三国史記百済本紀を読む 後編 ~ ついに百済滅亡す

百済本紀の後編です。

【現代訳】
72.隋の文林郎の裴清(はいせい)が、使者となって倭国に行くのに、我が国の南路を経て行った。<608年3月条>

【解説】
遣隋使に関する話です。遣隋使については、以前のブログ
「隋書倭国伝を読む その8(最終回) ~ 聖徳太子の遣隋使はなかった!?」(2015/8/17号)
で、お話ししました。時系列を隋書俀(たい)国伝から記すと、

<600年>  第一回遣隋使
阿毎多利思弧(あまたりしほこ)が、隋へ使いを遣わす。
<607年>   第二回遣隋使
・隋の煬帝へ国書を出す。差出人は、阿毎多利思弧。「日出処の天子より、日没する処の天子へ・・」の記載が失礼だとして、煬帝の機嫌を損ねる。
<608年>
隋が文林郎の裴清を倭国に遣わし、  倭国王が歓待する。 

となります。
この内容を、日本書紀と見比べると、つじつまの合わないことが多数あります。たとえば、
①600年の第一回遣隋使の記載が日本書記にない。
②607年の第二回遣隋使の際、中国皇帝へあてた国書「日出処の天子より、日没する処の天子へ・・」の記載が、日本書記にない。(記載されているのは、隋書俀(たい)国伝のみ)
③日本書記には小野妹子を派遣した記事があるが、相手国はではなく大唐である。なお、隋書俀国伝には、小野妹子の記載はない。
④当時の天皇は女性の推古天皇なのに、国書の差出人が、阿海多利思北弧という男性の名前となっている。
裴清の官職名が、異なっている(隋書と三国史記には文林郎、日本書記には、鴻臚(こうろ)寺の掌客(しょうきゃく)と記載)。
などです。

その第二回の遣隋使の翌年に、隋から遣わさたのが、裴清(はいせい)で、その途上、百済の南部を通過したことになります。日本書記によれば、その使節団に、前年隋に派遣されていたとされる小野妹子がいたわけです。そして、皇帝からの返書を携えていたものの、途中まさにこの百済で、返書を盗み取られたと記載されています。あまりにも間の抜けた話ですね。「倭国を臣下扱いする内容だったので、わざと盗まれたことにしたのだ。」などと憶測はされていますが、どうでしょうか?。
この二回の遣隋使を大和朝廷(聖徳太子)が派遣したとすると、こうした疑問に対する答えは、どれもしっくりきません。そうではなく、他の勢力(九州王朝)が派遣したものと解釈すればきれいに説明できます。

では、聖徳太子が派遣したとされる遣隋使は何だったのか?ですか、古田武彦氏は、興味深い説を唱えています。"この時代の日本書記の年次は、他の記事からみても少なくとも10年以上繰り上がって記載されている。したがって遣隋使を10年以上あとの話とすると、ちょうど唐の時代となり、つじつまが合う。つまり遣隋使ではなく遣唐使だった。"というものです。とても面白い説ですが、今回は紹介するにとどめます。


【現代訳】
73.(義慈)王は、倭国と好(よしみ)を通じた。<653年8月条>
74.文武王の甥である福信は、かつて軍兵を率い、僧侶の道琛(どうちん)とともに周留城に立て籠って叛(そむ)いた。もと王子であった扶余豊は、かつて倭国に人質になっていた者であるが、それを迎えて、彼を立てて王とした。<660年条>
75.この時、福信は、すでに権勢をほしいままにしており、扶余豊と次第に互いに猜忌(さいき)するようになった。福信は、病気だと偽って窟室に臥し、扶余豊が病気見舞いに来るのを待ち、捕えて彼を殺そうとした。扶余豊は、それを察知して、親しみ信頼している者を率いて、福信を不意に襲って殺した。使者を高句麗と倭国に遣わして援軍を要請し、唐軍を防ごうとした。<662年7月条>
76.劉仁軌と別将の杜爽(とそう)は、水軍と兵粮船を率い、熊津江(ゆうしんこう)から白江(はくこう)へ行き、そこで陸軍と会い、合同して周留城に迫った。倭人と白江の入り口で遭遇し、四度、戦って、そこで勝ち、その舟四艘を焼いた。煙と炎は、天をこがし、海水は赤く染まった。<662年7月条>
77.王子の扶余忠勝・忠志らは、その軍勢を率い、倭人とともに連れだって降伏した。<662年7月条>

【解説】
義慈王とは、百済の王です(在位641-660年)。一方、文武王とは、新羅の王です(在位661-681年)。唐とともに百済を攻め百済は消滅(660年)、白村江の戦いで倭国・百済連合軍を破った(663年)のち、高句麗を滅ぼし(668年)、さらに唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、朝鮮半島の統一を図りました(676年)。唐と組んで百済・倭国・高句麗に勝利して、後に唐を朝鮮半島から追い出すなど、したたかな王ですね。

その文武王の甥が福信で、文武王を裏切って、百済復興を図り、倭国へ人質となっていた百済王子扶余豊を迎えて王としたわけです。ところが、自分で迎えた扶余豊をうとましく思うようになり、殺害を企てます。しかし企てを見破られ、逆に自分が殺害されます。”一度裏切った人間は、二度目も裏切る”という、古今東西どこにでも似たような話がありますね。人間の本性というものは、昔から変わっていないということでしょう。また、"裏切り者の末路は、いつの時代も哀れである"ことを物語っているとも言えますね。

そして、倭国と組んで復興をめざした百済ですが、唐・新羅連合軍に白村江の戦いで敗れ、ついにその夢もかないませんでした。

白村江の戦い(663年)頃の朝鮮半島情勢

白村江の戦いの朝鮮半島 
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三国史記百済本紀を読む 前編 ~ 倭国との深い関係  

前回まで、三国史記の新羅本紀(倭人伝)を読んできました。今回は、同じ三国史記の百済本紀(倭人伝)です。新羅本紀同様、倭国との外交上の話が記載されていますが、新羅とは異なり、友好国として描かれています。

【現代訳】
62.(阿莘)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支(てんし)を質とした。<397年5月条>
63.使者を倭国に遣わして、大珠を求めさせた。<402年5月条>
64.倭国の使者が来た。.(阿莘)王は、これを迎えとくに厚く労(ねぎら)った。<403年2月条>
65.腆支王(或いは直支という)は、阿莘王の在位三年(394年)に、立って太子となった。六年(397年)に、倭国へ行って質となった。
66.(阿莘王の)十四年(405年)に、(阿莘)王が薨じた。王の二番目の弟である訓解(くんかい)が、政治を執り、太子[腆支]が国に帰るのを待った。末弟の碟礼(せつれい)は、訓解を殺害し、自ら立って王となった。腆支は、倭にいて.(阿莘王の)訃報を聞き、泣き叫んで帰国したいことを要請した。<403年2月条>
67.倭王は、兵士百人でもって(腆支を)守り送らせた。まさに(百済の)国境に到着すると、漢城の人である解忠(かいちゅう)がやって来て告げて、「(阿莘)大王は、お亡くなりになりました。弟の碟礼が、兄(の訓解)を殺害して、自ら王となりました。どうか太子は、不用意に入国なさいませんように」と言った。<403年2月条>
68.腆支は、倭人を引き留めて身を守った。海中の島で、時の来るのを待った。国人は、碟礼を殺し、腆支を迎えて王位に即(つ)かしめた。<403年2月条>
69.倭国が使者を遣わし、夜明珠を送ってきた。(腆支)王は、あつく礼遇して、歓待した。<409年条>
70.使者を倭国に遣わし、白錦十匹を送った。<418年夏条>
71.倭国の使者が来た。従者は五十人であった。<428年条2月条>

【解説】
倭の五王が初めて歴史に登場するのが、413年なので(晋書)、その少し前の時代からです。397年条に、「倭国と好誼を結び、太子の腆支(てんし)を質とした。」とあります。ほぼ同じ時期に、新羅本紀にも、「倭国と好誼を通じ、奈忽王の子未斯欣(みしきん)を質とした」(402年条)とあり、倭国は新羅の王子も人質にとっていたことは、すでにお話しました。”好誼”という言葉で表現しているものの、実質的には、新羅・百済とも、倭国の支配下に入ったということでしょう。
その後、百済とは友好関係を保っていたようで、百済王家内の権力闘争に対しても、太子の腆支(てんし)を守り、その結果、腆支が即位します。こうした信頼関係が、白村江で共に戦うことにつながっていったのでしょう。
ところで、そもそもの百済がどのようにして建国された国なのかは、よくわかっていません。高句麗からやってきた、との説もありますが、あくまで伝説としてであって、決定的なものにはなっていません。

私としては、百済建国と言うと、韓国のテレビドラマ「朱蒙(チュモン)」を思い出します。かつて韓国のテレビで放映され、視聴率50パーセントをあげた超人気番組で、日本でも放映されたので、ご覧になった方もおられると思います。あらすじとしては、
"BC108年、漢の侵略により古朝鮮国が滅亡します。国を失った流民たちを率いて漢に抵抗したのが民族の英雄へモスで、その子がチュモンです。兄たちの策略で宮中を追われたチュモンが、やがてたくましい若者に成長していき、漢との戦いに勝利して、高句麗の偉大な初代大王となる"
という話です。
チュモンには元々王子がいたのですが、正室とともに離ればなれとなります。それが奇跡的な再会を果たすという、感動のシーンがあるのですが、正室と王子がチュモンの元に戻ったために、側室とその子供たちが国外に出ることとなります。その行く先が、朝鮮半島南部であり、そこで子供(弟の温祚)が建国した国が、百済という話になってます。

チュモンとは、高句麗初代王の東明聖王(BC58-BC19)の諱ですが、
"「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済に共通して見られる。歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通点が多い。 "(wikipediaより)とあり、史実かどうかは、不明です。
ただし、隋書百済伝、「百済王の先祖は、高句麗国から出ている」とあります。 隋書 の成立が 656年なので、その頃には、百済の高句麗起源の言い伝えがあったことになります。となると、あながち作り話とは、言い切れないと思われます。

YOUTUBEに動画がありましたので、紹介します。


また、百済関係では、奈良県天理市にある石上神社所蔵の七支刀が有名です。時代は少しさかのぼりますが、369年(諸説あります)に、百済国王から倭王(旨)へ贈答されたとされています。このことからも、当時の倭国と百済との間の良好な関係が、推察されます。なお、七支刀には銘文が刻まれており、その解釈も興味深いものがあるので、回を改めてお話しします。

七支刀のレプリカです。
七支刀


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三国史記新羅本紀を読む その5 (最終回) ~ 倭国から日本国へと改名した時代背景とは?

新羅本紀の最終回です。

【現代訳】
53.百済の先王[武王]は、逆順に迷って、隣国との通交を厚くせず、姻家とも親しくしないで、高句麗と結び、倭国と交通し、ともに酷く乱暴な行為をし、侵略して新羅を割き取り、邑(むら)をおびやかし、城を攻め落した。<665年8月条>
54.ここに仁軌は、わが使者と百済・耽羅・倭人の四つの国の使者をひき連れて、海を渡って西[唐]に帰り、会盟して泰山を祀った。<665年8月条>

【解説】
前条から100年以上が経過してます。百済が、隣国の新羅ではなく倭国・高句麗と手を結び、新羅を攻撃してきたとあり、不満と不信の気持ちが表れていますね。百済の武王(580-641年)の時代です。そして、663年に、唐・新羅連合軍と倭国・百済の連合軍が激突した白村江の戦いが開戦し、倭国・百済連合軍は、完敗します。仁軌とは、唐の武将、劉仁軌(602-685年)です。665年、唐の第三代皇帝高宗の即位の儀式が泰山にて執り行なわた際に、新羅・百済・耽羅・倭国の従者を引き連れ参加して、自らも官職を拝命します。ここで、泰山とは、中国山東省泰安市にある標高1545mの山です。
"封禅(ほうぜん)の儀式が行われる山として名高い。封禅とは、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式。"(wikipediaより)
です。


【現代訳】
55.倭国が、(国号を)改めて日本と号した。みずからの日の出る所に近いので、国名としたのであると言っている。<670年12月条>
56.竜遡三年[663]年になって、揔管の孫仁師は、兵を引き連れて来て、府城を救った。新羅の兵馬も、また出発してともに征討に向い、進軍して周留城の下に至った。この時、倭国の船兵が、やって来て百済を救援した。<671年7月26日条>
57.倭船が千艘、停泊して白沙にいた。百済の精鋭なる騎兵が、岸上で船を守っていた。新羅の強力な騎兵が、唐軍の先鋒となり、まず岸の陣地を撃破した。周留城の兵は、気力を失って、ついに降伏した。<671年7月26日条>
58,また音信の知らせによると、「唐では船舶を修理し、うわべでは倭国を征伐することに託(かこつ)け、実は新羅を攻撃しようとしている」と言う。百姓はこれを聞いて、驚き恐れて不安に落ち入った。<671年7月26日条>
59.均貞に大阿湌(だいあさん)を授け、仮に王子として、倭国に人質として送ろうとした。均貞は、これを辞退した。<802年12月条>

【解説】
突然話題が変わり、倭国から日本へと国名を変えたことと、改名の理由が記載されています。改名の理由について、旧唐書日本伝・新唐書日本伝に書かれていることは、以前のブログ
「旧唐書日本国伝を読む その1 ~ 倭国と日本国が別の国である決定的な証拠!」(2015/8/27号)
「新唐書日本伝を読む その5 ~ 謎が残る白村江の戦いから壬申の乱まで」(2015/9/26号)
でお話ししました。
新唐書日本伝には、改名の時期について、唐が高句麗を平定した668年以後のこととして書かれていますが、ここで三国史記百済本紀670年条に改名記事があることから、改名の時期は670年前後ということが推定されます。
また、改名の理由も、旧唐書日本伝に、
日本国倭国の別種である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。あるいは、
「倭国では、倭国という名が雅美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ。」
とも言われるし、また
日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した。」
とも言われる。”
と記載されていますが、ここでは、「日の出る所に近いから」としています。もっとも、はたしてそれが本当のことなのかは、何とも言えませんが・・・。
そして、白村江の戦い(663年)後の話になります。

さて、この時代、日本国内でも大きな動きがありました。飛鳥から近江大津へ遷都して天智天皇が即位します。天智天皇が死去すると息子の大友皇子が統治(天皇になったかは不明)しますが、天智天皇の弟(のちの天武天皇)が挙兵、壬申の乱となり、敗れた大友皇子が自殺、天武天皇が即位します。そして、ほぼ同じ時期に、唐の軍隊が2000人の規模で、九州北部に進駐してきます。まさに、国中が大混乱の真っ只中といった様相です。
歴史で習ったときは、ひとつひとつについて掘り下げて考えませんでしたが、ここで質問です。

これらは、お互いに何の関係もない、独立した別個の話なのでしょうか?。

時代順に並べてみます。

<663年>  
白村江の戦いで、倭国・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れる。
<667年>
・ 都を飛鳥から近江大津へ遷都、天智天皇が即位。
<670年頃>
倭国から日本へ改名
<671年>
・ 唐軍二千人が、九州北部に進駐。天智天皇死去、息子の大友皇子が統治。
<672年>
・ 天智天皇の弟(のちの天武天皇)が挙兵して壬申の乱勃発、弟(のちの天武天皇)が勝利し大友皇子が自殺。
<673年> 
・ 天武天皇が即位。

十年の間に、これだけ多くのことが起こりました。しかも、663年の白村江の戦いで倭国が敗れ、671年には唐軍が進駐してきたわけです。倭国内の動きに唐が関与していると考えるのが、自然ではないでしょうか?。言ってみれば、太平洋戦争で負けた日本に、マッカーサー率いる米国軍が進駐してきたようなものです。あの時代に、日本国内で内戦が起こりうるはずもなかったでしょうし、仮に起こったとしても、当然米国が関与したでしょう。もちろん米国が統治しやすいようにです。

そういった視点で改めて見ると、いろいろなシナリオが、考えられます。たとえば、以前のブログでお話したように、
”反唐であった天智天皇が、白村江の戦いで倭国が敗れたために、権力を失って近江大津へ逃れ、都とした。死後、息子の大友皇子に跡を継がせるが、壬申の乱が勃発し、親唐派の天武天皇が、勝利した。”
あるいは、もっと大胆に
”唐と戦ったのは九州王朝であり、白村江の戦いで敗れたため、危険を避けるため、九州北部から近江大津へ遷都、同じく反唐の天智天皇が、身を寄せた。親唐の天武天皇が、進駐してきた唐軍をバックにつけ、壬申の乱を起こし、九州王朝・大友皇子軍を破り、権力を手中に収めた。それに合わせて、国名も、倭国から、日本へ変えた。”
或いは、
"九州北部から近江大津への遷都に合わせて、倭国から日本国へ改名した"
なども考えられますよね。

いずれにしろ、国名を変えるというのは、たいへんなことです。よほど何かのきっかけがあったとしか考えられません。では、そのきっかけとは何か?です。白村江の戦いで惨敗し、遷都、権力移動したことが関係した可能性は高いでしょう。

今挙げたシナリオはあくまで仮説ですが、九州王朝から大和朝廷への権利移動と併せて考えると、わかりやすいと思います。下の図のような
イメージです。

倭国から日本国へ(2)
では、実際はどうだったのか?ですが、真実を究めるには、様々な角度から検証する必要があります。それは今後のお楽しみということにします。皆さんも、あれこれ想像をめぐらせてみてはいかがでしょうか?


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三国史記新羅本紀を読む その4 ~ 倭の五王の活躍を彷彿とさせる記事

倭国との戦いの記載が続きます。

【現代訳】
39.倭兵が来襲し、東辺を侵して明活城を包囲した。戦果をあげることなく退却した。<431年4月条>
40.倭人が南辺を侵し、生口を奪い取って去った。夏六月にもまた東辺を侵犯した。<440年6月条>
41.倭兵が、金城を包囲すること十日に及んだが、兵糧が尽きて、帰っていった。(訥祇)王は、軍隊を出して、これを追撃しようとした。(・・以下略・・)<444年4月条>
42.倭人が、兵船百余艘をもって東辺を襲い、進撃して月(げつ)城を包囲した。四方からの矢や石は、まるで雨のようであった。(・・以下略・・)<459年4月条>
43.倭人が、来襲して活開城を破り、一千人を捕えて去っていった。<462年5月条>
44.倭人が、歃良(そうりょう)城を侵したが、勝てないで去っていった。(慈悲)王は、伐智(ばつち)と徳智(とくち)とに命じて、軍隊を率い隠れて通り路で待ち伏せさせた。(伐智らの軍は)、待ち伏せして攻撃をしかけ、大いに倭人を破った。<463年2月条>
45.(慈悲)王は、倭人がしばしば国境を侵犯するため、外回りに二つの城を築かせた。<463年2月条>
46.倭人が、東辺を侵した。(慈悲)王は,将軍の徳智に命じて攻撃させ、これを破った。殺したり捕虜とした者は、二百余人であった。<476年6月条>
47.倭人が兵を挙げて、五道に来襲し、侵入してきた。ついに戦果を挙げることなく帰っていった。<477年5月条>
48.倭人が、辺境を侵した。<482年5月条>
49.倭人が、辺境を犯した。<486年4月条>
50.臨海と長嶺(ちょうれい)の二つの鎮台を設置し、倭賊に備えた。<493年7月条>
51.倭人が、辺境を犯した。<497年4月条>
52.倭人が、長峯鎮を攻め陥(おと)した。<500年4月条>

【解説】
倭国との戦いが続きます。この時代、倭国つまり日本では、どのような動きがあったのでしょうか?。
ちょうど、宋書倭国伝の倭の五王の時代に当たります。主な出来事としては、

<421年>
倭国王の讃(さん)が宋に朝貢、官職を授けられる。
<425年>
・倭国王の讃が上表文を奉り、朝貢する。
<438年>
讃の弟の珍(ちん)が朝貢、安東将軍・倭国王に任命される。
<443年>
・倭国王の済(せい)が朝貢、安東将軍・倭国王に任命される。
<451年>
・済に、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官職が加えられる。
<462年>
・倭王の嗣子の興(こう)が、安東将軍・倭国王に任命される。
<478年>
・興の弟の武(ぶ)が、上表文を奉る。
使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命される。
<479年> 
・倭王武、鎮東大将軍に進められる。(南梁書)
<502年>
・倭王武、征東将軍に進められる。(梁書)
です。

倭国王の武が、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命されたということは、倭国が朝鮮半島を攻略し、支配下に治めていったことの証でしょう。三国史記には、倭国の攻撃に対して新羅が防御に回り、劣勢であった記載が続いてますので、中国史書の記載とよく合っていることがわかります。
下の図は、当時の朝鮮半島から日本の国々です。秦韓・慕韓は、新羅・百済に併合され、消滅していました。
倭の五王時代の朝鮮半島~日本

一方、日本側の記録はどのようになっているのでしょうか?
古事記、日本書紀には、まったくと言っていいほど、記録がありません。唯一あるのは、日本書紀の雄略天皇の時代に、”大伴談連らを新羅に遣わし戦わせたが、大伴談連が戦死した記事”くらいでしょうか。あとは、大和朝廷内の権力闘争に明け暮れた記事と、一転してのどかな恋と歌の記事ばかりです。このことは、何を意味しているのでしょうか?。
「朝鮮遠征は国外の話だから、省略したのだ」との説明もされるでしょうが、あまりにも苦しまぎれの弁明ではないでしょうか?。
もし仮にそうだとしても、倭の五王が、苦労に苦労を重ねて中国からもらった称号です。普通であれば、誇らしげに記録に残すはずです。それがないのはなぜでしょうか?

答えは簡単です。朝鮮遠征したのは、大和朝廷ではないからです。そして、倭の五王も、大和朝廷の天皇ではないからです。そう解釈するよりほかに、合理的な説明はありません。

では、主役は・・・? ですが、このブログで何度もお話しているとおり、それは、九州北部を基盤としていた九州王朝ということになります。そして、倭の五王は、九州王朝の王ということになります。

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三国史記新羅本紀を読む その3 ~ ちょうど神功皇后の時代にあたるのだが・・・?

(御挨拶おそくなりましたが・・・)

新年明けましておめでとうございます。

本年は、ブログ始めて二年目に入ります。研究を重ねた成果を、少しずつではありますが、ご紹介していきます。日本古代史のロマンを感じ、楽しんでいただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、本題です。
新羅と倭国との戦いの話が、延々と続きます。

【現代訳】
14.倭人が国境を侵犯した。伊伐滄(いばつさん)の利音(りおん)を派遣し、軍隊を率いて、これを防がせた。<208年四月条>
15.倭人が突然来襲し、金城を包囲した。(助賁)王は、自ら出撃して戦った。(・・以下略・・)<232年四月条>
17.伊滄の于老(うろう)が、倭人と沙道(さどう)で戦った。風を利用して火を放ち、舟を焼いた。(・・以下略・・)<233年七月条>
18.倭人が舒弗邯(じょふつかん)の于老を殺した。<249年四月条>
19.倭人が一礼部を襲撃し、火を放ってこれを焼き、一千人を捕虜として去っていった。<287年四月条>
20.倭兵が来襲したと聞いて、舟と楫(かじ)とを整え、甲(よろい)と武器とを修繕した。<289年五月条>
21.倭兵が沙道城を攻め落とした。一吉滄(いつきつさん)の大谷(たいこく)に命じて、兵を率いて救わせ、これをしっかり守らせた。<292年六月条>
22.倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。勝てなかった。<294年夏条>

【解説】
倭国が攻めてきて、新羅が防ぐ図式です。激しい闘いが続いたことが想像されます。実はこの時代、倭国では、卑弥呼・壹与(いよ)の時代に当たります。年代順に並べると、
<? 年>
 ・倭国内乱
<? 年>
卑弥呼が王となり、国が治まる。
<238年>
・卑弥呼が、魏に使いを送る。
・魏より「親魏倭王」の称号が与えられる。
<240年>
・魏より、命令書、金印、鏡、などが与えられる。
<243年>
・卑弥呼が、魏に錦、絹などを送る。
<245年>
・魏から、黄幢(黄色い軍旗)が与えられる。
<247年>
・魏が、辺境監督官の張政(ちょうせい)を倭国に派遣する。
・倭国と狗奴(くな)国との戦い。
<? 年>
・卑弥呼が死去。倭国が乱れる。
<? 年>
・卑弥呼の宗女壹与が王となり、国が治まる。
<266年>
・壹与が、魏に真珠、青メノウなどを送る。

つまり、この時代、倭国は国内を治めるとともに、新羅などの朝鮮半島の国々とも戦いながら、中国との関係を必死になって築こうとしていたことがわかります。


【現代訳】
23.(儒礼)王は、臣下に語って、「倭人は、しばしばわが城や村を侵犯している。百姓は、安心してくらすことができない。自分は、百済とともに(事を)企てようと思っている。(百済と)同時に海を渡って侵入し、その国を攻撃するのは、どうだろうか」と語った。舒弗邯の弘権(こうけん)が答えて、「われわれは、水域に慣れておりません。危険を冒して遠征すれば、おそらく思わぬ危難に遭うでしょう。まして百済は、欺くことが多く、いつもわが国を併合しようとする野心をいだいております。そこで多分、(百済と)ともに同じ企てをすることは、困難でありましょう」と言った。王は、「よかろう、分かった」と言った。
24.倭国と交聘した。<300年正月条>
25.倭国王は、使者を遣わして、王子のために婚姻の要請をした。阿滄(あさん)の急利(きゅうり)の女(むすめ)を倭国王に送った。<312年3月>
26.倭国は、使者を遣わして、婚姻の要請をした。辞退するのに、女子が、すでに嫁に行ってしまったことを理由とした。<344年2月条>
27.倭王が、書を送って国交を絶った。<345年2月条>
28.倭兵が、突然風島(ふうとう)にやってきて、辺境の民家を略奪した。さらに進撃して金城を包囲し、激しく攻めてきた。(・・以下略・・)<346年条>
29.倭兵が大挙してやてきた。(奈勿(なもつ))王は、これを聞いて、おそらく抵抗することは不可能であるとみて、草の人形数千体を造らせ、衣服を着せ武器を持たせて、吐含(とがん)山の麓に立て並ばせ、勇敢な兵士一千人を斧峴(ふけん)の東方の原野に待ちぶせさせた。<364年4月条>
30.倭人は、多勢に頼って、まっすぐに進撃してきた。待ふせておいた兵士を出撃させて、その不意をついた。<364年4月条>
31.倭人は、大いに敗れ敗走した。追撃してこれを殺し、ほとんど壊滅させた。<364年4月条>
32.倭人が、来襲して金城を包囲した。五日経っても包囲を解かなかった。(・・以下略・・)<393年5月条>

【解説】
新羅王が、百済と同盟を結び倭国を攻撃することを提案しますが、家臣から却下されます。このあたり、諸国入り乱れ、お互いに牽制しあっていた様子が、うかがえます。百済は、倭国と近しい関係であり、663年の白村江で、百済の遺民軍とともに、唐・新羅連合軍と戦いました。


【現代訳】
33.倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣(みしきん)を質とした。<402年3月条>
34.倭兵がやって来て明活(めいかつ)城を攻撃し、勝つことができないで帰っていった。(実聖)王は、騎兵を率いて、これを独山の南方で待ち受け、再び戦って、これを撃破した。殺したり捕虜としたものは、三百余名であった。<405年4月条>
35.倭人が東辺を侵犯した。夏六月に、またも南辺を侵し、百人を略奪した。<407年3月条>
36,(実聖)王は、倭人が対馬島に軍営を置いて、武器や資材・食糧を貯え、わが国を攻撃しようと企んでいると聞いて、わが国は、まだ倭が出兵してこない前に、えりぬきの兵をより抜いて、兵站を撃破しようとした。(・・以下略・・)<408年2月条>
37.倭人と風島で戦い、これに勝った。<415年8月条>
38.王弟の未斯欣が、倭国から逃げ帰った。<418年秋条>

【解説】
倭国と和解し、王の子供未斯欣(みしきん)を質とした、とあります。この当時から、王の子供を相手国に差出し、和睦の担保をとる方式があったことがわかります。その未斯欣も、後に倭国から逃げ帰ります。
さて、このように倭国とのやりとりが、続いていますが、対する日本側では、どのような記録が残っているのでしょうか?。
日本書紀の記録としては、神功皇后の時代に当たります。世に言う”三韓征伐”です。以下、神功皇后の伝承です。

”夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある。
皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。”(WIKIPEDIAより)

実は、日本書紀においては、卑弥呼と壹与の魏への朝貢( 238年他)を、あたかも神功皇后の事績のように記載しております。これにより、
卑弥呼=壹与=神功皇后
と、読み手に思わせようとしていることが、多くの研究者により指摘されております。それが、神功皇后架空説にもつながっています。

架空かどうかは別として、神功皇后が生きたとした場合の実際の年代は、干支で二周ずれている、つまり60年 × 2 =120 年 繰り下げるべきである、とされてます。
となると、神功皇后が政事を執り行ったのも、321年から389年の間ということになります。
日本書紀では、249年、262年に、新羅遠征を行ったことになりますので、これも実年代としては、369年、382年になります。そうなると、三国史記の記事の年代と合ってこます。
ただし、一般的には、神功皇后が実際に新羅遠征をしたのではなく、倭国の長年の新羅遠征をひとまとめにして神功皇后の事績にした、とされています。卑弥呼、壹与の事績を、取り込んだのと同じ手口です。

神功皇后については、伝承も多いのですが、つじつまが合っていないことも多く、謎とされています。卑弥呼の時代(3世紀前半)から新羅遠征(4世紀後半)までの、200年近い出来事を、神功皇后一人の事績に取り込んだわけですから、無理も出ます。

このように神功皇后は、日本古代史においても特異な存在です。では、なぜ日本書紀の編者たちは、このような無理をしてまで、神功皇后の事績を造り上げたのでしょうか?。それは、とても興味深いテーマなので、いずれ取り上げたい思います。

<神功皇后朝鮮遠征絵図、月岡芳年作、1880年>
神功皇后2  


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テーマ : 歴史
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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