邪馬台国までの道程をたどる(3) 対海国を経て一大国へ~一行がゆっくり進んだ理由とは?」

前回まで、帯方郡から船に乗り、韓国北西部に上陸して後、朝鮮半島東南端の狗邪韓国(現在の釜山付近)まで徒歩で進む道程を、見てきました。
今回は、ここから再び船に乗り、日本本土へ向かう旅になります。

【原文】
始度一海千余里、至対海国、(中略)、所居絶島、方可四百余里、土地山険多深林、道路如禽鹿径、有千余戸、良田無、食海物自活、乗船南北市糴
【訓み下し】
始めて一海を度(わた)る、千余里、対海(たいかい)国に至る。(中略)、居る所絶島、方四百余里なる可(べ)し。土地は山険しく、深山多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。

【解説】
ここから、船に乗り、対海(たいかい)国を目指します。対海国とは、対馬国のことです。
さて、対馬国へ向けて船が向かうに際して、大きな障害が立ちはだかっています。対馬海流です。潮の速さは、1 ノット、現在でも、船の航行に影響を及ぼしています。古代の航行に対する影響が、多大なものであったことは、想像に難くありません。実際、野生号は、横断に失敗しています。
ただし、多少なりとも、安全に航行するルートはあったはずです。それは、海流を利用する方法です。具体的には、できるだけ西の方角から出発して、海流に乗りながら、横断するルートをとることです。
ちなみに、野生号は、釜山付近から、海流の流れに対して直角に横断するルートを取り、失敗しています。
そのように考えると、朝鮮半島側の最終出港地は、釜山からかなり西行した地点、巨斉(コジェド)島付近と見られます。
そのルートを取れば、狗邪韓国から、対馬海流を避け、沿岸沿いに巨斉島に向い(約20km、250里)、ここで一泊。翌朝対馬に向い、約70km、900里を一気に横断すれば、到達できます。

邪馬台国まで(5) 
対馬では、二つの島のうち、南島に到着したと思われます。なぜなら、南島は、方400余里(約30km余)という条件に、符号するからです。
なお、よく勘違いしがちですが、この方400里というのは、必ずしも、"実際に島が400里の正方形であった"と解釈する必要はないでしょう。当時、地図などなかった時代です。まして、初めて訪れた島の形など、正確に把握できるはずもありません。方400里というのは、あくまで、一行が歩いてみて、島全体が四角い形をしていて、その一辺を歩くと、400里くらい歩くことになる大きさである、といったことで、解釈すべきでしょう。

一行は、島の北西側に到着、一泊してから、島沿いに進み東側の厳原港に到着したルートが考えられます。ここまで歩いた距離は、400余里の正方形の二辺に近いとして(「邪馬台国はなかった」より)、
400余里(約30km)×2=800余里(約60km)
となります。1日300里進んだとして、3日間です。翌日出港し、対馬南端に到着、ここで一泊し、翌日、一大国へ向かいます。
邪馬台国まで6)

ところで、皆さんのなかには、「どうして一行は、こんなにも起伏の多い山の中のくねくねした道を通って、ゆっくり進んだのか?」と不思議に思われた方もいるのではないでしょうか?。単に邪馬台国へ行くだけなら、島にちょっと寄って、休憩するとともに物資の補給をして、すぐに出発すればよさそうなものです。

その答えは、この一行の目的にあります。この渡航記録は、238年に卑弥呼が魏に朝貢したことに対し、240年に、太守の弓遵(きゅうじゅん)が、建中校尉の梯儁(ていしゅん)を派遣し、命令書、金印などを持たせ、倭国へ派遣した際の記録を基にしていると思われます。
その命令書の文章が、魏志倭人伝にありますので、再掲します。

その年の十二月,皇帝の命令書が、倭の女王に与えられた。
親魏倭王の卑弥呼に勅命を下す。帯方郡の劉夏が、使いをよこして、そなたの大臣の難升米(なんしょうまい)と副使の都市牛利(としぎゅうり)を送ってきて、男の奴隷四人、女の奴隷六人と、まだら模様の布を二匹二丈を献上するため、都へ来させた。そなたのいる場所は、遥か遠いにもかかわらず、わざわざ使節を派遣して貢物を持参させた。
このことは、そなたの忠孝の証であり、私は、そなたたちに、感動するにいたった。
そこでそなたを親魏倭王に任命しよう。紫の綬(ひも)のついた金印も授けよう。包装して帯方太守に託し、授けるものとする。そなたは、国民を教えさとし、忠誠を誓うようにさせるのが良い。そなたの使者の難升米と牛利は、遥か遠い道を、並大抵ではない苦労のすえに、やってきた。今、難升米には率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利には率善校尉(そつぜんこうい)の位を与え、青い綬のついた銀印も授けよう。この二人を引見して、慰労してから、帰国させることにした。
そこで、赤地に二頭の竜をデザインした錦を五匹、赤いシャギー・モヘアの布地を十張、茜色の紬を五十匹、紺青の織物を五十匹など、そなたがもたらした貢物に報いてとらせよう。また、そなたには、特に、紺地に模様のついた錦を三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれを五十斤を、与えることにしよう。すべて包装して、難升米、牛利に託しておく。
帰国したさい、目録と照らし合わせて、そなたの国民どもに展示し、わが中国が、そなたたちの国に好意をもっていることを、よく知らしめるがよい。だからこそ、わたしは、そなたによいものばかりを、丁重にとらせるのである。」

つまり、卑弥呼の魏に対する忠義に対する返礼として、手厚い下賜品を与え、倭国の人民に対して、中国が倭国に対して好意をもっていることを示すとともに、魏の威光を知らしめることが、目的だったわけです。
ですから、島に上陸してから、わざわざ島民の住んでいるところへ行き、下賜品を見せて廻ったというわけです。今まで見たこともないような豪華絢爛な品々を見た島民は、さぞかし驚き、また魏の国力を思い知らされたことでしょう。

さらに古田武彦氏は、この渡航記録にはもうひとつの目的があると指摘しています。それは「軍事報告書」としての役割です。
当時の中国は強大であり、周辺諸国を配下に置くことによる朝貢政治を行っていました。それを可能にするには、当然のことながら、配下の国の事情に精通していなければなりません。どんなに毎年朝貢してきても、いつなんどき反旗を翻すかわからないわけで、その有事の際の備えをしておく必要もあります。

倭国については、朝貢はしてきたものの、今まで倭国内の詳細については記録がありませんでした。不安定な朝鮮半島の情勢のなか、倭国が、魏に対して攻撃してくる可能性もありますし、そこまでいかなくとも倭国が、周辺諸国から攻められる場合もあります。その際には、魏が倭国に援軍を送らなくてはならない状況も考えられます。

倭国まで軍隊を送るには、倭国に至るまでの、距離、日数、周辺諸国の様子を、熟知しておかなければなりません。そうした基礎情報があって、初めて、どのくらいの軍隊を送り、兵器や食料を確保すればいいのかが計算できます。そのように考えると、島の様子を詳細に記載しているのにも、うなずけます。また、軍隊を進めることを前提とすれば、一日の行程がゆっくりとしたものになるのも、当然でしょう。

今まで、東夷とくに倭国については詳細な記録がなく、三国志魏志東夷伝序文に、それを初めて記録できたことが誇り高く記載されていることは、以前お話ししましたが、こうした背景を考えるとよく理解できるのではないでしょうか?。

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邪馬台国までの道程をたどる(2)~一行は一日にどれくらいの距離を進んだのか?

前回は、帯方郡から舟で韓国北西部に上陸して後、韓国内陸をジグザグに進み、朝鮮半島東南端の狗邪韓国(現在の釜山付近)まで旅してきました。
その距離は、いわゆる短里(1里=約75m)で、7000余里、すなわちおよそ525kmほどであるとお話ししました。

ところで、一行は、7000余里を、どのくらいの日数をかけて進んだのでしょうか?。

なぜ、ここで敢えて日数にこだわるのかというと、後に出てきますが、帯方郡から邪馬台国までを「水行10日、陸行1月」と記載しており、邪馬台国の位置比定に、極めて重要な要素だからです。

ここで一つ見逃しがちですが、ポイントがあります。後年になって編纂された「隋書俀(たい) 国伝」にある、「倭人は里数を計ることを知らず、距離を計るには日数で数える」との記載です。
つまり、"当時の倭人は、距離を測ることを知らなかったので、その代わりに、目的地へ行くまでにかかる日数で測っていた"ことになります。逆に、日数がわかれば、目的地までのおおよその距離がわかることになります。

さて、それでは詳細に見ていきましょう。まずは、陸上を歩いて行く「陸行」についてです。

魏志「魏志六、
裴松之注所引「英雄記」」に、「昼夜三百里来る」とあります。
また、同じ三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だったと考えられます。

現代でも、一般的に、人の歩く速度は、ゆっくり歩けば時速4kmほどです。300里を、300里 × 75 m/里 = 22.5 km として計算すると、一日あたり進む時間は、
300里 ÷4km/時 = 22.5km ÷4km/時 = 約5.6時間
ですから、一日約6時間となります。当時は、道も整備されていないなか、多くの荷物を積んだ荷車を、人力でゆっくりと押して行くわけですから、妥当な数字でしょう。結論として、「1日あたり三百里、20~25km程度進んだ」です。

次に、水行すなわち船で進む場合です。

1975年に、韓国の仁川から博多まで古代船を復元し実験航海(47日間)した「野生号」の経験から、条件によって変わるものの、
「約3ノット(5.4km/時)程度+(または-)潮流の速度」だったと考えられています。
当時は手漕ぎの船だったとして、一日7時間程度漕ぐと、
5.4km/時 × 7時間 = 約38km=約500里
進みます。

野生号

野生号

「千里(短里で約75km)」を航海すれば、所要時間は、
75km÷5.4km/時 = 約14時間
程度で、1日7時間手漕ぎで漕いで、2日間の航海となります。
つまり、「水行千余里」と記載されていれば、「船で二日かかる」ということです。

ここで注意しなくてはいけないのは、、「水行千余里」とあっても、、短絡的に「実際の距離も千余里である」とは限らないことです。当時は、海上の距離を計ることなど不可能でしたから、距離はあくまで目安であり、重要なのは、「船で二日かかる」ということです。
なお、当時すでに中国では、帆船があったとする説もありますが、それほどのスピードが出たとも考えにくいので、同様とみなしていいでしょう。

以上をまとめると、
A.陸行の場合
一日あたり300里、20~25km程度。
B.水行の場合
一日あたり500里、35~40km程度(あくまで目安)。
となります。

さて、それでは前回お話しした、帯方郡から狗邪韓国まで、どのくらいの日数がかかったのかを見ていきましょう。

帯方郡から狗邪韓国まで、7000余里の内訳として
a.帯方郡〜韓国西北端 (水行)
1000里、約75km
b.韓国西北端〜狗邪韓国(陸行)
6000余里、約450km
でした。

すると、それぞれにかかった日数は、
a.帯方郡〜韓国西北端 (水行)
1000里÷500里/日=2日
b.韓国西北端〜狗邪韓国(陸行)
6000余里÷300里/日=20数日
となります。

以上を、図示します。
邪馬台国まで(4)

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邪馬台国までの道程をたどる(1)〜帯方郡から狗邪韓国までの道程を決定づける「短里」とは?

前回まで、日本神話、中国史書、朝鮮史書などを読みながら、倭人発祥の地から、倭国、そして日本国誕生までの、ストーリーを描いてきました。
ところで、読者の中には、「ちょっと待ってくれよ。そんな勝手な解釈をされても困るよ。」とお考えになった方もおられるのではないか、と課題提起しました。
たとえば、
1.邪馬台国が、博多湾岸にあったというが、魏志倭人伝をいくら読んでも、そうはならない。
2.神武天皇東征が史実であり九州王朝の一分派だったと、どうしてわかるのか。
3.遺跡などの証拠となる科学的データは、出ているのか。
などです。
他にも多々あるかと思われますが、これからひとつづつお話ししていきます。

まずは、日本古代史最大の謎とも言うべき、"邪馬台国は、どこにあったのか?"についてです。
今までは、三国志魏志倭人伝などを根拠にして、お話ししてきましたが、その魏志倭人伝の読み方がさまざまであり、そこに混乱の原因があるわけです。

これから、数回にわたり、魏志倭人伝を詳しく見ていきます。
原文をひとつずつ読みます。なお、
・「邪馬台国はなかった(古田武彦著)」
・久留米大學公開講座2014年「魏志倭人伝と邪馬壹国への道」(正木裕)
を参考にします。
はじめは、帯方郡から朝鮮半島東南端までです。

【原文】
、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里
【訓み下し文】
よりに至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸狗那韓国(くやかんこく)に至る七千余里。

【解説】
郡とは、帯方郡のことです。帯方郡とは、古代中国によって置かれた軍事・政治・経済の地方拠点です。詳しい位置はわかっていませんが、現在のピョンヤン南部からソウルのあいだにあったとされています。
その帯方郡から、倭国への道程が始まります。
まず、「循海岸水行」とありますが、これは「海岸の地形にそいつつ、水行する」の意です。
「歴(ふ)るとは、「次々に見る」の意。そして「乍(たちま)ちA,乍(たちま)ちBとは、「AとBとを小刻みに繰り返す」意義の熟語です。以上から、「海岸に循って水行して、帯方郡西南端にいたり、そこから上陸して陸行にうつり、南下・東行をいわば「階段式」に、小刻みに繰り返して、狗邪韓国 (くやかんこく)にいたった」となります。
なお、狗邪韓国とは、現在の釜山付近にあった倭国北西端の国であり、加羅(から)[または伽耶(かや)]国と推察されます。
図示すると、このようになります。

邪馬台国まで(1)

そしてもうひとつのポイントが、帯方郡から狗邪韓国までの距離7000余里です。ここで、1里の距離が問題となります。私たちは、昔、歴史の授業で習った一里塚を思い出し、1里=4000mと、考えてしまいますが、当時の一里は、違います。
同じ三国志魏志のなかの韓伝に、国土を「方四千里可(ばか)り」と記載しており、韓国は一辺四千里の正方形であることがわかります。

一辺の距離が約300km=約300,000mとして、
4000里=約300,000m
すなわち、
1里=約75 m
となります。

下図の通りです。邪馬台国まで(2)
以上はごく簡単な算数で、議論の余地はありません。
里の標記は、これから沢山出てくるのですが、実は、この1里の距離が定まらないために、邪馬台国の位置が、定まらない最大の要因のひとつとなっています。
どういうことかと言いますと、一般的には、古代中国では、1里=約400メートルとされており、それを基に、道程を計算しているのです。だから邪馬台国沖縄説など、はるか遠い地域の説が出てきたり、さらに方角も変えて邪馬台国畿内説となるわけです。

それに対して、古田武彦氏が、"魏晋朝では1里= 約 75 mであった"という、いわゆる「短里説」を唱え、邪馬台国の位置を、比定しました。
この説は、現在にいたっても学会で認められていないようですが、先に記した「韓国の方四千里」を検証すれは、自ずから結論が出ると思うのですが、いかがでしょうか?。
なお、「1里=75m」は、他資料により多面的にも導きうるのですが、話が詳細になりますので、別の機会に取り上げたいと思います。

そして、帯方郡から倭国の北岸である狗邪韓国までが7000余里です。
7000余里=7000余里 × 75 m/里= 525,000m余り=525km余り
となります。
韓国内の陸行を6000余里として、
6000余里=6000余里×75m/里 =450,000m余り=450km余り
とすると、
帯方郡から韓国北西部までの水行が、
7000余里 -  6000余里 = 1000里=1000里 × 75m/里 = 75,000m =75km
となり、地図上の距離ともほぼ合ってきます。

邪馬台国まで(3)  

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中国、朝鮮資料と日本神話を融合させると、あら不思議・・・!?

ここまで、長きにわたり、中国史書や朝鮮史書などの資料を読んできました。その中には、さまざまなことが書かれており、一見すると、何の脈絡もないようにとらえられてしまう内容もありました。しかしながら、視点を広くかつ大きくもち、日本人の祖先のひとつとされる倭人の有史以来の流れを、時代を追って組み立てていくと、ひとつの壮大なストーリーが描けることがわかります。そのストーリーとは、

"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいた。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国した(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸した。倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成したが、その中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹(やまい)国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)であった。邪馬壹国は、その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立した。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王である。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていった。それに対して、一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代した。その中で、国名を日本国と改名した。"

というものです。ここまでは、前回の復習です。

さて、このブログでは、スタートから、何回かにわたって、神話についてお話ししました。そこでは、"神話とは単なる古代人の作り話ではなく、何らかの歴史的史実を、わかりやすく表現したものである可能性がある"として、具体例を挙げ、お話ししました。そして、古事記、日本書紀などの日本神話についても、概要を紹介しました。

それでは、上に挙げた中国、朝鮮史書と、日本神話とは、どのような関係にあるのでしょうか?。何の関係性もないのでしょうか?。考えてみましょう。

まず、古事記、日本書紀の、神話部分の概略を挙げます。”国産み”から”国譲り”そして、”神武東征”までです。
"イザナギ、イザナミの両神は、8つの島を産みます(国産み)。両神の産んだ多くの神々のうち、最後に産まれたのが、天照大神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)らです。イザナギは、天照大神に高天原を、須佐之男命に海原を治めさせようとしますが、乱暴狼藉を働いたため、須佐之男命は高天原を追放され、出雲へと降り立ちます。その地で結婚し、出雲を治める大国主命(おおくにぬしのみこと)を娘婿とします(古事記では6代孫となっている)。
高天原を治めていた天照大神たちは、「葦原中国(あしはらのなかつこく)を治めるのは、天照大神の子孫だ。」として葦原中国へ子、孫たちを遣わして迫り、大国主命は国を譲ります(国譲り)。そして、天照大神の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)は、筑紫の日向に降り立ちます(天孫降臨)。
神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)は、日向の高千穂から東へ旅立ち、宇佐、阿岐国、吉備国と移動して浪速国へ進みます。そこで長髄彦(ながすねひこ)と闘い破れるものの、紀国へ回り、そこから北上、大和へ入り、再び長髄彦と闘い、ついに勝利を収め、神武天皇として即位します。"

さて、いかがでしょうか?。上に挙げた中国、朝鮮史書とじっくり見比べてください。

何か気づきましたか?。

よくよく見較べると、大枠のストーリーとして、似ている点があります。
具体的には、
1.日本人の祖先は、どこからかやってきて九州北部(筑紫)に定住した。
2.のちの神武天皇は、筑紫から東へ向かい、畿内大和に居を構えた。
という点です。

1については、神話では、やってくる前の場所を、高天原としていますが、これを九州上陸前の場所、すなわち朝鮮半島南部から対馬、壱岐にかけて、としたらどうでしょう。話がぴったり合うのではないでしょうか?。
古田武彦氏は、「"高天原(たかあまはら)とは、抽象的な概念ではなく、"海人(あま)族"の住んでいる地域の中心拠点を指している。」との説を提唱しました。そして、「その海人族が、もともと日本にいた人びとに闘いを挑み、勝ったのが"国譲り"であり、九州北部に上陸したのが、"天孫降臨"である」とされました。(「盗まれた神話」)。
そんなのは、「単なるこじつけだ」との意見もありますが、確かにそのように解釈すると、すっきりします。
中国史書にも、倭国王の姓を「阿海(あま)」と記録されていることも、この説を、後押しします。
ちなみに、わたくしたちの使う「天国」も、もとは、「てんごく」ではなく、「あまぐに」だったことになります。

2については、新唐書日本伝に、
「国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」
とあります。
こちらについては、日本側の記録をもとに中国側が記載したともみられます。また都を筑紫(九州)から大和に遷したとするいわゆる東遷説になってます。いずれにしろ当時の中国では、「神武天皇の時代に"九州→大和への移動"があった」ということを認識していたということです。

以上のように考えると、うまく解釈できますので、冒頭のストーリーに補足します。

"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいました。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国しました(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸しました。上陸した倭人の支配者である天照大神たちは、元々住んでいた日本人たちの支配者大国主命に対して支配権の譲渡を迫り、大国主命は譲ります(「国譲り」神話)。そして天照大神は、孫の瓊瓊杵尊を、支配者として送ります(「天孫降臨」神話)。
倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成しました。一方、その一分派であった神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)は、東へ向かい、大和に居を構え、神武天皇として即位しました(「神武東征」神話)。
倭国の中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹(やまい)国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)でした。邪馬壹国は、その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立しました。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王でした。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていきました。それに対して、一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代しました。その中で、国名を日本国と改名しました。"

国譲り神話
国譲り神話 


神武東征神話

img_1594846_47818959_0.jpg  

いかがでしょうか?。すんなりハラ落ちしたでしょうか?。

一方、、読者の皆さんの中には、
「ちょっと待ってくれよ。そんなのは都合のいい勝手な解釈に過ぎないのではないか?」
との考えをもたれた方もいると思います。それらの疑問に対しては、今後、少しずつお話していきます。

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中国、朝鮮資料のまとめ ~ 倭人発祥の地から倭国そして日本国誕生まで

ここまで、中国史書や朝鮮史書をはじめ、多くの資料を読んできました。節目節目でポイントをまとめてきましたが、情勢量が膨大であり、時代が多岐にわたる上、さまざまな国名、地名や人名なども出てきて、混乱された方もおられるかと思います。今回は、これまでの内容のポイントを、時系列でまとめました。

【倭人の源流】
・倭人は、中国南方、主に江南と呼ばれる揚子江(長江)以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた越族(百越)のうちのひとつの民族であり、揚子江下流域に住んでいた。
・一方、黄河中流域には殷(いん)王朝(BC17世紀-BC1046年)が栄えていた。
・古公亶父(ここうたんぽ、周王朝初代武王の曾祖父)の長男太伯(たいはく)は、倭人の住む揚子江下流域に南下して、国(のちの)を作った。(BC12-11世紀頃)
・太伯の弟の子(武王)は、殷を滅ぼし、周王朝の時代(BC1046-BC771年)となった。
・倭人は、その中国周王朝に、暢草(ちょうそう、薬草)を献じていた。[論衡]
・春秋戦国時代に入り、の滅亡(BC473年)、の滅亡(BC306年)など、多くの国々の興亡を経て、始皇帝の秦が初めて中国全土を統一した(BC221年)。しかしそれも束の間、劉邦率いる漢に滅ぼされ、漢が中国統一した(BC206年)。
・こうした、長年の動乱により、多くの民が、四方に逃れていった。そのうちの、ある集団は、朝鮮半島へ行き南下して、あるものはさらに日本本土へと渡っていった。中国本土から舟で直接日本へ渡った集団もあったと思われる。
・そうした人びとが、イネを始めとして、さまざまな文化、風習を、日本へ持ち込んだと考えられる。

【倭国の誕生】
・倭人たちは、朝鮮半島南部から九州北部にかけた領域を、拠点とした。
・しだいに勢力を広げ、百余国の国々を形成した。[漢書地理志ほか]
・それらの国を、総称として、倭(委、ゐ)国と呼んだ。[後漢書東夷伝]
・その中心となる国は、博多湾岸にあった。[三国志魏志倭人伝]
・その一分派であった、のちの神武天皇は、東へ向かい、畿内に居を構えた。[新唐書日本伝]
・57年、倭奴国の使者が、後漢の光武帝に朝貢した。光武帝は、金印「漢の委奴国王」を授けた。[後漢書東夷伝]
・105年、倭国王の帥升(すいしょう)らは、皇帝の謁見を願ってきた。[後漢書東夷伝]

【邪馬壹(やまい)国】
・倭国の国々のうち、使者や通訳がやってくるのは、30国ちょっとである。
・帯方郡から、倭国の中心「邪馬壹(やまい)国」までは、12000里、舟で十日、陸を行くこと一月である。
・海にもぐって魚介類を採るなど、海洋民族であり、南方の風俗と同じである。
・規律正しい。
・もともと男を王としていたが、内乱となり、一人の女を王と立てた。この王を卑弥呼という。
・祭祀政治を司り、人々を治めた。弟が政治を補佐していた。
・見たことのある者は少なく、召使いの女たち千人が、世話をしていた。
・男は一人だけ出入りを許され、命令を伝えたりしていた。
・東に海を渡ると別の倭種がいる。
・小人の国がある。東南に海で一年いくと、国がある。
・238年、卑弥呼は魏に使いを送った。魏の皇帝は、卑弥呼を親魏倭王に任じた。
・240年、魏の皇帝は、卑弥呼に、金印、鏡、絹などを与えた。
・247年、狗奴国との戦い。
・卑弥呼が死に、男の王を立てたが、ふたたび争いになった。
・卑弥呼の縁続きの壹与(いよ)を立て、国は収まった。[以上三国志魏志倭人伝]
・倭人は身体に入れ墨をしており、呉の太伯の子孫だと称していた。[翰苑]
・やがて邪馬壹国は、邪馬臺(やまだい)国と、呼ばれるようになった。[後漢書東夷伝]

【倭王旨から五王の時代】
・372年、百済は、倭王旨に七支刀を献上した。[七支刀銘文]
・421年、高祖武帝が、倭国王讃(さん)に、官職を授けた。
・425~451年、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)が、朝貢し、官職を賜った。
・478年、武(ぶ)が、上表文を奉り、使持節・都督倭・新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命された。[宋書倭光伝]
・この間、前後も含め、長きにわたり、朝鮮半島において、新羅、百済、高句麗などと戦い・和睦を繰り返した。[三国史記、広開土王碑]

【俀(たい)国】
・国は、東西五ヶ月行程、南北三ヶ月行程(朝鮮半島南部から西日本)。
・600年に、王の名は、阿海(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)に使者を派遣した。
・妻は、雞弥(きみ)、太子は利歌弥多弗利(りかみたふり)という。
・阿蘇山という山がある。
・607年、多利思北孤が朝貢した。国書に「日出ずる処の天子より、日没する処の天子へ」とあり、煬帝(ようだい)は、不機嫌になった。
・608年、煬帝は、使者裴世清(はいせいせい)を派遣した。倭国王が迎え、饗応した。[以上隋書俀(たい)國伝]
・俀(たい)国とは、倭(い)国⇨大倭(たいい)国⇨俀(たい)国へと、変化したものと推察される。

【倭国から日本国へ】
倭国は、古の倭奴(いど)国である。[旧唐書倭国伝]
日本国は、倭国の別種である。
・唐に入朝した日本人は自慢を言い、信用できない。[旧唐書日本国伝]
・国王の名は、阿海(あま)氏、初代国王は、天中御主(あまのなかみぬし)、彦瀲 (ひこなぎさ)に至るまで32代、筑紫城に住んでいた。
・彦瀲の子神武が立ち、都を大和に遷した。

・701年に、文武が立ち、大宝と改元した。[以上新唐書日本伝]
・670年頃、倭国から日本国へ改名した。[三国史記新羅本紀]


【解説】
いかがでしょうか?。考察も交えていますが、さまざまな史書に多岐にわたり記載されていることが、決してバラバラな話ではなく、あるひとつのストーリーのもとに描かれていることが、おわかりいただけたことと思われます。そのストーリーとは、簡単に言うと、
"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいた。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国した(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸した。倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成したが、その中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)であった。その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立した。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王である。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていった。それに対して一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代した。その中で、国名を日本国と改名した。"
というものです。

もちろん、原文は漢文であり、判読できない文字もあるので、さまざまな読み方があり得ます。各部分において、「こういった解釈をすべき」との意見も多々あるでしょう。しかしながら、それらは部分部分の解釈であって、一連の流れの中で全体を見据えたなかで解釈していくと、上でまとめたストーリーが、もっとも自然な解釈になるのではないでしょうか?。

以上の流れを図示すると、このようになります。

倭人から日本国へ

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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