三国志魏志東夷伝序文を読む 後編 ~ 長老の説いた「異面の人」とは誰を指しているのか?

前編では、中国が西域を征したことがテーマでしたが、では東域はどう描かれているのでしょうか?

【現代訳】
その上公孫淵が父祖三代に至り、遼東を支配していたが、天子はそこを中華から遠く離れた地域とし、海外のことを委ねたので、とうとう東夷は中華から隔てられ、交通が断たれて、中華と通交することができなくなった。景初年間の中頃、大規模に軍隊を出して、公孫淵を誅殺した。また軍に川を進ませ、海を航行させて樂浪郡と帶方郡を設置したところ、海の上はひっそりとして静まりかえり、東夷は屈服した。その後、高句麗が背反し、全軍の内一軍を出して派遣してこれを討伐し、追い詰めて追い詰めて遙か遠くまで行き、烏丸、骨都を越えて、沃沮を通り過ぎ、肅愼の地元を経て、東に大海を望む地に至った。その土地の長老の説明によると「変わった顔立ちをした人々が日の出るところの近くにいる」という。その法や風俗は身分の上下を分けて秩序立っている。それぞれ国名があり、詳しく採録することができた。夷狄の国とはいえ、俎豆(祭りの供物をのせたり盛ったりする器、転じて祭祀を言う)の儀礼がある。中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。それゆえ、その国を選び出し、その異同を示して、これまでの正史が備えていなかったところを補うものとする。

【解説】
公孫淵(こうそんえん)が、中国と東夷との交流を邪魔していたことは、以前のブログ
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?」(2015/5/16号) 
でお話しした通りです。
その公孫淵を討ち( 238年8月)、楽浪郡、帯方郡を設置することにより、東夷との交流が復活しました。まさにその直前に、卑弥呼が魏の皇帝に使いを出したわけです(238年6月)。

次いで、烏丸、骨都、沃沮を通り過ぎて肅愼、最後に東に海を臨む地域に至った、とあります。それがどこなのか?ですが、素直に読めば、下の図の通りになります。

三国志時代の東アジア

そこの長老の言葉は、有名です。
「変わった顔立ちをした人々が日の出るところの近くにいる」と言ったと。
さて、これはどこの人びとを指しているのでしょうか?。ここまでお読みの方には、もうおわかりでしょう。

原文は、
異面之人近日之所出
です。

「日の出ずる所」とは、東方を指していることに異論はないでしょうから、問題は「異面の人」です。
「異面の人」とは、文字通りの意味は、「変わった顔の人」となります。異民族であれば、顔立ちも違ってくるのですが、単純にそれだけではないようです。この「異面」について、再び張莉氏の論文から考えていきます。

【論文】
顔志古は、「漢書」地理志の「(原文略)楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来たりて獻見すと云ふ」の倭人について次のように注釈している。「(原文略)如淳曰く、如墨委面は帯方東南の万里に在り。臣瓉曰く、倭は国名なり用墨を謂わず。故に是を委と謂ふなり。師古曰く、如淳、如墨委面を云ふに、蓋し音は委字のみ。此の音は否なり。倭音は一戈切なり。今猶ほ倭国有り。魏略に云ふ、倭は帯方東南大海中に在り。山島に依り国を為す。千里を渡海し、復た国有り。皆倭種なり。」。如淳は、三世紀中ごろの魏の人、臣瓉は三~四世紀にかけての晋の人、顔志古は七世紀の唐の人である。
臣瓉が言ったように、如淳は「倭」の意を踏まえた「委」を述べていると筆者は考える。如淳は「漢書」地理志の「(原文略)楽浪海中に倭人あり」を受けて「(原文略)如墨委面は帯方東南萬里に在り」と注釈している。この二つの文章を対照すると「如墨委面」は「倭人」のことになるので、「委」は「倭」の意味を捉えたものである。また、西晋時代に書かれた「三国志」魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十には「(原文略)粛慎の庭を踐(ふ)み、東、大海に臨む、長老説くに、異面之人有り、日の出ずる所に近し。遂に周(めぐ)りて諸国を観(み)、其の法俗、小大の区別、各々有する名号を采り、詳らかに紀を得るべし」とあり、「三国志」魏書の「異面之人」は発音からみて如淳の「如墨委面」を受けて記述したものと思われ、鯨面の倭人を意味したものと考えて間違いはないであろう。

【解説】
ややわかりにくい文章ですが、前半部分は、「委」と「倭」について、如淳、臣瓉の見解を踏まえて顔志古が解説したものです。中身については細部に入いるので、いずれまたお話したいと思います。
ここでのポイントは、「異面の人」について、
異面=委面=倭面(いめん)
と断定していることです。
つまり、
異面の人=鯨面(顔に入れ墨をした)の倭人
ということです。

なお、以前「翰苑」についてお話しましたが、実はブログで割愛した注釈のなかに、
「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王師升が至る有り」
の記載があります。これは、倭の国王の師升が、中国皇帝の安帝に107年に朝貢したことを記録しているのですが、その倭の国王を「倭面」と表現していることからも、この仮説が正しいことがわかります。

東夷伝序文に戻ります。
「その法や風俗は身分の上下を分けて秩序立っている。」、「祭祀をしっかりと執り行っている」と特徴を挙げ、「中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。」と最大限の評価をしています。
なお、この「中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。」は、
「漢書地理志の中の倭人 ~ 孔子は日本にあこがれていた!? 」(2015/11/12号)
でお話した漢書地理志の一節
「故(ゆえ)に孔子、道の行はれざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也夫(か)」
を受けているのは、間違いないでしょう。
いかに倭国を高く評価していたか、わかります。

そして最後に、「その国を選び出し、その異同を示して、これまでの正史が備えていなかったところを補うものとする。」とあり、東夷伝を書くにいたった理由を示しています。つまり、前漢の時代に成し得なかった東域の果ての地、すなわち倭国の詳細をここに書き記すことができたことを誇らしげに記しているわけです。これで、三国志魏志東夷伝のなかにおいても、なぜ倭人伝についての記載が、質・量ともに圧倒的に多いのかが理解できます。

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三国志魏志東夷伝序文 前編 ~ 陳寿が三国志のなかで東夷伝を書いた理由とは?

前回まで、倭人に関する中国最古級資料として、論衡、漢書、金石文を読んできました。そこからは、もともと揚子江流域に住んでいた倭人が、戦乱の時代に朝鮮半島を経て(あるいは海上にて)、日本本土へ移動したことが推察されました。

成立年代として次に続くものとしては、三国志になります。三国志魏志倭人伝については、これまでのブログでお話ししてきました。そこには、日本本土に住む当時の倭人の生活が生き生きと描かれています。

実は、三国志のなかには、その他にも倭人に関する記事があります。魏志東夷伝序文、韓伝、東沃沮(とうよくそ)伝などですが、とても興味深い内容であり、参考になるので、それらを読んでいきます。

まずは、三国志魏志東夷伝序文です。名前の通り東夷伝の冒頭にあり、東夷伝を書くに至った背景について記されています。そして、最後に倭が出てくるわけですが、その扱いは格別です。

なお現代訳が手元にないので、中国正史に見える古代日本 https://traitor.jp/china/
から、お借りしました。

【現代訳】
書経には「(中国の教化は)東は海に至るまで。西は流砂が覆う地にまで(広がった)」と記されている。当然、中華の九服の制が適切に行われたことを言っているのだ。しかし辺境のまた外については、翻訳を重ねた風聞が聞こえてくるばかりであった。歩いたり馬車に乗って行けるところではなく、未だに国の風俗やその外国のことを知る者はいない。虞(帝舜)からに至るまでの間、西戎は白環から礼物の献上があり、東夷は肅愼から貢ぎ物があった。皆久しい間、朝貢にきているが、その遠く遙かなことは以上の通りである。漢帝国の時代、張騫を派遣して西域を調査させ、黄河の源流を突き止めさせ、諸国をつぶさに巡り、遂に都護を置いて支配した。その後、西域のことが具体的に調査できるようになり、そのため、史官が詳しく記録に載せることができたのだ。が建国され、西域をことごとく支配下に置くことはできなかったが、その大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師の屬は朝貢してこない年がなく、ほとんど漢の時代と変わらない。

【解説】
前半は、"中国国内は統一されたが、その外の国々の様子は、よく分からなかった。漢の時代に西域に張騫(ちょうけん)を派遣し調査して都護を置いたので、西域のことはよくわかるようになった。魏の時代には、西域は支配できなかったが、朝貢をしてこない年はない。"とあり、中国の威光が西域にまで広がったことを称えてます。

張騫の大月氏への使節団

張騫使節団


出てきた国々を図で示すと、以下の通りになります。

前漢時代の西域  

これら西域の国々を横断するのが、シルクロードです。張騫 が月氏のもとへ派遣されたのがBC139年で、結局同盟には至りませんでしたが、周辺諸国を調査し、支配を強め、BC59年に都護府を置くことができました。その頃には、地中海沿岸の国々から、中国までの交易ルートは確保されていたでしょう。すなわちシルクロードです。

シルクロードの東の起点は長安ですが、西の始点がどこかは諸説あります。いずれにせよ少なくとも地中海近辺までは通じていたわけですから、ローマ帝国、ペルシャ帝国との交易にも利用されたはずです。

当時の日本、すなわち倭国もその頃には、中国との交流があったことを考えると、シルクロードにあったこれらの国々の情報は、倭国にも入っていたことでしょうし、交易品もあったことでしょう。中国から倭国への人の移動もあったわけですから、遠い西域の人びとが倭国に来たこともあったのではないでしょうか?。

となると、しばしばトンデモ説として聞かれる、"古代日本の〇〇は、実は△△人だった"といった類の話も、物理的には可能な話である、と言えます。もちろん、事実かどうかは別の話になりますが・・・。

さて、西域の国の一つに、鄯善があります。この鄯善とは、楼蘭(ろうらん)のことです。あの楼蘭の美女のミイラで有名ですよね。1980年に、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で発見されました。BC19世紀、約3800年前に埋葬されたもので、死亡時の年齢は40歳前後、身長約155センチメートルと推定されています。

復元された容貌です。気品を感じさせる美しさです。ヨーロッパ人の血が70パーセント入っているアーリア系人種のようです。

楼蘭の美女

 ヨーロッパ系の人であったことが、諸々議論を呼びましたが、考えてみれば、張騫の西域への派遣よりさらに1700年も前の人です。当時、ヨーロッパ系の人が住んでいても何の不思議もありません。

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中国最古級資料からみた倭人の源流 ~ やっぱり倭人は揚子江下流域からやってきた!

前回は、漢書地理志から、倭人をみました。今回は、再び張莉氏の論文に戻り考えていきます。

【論文】
さて、ここで気づくのは「論衡」の「倭人」中国南方の民族であり、「山海経」の「倭」朝鮮半島内に住む民族であり、「漢書王莽傳」における「東夷王」日本の地に住む倭王であることである。これらの記述から浮かびあがるのは、倭人の中国南方から朝鮮の地を経て、日本の地に至る民族の移動である。筆者は、呉越中の倭人の集団がある時には直接九州に渡来しており、またある時には朝鮮を経由して渡来しているものと考える。「三国志」魏書烏丸鮮卑東夷傳倭人条(以下、通説に従い「魏志」倭人傳と表記する)にあるように、「鯨面文身」や「貫頭衣」の習慣が中国南部と同じであり、それらは中国の倭人が直接九州にやってきた証である。中国から直接九州にやってきた倭人の領域に、朝鮮の地で集団を形成した倭人が何度も押し寄せたのだと思われる。

【解説】
張莉氏は、「論衡」、「山海経」、「漢書」の記事から、倭人が大移動した、という仮説を立てています。すなわち、
「論衡の倭人」=揚子江下流域の倭人
         ⇩
「山海経の倭人」=朝鮮半島南部の倭人
      ⇩
「漢書の倭人」=日本本土の倭人

の流れです。
そして、中には、揚子江下流域から、舟で直接渡来した倭人もいる、としています。それが、三国志魏志倭人伝に出てくる"倭人の風俗が中国南方の風俗と一致している"理由としています。

次に、自身の実体験を元に、興味深い話を紹介しています。少し長文になりますが、お読みください。

【論文】
2012年9月に中国の西双版納の瀾滄江(その下流がメコン川)の西岸から山奥に入った村、景哈哈尼族郷を訪ねた。電気は通じているが、テレビがなく、子供たちがはだしで歩いていたのが印象的であった。皆親切で、我々の取材にも快く応じてくれた。村の住民である初老男性の当黒さんに「倭」という字の意味を問うと、「アカ」と答えた。哈尼族は自らを「阿卡(ake)」すなわちアカ人といい、ミャンマー・タイ・ラオスにおいてはアカ族の名で知られる。この「阿卡」の意味は「*方的客人(遠くからの客人)」であり、哈尼族は瀾滄江の源流とされる大江源頭(西蔵自治区の拉賽貢瑪(らさいごんま)とされるが定かではない)からやってきたといわれている。[*はしんにょうに元」の漢字]
村の住民は「干(かん)らん」と呼ばれる高床式住居で、別地方の哈尼族の村の屋根には日本の神社建築によくある千木(ちぎ)(神社本殿の屋根上にある交叉した木)が見られた。この門は日本の神社の鳥居の原型と見てよい。私は、これらのことから、哈尼族が日本列島に住む倭人と同じ出自の民族であることを確信した。もと倭人であった哈尼族や布朗族の人は皆優しかった。話かけると、お茶を飲んでいけ、飯食っていけと言い、家の中もどうぞ自由に見たらといった感じである。西双版納や昆明などの都会に住む人とは全く違う彼らの穏やかな目つきは、世界の中でも最も優しい親切な民族の一つとされる日本人に相通じるものがあった。

[解説]
雲南省南部、ミャンマーやラオスに近い山奥に住んでいる哈尼族を訪れたときの話です。高床式住居や神社の鳥居の原型の他、親しみがあり優しい顔つきなど、日本人との共通性を見出しています。
"世界の中でも最も優しい親切な民族の一つとされる日本人"と表現するなど、我々日本人を高く評価しており、ややこそばゆい気もしますが、ありがたい話ではあります。

これだけ読むと、日本人の源流は雲南省南部なのか、と思ってしまいますが、張氏はそれとは異なる推測をしています。

哈尼族の少女
Ethnic_Hani_Headgear_China.jpg


[論文]
雲南民族の傣(たい)族、哈尼族と長江流域から北東の日本に至った倭人には文化の上での多くの共通性が指摘されている。稲、高床式の建物、千木(ちぎ)、村の入り口に鳥の木彫を載せた門(鳥居の原型といわれる)、納豆・蒟蒻・餅・赤飯の食用・下駄・貫頭衣(呉服にその名残がある)などである。春秋時代の呉越戦争、戦国時代の楚の侵攻による越の滅亡、さらには秦や漢による中国統一のための侵略により、越族のうちあるものは中国南部や現在のベトナム、ラオス、ミャンマー、タイに逃れ、またあるものは朝鮮・日本へと逃れていった。その人たちが、日本に稲作をもたらし、倭人と称したのであろう。

[解説]
張氏は、倭人はもともと長江(揚子江)流域に住んでいて、それが戦乱により、ある集団は北上して朝鮮半島から、海を渡って日本本土にたどり着き、またあるものは南下して、中国南方からミャンマー、ラオス、タイ、ベトナムへ逃れて行った、と推測しています。
何を根拠としてそのような仮説を立てたのか、は不明ですが、ストーリーとしてはきれいにまとまります。

図示すると、このようになります。倭人の想定移動ルート

では、この仮説が事実なのか、です。方法としてはいろいろあるでしょうが、一番確かな方法は、人のDNAを調べることです。近年のDNA研究の飛躍的な進歩により、古代人の移動は、ある程度わかってきています。その内容はとても興味深いものなのですが、詳細にわたるので、回を改めてお話しします。


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漢書地理志の中の倭人 ~ 孔子は日本にあこがれていた!?

ここまで、張莉氏の論文を引用しつつ、解説してきました。漢書の中の倭人については、前回お話した漢書王莽伝のほかに、漢書地理志のなかに、有名な一節があります。


【読み下し文(「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)】
a.玄莵(げんと)楽浪(らくろう)。武帝の時、置く。皆朝鮮・濊貉(わいかく)・句麗(くり)の蛮夷。
b.殷(いん)の道衰え、箕子去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに礼儀を以てし、田蚕織作(でんさんしょくさく)せしむ。楽浪の朝鮮の民、犯禁八条。・・・今犯禁に於いてシン多(しんた)、六十余条に至る。

【解説】
楽浪郡の歴史的由来です。中心人物は、「箕子」です。彼が中国からこの地へ行き、現地の朝鮮の民を教化した、というのです。
箕子とは、史記に登場する有名な人物です。殷末、殷王朝の親戚(しんせき)として宰相でしたが、天子紂王(ちゅうおう)は暴虐をきわめ、箕子のいさめを聞きませんでした。箕子の心友・比干(ひかん)がこれをいさめたところ、紂王はこれを殺し、「聖人の心肝(しんかん)を観よう」と称して解剖されました。ついに其子は絶望し、いつわって“発狂”し、奴隷(どれい)に身をやつしました。このあと、周の武王による「革命」がおき、殷は滅ぼされました。そして武王は、箕子を朝鮮に封じたが「臣」とはしなかった、と『史記』(宋微子世家そうびしせいか)に書かれています。殷の名家でもあり、民衆に人望の高かった箕子に対して礼をつくしたわけでしょう。 しかし、その後、箕子はみずから「革命」後の周の天子に「朝」した、と言います。例の「天子への直接拝謁(はいえつ)」です。その、都(鎬京こうけい 長安付近)へ向う途次、「故(もと)の殷墟いんきょ」を過ぎたところ、かつて繁栄していた殷の宮室は毀壊(きかい)し、ただ禾黍(かしょ いねやきび)が生いしげっていた、といいます。そしてこのときの拝謁した天子が成王でした。(以上「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)

箕子(きし)の生没年は不明ですが、箕子朝鮮(BC12世紀-BC194年)を建国した人です。周王朝への忠義を尽くした名君です。

この文章に続いて古田氏は、論衡の「西王の時代、越常は雉を献じて、倭人は暢草を献じた」との記事から、
"論衡の倭人=漢書の倭人=日本本土の倭人”
と展開しているのですが、ここではスルーして次に進みます。

読み下し文】
c.貴む可(べ)き哉(かな)仁賢(じんけん)の化(か)や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異(ことな)る」
d. 故(ゆえ)孔子、道の行はれざるを悼(いた)み、(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲(ほっ)。以(ゆえ)有る也夫(か)
e.楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もつ)て来り献見すと云う

解説】
「仁賢の化」は箕子の教化を指しています。問題は次のdです。これは、「論語」中の有名な一節を受けています。
「道行われずば、栰(いかだ)に乗じて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由(ゆう)か」(公治長、第五)
孔子にとっての「道」の基本は、”周の天子への忠節”だ、と考えられていました。そのような「道」を各国の諸侯に説いたのですが、表面上はともかく、本心から守ろうとする者がいない。そのような状況にいささか愛想をつかしたところ、弟子の子路(しろ、由)にふともらした言葉なのでしょう。”もし、いよいよ「道」がこの中国では行われない、こういう見極めがついたら、もういっそのこと、「栰(いかだ)」に乗って海上に浮かび、海の彼方にいるという、東夷の人々の中に入って「道」を説こう。そのとき、私に従って来てくれる者は、まあ由(ゆう)よ、お前くらいかな”。半ば冗談口の中に、ややデスペレート(絶望的)になりかけた、自分の心情を吐露したものでしょう。(以上「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)

古代中国の人びとが、周囲の民族のなかでも東夷すなわち東方の民族を、特別高く評価していたことがわかります。続いて孔子の名前が出てきます。突然、孔子が出てくるので、あれ?と思ってしまいますが、古田氏の言うように背景を理解するとすっきりします。

そして次に、有名なあの一節(e)が出てきます。
「楽浪海中の島の中に、倭人が住んでいる。分かれて百余国である。きまった年時に従って、わが中国にやってきて、貢献物を献上してきている、と言われている」
通常は、この一節だけが取り上げられるので、それだけの理解で終わってしまいますが、前段を通して読むと、理解が深まります。

この文章全体の流れから言えば、孔子の言う九夷とは倭人を指していることに、間違いないでしょう。そして、その倭人とはどこにいる倭人かと言えば、「楽浪海中」すなわち「海の中に住む倭人」となります。
孔子の居た国から見れば、朝鮮半島南部へ海で渡ることもあったでしょうから、この倭人は、朝鮮半島南部の倭人とも言えます。あるいは、日本本土に住む倭人であった可能性もあるでしょう。
前回のブログでもお話した通り、当時は両方に倭人が住んでいたと考えられますから、微妙なところです。いずれにしろ、孔子が、倭人さらにはもしかしてその先の日本にあこがれをもっていたというのは、たいへん興味深いことではないでしょうか?。

孔子(BC552-BC479)
孔子 

春秋時代の倭人領域 

そしてさらに興味深いことは、日本に伝わっているのは、孔子の礼賛した古代周王朝の精神のみならず、文化・風習にいたるまで、様々な面にわたっており、それが現代日本にも今でも残っているという説があることです。この話は、今後のお楽しみということにいたします。

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山海経と漢書王莽傳(おうもうでん)の中の倭人 ~ 倭人の大移動?

 さらに張莉氏の論文を読んでいきます。

[論文]
次に、中国の古文献に「倭」が登場するのは中国最古の地理書「山海経」である。「山海経」巻十二海内北経に「(原文略)蓋(がい)国鉅燕(きょえん) の南、の北に在り、倭は燕 に属す」とある。清代に「山海経」を注釈した郝懿高の「山海経箋疏」によると、「(原文略)経の云う倭属燕は蓋し周初の事か」と述べられているが、時代がよくわからない。 燕 の楽毅将軍の活躍した戦国時代とする説もある。この頃の朝鮮半島では北側に燕 、中央に蓋 国、南側に倭があった。すなわち、この倭は朝鮮半島内にいる民族集団である。時代的にみて、恐らくは南越から移ってきた倭人のことであると思われる。

[解説]
「山海経」とは、
「中国の地理書。中国古代の戦国時代から、秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書とされる。今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、奇書扱いされている。」(wikipediaより)
とあります。
たしかに奇書とされる面もありますが、その一方で何がしかの真実を伝えている面もあるはずであり、貴重な資料と言えるでしょう。

蓋国がどこにあったのかは、いくつかの説がありますが、少なくとも倭人が朝鮮半島南部に拠点をもっていたことは、諸々の文献や遺跡などの考古学的資料からも明らかです。ここでは詳細は割愛しますが、多くの研究者が指摘しているところであり、張莉氏の推測は的を得ていると言えます。

次に、「漢書」についての話です。

[論文]
「漢書」王莽(おうもう)傳に次のような記事がある。「(原文略) すでに太平を致す。北は匈奴を化し、東は海外を致し、南は黄支(こうき)を懐(なつ) くるも、ただ西方は未だ加うること有らず。すなわち中郎将平憲 (へいけん)等を遣わして多く金弊を持し、塞外の羌(きょう)を誘い、地を献じて内属せんことを願わしむ。ー 中略 ー   復(ま)た奏して曰く、太后統を秉(と)ること数年、恩沢洋溢(よういつ)し、和気四塞(しそく)す。絶域俗を殊にするも、義を慕(したが)わざる靡(な)し。越裳(えっしょう)氏訳を重ねて白雉を献じ、黄支三萬里よりして生犀(せいさい)を貢し、東夷の王は大海を渡りて国珍を奉じ、匈奴の単于(ぜんう)は制作に順(したが)い二名を去る。いま西域の良願等復た地を挙げて臣妾なる」とある。 これは平帝の正始四年(紀元四年)の記録である。この時、平帝は十三歳であり、王莽の行政下の傀儡(かいらい)政権であった。
東西南北の国が貢献をする中で、東夷王度大海奉国珍」の一文がある。「度大海」とあるから、この「東夷王」は、日本の地に住む倭の王であろう。ここで思い起こされるのは、『論衡』の「(原文略)成王の時、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を貢す」の一文である。越裳と倭人の貢献が両方の文に載せられている。『漢書』を書いた班固が、『論衡』に書かれた内容を踏まえてこの文章を書いたのは間違いないと思われる。『論衡』は『漢書』と同時代の成立であるが、王莽と班固は知り合いであったから、その内容は既に班固に伝わっていたのだと解釈するべきであろう。中国の歴史書では、まず以前の文献の内容を載せて、更に自分が見聞きした新しい出来事を書き加えるのはよくある手段である。興味深いことは、倭人の献上品が『論衡』では「暢草」であり、『漢書』王莽傳では「国珍」となっていることである。「国珍」がもし「暢草」であるならば、「倭人貢暢」の事実を踏まえて『漢書』にも「暢草」と書かれるはずで、「国珍」と書くのはその内容が「暢草」ではないからである。ただし、「国珍」が何であるかは分からない。

[解説]
「漢書」とは、中国二十四史のひとつで、中国後漢(AD25-220年)のときに、班固らによって編纂された前漢時代(BC206-AD8)のことを記した歴史書です。そのなかの王莽傳の記事です。
引用記事、”前漢の王朝は、周囲東西南北の国々をすべて支配することができた”というのが、全体の意味ですが、その一つの王として「東夷王」があるわけです。そして「海を渡って国珍を献上してきた」とあることから、それは日本に住む倭王だ、としています。
さらに論衡での「暢草」の記載が、ここでは「国珍」になっていることからも、論衡の倭人と漢書の倭人には違いがある、すなわち
「論衡の倭人=揚子江下流域に住む倭人」
「漢書の倭人=日本本土に住む倭人」
と推測しており、合理的な指摘だと思います。

出てきた国の位置関係を図示しました。

春秋~漢の倭人領域 (2)  
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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