隋書倭国伝を読む その4~ 二元政治は古代日本からの伝統だった!?

前回、書ききれなかったのですが、もうひとつポイントがありました。
その部分の現代訳を再掲します。

【現代訳】
帝は担当の役人に倭(原文は俀(たい))国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「倭(俀)王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。」
高祖文帝は、
「それは、はなはだ道理のないことだ。」
と言って、俀国を諭してこれを改めさせた。
【解説】
具体的に何を言っているのか、わかりにくい文章です。
実は、この文章は、魏志倭人伝のつぎの文章を想起させます。
そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。祭祀を司り、人々を治めることができた。もう歳は、三十代半ばで、夫や婿はいない。弟がいて、国の政治を補佐している。卑弥呼が王になってから、見たものはほとんどいない。召使いの女たち千人が、身の回りの世話をしている。男はひとりだけ、食べ物や飲み物を差し入れたり、命令を伝えたりするため、出入りを許されている。

隋書俀国の場合は、姉→兄に代わってますが、同じ図式です
これは、単なる偶然でしょうか?。そうではないはずです。なぜなら、編者は、読者が、魏志倭人伝のこの文章を知っていることを、前提として書いてるからです。
このことを考え合わせると、この文章は、兄は祭祀を担当し、実務は弟が担当するという二元政治体制であったことを、示していると言えます。そして、邪馬台国の時代から、二元政治が伝統的に行われてきた、ということになります。

考えてみれば、そもそも蘇我氏による実質的な支配、その後の藤原氏による支配、さらに武家社会における朝廷と幕府の関係も似たような政治体制です。現代日本においても同様とみれば、こうした日本古来からの伝統を今も引き継いでいる、と言えるかもしれません。

【現代訳】
中央官の位階に十二等級がある。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信といい、人員に定数はない。
軍尼(くに)が百二十人いるが、これは中国の牧宰(ぼくさい)のようなものである。八十戸ごとに伊尼翼(いなき)を一人置く。これは隋の里長のようなものである。十人の伊尼翼が一人の軍尼に所属している。
【解説】
有名な冠位十二階の話です。聖徳太子が定めたと習いましたよね。ただし現在では、疑問がもたれているようですが。
ポイントとしては、位階の順序が、聖徳太子の定めたというものとは異なることです。ここに記載されている位階は、儒教の五つの徳目である、仁義礼智信の順番どおりですが、聖徳太子の定めたというものは、
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智
の十二階です。
「たかが順序の違いじゃないか。」との声も聞こえてきそうですが、どうでしょうか?。これは隋の役人が、遣隋使など日本からの使者などから聞いた話でしょう。冠位というものは、順序が命です。それを、単純に、隋の役人が聞き間違えた、とか、日本からの使者がいい加減に言ったというのは、考えにくいのではないでしょうか?。
となると、これは畿内ではなく、別の王朝、すなわち九州王朝の制度を指している可能性はあります。

聖徳太子絵図(ただし、聖徳太子を描いたものではないという説もあります。)
Prince_Shotoku.jpg

同様のことは、つぎの軍尼(くに)と伊尼翼(いなき)についても言えます。古事記、日本書紀などの史書には、これらの役職名は出てきません。なぜかについて、いろいろ理屈はつけられるものの、九州王朝の役職と考えればすっきりします。



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隋書倭国伝を読む その3 ~ 倭国王の多利思北孤(たりしほこ)とは推古天皇なのか?


いよいよ隋の時代の話です。日本で言えば、聖徳太子の時代ですから、私たちにとってもなじみのある時代の話ですね。

現代訳】
隋の文帝の開皇(かいこう)二十年(600年、推古天皇8年)、倭(原文は俀(たい))王で、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)と号している者が、隋の都大興(たいこう)(西安市)に使者を派遣してきた、文帝は担当の役人に俀国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「俀王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。」
高祖文帝は、
「それは、はなはだ道理のないことだ。」
と言って、俀国を諭してこれを改めさせた。
俀国王の妻は、雞弥(きみ)と号している。王の後宮には、女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。
【解説】
「姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)」という俀国王が登場します。はたして、誰のことでしょうか?。
普通に考えると、推古天皇の時代ですから、当然推古天皇ということになります。しかしながら、推古天皇の本名は、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)で、まったく合致しません。また多利思北孤という名前から言って男性でしょうし、実際、雞弥(きみ)という妻がいた、とあります。つまり間違いなく男性です。
なお、多利思北孤は、一般的には、多利思孤として、たりしひこと読みますが、原文では多利思孤となっているとの古田武彦氏の説を採用し、多利思北孤(たりしほこ)とします。

隋書俀国伝の原文です。
隋書俀国伝4

推古天皇の絵です。
推古天皇


あるいは、多利思北孤とは、聖徳太子のことでしょうか?。当時、実質的に政治を動かしていたのが、聖徳太子だとしたら、あり得るかもしれません。
ところが、聖徳太子の本名は、厩戸(うまやと)であり、全く表音が違います。その他の名前である豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)も、同様です。
さらに、聖徳太子の妻に、雞弥(きみ)に該当する女性はいません。

また、仮に多利思北孤を推古天皇とすると、太子の利歌弥多弗利(りかみたふり)は、聖徳太子になりますが、これも意味不明です。「ワカミタヒラ=稚足あるいはワカミトホリ=若き世嗣」の誤りか」との説もありますが、苦し紛れの解釈としかいいようがありません。
さて、それでは以上の事実は、何を意味しているのでしょうか?。

「いやいや、隋書が、間違えたのだ。」とか、「だから中国史書は信用できないのだ。」と話をもっていく方がいますが、どうでしょうか。もしそういう考え方ですべて解釈しようとするなら、そもそも中国史書を研究する意味は、なくなってしまいます。
まずは、別のアプローチを考えるべきでしょう。

では、どのように考えるべきかですが、今までのブログを読まれている方は、おわかりかと思います。
宋書倭国伝の倭国と、隋書俀国伝の俀国が同じ系統の王朝であるなら、当然の帰結として、宋書倭国伝の倭の五王と、隋書俀国伝の多利思北孤は、おなじ系統となります。
そして、宋書の倭国は、博多湾岸を本拠とした邪馬台(壹)国と同じ系統の王朝すなわち九州王朝となれば、当然隋書の俀国も、九州王朝となります。

すこし説明が、長たらしくなりましたが、ようは、隋書俀国伝の多利思北孤は、邪馬台国から続いてる九州王朝の王である、ということです。
つまり
邪馬壹国(卑弥呼)
   ↓
倭国(倭の五王)
   ↓
俀国(多利思北孤)
いう流れです。

このように考えれば、すっきりと説明できます。

もうひとつポイントがあります。「姓は阿毎(あま)」とあり、姓をもっていたことがわかります。このことから、この多利思北孤は、阿毎=海人(あま)族出身であり、この阿毎=海人とは天(あま)のことではないか。」という仮説を立てています。
「あま」は、日本古代史において、頻出する言葉です。
天照大神(あまてらすおおみかみ)、天の岩戸、また島根県隠岐郡には海士(あま)町が、対馬には阿麻氐 (あまてる)神社があります。
となると、天国もあまくに」と読むべきではないのか?という話になります。これらの話が、以前のブログでお話しした「天国とは、どこのことなのか?」を解くカギになっていきますが、詳細は、回を改めてお話しします。

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隋書倭国伝を読む その2 ~ 倭国が邪馬台国から続く九州王朝である根拠とは?

今回から、本文にはいります。

【現代訳】
倭(原文は俀(たい))国は、百済・新羅の東南方、海路・陸路で三千里のところにある。大海の中の山の多い島に住んでいる。
三国のの時代に、通訳を伴い中国に入朝した。三十余国あって、それぞれの首長はみな王と名乗っていた。里数を計ることを知らず、距離を計るには、日数で数える。
国の境界は、東西は五か月行程、南北は三か月行程で、それぞれ海に至る。地形は、東の方は高地で西が低い。邪靡堆(やまたい)に都を置いている。これが「魏志」に書かれているところの邪馬臺(やまだい)である。
昔から「楽浪郡の境界や帯方郡治から一万二千里離れていて、会稽郡の東方にあたり、儋耳(たんじ)に近い。」と言われている。
【解説】
冒頭、俀国の位置が記載されています。
国の境界の記載から、国全体の範囲がわかります。東西五か月、南北三か月行程とありますが、宋書倭国伝に出てきた海北と衆夷の国々とほぼ同じと考えてよいでしょう。
俀国領域図
俀国領域



そして都として、邪靡堆(やまたい)の名前が出てきます。これが、「魏志倭人伝の邪馬臺(やまだい)と同じである。」と。
これをもって、魏志倭人伝にはもともと邪馬臺国と記載されており、それを書写したときに邪馬壹国と書き誤ったとする説(誤写説)の根拠とする方もいます。
しかしながら、あくまで隋書の読者は当時すなわち隋の時代の人々であり、当時は邪馬臺国と表記するのが一般的であったことを考えると、そうとは言えないのではないでしょうか?。このテーマは、いずれ詳しくお話しします。

【現代訳】
後漢の光武帝の時に、使者を派遣して中国に入朝し(57年)、使者は大夫と自称していた。安帝の時にも使者を派遣して朝貢し、「俀奴国」といった(107年)。恒帝(在位146~167年)・霊帝(在位167~189年)の頃には、この国に戦乱がおこり、次々と攻め合って、何年もの間、国全体の王が定まらなかった。
一人の女子がいて、名を卑弥呼といい、神霊に通じた巫女(みこ)で、人々を心服させていた。そこで人々は、みなで卑弥呼を王として立てた。卑弥呼には弟がいて、卑弥呼を補佐して国を治めていた。卑弥呼には侍女が千人もいたが、卑弥呼の顔を見たことのある者はまれであった。ただ男が二人だけ、卑弥呼に食事を運び、外からの言葉を伝える役を務めていた。
卑弥呼の居処には、宮殿、物見台、城囲いがあって、武器をもった兵士が警護にあたり、取り締まりは厳重である。三国の時代の魏から南北朝の斉(せい)・梁(りょう)の時代に至るまで、代々中国と交渉があった。
【解説】
後漢書と同じ内容です。後漢書では「倭奴国(いどこく)」でしたが、ここでは倭→俀へ変わり、「俀奴国(たいどこく)」となっています。
その後、魏志倭人伝とほぼ同じ内容が続きますが、最後に注目です。
「三国の時代の魏から南北朝の斉(せい)・梁(りょう)の時代に至るまで、代々中国と交渉があった。」
とあります。この記載は、邪馬台国の卑弥呼の時代から、倭の五王の倭国、さらに現在の隋の時代にいたるまで、代々交流があったこと、さらにそれらの王朝は、一貫して同じ系統であることを、示していると言えます。
つまり、邪馬台国が北九州にあれば、倭の五王の倭国、さらに隋と交流した王朝も、北九州にあった、すなわち九州王朝であった、ということになります。


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隋書倭国伝を読む その1 ~ なぜ倭国伝(わこくでん)ではなく俀国伝(たいこくでん)なのか?

今回から、隋書倭(原文は俀(たい))国伝を取り上げます。前回まで取り上げた宋書倭国伝より、200年ほど時代は、下ります。実は、この二書の間には、梁書をはじめとして、倭国に関する史書がいくつかあるのですが、内容が重なるものが多いので、今回は割愛します。

隋書は、本紀5巻、志30巻、列伝50巻からなり、顔志古らにより編纂され、656年に完成しました。倭国に関する記述は、列伝第46条東夷のなかにあります。

隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)と呼ばれてますが、実は、原文には、倭国との記載はなく、すべて俀国(たいこく)となってます。しかしながら、通常は倭国の書き誤りとされています。
どこかで聞いた話ではないでしょうか?。そうです。魏志倭人伝における邪馬壹国→邪馬台国への安易な原文改定です。そのさいも書き写しの際の書き誤りということになっており、ほとんどの方は、その事実すら知りません。詳しくは、以前のブログ
「邪馬台国」という国名は存在しなかった!?(2015/3/22号) 」
を参照ください。

隋書俀国伝の場合も、全く同様のことが起こってます。
ここでは、原文どおり、隋書俀国伝とします。

隋書俀国伝の原文です。

隋書俀国伝2

では、俀国(たいこく)とは何なのか、です。詳細は、回を改めてお話ししますが、結論を先に言うと、「大倭国(たいいこく)」のことです。では大倭国とは何か、ですが、もとは倭国(いこく)であり、それが時代を経た美称として、大倭国となったと考えられます。つまり、

倭国(いこく)
 ↓
大倭国(たいいこく)
 ↓
俀国(たいこく)

となります。
これだけだと、わかりにくいですが、以前お話ししたように、
邪馬壹国(やまいこく)の壹国(いこく)=委国(いこく)
ですから、これを加えると、

委国(いこく)=壹国(いこく)
 ↓
倭国(いこく)
 ↓
大倭国(たいいこく)
 ↓
俀国(たいこく)

となります。
そしてこの俀国(たいこく)が、邪馬臺国(やまたいこく)の臺国(たいこく)と共通していることに注目していただきたいと思います。つまり、ここからも

邪馬国(やまいこく)
 ↓
邪馬国(やまたいこく)

の流れが、見てとれます。

それでは、なぜわざわざ俀の字を使っているのでしょうか?。
それについては、中国人学者の張莉氏(同志社女子大学准教授)が、以下のとおり述べてます。
「俀もまた、一方で「大倭(たいヰ)」の音を表しながら、「女」を字中に含ませることにより、卑弥呼の女王国を彷彿とさせる意味を含ませた語であると思われる。繰り返し述べるが、このような修辞法は古代中国では、古くより多く行われている。」(「倭」「倭人」について、立命館大学白川静東洋文字文化研究所紀要第七号より)

なかなか説得力のある考え方に思われますが、いかがでしょうか?。

以上、少し話が複雑になってしまいましたが、詳細は、いずれお話しします。
ここでは、隋書の原文には、倭国(わこく)ではなく、俀国(たいこく)と書かれていることを、頭の片隅にいれておいてください。

次回から、本文に入ります。


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宋書倭国伝を読む その3(最終回) ~ 倭国が征したという東方の毛人の国々とはどこにあったのか?

宋書倭国伝の最終回です。


順帝の昇明二年(478年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。
「わが国は遠く辺地にあって、中国の外垣となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野を超え川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五カ国を征服し、西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、海を渡っては北の九十五カ国を平定した。
皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠く広がった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の偉業を継ぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして、中国の天子をあがめしたがおうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。
【解説】
武は、上表文を、中国の皇帝に奉ります。中国皇帝に対し、いかに忠義を尽くしてきたかを切々と訴える気迫が、伝わってきます。
各地を征服した、とありますが、海を渡った北の国々とは、九州より北、朝鮮半島の南半分あたりの国々でしょう。
西方の衆夷の国々とは、西日本とみていいでしょう。
では、毛人の国々とは、どこにあった国々のことでしょうか。

漢字の使い方から言って、毛深い人々をイメージします。
実は、今後お話しする中国史書「旧唐書日本国伝」のなかに、
「その国界は、東西・南北それぞれ数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。」
との記載があります。
西界の海は東シナ海、南界の海は太平洋のことでしょう。東界と北界の大山とは、日本アルプス を指すものと思われます。その外に毛人の国がある、というのですから、毛人の国々とは、関東以北にあった国々のことになります。実際、群馬県、栃木県を含むエリアは、毛野と呼ばれていました。
また古くは、蝦夷のことを、毛人と記していたことも、根拠になります。

それぞれの、エリアを推測しました。

倭国が征した国々

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠を尽くす美風を失わされた。船を進めようとしなくても、時には通じ、時には通じなかった。私武の亡き父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声を上げて奮い立ち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、そのとき思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息でなるはずの功業も、最後のひと押しがならなかった。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。
【解説】
ここから、高句麗についての話題になります。倭国の友好国である百済を侵略しようとし、さらに中国への進路を妨害していると、訴えます。
似たような話が、以前出てきましたね。そうです、卑弥呼の時代、魏への使いが、公孫淵によって妨害されました。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?(2015/5/16号)」
を参照ください。 

また、注目すべきは、武の父済と兄興は、高句麗との戦いで戦死した、と言っていることです。前回、一般的に、済は允恭天皇、興は安康天皇と比定されていると、お話ししました。ところか、古事記、日本書紀とも、両天皇が、高句麗との戦いで戦死したとの記載はありません。このことからも、倭の五王を、天皇に比定するのは、無理があると言わざるをえません。
そもそも、両天皇の時代に高句麗と戦ったとの記載はないし、さらに中国に対する朝貢の記載も、ないに等しいです。このことは、何を意味するのでしょうか?。


しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱をしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節を励んでいると。」
そこで順帝は詔をくだして武を、使時節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)新羅(しらぎ)任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)六国諸軍事(りっこくしょぐんじ)・安東将軍・倭王に任命した。
【解説】
戦いにかける思いは、鬼気迫るものを感じます。そして中国皇帝が後ろ盾にいることを示すために、自らへは開府儀同三司(かいふぎどうさんし)という役職、部下へも官爵を切望します。
結果として、中国皇帝は、武に対し、使時節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭王に任命します。
開府儀同三司の願いはかなわず、また 百済を入れることも認められませんでしたが、安東将軍と、大が新たに付け加えられました。半歩前進した、というところですが、武の心中は、いかばかりだったでしょうか?。
ちなみに、上表文は、中国の皇帝に宛てたものですから、当然のことながら、漢字で書かれていたことになります。つまり、この時代、日本に漢字は伝わっていたということです。卑弥呼の時代も同様だったと考えるのが、自然でしょう。

以上で、宋書倭国伝は終わりです。
次回から、時代は 200年ほど下り、隋書俀 国伝(ずいしょたいこくでん)を、取り上げます。

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宋書倭国伝を読む(その2)~倭の五王とは本当は誰だったのか?

では、倭の五王とは、具体的に誰なのでしょうか?。

学界では、さまざまな説があるものの、おおむね以下のとおり各天皇に比定しています。

は、履中(17代)、もしくは仁徳(16代)、
           もしくは応神(15代)
は、反正(18代)、もしくは仁徳(16代)
は、允恭(19代)
は、安康(20代)
は、
雄略(21代)

歴史の教科書でも習いましたよね。でもずい分と、わかりにくて覚えにくいなあ、と思いませんか?。なぜなら、同じ名前の人が、一人もいないからです。

比定した根拠を例示すると(「失われた九州王朝(古田武彦著)」より)、
・・・履中説は、履中の本名である去来穂別
    (イサホワケ)の第二音「サ」を「讃」と表記
    
した。〈松下見林説〉
  ・・・ 仁徳説の場合は、仁徳の本名である大鵜鶴
    (オホササギ)の第三、四音の「サ」(または
    「ササ」)を「讃」と表記
した。〈吉田東伍説〉
・・・反正説は、反正の本名である瑞歯別
    (ミズハワケ)の第一字「瑞」を中国側が
    まちがえて「珍」と書いてしまった。
    
〈松下見林説〉
・・・允恭の本名である雄朝津間稚子
    (ヲアサツマノワクコ)の第三字「津」を
    中国側でまちがえて「済」と書いてしまった。
    
〈松下見林説〉
  ・・・允恭の第三、四音の「津間ツマ」は「妻ツマ」
    であり、この音「サイ」が「済」と記せられた。
    
〈志水正司説〉
・・安康の本名である穴穂(アナホ)がまちがえ
    られて「興」と記せられた。
松下見林説〉
  ・・・「穂」を「興」(ホン)とあやまった。
    〈
新井白石説〉
・・・雄略の本名である大泊瀬幼武
    (オホハツセワカタケ)の第五字(最終字)
    「武」をとった
。〈松下見林説〉
などです。
最後の雄略が武というのは、なんとなくわからなくもありませんが、あとはずい分とこじつけているように思えるのは、私だけでしょうか?。

倭の五王の系譜と天皇の系譜を比較すると、下図の通りです。なお、珍と済の関係は、宋書倭国伝には書かれていないのでわかりません。しかし後に書かれた梁書倭国伝に、同様の記載があり(珍は弥と表記)済は珍(弥)の子とされてるので、そのとおりで間違いないでしょう。


倭の五王系譜

武は雄略天皇で異論がないとされているので、それを基に考えても、系譜のうえで、ぴったりとはあてはまりません。済を珍の弟とすれば、あてはめることは可能ですが、梁書倭国伝を見る限り、無理やり感は否めません。その他矛盾は多々あり、これで納得しろと言われても、はいそうですか、とはとてもじゃないが言えません。

それでは、なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?。

答えは、シンプルです。なんのことはない、出発点が間違っているのです。つまり、始めに、「倭の五王=天皇」と決めつけ、当てはめようとしているところに、間違いがあるのです。
本来なら、倭の五王の系譜や時代を基に可能性のある系譜を探し、そこに該当者がいなければ別の系譜を探すのが、科学的アプローチでしょう。それを結論ありきで検討してますから、無理が出るのも致し方ありません。

そもそも、日本書紀には、倭の五王の話が出てきません。これだけ熱心に中国皇帝に対して官職を求め、ほぼ願いがかなったわけですから、当然誇らしげに書くでしょう。ところが、その手の話は、一切ありません。

では、具体的に誰なのか?です。

前回宋書倭国伝の倭国は、邪馬台国を系統にもつ勢力(古田武彦氏のいう九州王朝)である、という話をしました。となれば、倭の五王とは、当然その九州王朝の王ということになります。
そして九州王朝に、讃、珍、済、興、武という一字の名前をもつ王がいた、ということです。

それに対して、「九州王朝など、ほんとうにあったのか?」という疑問が湧くでしょう。
その疑問に対しては、「宋書倭国伝の倭国がどこにあったのか?。」を考える必要があります。九州にあったのであれば、九州王朝があったことになります。それがはっきりすれば、倭の五王の正体も明らかになる、ということです。
そしてそれは、今後、少しずつ、明らかになっていきます。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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