模となると、ますます「大宰府=倭国首都」説が、強固なものになってきまね。

ところで、こうした古代山城は、どこの国を敵と想定したものだったのでしょうか?。日本書紀によると、”白村江の戦い(663年)に敗れたあと、唐の侵攻に備えるため”、とありますが、築造時期が少なくとも6世紀ということになると、時期が合いません。まず唐は存在してませんし、隋ができたのは581年ですから、その頃あるいはそれより前に築造が開始された可能性が高いです。

その答えは、当時の中国情勢を考えればわかります。

倭の五王の最後の王である「武」が、梁王朝樹立に伴い征東大将軍に進号したのが、502年です(「梁書」武帝紀)。武が征東大将軍に任命されたということは、ある意味、中国王朝の配下にあったというわけです。しかしながら、その頃の中国は、すでに戦乱の時代に入ってました。いわゆる南北朝時代です。

梁は、魏、西晋の流れをくむ南朝でしたが、華北では北方民族である北朝が立ち、最終的に北朝系である隋が統一したことは、前にお話ししました。

以上の流れが、南朝系の倭国に大きな影響を与えないはずはなく、北朝系の勢力が強くなるに連れ、倭国にも侵略の恐れが出てきたはずです。こうした中国情勢に対抗するため巨大な防御施設を築造したと考えれば、なぜ莫大な費用と労力をかけてあれだけの施設を作ったのかの理由がよく理解できると考えますが、いかがでしょうか?。


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太宰府は、倭国の都だった!?(3) ~古代山城は、何を守っていたのか?

前々回から、3月27日に出版したシリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 ~ その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を一部公開してます。その続きです。


古代山城(やまじろ、またはさんじょう)
という言葉をご存じでしょうか?。読んで字の如しで、古代の山城のことです。一般的には、“白村江の戦い(663)で敗れ、唐・新羅連合軍の侵攻を防ぐために、飛鳥時代から奈良時代にかけて、西日本各地の山に築城された防衛施設”とされています。

いくつかの種類があり、文献に見える山城は「朝鮮式山城」、見えない山城は「神籠石(こうごいし)式山城呼ばれてます。現在わかっている数は、

・朝鮮式山城 12か所

・神籠石式山城 16か所

の計28か所です。

 

特徴としては(神籠石山城)、

  • 幾つかの谷を取り込み、山腹を取り囲む場所に立地する。
  • 標高200 ~ 400mの山頂から中腹にかけて数kmにわたって一辺が70cm位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列(列石)し、その上部に版築による土塁を有する。
  • 谷を通過する場所に、数段の石積みを有する城門や水門を設けている。
  • 列石遺構の内部に、顕著な建物遺構が見られない。

などです。

 

<大野城跡>
大野城神籠石 
(Wikipediaより)

日本書紀に、築造に関する記事があります。

"天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答ホン春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城した”とあります。

さて、防衛施設というからには、何かを守っているはずです。ここで質問です。

 

「山城は何を守っていたのでしょうか?」

 

これだけ大がかりな防衛施設となると、当然、権力者のいた宮殿ということになるでしょう。では、日本各地にある山城の位置を図示します(場所が確実視されるものだけです。)。

山城位置  




見ての通り、山城は西日本特に北九州に集中しています。瀬戸内海沿いにもありますが、数か所です。畿内には、わずか一か所です。そして、集中している北九州をよくみると、太宰府を囲むようにして築かれていることがわかります。これらの事実から、そのほとんどは「太宰府を守るために築かれた」と言ってよいでしょう。

 

一般的には白村江の戦い(663)に敗れた日本が、唐・新羅軍の侵攻に備えるため、その前線基地である太宰府を守るために築造したのだという説明がされますが、よくよく考えると不思議な理屈です。

 

前線基地である太宰府を守るため、というのはいいとして、ではなぜ本丸であるはずの畿内には、たった一つしかないのでしょうか?。なお、そのたった一つの高安城も、礎石建物跡が発掘されているだけで、明確な遺構は未だ発見されていません。

 

普通に考えれば、本丸の防御施設は前線基地をはるかに上回る規模であるはずです。それがどうしてこうも貧弱なのでしょうか?。

 

瀬戸内海に来た水軍を撃破するために、瀬戸内海沿いに築いているじゃないか?、と反論の声が聞こえてきそうですが、これだけの山城で、強大な唐・新羅連合軍を、打ち破れるのでしょうか?。あまりに手薄です。

 

また、唐・新羅連合軍は、もしかすると日本海側方面に回り、山陰あるいは丹波あたりから上陸して畿内に攻めてきたかもしれません。しかしながら、その備えとなる防御施設はありません。そういうことも思いつかないほど、当時の日本は、間抜けだったのでしょうか?。

 

答えは簡単です。当時、守るべき最重要施設は、太宰府だったのです。つまり、太宰府が、九州王朝の都だったのです。そう考えれば、小難しい理屈をこなくりまわさなくても、すっきりと解釈できます。

 

そして、問題は山城の築造時期です。一般的には、白村江の戦い(663)以降、とされてますが、ここでも内倉氏が、疑問を呈してます。


山城と並ぶ防御施設として、大水城(おおみずき)があります。太宰府市と春日市にまたがり、博多湾に迫った侵略軍を防ぐ最後の砦となります。1.2kmの長大な土塁と濠、濠に水を流すための木製の樋(ひ)からなってます。大水城には、東西二カ所に門が設けられていて、門からは道路が北へ延び、博多湾岸にある迎賓館施設に通じていたとみられます。

この水城に使用されていた木樋を年代測定したところ、540年頃という結果が出ました。

また、対馬にある金田城の土塁の中にあった炭化物を放射性炭素により測定したところ、590630年頃との結果が出ました。

詳細な調査をすれば、さらに古いものもあると推測されますから、一連の防衛施設は、少なくとも6世紀には築造されていたことが、確実視されます。


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太宰府は、倭国の都だった!?(2) ~ 太宰府遺構が物語ること

前回から、3月27日に出版したシリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 ~ その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を一部公開してます。その続きです。

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太宰府建設の由来については、
“日本書紀によれば、天智天皇二(663)年、唐、新羅の連合国白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻に備え、博多の那の津にあった大宰の府を移したところである”(福岡県教育委員会看板より)とされてます。

条坊(碁盤目道路)で区画割された大規模な都市で、その規模について
“九州大学教授となる鏡山猛が1937年(昭和12年)、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。(Wikipediaより)
との研究結果が出されてます。

<太宰府条坊>

太宰府条坊

(九州大学宮本雅明案を参考、Wikipediaより)

遺構については、九州歴史資料館や太宰府市教育委員会によると、
(1)七世紀後半(飛鳥時代)
(2)奈良時代
(3)平安時代
の三層に分かれています。つまり、一番古い遺構は、せいぜい七世紀後半であり、日本書紀の記録663年とも整合している、ということです。

ところがこの見解について、元新聞記者である内倉武久氏が、著書「太宰府は日本の首都だった」のなかで問題提起しています。以下、要約します。
現在地上に復元されている建物跡などは、平安時代に再建された遺構であり、本来の太宰府遺跡ではない。古い時期の建物群は、平安時代の「大宰府政庁」域よりはるかに広い。
下層の建物や配置、なんのための建物で、どんな風になっていたかのかは、よくわかっていない。ところが
、「上の方に平安時代など新しい遺構がある場所は、それ以上掘れない」として、詳細な調査がされていない。“
と記しています。

そして、出土した土器の年代測定に対して、科学的な根拠がないとして、
“出土した土器の年代測定からみて、飛鳥時代以降とされている。しかしながら、放射性炭素(C14)による理化学的な年代測定によれば、古墳時代の五、六世紀まで、さかのぼるのではないか?“
としています。

ここで補足します。土器の年代測定は、外国では、放射性炭素(C14)をはじめとした理化学的なデータを基に推定しているのですが、日本では異なります。日本では、“土器や埴輪などの形や製法の違いを細かく調べて年代を測定する「編年方式」がもっぱら使われているのです。

たとえば、「古墳時代の土器」として須恵器がありますが、全国どこでも、主として大阪府堺市の陶邑(すえむら)から出土した須恵器の年代を基準として、地域の特徴も加えて決定しています。そして、陶邑で須恵器の生産が始まったのは、朝鮮半島から伝わった古墳時代中期、西暦400年代の初めころとしています。実際、日本書紀にも「陶邑」の名が出ています。

そして、“古墳時代以降が、大和朝廷が日本の中心であり、日本全国から出土する須恵器の多くもここから供給された。だから、どこから出土した須恵器でも、陶邑の、どの時期の須恵器と同じ形、同じ製法かを調べれば、おおよその製作時期がわかる”というわけです。

<須恵器(日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕)>
須恵器

(兵庫県立考古博物館蔵)

ここで、読者のみなさんは、ピンとくると思いますが、次の疑問が湧くわけです。
「古墳時代に、大和朝廷が日本を統一したというのが史実でないなら、どうなるのか?」

実際、放射性炭素(C14)を用いた理化学的結果によると、九州を始め、全国で出土した土器の年代測定が、「編年方式」より150年から200年、ケースによってはそれ以上古い事例が続出しています。

この結果に対して、「編年方式」論者からは、「放射性炭素(C14)の結果など、あてにならない」「古い地層の土が付着したのだ」などの反論が出ています。ひどい話になると、理化学的調査を拒否されるケースもあるそうです。どっかで、よく聞く話ですね。

なお、笑い話のような話ですが、この「編年方式」によると、太宰府政庁遺跡には、“古墳時代の土層がないことになる”そうです。なぜかというと、本来の古墳時代の地層が、新しい飛鳥時代以降の地層とされているからです。無理に無理を重ねると、このような矛盾が、次々と出てしまうものです。

こうした問題も、単純に、“大和朝廷が全国統一したのは、7世紀後半から8世紀である。それ以前は、九州王朝さらに各地には、巨大勢力があった”とすれば、すんなり解決できるわけです。

補足が長くなりましたが、ようするに、太宰府の創建は、定説より古く、五、六世紀に創建された可能性が高いと考えられます。とすれば、その時期にこれだけの壮大な規模をもった施設は、日本のどこにも無かったことを考え合わせると、「太宰府が九州王朝の首都であった」という仮説は、俄然と現実味を帯びてきますね。

<太宰府政庁復元模型(平安時代以降?)>
太宰府政庁復元模型

(「太宰府観光マップ」(太宰府観光協会)より)
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太宰府は、倭国の都だった!?(1) ~ 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?

前回まで、「日本人は、いつどこからやってきたのか?」というテーマでお話ししてきました。何せ壮大なテーマですから、計25回にもわたり、また文化的な側面についても触れました。


さて、3月27日に、拙著「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎」シリーズ第二弾「その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を出版いたしました。昨年8月出版の前著「神話の世界から邪馬台国まで」の続編で、邪馬台国はその後どうなったのか?、そして大和朝廷との関係は?、など、歴史の授業では教えない話を、一つのストーリーでまとめたものです。


今回は、その一部を公開します(本の編集の都合上、内容は若干異なります)。

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ここまで、九州北部(九州王朝)から畿内(大和朝廷)へと権力移動したとの仮説を立てて、考察しました。そして九州王朝の都は、卑弥呼の邪馬台国の時代には福岡県博多湾岸にあったこと、その後権力の中枢を司る王宮は、王が代わるたびに移動したと考えられます。

では最終的に、九州王朝の都はどこにあったのでしょうか?。


突然ですが、万葉集の歌を紹介します。
柿本朝臣人麿、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首
303 (略)
304 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

一般的にはこの歌を
“大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。”
(岩波古典体系より)と訳して、「遠の朝廷(とおのみかど)」を、地方政庁と解釈してます。
つまり、「遠の朝廷」=「筑紫国」=「地方政庁」というわけです。

確かに、「筑紫国」は、大和から見ればはるかに遠いわけですから、一見何も問題なさそうです。しかしながら、一つの地方政庁に過ぎないところを、わざわざ「朝廷(みかど)」と呼ぶのも、何となく違和感がありませんか?。

これに対して古田氏は、
1.「朝廷」は中国の古典「四書五経」以来の言葉であり、すべて「天子の政治の場」を指している。日本の史書である「続日本紀」にも「朝庭」が再三出てくるが、すべて天皇家中心の権力の場のことである。その「朝廷」を、「筑紫国」=「地方政庁」として、軽々しく使うはずはない。
2.万葉集で使われている「遠の朝廷」は9例あるが、そのうち7例は、「筑紫国」を指している。残りの2例は、「越国」を指している。
と分析しました。

以上より、「遠の朝廷」とは、“神代に「朝廷」があったところである。”と指摘したうえで、“かつて筑紫国に朝廷があったことを示している。”としました(「越国」については、継体天皇出身地との関連を指摘)。

いかがでしょうか?。なお、ここでの「遠の朝廷」は、一般的に「地方政庁だった」とされている「太宰府」を指していることは、異論がないところです。

ここで、「太宰府」について、みていきましょう。

太宰府とは、一般的には
“7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。”(Wikipediaより)
とされてます。「太宰府政庁」と呼ばれる所以です。

太宰府の「府」は、さまざまな使われ方がされてます。たとえば、
・「政庁」の意味
王府。各地に王として封じられた皇族が軍事と行政の拠点として開いた政庁
・「地区」の意味
京府。 唐以降の歴代王朝において、都や陪都として機能した大都市の副称。
などです。

このように、都という意味があります。日本でも、「大阪府」「京都府」など、当時の国の中枢だった都市に対して名づけられていますね。

一方、“地元では、史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称されることが多い。”(Wikipediaより)とのことです。

<太宰府正殿跡(都府楼跡石碑)>
太宰府都府楼跡 
(Wikipediaより)

ここで、宋書倭国伝を思い出してください。倭の五王の一人、が、宋順帝よりもらった位が、
使時節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)新羅(しらぎ)任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)六国諸軍事(りっこくしょぐんじ)・安東大将軍・倭王
でした。
つまり、「都督府」とは、都督となった倭王の武がいたところ、ということになります。実際には、武の時代からだいぶ時代が経ってますので、武が太宰府にいたかはわかりませんが、太宰府近辺にいたとみてさしつかえないでしょう。また、「都府楼」という言葉も、都があったことを、彷彿とさせますね。

さらに、太宰府政庁跡には、「紫宸殿(ししんでん)」という字(あざ)名が残ってます。
「紫宸殿」とは、
“内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。”(Wikipediaより)
であり、ようするに、天子がいたところです。今でも京都御所にありますね。
このような地名を、昔の人が自由勝手につけられるはずもありません。当然、何がしかの由緒があってつけられたはずです。

<京都御所紫宸殿>
京都御所紫宸殿 
(Wikipediaより)

他にも、天皇が住んだ宮殿を示すと考えられる「大(内)裏」(だいり)や、「御所の内」という字名が残ってます。また地元で「朱雀大路」と呼ばれる南北中央大路があり、「朱雀門」礎石とみられるものも発掘されています。

こうしたことを考え合わせると、
「遠の朝廷」=「太宰府」=「遠い昔の都」
と考えるのが、自然ではないでしょうか?。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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