旧唐書日本国伝を読む その1 ~ 倭国と日本国が別の国である決定的な証拠!

前回は、旧唐書倭国伝を見ました。今回は、それと対比の関係となっている旧唐書日本国伝を見ていきます。

【現代訳】
日本国倭国の別種である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。あるいは、
「倭国では、倭国という名が雅美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ。」
とも言われるし、また
日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した。」
とも言われる。
日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が広いと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に答えようとはしない。だから中国では、彼らの言うことがどこまで真実を伝えているのか疑わしい、と思っている。また
「その国境は、東西・南北数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって境界をつくっている。その向こう側が、毛深い人の住む国なのである。」
とも言う。
【解説】
前回に続き、今回も冒頭に衝撃的な文章が出てきます。
「日本国は、倭国の別種である。」
と。
ここでは、日本国倭国は明らかに別の国であり、かつ倭国を中心として位置づけています。
そして、日本国の名前の由来として、
「日の出の場所、つまり東にあるから」
あるいは
「倭国の名前が雅びやかでないから」
と、二つの理由を挙げています。
そして、歴史的経緯として、
「日本は昔、小国だったが、倭国を併合した」
としています。
これはどういうことでしょうか?。
素直に読めば、「もともと倭国という国があり、そのなかのひとつの小国であった国が、倭国を支配した、つまり政権交代が起こり、国名を日本国と改名した。」
ということでしょう。

ここで、これまでこのブログを読まれている方はピンとくると思います。
つまり、もともと
「倭国=九州王朝」
であり、それが
「日本国=畿内(大和朝廷)」
にとって変わられたということです。
なお、読みようによっては、
「もともと倭国という国があり、日本国に改名した。それを小国が支配した。」
とも解釈できますが、全体の流れとしては大同小異でしょう。

いずれにせよ、前回、倭国の記載が以後史書に出てこなくなる、とお話ししましたが、その理由がおわかりになるかと思います。ようするに、倭国が消滅した、ということです。

面白いのは、日本国の人が、自惚れが強く不誠実な態度だったので、疑いをもった、と記載していることです。今まで倭国の人に対して、このような表現をしたことはありませんでした。
ここからも、倭国と日本国が別の国であることがわかります。

倭国から日本国への変遷を地図で表すと、こんなイメージです。

<前>倭国
倭国領域 (2) 

<後>倭国から日本国へ
倭国から日本国へ

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旧唐書倭国伝を読む ~ 倭国はかつての倭奴国(いどこく)だった!

今回から、隋(581-618年)の次の王朝である唐(618-907年)について書かれた史書「唐書」に入ります。
唐書は、後晋の945年の成立です。
唐書といっても、面白いことに、旧唐書とそれから百年ほどたって書かれた新唐書の二つがあります。
二つに分かれた理由は、旧唐書が、初唐にかたよって書かれており、晩唐は薄いなど、多くの問題がありました。そのため北宋時代に新唐書が編纂されることになったというわけです。

そして注目すべきポイントは、旧唐書のなかに倭国伝と、日本国伝の二つが、分かれて編纂されていることです
つまり別々の国として扱われているということです。

今回は、まず倭国伝です。

【現代訳】
倭国は、古の倭奴国である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の大きさは、東端から西端までは歩いて五ヶ月の行程、南北は三か月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
この国の集落には城郭はなく、木で柵をこしらえ、草で屋根を葺いている。その周辺の五十国余りは、すべて倭国に所属している。倭国王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国をとりしまらせている。皆はこの一大率を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。
【解説】
冒頭にいきなり衝撃的な記載が出てきます。
「倭国は、かつての倭奴国なり。」
と。
倭奴国とは、例の九州博多湾岸にある志賀島から出土した金印に刻印されている「漢委奴国王」の委奴国のことです。
委奴国王をどのように読むかは意見が分かれます。「わのなのこくおう」と読むのが一般的です。すなわち「奴国」=「なこく」という小国とする意見です。
本ブログでは、「かんのいどこくおう」と読むべきであるとお話ししました。詳細は、
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは? (2015/6/12号)”
を参照ください。

どのように読むにしろ、委奴国が博多湾岸を中心とした位置にあることは、邪馬台国畿内論者も異論ないところです。
倭国はもともと委奴国だったということは、つまり倭国はもともと博多湾岸を中心とした位置にあったということになります。
となると、邪馬台国がもともと畿内にあったとする説は、成立しません。邪馬台国畿内説を成立するさせるために残る選択肢は、「もともと博多湾岸にあったが、いつの時点かに畿内に移動した。」とする東遷説です。
もっとも、「だから中国史書は信用できないのだ。」といういつもながらの解釈をする人もいるでしょうが・・・。

また、一大率(いちだいそつ)という言葉が出てきます。今までのブログを読まれた方には、記憶のある言葉でしょう。そうです、魏志倭人伝に全く同じ文章がありました。そして、この一大率は、伊都国に置いたとありました。詳細は、
”魏志倭人伝を読む その5 ~ 倭の政治 いよいよ卑弥呼登場! 謎の国々とは?(2015/5/11号)
を参照ください。
伊都国の位置も、博多湾岸近辺であることは異論がありません。
となると、この記載からも、倭国の都が博多湾岸近辺にあったと考えるのが自然でしょう。なぜなら畿内の王朝が諸国を監視させる組織の中心を、ここまで遠く離れた地に置くことは、考えられないからです。
倭国全体の位置関係を図示しますと、それがはっきりします。

倭国領域図
倭国領域

【現代訳】
倭の地には女性が多く、男性は少ない。かなりの文字が通用している。人々の習俗として仏教を信仰している。だれもが裸足で歩き、ひと幅の布で身体の前後を蔽っている。身分の高い人は錦織のかぶりものをかぶり、一般人はみなさいづちまげを結い、冠や帯は用いない。婦人は無地のスカートをはき、丈の長い襦袢を着、髪はうしろで束ね、長さ八寸の銀製の花を腰の左右に二、三本ずつ下げ、それによって身分の高下の等級を表している。衣服の制(つくり)はかなり新羅のそれに似ている。
唐の太宗(たいそう)の貞観(じょうがん)五年(631年)、倭国王は使者を遣わして、その土地の産物を太宗に献上させた。太宗は倭国からの道のりが長いことに同情し、所管の役人に命じて、毎年貢物を届けなくてもすむように取りはからせ、さらに新州の刺史(しし)高表仁(こうひょうじん)に使者のしるしを持たせて倭国に派遣し、いたわりなつけさせようとした。ところが表仁には、遠国を手なずける外交的手腕がなく、儀礼のいき違いから倭国の王子といさかいを起こし、国書を読み上げることもなく帰国してしまった。
貞観二十二年(648年)になって、倭国王はさらに新羅の来た使者にことづけて上表文を届け、太宗の機嫌をうかがいあいさつをしにきた。
【解説】
風俗については、今までの史書をほぼ踏襲しています。
631年に、遣唐使が派遣された、とあります。それに対して、高表仁を倭国に遣わしますが、王子とケンカしてしまいます。
そして648年の新羅の使者を通じた上表文をもって倭国の話は終わります。
それ以後、中国史書に倭国の話は出てきません。では、その後、倭国はどうなったのでしょうか?。
それは、次回の日本国伝を読むと、明らかになります。

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隋書倭国伝を読む その8(最終回) ~ 聖徳太子の遣隋使はなかった!?

隋書倭(原文は俀(たい))国伝も、最終回になりました。
前回は、「日出ずる処の天子・・」の国書で、隋の煬帝の機嫌をそこねてしまった話でした。はたしてその後どうなったでしょうか?。

【現代訳]
翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎(ぶんりんろう) 裴世清(はいせいせい)を使者として、俀国に派遣した。裴世清はまず百済に渡り、竹島に至った。南方にたん羅(ら)国を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻(つしま)国に至り、そこからまた東に航海して一支(いき)国に着き、さらに竹斯(ちくし)国に至り、また東に行って、秦(しん)王国に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷州(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな俀国に属している。

【解説】
煬帝は、俀国に使者を遣わします。竹島とは、今の竹島ではなく、済州島近辺の島でしょう。たん羅国(済州島)を南に見ながら、竹斯国に到着しますが、竹斯国は明らかに筑紫すなわち北部九州のことです。
さてここで、謎の国名「秦王国」が出てきます。秦王国がどこにあるのか、ですが、文章からみて、竹斯国の東にあったのは間違いないです。ただし具体的な位置は不明です。
日本書紀には、畿内に(隋の)使者が来た、との記載があるので、「秦王国=畿内」とすると話が合います。また、古代より大陸から多くの人々が畿内に来ており、その中に秦氏と呼ばれていた人々がいたこととも符合します。ただし、大和と秦王国という表音は全く異なりますので、大和全体ではなく、秦氏の住んでいた居住地を指しているとも考えられます。
あるいは、山口、広島あたりの中国人の街とも考えられますし、いや、秦王国の表音から、もっと遠くの信濃国という方もいます。
いずれにしろ、秦王国の国名が出てくるのは、この一回きりなので、断定は難しいでしょう。
ただし、秦王国などの国々がどこであれ、竹斯国の東の国々は、すべて倭にくっついて従属している、と書いてあることから、倭国の中心が筑紫であることは、動かし難いと言えます。

なお、今回の第二回遣隋使(607年)について、日本書紀には、「日出ずる処の天子・・」の記載はありませんし、隋の煬帝が不機嫌になった話も出てきません。「格好がつかなかったから、省略したのだ。」などと説明されてますが、どうでしょうか?。
そもそも日本書紀には、第一回遣隋使(600年)の記載がありません。日本の史書に、歴史に残る第一回の遣隋使を書かないなどということが、考えられるでしょうか?。
もし日本書紀の記載が事実であるならば、俀国の遣隋使とは別の話と考えるべきでしょう。

【現代訳】
俀国王は、小徳(しょうとく)阿輩台(あほだい)を数百人の供揃えで派遣して、武装した兵隊を整列させ、太鼓・角笛を鳴らして隋使裴世清(はいせいせい)を迎えさせた。十日たって、また大礼(だいれい)哥多毗(かたひ)を派遣し、二百余騎を従えて、都の郊外まで出迎えさせた。俀国の都に到着すると、俀国王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。
「海を渡った西方に、大隋国という礼儀の整った国があると、私は聞いていた。そこで使者を遣わして貢物を持って入朝させた。私は野蛮人であり、大海の一隅に住んでいて、礼儀を知らない。そのために今まで国内に留まっていて、すぐには会えなかった。今、特に道を清め、館を飾って裴大使を待っていた。どうか大隋国の新たな教化の方法を聞かせてほしい。」
裴世清が答えて言った。
「皇帝の徳の明らかなることは日、月と並び、その恩沢は四海に流れ及んでいる。俀国王は隋の皇帝の徳を慕って、教化に従おうとしているので、皇帝は使者を遣わしてこの国に来させ、ここに宣べ諭させるのである。」
そこで裴世清を案内して館に入らせた。その夜、裴世清は人をやって、俀国の王にこう言わせた。
「隋朝から託された命令はすでに伝達した。どうかすぐに出発の準備をしてほしい。」
そこで俀国は宴会を開いて饗応し、裴世清を送り還した。また俀国の使者を裴世清に随行させて、隋朝に土地の産物を貢納させた。こののち、往来は絶えてしまった。

【解説】
王は、数百人の部下を遣わし、歓待します。そして裴世清 と対面し、恭順の意を示します。煬帝が不機嫌になった話を聞いて、まずいと思ったのでしょう。すでに南朝は滅び、北朝の天下になったわけですから、いたし方ないと思います。
その後、裴世清 を招き、宴を催し、 帰国の際に使者を伴わせて、朝貢します。その後、交流は途絶えたとあります。
さて、遣隋使と言えば、小野妹子(おののいもこ)が有名です。ところが、不思議なことに、隋書には、小野妹子の名前が出できません。出てくるのは、日本書紀です。
書くほどのこともなかった、とも言われますが、小徳の阿輩台や、大礼の哥多毗の名前は書かれています。小野妹子は、大礼だったといわれ、高い身分の人です。普通なら、書かれるのが当然と思われますが。
また、裴世清に対する接待の様子も、まったく異なりますし、裴世清の言葉もありません。かわりに、皇帝からの書をもらってます。
それ以前の疑問として、日本書紀には、なぜか派遣先は、隋ではなく、大唐となっています。
さらに、隋書には、608年の遣隋使をもって途絶えた、とありますが、日本書紀には、 614年に遣隋使を送ったとの記載があります。

つまり、日本書紀の小野妹子らの遣隋使と、 俀国の遣隋使とはまったく話が合っていません。となると二つの遣隋使は別の話、という仮説の信ぴょう性が高まります。


小野妹子絵図(ネットで見つけましたが、出典不明です)
小野妹子

以上で、隋書俀国伝は、終わりです。
次回から、隋の次の王朝である唐について書かれた唐書を見ていきます。

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隋書倭国伝を読む その7 ~ 「日出ずる処の天子」と表現した理由とは?

いよいよ隋書倭(原文は俀(たい))国伝のハイライトです。

【現代訳】
隋の煬帝(ようだい)の大業(たいぎょう)三年(607年)、俀国の王の多利思北孤(たりしほこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
「大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それゆえに使者を派遣して天子に礼拝をさせ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせたいと思ったのです。」
そして倭国の国書には、こう書いてあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりはないか・・・」
煬帝は、この国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
「蛮夷からの手紙のくせに、礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。」
【解説]
知らない日本人がいないほどの、有名なくだりです。歴史の授業でも習いましたよね。国書を出したのは、聖徳太子だと習ったと思いますが。ただ、私としては、なんとなく腑に落ちない感覚を持っていました。
「徳のあるはずの聖徳太子が、どうして相手を怒らせるような礼を失した表現を使ったのだろう?」と。
「当時の日本は、文化が成熟しておらず、中国の風習も知らなったからだ。」などという説明があった記憶がありますが、そんなことがあるのでしょうか。中国との関係は、卑弥呼の時代から倭の五王の時代まで、恭順の意を示すなど、非常に気を使っていたわけで、その歴史を知っていれば、こんな国書を出すはずがありません。何か理由があるとしか思えません。
前回までで、国書を出した倭(原文は俀(たい))国王の多利思北孤(たりしほこ)は、推古天皇ではなく、聖徳太子でもない。九州王朝の王だという話をしました。となると、多利思北孤とは、礼儀もわきまえない傲慢な人だったのでしょうか。

煬帝(569~618年)絵図
170px-Sui-yangdi.jpg

この点に関し、古田武彦氏が、とても鋭い指摘をしています。これには、中国王朝の系統の話が関係している、と。

中国王朝の系統といっても、自分のなかでは、北方遊牧民のチンギス・ハーンが建国した元(1266~1367)が異民族支配した話が有名で、あとは同じ中国人のなかで王朝交代がなされたのか、程度の認識でした。日本で言えば、平家がいて、それを鎌倉幕府が倒して以後、政権が代わりましたが、戦国時代を織田信長が統一し、豊臣秀吉を経て徳川家康の江戸幕府ができるわけです。いってみれば同じ大和民族内での話です。ところが、中国はまったく異なります。
ここで、中国王朝の系統を整理します。

一度、時代をさかのぼります。
邪馬台国の卑弥呼が交流したのは、三国志時代のでした。その魏から禅譲されてできた国が西晋で、魏志倭人伝を書いた陳寿も西晋の役人でした。西晋が滅ぼされたのち建国された国が、東晋(317年~420年)です。そののち、宋、斉、梁、陳と続きます。邪馬台国ののち、倭の五王の時代などを通じ交流したのは、すべてこの系統の国々です。この系統の王朝を、南朝と呼びます。

一方、西晋が滅ぼされたのち、北部については、五胡十六国の、戦乱の時代に突入します。五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五つの北方民族を指します。これらを北魏が統一し(439年)、南北朝時代となります。
北魏が534年に滅亡し、東魏と西魏に分裂します。その後、東魏が北斎に、西魏が北周に代わります。この系統を、北朝といいます。

そして南朝と北朝を統一したのが、北周の流れをくむ隋の楊堅(のちの隋の文帝、煬帝の父)です。
つまり、隋は北朝系ということになります。

南北朝時代(北魏時代)の中国勢力図(Wikipediaより)

320px-Sakuhoutaisei_Early_6C.png 

おおまかな流れは、以上のとおりです。
ようするに、邪馬台国以来、倭国が恭順の意を示してきた南朝が倒され、北方民族系の北朝にとって代わられた、ということです。

さてここで、考えてみてください。俀国王の多利思北孤は、どう考えたでしょうか?。
「長いものには巻かれろ」の例えどおり、変わり身早く、新たな北朝の皇帝におべっかを使ったでしょうか。

皆さんおわかりのとおり、多利思北孤は、滅ぼされた南朝への義を立てました。それが、「日出ずる処の天子・・」の表現だったのです。
天子とは本来中国皇帝のことであり、唯一絶対の存在です。その天子を、俀国王が名乗ったわけですから、煬帝が不機嫌になったのも、当然かもしれません。
逆に言えば、それほどまでに、俀国王の多利思北孤には、南朝に対する忠義心と、「自分は正統な南朝から認められた王だ。」という自負心があったのでしょう。まさに、武士の美学とでもいうべきものを(時代は異なりますが)、感じませんでしょうか?。

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隋書倭国伝を読む その6 ~ 阿蘇山が象徴的に描かれている理由とは?

倭(原文は俀(たい))国の風俗の話が続きます。

【現代訳】
楽器には、五弦の琵琶・琴・笛がある。男も女も、臂(ひじ)に入れ墨したり、顔に小さな印をつけたり、身体に入れ墨したりしており、潜水で魚を捕っている。文字はなく、ただ木に刻み目をつけたり、縄に結び目をつくったりして文字のかわりにしていた。仏教を敬い、百済から仏教経典を求め得るようになってから、はじめて字をもった。占易(うらない)をすることを知ってはいるが、巫女の神おろしの方をより信ずる。
毎年正月一日には必ず射的競技をし、酒宴を開く。その他の季節ごとの行とれる事は、だいたい中国と同じである。倭人は、碁・双六・さいころばくちが好きである。気候は温暖で、草木は冬でも枯れることがなく、緑をなし、地味は豊かで、川や湖が多く、陸地は少ない。首に小さな輪をかけ、紐をつけた鵜(う)を水にもぐらせて魚を捕えさせると、一日に百匹余りもとれる。
【解説】
人びとの生活が描かれています。水に潜り魚を捕る、とありますが、魏志倭人伝にも同様の記載があることから、海での話と考えるべきです。また、陸地が少ないとあることからも、内陸の山地というより、海に近い地域の話であることがわかります。魏志倭人伝の記載については、
「魏志倭人伝を読む  その3 ~倭の風俗 倭人は海洋民族だった!(2015/5/1号)」
を参照ください。

また、鵜飼いの話が出てきます。鵜飼いというと、すぐに長良川を連想してしまいますが、鵜(海鵜)は全国各地の海岸で生息してます。そして北九州の海岸にも多く生息してます。

長良川の鵜飼い
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鵜に関連してもう一つ。実は、神武天皇の父の名前が、日子波限建葺草葺不合(ひこなぎさたけるうがやふきあえず)なのです。
古田武彦氏は、鵜葺草葺は姓ではないか、そして職に関連しているのではないか、との説を提唱してます。詳細はいずれお話ししますが、少なくともなにかしら鵜に関連していたことは間違いないでしょう。神武天皇の東征の出発地は、筑紫の日向ですから、隋書のこの話も、九州北部の話と考えるのが自然です。

【現代訳】
民衆の間では、皿やまな板は使わない。食物を盛るには柏の葉を敷き、手づかみで食べる。人々の性質は素朴で正直であり、雅やかでさえある。女が多く、男が少ない。結婚するときは、同姓を避ける。男女で互いに好き合った者は、すぐ結婚する。新婦が夫の家に入るときは、必ず最初に戸口の火をまたいでから新夫と顔を合わせる。夫人はみだらでなくやきもちをやかない。
死者を埋葬するには、棺と槨(かく)とに収める。親戚客人は遺体の傍らで歌い踊って弔い、死者の妻子兄弟は白布で喪服をつくる。貴人の場合は、三年間、家の外にかりもがりをし、一般民衆の場合は、日を選んで埋葬する。埋葬には、船の上に遺骸を乗せ、地上を綱で引く。遺骸を小さな輿にのせることもある。
【解説】
日々の生活の様子がわかります。結婚については、比較的自由にできたようです。面白いのは、新婦が夫の家に初めて入るときです。新婦が火をまたぐという風習があったとのことです。今でも東南アジアにはあるようです。なお原文では、火ではなく犬となっており、原文による解釈もできますが、長くなるのでここまでにとどめます。

【現代訳】
阿蘇山という山がある。突然噴火し、その火が天にも届かんばかりとなる。人々はこれを異変だとして、そのために祈祷祭祀を行う。如意宝珠(にょいほうしゅ)という珠がある。その色は青で、大きな鶏卵ほどもあり、夜には光を発する。倭人は「魚眼精(魚の眼)」といっている。
新羅・百済では、倭国を大国で珍しい物が多い国と考えて、両国とも倭国を畏(かしこ)み、うやまい、常に使節を行き来させている。
【解説】
阿蘇山の話が出てきます。さて、ここで不思議に思わないでしょうか?。国の象徴的な山として、なぜ阿蘇山なのでしょうか?。
もし飛鳥地方に朝廷があったのなら、活火山や風光明媚な山、あるいは信仰の対象としていた山が、他にもあったはずです。もちろんこのときまでに全国統一していたなら、富士山のことを書いてもよかったでしょう。なぜ阿蘇山なのでしょうか?。
答えは、きわめてシンプルです。阿蘇山が、朝廷にとって信仰の対象として、特別な意味をもっていたからです。
そして当然のことながら、その山はその地方の生活に密着していたはずです。
つまり、 国の朝廷は阿蘇山の近くにあったということに他なりません。

阿蘇山
20140516阿蘇山広域

如意宝珠(にょいほうしゅ)という珠の話が出てきますが、これが難問です。如意宝珠とは、さまざまな霊験を表すとされる宝の珠(たま)のことです。文面から察するに、青い蛍光の性質をもった宝石のことでしょうか?。
青く美しい宝石と言えば、ラピスラズリが有名です。和名は瑠璃で、世界で最初にパワーストーンとして認識された石と言われ、「最強の聖石」と呼ばれてます。古代より装飾品に利用され、あのツタンカーメン王のマスクにも使われています。(Wikipediaより)
ラピスラズリは、福岡県の宮地嶽古墳から丸玉や壺などが出土するなど、他地域の遺跡からも出土してます。となると、この如意宝珠がラピスラズリである可能性はありうると考えられます。
なおラピスラズリは、古代の原産地はアフガニスタンがほとんどなので、西アジアの品々が、当時の日本に入ってきていたことになります。


ラピスラズリの原石

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隋書倭国伝を読む その5 ~ 意外と華やかだった?当時の倭国の生活  

続いて、風俗の話になります。

【現代訳】
倭(原文は俀(たい))国の服飾としては、男子は裙襦(くんじゅ、スカート状のものと肌着)を着ける。袖は筒袖である。履物は編んでつくった浅ぐつの形に似て、漆で固めてあり、足に紐でくくりつける。庶民は裸足が多い。金や銀を使って飾りをつけることは許されない。
「魏志倭人伝」に記された当時は、ひと幅の布を横にまとい、結んでつなぎ合わせ、縫うことはなかった。また、頭も冠を載せず、ただ髪をみずらにして両耳の上に垂らしていただけだった。
隋代になって、
国王ははじめて冠の制度を定めた。冠は色織りの絹でつくり、金銀で綴った模様をつけて飾りとしている。
婦人は髪を後ろで束ね、また裙襦を着けている。スカートにはみな縁どりがある。竹を細く裂いて櫛とし、草を編んで敷物とし、皮を織り込んで敷物の表とし、文様のある毛皮で縁取りをする。
【解説】
服装についてです。男子は裙襦 を着ていた、とあります。つまりズボンではなく、女性のはくスカート状のものを、着用していたようです。前回掲載した聖徳太子絵図を見ると、そのようにも見えます。
金銀を使っての飾りは許されないとありますが、ということは、金銀が豊富で手に入りやすい状況だったといえます。そもそも手に入れることができなければ、わざわざ禁止する必要はなかったからです。
女性については、やや時代は下りますが、高松塚古墳壁画に描かれているような格好に近いと思われます。

高松塚古墳壁画
Takamat1.jpg 

そして冠の制度を定め、金銀で飾っていた、とあります。 もちろん上層部の人びとだけでしょうが、華やかだった様子がうかがえます。当時の服飾というと、前回掲載した聖徳太子絵図を思い浮かべて、地味で質素なものを想像してしまいますが、それとは随分と隔たりがありますね。
金の冠は、福岡県の宗像大社沖津宮祭祀遺跡宮地嶽古墳出土のほか、各地で出土してます。そのなかでも秀逸とされる宮地嶽古墳の金銅透彫冠(竜文の透かし彫り、6世紀末~7世紀はじめ)を、紹介します。
宮地嶽 金銅製龍虎紋様透かし彫り天冠 

冠は、飛鳥地方からは、藤の木古墳から出土してますが、時代はさかのぼります(6世紀後半)。同時代のものとしては、宮地嶽古墳出土の宝冠に匹敵する冠は出土してません。もし 俀国が、飛鳥地方を中心としたものであるならば、その周辺に冠などがたくさん出土したり、どこかに保管されていてもよさそうなものですが、そうした話は聞いたことがありません。もちろん、これから出土する可能性はありますが・・・。

【現代訳】
武器としては、弓・矢・片刃の刀・矛・石弓・槍・斧がある。皮に漆を塗って鎧とし、骨で矢尻(やじり)をつくる。軍備はあるけれども、征服のための出兵はない。王は、臣下を朝廷に集めるときは、必ずきちんと武装を整えた兵隊を整列させ、国の音楽を演奏させる。戸数は十万ほどである。
風俗としては、殺人・強盗・姦淫は死刑、窃盗は、盗品と等価のもので償わせ、償う財産のないものは奴隷に落とす。その他の罪は、その軽重に応じて流刑にしたり、杖刑(じょうけい)に処したりする。
訴訟事件を訊問(じんもん)追求して、罪を承認しない者に対しては、木で膝を抑えつけたり、強弓の弦で項(うなじ)をごしごし引くなどの拷問をする。また争っている者たちに、熱湯の中の小石をつかみ上げさせ、「道理の通らない者は、たちまちやけどをして手がただれる」という。また、甕(かめ)の中の蛇を掴ませ、「不正なものは手をさされる」という。人々はとても無欲でがつがつせず、争いごとはまれで、盗賊も少ない。
【解説】
武器に続いて、刑罰の話です。現代の感覚からみると、ずいぶんと厳しく思えますが、それに関し何も言及されていない ことからみて、当時の東アジアのなかで、普通のことだったと思われます。
尋問の方法も、拷問であり、自白の強要につながりかねないやり方です。
ショッキングなのは、争いの解決方法です。双方の言い分を聞いたうえで、大岡越前風の裁きをすることを想像してましたが、最後は、言ってみれば占いのようなやり方に頼るとのことです。このようなやり方だったなら、いわれのない罪をかぶせられた人びとが、おおぜいいたのではないでしょうか?。
ただし、争いごとはまれで、盗賊も少なかったとのことで、少しほっとします。ようは、
そもそも争いごとや、犯罪を疑われることに巻き込まれるなという思想であり、そのような思想が浸透していたからこそ、平和な社会だったとも解釈できます。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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