銅鐸が語る「西→東」への権力移動(11) ~最後の謎、 銅鐸を消滅させたのはどの人々か?

前回、銅鐸を伝えたのは、天照大神から神武天皇・大和朝廷につながる系統とは別の弥生系渡来人である、という話をしました。

かれらは紀元前5~同4世紀頃、日本列島の九州北部か山陰・北陸地方に上陸、住み着き、銅鐸を伝えたと考えられます。当時の日本列島には、縄文人がいましたし、彼らに先行して日本列島にやってきた渡来系弥生人もいました。先住者との関係は不明であり、さまざまな抵抗もあったでしょうが、その後の銅鐸文化の急速な発展を考えると、次第に受け入れられていったと推測されます。

そして、銅鐸も次第に大型化・装飾化していき、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと、大陸にはない日本独自の文化となりました。

西日本を中心に、広い範囲にわたり数百年にわたり祭祀に使用されましたが、紀元後2世紀から3世紀頃、突然姿を消します。その原因は、「異文化をもった侵入者である」としました。

では「銅鐸を消滅させた”異文化をもった侵入者”とは誰か?」

これが、最後の謎です。

ここまでお読み下さった方は、もうおわかりでしょうが、一度話を整理します。

■銅鐸が消滅したのは、紀元後の2~3世紀頃である。
■銅鐸を使用していたのは、天照大神から神武天皇・大和朝廷につながる系統とは別の弥生系渡来人である。
■銅鐸を破壊し再利用した工房とみられるあとが、奈良県桜井市の脇本遺跡で見つかった。時期は3世紀初めで、大和朝廷につながるとみられる纏向遺跡の建設と同じ時代である。
■銅鐸は、西から次第に消滅していった。

もうひとつ、この同じ3世紀の日本に起こった大きな出来事がありました。中国史書「魏志倭人伝」に記載されているあの有名な話です。

倭国大乱ののち、「卑弥呼」が女王として倭国を統一した。卑弥呼死後、再び国が乱れたが、卑弥呼の宗女壹与(いよ)を立て、国が治まった。

またここまで、このブログでは、天照大神による天族(海人族、あまぞく)の天孫降臨を史実と仮説を立て分析してきましたが、概要は次のとおりです。

■天孫降臨とは、天孫族による九州北部への進出であり、その時期は、紀元前4世紀~同5世紀頃である。
■その天孫族が倭国の支配権を握り、次第に勢力を拡大た(その中心勢力が九州王朝)。
■一方、九州王朝の一分派であった神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと、のちの神武天皇)は、東征し、大和に居を構えた(紀元前1世紀頃)
■神武天皇の子孫たちは次第に勢力を拡大し、畿内での実権を握った(3世紀頃)。やがて、九州王朝を上回る勢力となり、ついに日本国として統一政権となった(紀元8世紀頃)。

ここで、纏向遺跡が神武天皇系統の遺跡であることは間違いないので、神武天皇の子孫が畿内で実権を握った時期は、纏向遺跡建設の時期、すなわち3世紀頃と推測してます。

以上を考え合わせると、”銅鐸を消滅させた人々とは天孫族の人々であった”、ということがみえてきます。

つまり、天孫族が九州北部に上陸、東へ勢力を拡大するに連れ、また神武天皇の子孫が畿内で実権を握るにつれ、「異文化」である同銅鐸を消滅させていった、ということです。銅鐸の分布が、「西→東」へと移動したこととも整合します。

ただし、こうした反論が予想されます。

a.天孫降臨は、紀元前4~同5世紀というが、銅鐸消滅は紀元後2世紀から3世紀であり、時期が合わないのではないか。
b.神武天皇が畿内に居を構えたのが紀元前1世紀頃というが、これも銅鐸消滅の時期と合わないのではないか.

まずaですが、このように考えれば、整合します。
”天孫降臨の時期(紀元前4~同5世紀)と前後して、銅鐸も伝わりました。天孫降臨の場所は九州北部であり、当初はその近傍の支配に過ぎなかったと思われます。当時は、縄文人や銅鐸を使用する弥生系渡来人など、さまざまな人々がいました。天孫族は西日本において次第に支配権を拡大していきますが、実際の支配体制は、中央集権体制ではなく、各地の国王に支配を委ねた連合国体制であったと推測されます。したがって、文化なども各地における独自性を継承しました。
天孫族は九州王朝(倭国)として、次第に勢力を広げ、倭国大乱ののち、女王卑弥呼が即位、倭国を統一します(3世紀前後)。倭国統一とともに、文化も天孫族の文化が流入し、先住民の文化であった銅鐸祭祀が消滅しました。”

銅鐸消滅を、倭国大乱から卑弥呼による倭国統一に関連づけたのは、大胆な仮説ですが、倭国統一というのは当時の倭国における最大の出来事であったはずです。このことが、人々の生活や文化に大きな影響を与えたとしても、何ら不思議はありません。というか、むしろ社会に大きな変化をもたらさなかったというほうが、無理があるのではないでしょうか?。

なお、卑弥呼即位後、ライバル国である狗奴国との戦いがあり、激闘の末勝利しました。狗奴国は銅鐸圏の国である、との説もあります。となると、狗奴国の敗北と、銅鐸消滅が関連している可能性もあります。

次にbです。こちらはシンプルです。
”神武天皇が畿内に居を構えたのは紀元前1世紀頃だが、当時は一豪族に過ぎなかった。子孫が次第に勢力を拡大し、紀元後2~3世紀には畿内を制することとなり、纏向遺跡の都市を建設した。それとともに、それまで地域を支配していた豪族が行っていた銅鐸祭祀は消滅した。”

皆さんのなかには、古事記、日本書紀の記載と異なるので、あれ?、と思った方もおられるかもしれません。あるいは、「纏向遺跡は邪馬台国の遺跡ではないのか?」と思った方も多いでしょう。そのあたりをお話しすると膨大になりますので、別の機会に譲ります。

ともかく概略ではありますが、このように解釈すれば、さまざまな矛盾が解消し、すっきりと理解できるのではないでしょうか?。

というより、この解釈以上に説得力のある合理的な仮説は他にない、と思われますが、いかがでしょうか?。

★神武天皇の系統が、銅鐸文明を消滅させた!?

<神武天皇>
神武東征1
(月岡芳年「大日本名将鑑」より)

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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (10) ~ 銅鐸を使用していたのは誰か?

前回までで、”銅鐸は、異文化をもった人々の侵入者によって破壊され、消滅した。”というところまでお話ししました。

今回は、いよいよ銅鐸最大の謎に迫ります。
それは、
「銅鐸を使用していたのはだれか?」
そして
「異文化をもった侵入者とはだれか?」
です。

従来の説では、
”銅鐸は稲魂信仰祭祀の象徴であり、初期大和政権の首長が、地方の豪族に対して同盟の証として与えた。首長の権威が高まるにつれ、首長霊信仰に代わり、三角縁神獣鏡の配布、さらに古墳祭祀へと変貌を遂げた。銅鐸はあるものは破壊され再利用され、あるものは忘れ去られた。”
というものが一般的でした。

この説が、近年の島根県荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡での銅鐸大量出土や、九州北部での銅鐸・銅鐸鋳型の出土などにより、説明できなくなっていることも、お話ししました。

本題に入る前に、ここで一度、ここまでの話を整理しておきましょう。

■銅鐸とは、釣鐘型の青銅器。舌(ぜつ)と呼ばれる金属の棒がつり下がり、本体を揺らすことで音を鳴らす。紀元前3世紀頃から紀元後2世紀頃にかけて発展したが、突然消滅した。

■中国大陸の鈴が起源と考えられ、紀元前4世紀頃、中国大陸から直接あるいは朝鮮半島から伝わった。

■日本では時代とともに、大型化するとともに、装飾化も進んだ。菱環鈕(りょうかんちゅう)式⇒外縁付鈕式⇒扁平鈕式⇒突線鈕(とっせんちゅう)式へと変遷した。当初は「聞く銅鐸」であったが、次第に「見る銅鐸」に変わっていった。

■分布としては、畿内を中心とした「銅鐸圏」、九州北部を中心とした「銅矛圏」という旧来の説は、その後の島根県荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡での大量の銅鐸・銅剣出土、九州北部での銅鐸・銅鐸鋳型出土などにより、成り立たなくなっている。

■銅鐸出土の分布を時代ごとに追うと、山陰地方(出雲)・北陸地方(福井)・瀬戸内海地方北東部⇒畿内⇒東海地方、という流れがみてとれる。

■最古の菱環鈕(りょうかんちゅう)式は銅鐸7個・鋳型2個しか出土してないが、畿内からは、京都府での鋳型一個の出土しかない。

■九州では、近年、銅鐸・銅鐸鋳型の出土が相次いだ。伝出雲出土銅鐸が吉野ケ里出土銅鐸と同笵(同じ鋳型で作られた)であることが判明、九州北部産である可能性が高まった。九州北部 ⇒ 山陰地方、北陸地方、瀬戸内海 ⇒ 畿内 ⇒ 東海地方、という伝播の可能性も出てきた。

■謎の一つとして「埋納」があるが、全国で人里離れた位置に埋納されているケースが圧倒的に多いことから、農業祭祀など何らかの信仰上の理由で埋納された可能性が高い。

「破壊」については、再利用された形跡はあるものの、異文化の侵入者による可能性が高い。それにより、「消滅」したと考えられる。

■銅鐸については、のちの大和朝廷に伝承されていないことなどから、初期大和政権の人々が使用したものではない。

以上です。

では、始めの問いに戻りましょう。

a.銅鐸を使用していたのはだれか?

b.異文化をもった侵入者とはだれか?
です。

aからです。
銅鐸は紀元前4世紀頃、日本列島に中国から直接、あるいは朝鮮半島経由で伝わったとみられます。この頃、東アジア、そして日本はどのような状況だったでしょうか?

中国は、春秋戦国時代の真っ最中です。春秋時代(紀元前770年-紀元前403年)から戦国時代(紀元前403年ー紀元前221年)へとちょうど変わる頃です。

中国は、形の上では周王朝(東周)でしたが、実際には、各諸国の王が覇権を争う群雄割拠の時代でした。

揚子江下流域では、呉と越が争っていました。呉は、越を撃破し服属させましたが、反撃に合い、滅亡します(紀元前473年)。ちなみに、この時代に生まれた有名な故事が、「呉越同舟」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」です。

<春秋時代の中国>
春秋時代


その越も、に滅ぼされ(紀元前306年)、その楚も、秦の始皇帝に滅ぼされ(紀元前223年)、秦が中国全土を統一しました(紀元前221年)。

<戦国時代の中国、紀元前260年頃>
戦国時代

(Wikipediaより)

この長い戦いに敗れ、あるいは戦乱を避けて、多くの人々が四散しました。そのなかで、日本列島にも多くの人々やってきました。そのハイライトが、天照大神による九州北部への「天孫降臨」であった、という話は、何度か解説しました。その時期は、紀元前4~5世紀頃と推測してます。

 スライド11

詳細は、
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(No.48、2015/10/7号)
を参照ください。

天孫降臨により、倭国の支配権を握った「天(海人、あま)族」は、次第に勢力を拡大します。天族の中心勢力を「九州王朝」と呼び、邪馬台(壹)国がその宗主国でした。

一方、九州王朝の一分派であった、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと、のちの神武天皇)は、東征して、畿内に居を構えます。時期は、紀元前1世紀頃と推測します。神倭伊波礼毘古命の子孫は次第に勢力を拡大、畿内を手中に収めます。

以上が、東アジア戦乱から、天孫降臨、神武東征までですが、ここから本題です。

まず、「銅鐸を伝えた人々」からです。

銅鐸が日本列島に伝わったのは、紀元前4世紀頃とされてますから、上の中国動乱の時期と重なり、戦乱により四散した人々とともに伝わった可能性が高いと考えられます。

では、天孫族すなわち天照大神につながる人々が伝えたのでしょうか?。

その可能性は低いと考えられます。

なぜなら、もし天孫族が伝えたのであれば、その地で銅鐸が発展するでしょうから、九州北部にもっと多くの銅鐸が発見されてしかるべしですが、数はわずかだからです。

また、天孫族の末裔とされる大和朝廷の記録に何も残っていないということは、すなわち、天孫族のものではなかった証拠です。

となると、同時代の別のグループであったということになります。

では、具体的にどの国の人々だったのかは、はっきりとはわかりません。

天孫族は、呉系の人々だったと想定されますので、そうなると呉の可能性は低くなります。一方「呉越同舟」における呉の相手国である越(えつ)の国で、銅鐸に類似した青銅器が発見されてますから、越の国に人々であったかもしれません。

あるいは、銅鐸を伝えたのは、その後の楚の国の人々であったかもしれません。あるいは、東アジア全体の動乱により、その他の国や朝鮮半島の国の人々がやってきて、伝えたのかもしれません。

いずれにしろ、舟に乗り、日本列島のどこかに到着したわけです。

可能性としては、古い銅鐸が多く出土している山陰地方(出雲)の可能性はあります。

また海流に乗り、北陸地方までいっきにやってきた可能性もあります。実は、日本の越(こし)の国(現在の新潟・富山・石川・福井県あたり)は、中国の越の国の民が渡ってできた、との説があります。

そう言えば、最古の銅鐸である菱環鈕(りょうかんちゅう)式が、福井県坂井市から出土してます。また最古級とされる愛知県朝日銅鐸鋳型に刻まれている文様と同様の文様をもつ木製の杵が発見されたのは、石川県小松市の八日市地方遺跡からでした。となると、
中国・越(えつ)⇒日本・越(こし)の国
との説にも、信ぴょう性が高まります。


あるいは、普通に考えれば、中国・朝鮮半島に最も近い九州北部に上陸した可能性も高いと考えます。銅鐸の原型となった朝鮮式小銅鐸が出土している(大分県の別府(びゅう)遺跡)こともその仮説を裏付ける一つです。

その際のネックは、九州北部からの銅鐸出土が少ないことです。
しかし、それについては、、九州北部に初めて伝わったものの根付かず、さほど発展しなかった一方、東へ伝わるにつれ、発展を遂げ、次第に大型化・装飾化していった、との仮説が考えられます。九州北部においては、墓の副葬品として埋葬されたり、集落からさほど遠くないところに埋納されているなど、他地域と異なった様相をみせているのも、こうした仮説と関連する可能性があります。

以上により、”銅鐸を伝え日本で発展させたのは、天照大神から神武天皇につながる天孫族(海人族)とは別の、中国・朝鮮半島からの弥生系渡来人である”となります。

さてそれでは、その「渡来系弥生人」となると、具体的にどのような人々でしょうか?。

ここで想い起されるのは、日本神話に出てくる素戔嗚尊(スサノオノミコト)と大国主命(オオクニヌシノミコト)の話です。
スサノオオノミコトは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟ですが、高天が原で乱暴狼藉を働いたため追放され、出雲の国に降り立ちます。スサノオノミコトの6世孫が大国主命です。日本書紀には、娘婿との記載もあります。

実は、スサノオノミコトは天照大神とは別のグループで、先に朝鮮半島から日本にやってきた人々の象徴ではないか、との説があります。もしそうであるなら、そのグループが銅鐸を伝えた人々であったかもしれません。大国主命がスサノオノミコトの6世孫であるとすれば、大国主命が銅鐸祭祀をやっていて当然です。また大国主命が、スサノオノミコトの娘婿であったとしても、同様です。

江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者である平田篤胤(ひらたあつたね)は「弘仁歴運記考」のなかで、”銅鐸は天孫以前の大国主命の系統の集団が残した”と説いているそうです。この説に、森浩一氏が、「面白い説だ」と賛同しているとのことです(「邪馬台国の会」WEBより)。

この件について、事実はどうだったのかを究めるのはなかなか難しいかもしれませんが、いろいろ想像を巡らせてみるのも、古代史探究の楽しみですね。

<出雲大社の大国主命>
大国主命  
             (Wikipediaより)

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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (9) ~ 銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎

さらなる銅鐸の謎について、迫ります。

銅鐸は、3世紀には消滅したとされてますが、あれほど全国規模で発展した文化が、なぜ突然なくなってしまったのでしょうか?。


春名氏によれば、

”首長の権威が高まるに連れ、次第に共同体祭祀である「畿内勢力(初期大和政権)による銅鐸配布」から、「三角縁神獣鏡の配布」へ、さらに「古墳祭祀」へと変貌していった”となります。


しかしながら、島根県荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡での銅鐸大量出土や、九州北部における銅鐸・銅鐸鋳型の出土など、近年の多くの発見により、現在においてこの説が成立しえないことは、前回お話ししました。


そもそも、先祖が数百年にわたって継承されてきた「銅鐸祭祀」というものを、その子孫が簡単にやめる、ということがあるのだろうか?、というのが、率直な疑問です。


確かに「首長の権威が高まり、今までの祭祀はふさわしくないから新たな祭祀を始めることになったのだ。」という考えもあるでしょうが、よほどのことが起きない限りありえないのではないでしょうか?。


もうひとつ、銅鐸に関しては、「破壊の謎」があります。


多くの地で、破壊された銅鐸破片が見つかってます。これは、何を意味するのでしょうか?。


春名氏によれば、

1.稲が予定とおり生育しなかった場合に、その罪を問われ破壊された。

2.外部の侵入者による。

3.再利用するため。

という3つの可能性を挙げたうえ、

”単に破砕されているという状態ではなく、破砕後一定の形状にそろえようとする意図がうかがえることは、破砕後の再利用を予定していることを思わせる。”として、3の説を主張してます。


ようするに、”「銅鐸配布」から「銅鏡配布」へと変貌したが、それにつれ銅鐸を破壊して再利用した”ということになります。


実際に、銅鐸を破壊して、再利用したと推測される遺構がみつかってます。

 奈良県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代初頭(3世紀初め)に捨てられた銅鐸の破片や銅くず、鋳型などが見つかり、県立橿原考古学研究所が6日、発表した。
 銅鐸は弥生時代の祭祀で使われたが、古墳時代には使われなくなったことから、同遺跡は不要になった銅鐸をリサイクルして、別の青銅器を鋳造した小規模な生産工房とみられるという。

北西約4キロで大和王権につながるとされる巨大集落跡・纒向遺跡が同じ時期に出現しており、同研究所の寺沢薫調査研究部長は「纒向の都市建設と関係があり、王権の意向により、ここで青銅器を生産していたのかもしれない」と話している。
 銅鐸の破片は3点で、最大で長さ約4センチ、幅3・5センチ。発掘した計9棟の竪穴住居跡のうち、1棟を埋めた土から見つかった。周囲には土製鋳型の外枠や鋳造の際に出る銅くずなどが散乱。集落内の別の場所で生産し、捨てられた可能性が高いという。”

(「四国新聞社WEB版、2007年12月6日」より)

<脇本遺跡銅鐸片>
脇本遺跡銅鐸片


<同上、完形なら1mの大きさだった>
脇本遺跡銅鐸片2 
(「朝日新聞WEB版、2007年12月7日」より)

この記事だけ読むと、なるほど銅鐸をていねいに破砕して再利用した、という印象を与えます。

ところが、同じ破壊でも、こうした言わば「おだやかな破砕」とは正反対のものが見つかってます。


”近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。

また、野洲市大岩山1962年4号鐸故意に双頭渦紋が裁断されています。

近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。

銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。”(「 野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)資料」より)


明らかに、激しい憎悪などの感情を感じます。つまり銅鐸文化を否定するために破壊された、ということです。

単なる、祭祀の変化といった、生やさしいものではなかった、ということです。そして、この資料においては、破壊したのは「新たな権力者」としています。つまり、「異文化をもった侵入者」ということでしょう。


もちろん、「このように破壊されたのは、銅鐸が稲を守護できなかった責任を負わされたからなのだ。」との考えもあります。


しかしながら、もしそれほどまでの責任を負わせるのであれば、存在するすべての銅鐸を破壊すべきでしょう。では、島根県の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡のような大量に埋納された銅鐸は、なぜ放置されたのでしょうか?。当然、掘り返され、破壊されるべきでしょう。たまたま忘れたのでしょうか?。


また、銅鐸の分布は、西⇒東へと、移動してます。これはつまり、銅鐸の終焉も、西⇒東ということを表しています。

もし仮に、銅鐸の終焉が、同じ系統の権力者のもとで行われたのなら、なぜ、畿内初期大和政権が配布したはずの銅鐸の祭祀が、西から次第に消滅しているのでしょうか。普通に考えれば、畿内を中心として、ほぼ同じ時期に終焉するのではないでしょうか?。それがなぜ、銅鐸終焉の時期が、東海地方は遅れたのでしょうか?。

これは、やはり「異文化をもった侵入者」を想定しないと、解釈できないと考えます。

すなわち、”銅鐸祭祀をもっていた人々のところへ、異文化をもった人々が侵入した。そして銅鐸を破壊して、再利用した。侵入者は、西からやってきたから、銅鐸の分布も、西から東へ移動した。”
ということになります。

このように解釈すれば、すんなりと理解でみます。

いやいや、まだその説には納得できない、という方のために、もうひとつよく知られている話をします。

もし仮に、銅鐸が初期大和政権の権力の象徴であるなら、たとえ途中でその祭祀をやめたとしても、後世まで伝わるだろうし、記録にも残っているはずです。

ところが、大和政権の歴史をもっとも詳しく記しているはずの「古事記」「日本書紀」には、銅鐸の記載が一切ありません。記録に出てくるのは、
後に編纂された「続日本記」「扶桑略記」などです。

”丁卯。(713年=和銅67月)大倭国芋太郡波坂郷の人、大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之を献ず。高さ三尺、口径一尺。其の制、常に異にして、音律呂に協(かな)ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。”(「続日本記」巻九、元明天皇)

”戊辰(668年=(天智7年)正月十七日。近江国志賀郡に於て崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口を掘り出だす。高さ五尺五寸。又奇好の白石を掘り出だす。長さ五寸。夜、光明を放つ。”(「扶桑略記」第五、皇円撰)

このように、7~8世紀に、銅鐸出土の記録が出てきますが、いずれも、「常に異にして」「奇異の宝鐸」など、いかにも今まで見たことも聞いたこともない宝物を扱うがごとしです。つまり、7~8世紀の人々は、銅鐸のことをまったく知らなかったということです。

もし銅鐸が初期大和政権のものであったとしたら、たとえそれが500年前に途絶えた祭祀だったとしても、何がしかの伝承は伝えられていたはじです。ところが、7~8世紀の大和政権の人々は、その存在すら知らなかったのです。

このことからわかることは、「銅鐸は、初期大和政権のものではなかった」ということです。

では銅鐸は、誰のものだったのでしょうか?。

そして、銅鐸を破壊して消滅させてのは、誰だったのでしょうか?。

次回、考えていきます。

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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎

では、あらためて「埋納」について、考えてみましょう。

まず、状況の整理です。


”埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。”
(Wikipediaより)

銅鐸は祭祀に使用されたと考えられますから、住居からの出土はないのはわかりますが、墳墓の副葬品としての出土がない、というのは、きわめて特徴的です。銅剣、銅矛とは、異なる扱いだったということです。なお
”九州においては、主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない周辺部で見つかってます。また原田(はるだ)遺跡出土小銅鐸のように、副葬品として見つかる例もあります。”(福岡市博物館HP「九州の銅鐸」より)。

つまり、九州における銅鐸の扱いは他の地域とは異なるわけで、ポイントの一つと考えます。

では、なぜ銅鐸は埋納されたのか?、です。Wikipediaに記載されている理由を見てみましょう。

a.平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)
<寸評>
もっともらしい説ですが、”使われなくなって忘れられた”というのも、ずいぶんと間抜けな話です。青銅器といえば、今で言えばレアメタルのように高価な超貴重品だったわけで、溶かして他の物を作ることも可能です。簡単に忘れ去られるようなものではないでしょう。

b.米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかという説
c.大変事にあたり神に奉納したのではないかという説
d.地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説
<寸評>
こうした風習は、東南アジアでもあったとのこで、ありえるでしょう。ただし、ここでも、青銅器という貴重品を一つ二つならいざしらず、大量に埋めたままにしとく、というのはもったいない気はします。特に島根県の荒神谷遺跡などは、銅鐸6個のほか、銅剣358本、銅矛16本も一緒に埋納されていました。これだけの資源を、将来の利用も何も考えずに単に埋納した、というのも、しっくりきませんね。
いや、祭祀のときに取り出し利用したのだ、との考えもありますが、それではaと同じで、なぜ大量に埋納されたまま放置されたのか、の説明がつきません。

e.文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説
<寸評>
解説にも”そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である。”とあります。またもし仮に授与されたものだとしても、なぜ埋納したのか、の疑問は残ります。授与されたなら、恭しくどこかに飾るのが、普通だと思いますが・・・。


f.政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)

<寸評>
祭祀の象徴を突然中止するほどの「政治的変動」とは何でしょうか?。よほどのことがあったとしか、考えられません。同じ文化をもつ支配者系統内での「政治的変動」考えにくいのではないでしょうか?。


g.銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)

<寸評>
銅鐸が突然消滅したということは、単なる社会変動とは思えません。そうした観点から言えば、異文化をもった外的の侵入があった可能性が高いと考えます。ただし、外敵が攻めてきたときに銅鐸を隠したというのは、考えにくいでしょう。銅鐸埋納場所は、全国どこでもほぼ同様の場所であり、緊急事態のときにあわてて隠したとは、思えないからです。


以上のとおり、どの説も説明しきれない点があります。


では、どのように考えればよいでしょうか?。


確かに、外敵の侵入はあったかもしれません。これについては、次回以降取り上げます。ただし、埋納されている状況が、ほぼ全国同じであるということは、やはり何らかの共通する祭祀や風習などによるものと考えざるをえません。では、それの手掛かりはあるのでしょうか?。


興味深い事例があります。これも春成氏論文に記載されていたものです。

”・東京都府中市人見では、大正時代までは、石に像を彫った塞の神は、祭りが済むと穴を掘って埋めておき、明くる年の祭りの時にはまた掘り出してきれいに洗って祭壇を設けて祭っていた。そしてそれに近いようなことは方々でやっていたという。(「日本文化の形成」(宮本常一)より)

・宮城県船形山神社に神体として伝わる高さ19.4cmの金剛菩薩立像は、古代朝鮮からの渡来仏と推定されているが、平生は山麓に埋めてあり、例祭の日に、別当により秘密の場所から掘り出され、拝殿に安置されるという。(「飛鳥仏の誕生」(久野健)より)

・白川静氏が、代の青銅器がやはり、殷都を遠く離れた辺境の地に埋蔵されていることについて、異族を呪詛し、悪霊を圧服するために呪儀を行った痕跡であると論じ、日本の銅鐸についても論及している。”

このように、日本においても、埋納の風習が近年まであるばかりか、中国においても3000年前において、同様の文化があったとすれば、銅鐸埋納もこうした流れのなかで理解してもいいと考えられます。

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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (7) ~ 従来説では説明できない「埋納」「破壊」「消滅」の謎

ここまで、銅鐸を出土地分布からみてきました。

ここから、いよいよ銅鐸の謎に迫ります。銅鐸に関しては、埋納の謎、破壊の謎、消滅の謎など、多くのことがわかっていません。それをみていきましょう。

銅鐸は、紀元前4世紀頃、中国、朝鮮半島日本にもたらされ、次第に大型化しますが、3世紀頃、突然と姿を消します。ではなぜ、あれだけ発展し、芸術的に見ても美しいものが、突然無くなったのでしょうか?。

銅鐸の埋納、消滅について、論文を紹介いたします。春成秀璽氏(国立歴史民俗 博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授)。によるものです。1981年に書かれた古い論文の一部であり、その後、島根県荒神谷遺跡銅鐸など、画期的な発見が相次ぎ、そうした成果が加味されてないのですが、逆に、かつての学会の見解を知るのにちょうどよくまとまっており、興味深いです。以下「銅鐸の時代」(春成秀璽)より、一部要約です。

"<用途>
・銅鐸は、稲魂信仰の産物である。

<保管場所>
・通常は、稲魂とともに、高倉に安置されていた。

<埋納>
・干ばつ・豪雨・虫害など稲魂をおびやかす非常事態の発生時においては、稲魂を守護できないかもしれないという恐怖感・不安感が、稲魂の座す平野へのいくつかの通路のうち、彼らがその時々に邪霊の侵入路と推断したその入口付近で銅鐸祭祀を行った後埋納された。
・銅鐸の本来の使用・保管状態の否定、おそらく奉献の意味を表そうとしているようにとれる。(銅鐸が丘陵の尾根上つまり境界線上ではなく、その少し手前に埋納されている。)。

<破壊>
3つの説がある。
a.稲の不生育・不稔熟は、稲魂の逃亡を意味する。だから、銅鐸の役割が稲魂の守護にあるとすれば、その責務を果たせなかった際はその罪を問われ、すでにその機能を喪失したものとして破壊措置がとられた。
b.破壊の主体者を他集団に求める。
c.破砕後一定の形状にそろえようとする意図がうかがわれることから、破砕後に再利用した。銅鐸祭祀の終焉時には、地上に遺されていた銅鐸は、むしろ積極的に破砕されて、他の器物に改鋳された。

<鋳造地域>
・畿内や特定の農業共同団体だけが製作にかかわった。

<配布>
・畿内、時に尾張から諸地方の農業共同体に配布・使用された。

<終焉>
・「聞く銅鐸」については、鏡の入手による影響のひとつとして、古式銅鐸の埋蔵がうながされ、銅鐸のもつ意味は忘れられた。
・「見る銅鐸」については、農業共同体間に共通の利害なり同盟関係が成立すると、銅鐸はそれを保護する役目をも課せられる。そうした関係が拡大され畿内中枢部を盟主とする勢力となった場合は、銅鐸は畿内社会を守護する神器として位置づけられる。
自然勢力との対立は、九州・吉備・出雲・東海地方等の諸勢力との対立と表裏一体ととらえられた。そうした勢力との関係も加わり、非常時には、(外部勢力との)境界で祭祀が行われ、埋納された。

<銅鐸祭祀から古墳祭式へ>
・首長権の確立にともない、稲穂信仰から首長霊信仰へと変貌し、首長が銅鐸に代わり穀霊の守護・穀倉の管理の任にあたることとなる。
・三角縁神獣鏡を賜与することは、配布者の霊魂の分与を意味し、畿内中枢勢力と、地方首長との同盟関係は、拡大され、それとともに。境界線の意味(銅鐸祭祀)は失われた。
・そうして、首長霊信仰に基づく「古墳」祭祀へと発展していった。”

銅鐸を、農業との関わりのなかで、「稲魂信仰の象徴」としているのは面白い表現です。通常は高倉に保管されていたが、非常事態に際し侵入を阻止するために境界線上に埋納された、との説は、説得力がありますね。

何と言っても注目は、畿内勢力が同盟関係の象徴として配布していたが、畿内勢力が拡大して同盟関係が強化されるにつれて、三角縁神獣鏡の配布に代わり、やがて古墳祭祀へと発展していった。”としている点です。つまり、銅鐸は、初期大和政権のものであった、ということです。

これが当時の一般的な見解のひとつであったわけです。当時の考古学的成果から見れば、確かにこれで「なるほど」と思ったことでしょう。

ところが、その後、島根県荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡における大量の銅鐸・銅剣の出土、九州北部における銅鐸鋳型や銅鐸そのものの出土など、画期的な発見が相次ぎ、この説も、根本的な見直しをせざるを得なくなったことは、皆さんご存知のとおりです。

<荒神谷遺跡出土の銅鐸・銅剣>
荒神谷遺跡2 
(Wikipediaより)

まず、ここまでお話ししたように、銅鐸の分布は、古い時代から、

山陰(出雲)・越前(福井) ・瀬戸内海地方 ⇒ 畿内 ⇒ 東海地方

となってます。


論文では、銅鐸は初期大和政権が同盟関係を示すために配布した、としてます。すると、同盟関係を初めに結んだのは、山陰・北陸・瀬戸内海地方となり、畿内に近い周辺勢力はそれに遅れたことになります。普通であれば、まずは畿内周囲の勢力との同盟を先にするはずです。瀬戸内海地方はいいとして、山陰・北陸地方との同盟が先とはどういうことでしょうか?。


いやいやそれは、たまたま島根で荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡での大量発見があったからだ、という人もいるかもしれません。


では、九州出土の銅鐸、銅鐸鋳型は、どのように説明するのでしょうか?。九州北部で銅鐸が生産されていたことは明らかです。しかもその銅鐸は、出雲出土の銅鐸と同笵で、いずれも九州北部産とされてます。初期大和政権が配布したとすれば、おかしな話です。実際、論文中にもこのことは補足として書かれており、今後の検討課題としてます。


やはり真実を究明するにあたっては、今までの固定観念を一度取り払い、最新のデータを基に、考える必要があります。次回から、あらためて考えていきます。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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