【感謝! 100回記念】これまでの人気記事からわかること

おかげさまで、このブログも100回となりました(正確には、前回ですが・・・)。

始めた当初は、どのようにストーリーを展開していけばよいのか、試行錯誤の連続でしたが、どうにか軌道に乗せることができました。
開始より約1年半、皆様からの暖かいコメントをいただくことも多く、たいへん励みになりました。また、かなり踏み込んだ専門的な質問や問題提起をされる方もいるなど、日本古代史に対する関心の高さも、改めて認識いたしました。ありがとうございます。

今回は、100回を記念して、これまでで人気の高かった(アクセス数が多かった)記事をランキングにして、振り返りたいと思います。
あまたいらっしゃる日本古代史ファンの方々が、何に関心をもっているのかがわかり、興味深いです。

まず、第五位です。
「日本の神々の系譜とは・・・」(No.7,2015/3/18号)
です。
神々の系譜を、国産みから、国譲り、天孫降臨、神武天皇東征までの流れで整理した記事です。昔から何となく聞いたことがある神々が、どのような関係にあるのか、そして神武天皇までどのようにつながっているのか、については、きちんと理解している方は少ないと思います。関心をお持ちの方が多いことを,改めて認識しました。
キーワード検索でも、「神々の系譜」はとても多いです。


神々の系譜2   


第四位は、
「旧唐書日本国伝を読む その1 ~ 倭国と日本国が別の国である決定的な証拠!」(No.39、2015/8/27号)
です。
旧唐書には、「倭国伝」と「日本国伝」の二つがあり、「日本国伝」の冒頭に、
”日本国は、倭国の別種である”
という衝撃的な記載がされています。
これを素直に読めば、
”倭国と日本国は別の国である”
としか読みようがありません。ところが、この衝撃的な記事のことを知っている人は、ほとんどいません。それゆえ、関心も高かったのかもしれません。

第三位は、
「宋書倭国伝を読む その1 ~ 倭の五王が中国皇帝に求めたものとは?」(No.27、2015/6/28号)
です。
「宋書」は、一般的にはさほど知られていない史書だと思われますが、人気なのは「倭の五王」について、記載されているからでしょう。
「倭の五王」は、中国皇帝に対して称号を求め続けました。最終的に、武は、使時節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)新羅(しらぎ)任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)六国諸軍事(りっこくしょぐんじ)・安東大将軍・倭王に任命されました。ほぼ朝鮮半島南半分についての管轄権を認められたわけですが、百済だけは、除外されています。つまり、百済だけは、独立した国とされていたことがわかります。

第二位は、
「隋書倭国伝を読む その8(最終回) ~ 聖徳太子の遣隋使はなかった!?」(No.37、2015/8/17号)
です。
これは納得ですね。607年に、あの有名な隋の煬帝(ようだい)へ、”日出ずる処の天子より、日没する処の天子へ”の国書を出し、煬帝を不機嫌にさせました。翌608年に使者がやってきました。実は、古事記、日本書紀には、国書および煬帝を不機嫌にさせた記載がありません。書いてあるのは、中国側の史書「隋書俀(たい)国伝」にです。しかも、その記事によると、出した人は、俀(たい)国王の多利思北弧(たりしほこ)という明らかに男性です。当時の天皇は女性の推古天皇、摂政が聖徳太子ですが、両名とも記事中に名前はありません。
となると、手紙を出した多利思北弧は、推古天皇でもなく、聖徳太子でもありえません。結論は、九州王朝の国王だというお話をしました。

そして、いよいよ第一位です。ダントツの一位なのですが、皆さんは、どの記事だと思われますか?。
歴史の授業でも習った”あれ"についてです。聞けば、「なるほど、やっぱり」という感じです。皆さんの、関心の高さが改めてわかりました。

それでは、第一位です。
「後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは?」(No.24、2015/6/12号)
です。
皆さんの予想は、どうだったでしょうか?。
歴史に興味がなくとも、江戸時代に福岡県博多湾の志賀島に出土したとされるこの金印のことは、知っている方は多いでしょう。そして、多くの人がもつ疑問は、
「何で、よりによって志賀島なのだ?」
というものです。
また、刻印されている文字の読み方については、
「かんのわのなのこくおう」
であり、倭の奴(な)国の国王が、中国皇帝からもらったものだ、と教わりました。これが、間違いであり、
”正しくは、「漢の倭奴(いど、いぬ)国王」と読むべきものであり、「倭奴国」とは「倭国」の卑称である
というものです。このように解釈することによって、初めてすべての疑問が解消されます。

<志賀島の金印>
King_of_Na_gold_seal.jpg 

ちなみに、検索キーワードも、「かんのわのなのこくおう」が、とても多かったです。この読み方に疑問をもたれている方が多い証かもしれません。

以上の他、新しい記事なので現時点では番外でありますが、急上昇中の記事が二つあります。

10位の、
「広開土王碑を読む ~ 一線級の金石文が語る古代朝鮮半島の激闘 」(No.66、2016/2/4号)

20位の、
「七支刀(しちしとう)銘文を読む ~ 物部氏ゆかりの石上神社秘宝が物語る古代日本の真実とは?」(No.69、2016/2/11号)
です。
好太王碑七支刀についての記事です。どちらも、かなり古代史に興味がなければ知らない言葉と思われますが、読者の皆さんのレベルの高さに驚かされました。

以上が、人気記事ランキングです。テーマとしては、神々の系譜、聖徳太子の遣隋使、倭国と日本国、倭の五王、志賀島の金印、広開土王碑、七支刀が人気であるということになります。私としては、どの記事についても「一球入魂」ならぬ、「一筆入魂」して書いているのですが、これだけばらつきが出るのも、おもしろいですね。

キーワード検索では、「神々の系譜」「かんのわのなおこくおう」「宋書」「隋書」「広開土王碑」が目立ちました。とくに、先週、「広開土王碑」の検索が急増しました。テレビか何かで、取り上げられたのでしょうか?。

意外だったのは、魏志倭人伝関連が、ひとつもベスト5に入らなかったことです。私としては、古代史ファンの方は、魏志倭人伝にもっと興味が高いと予想していたのですが・・・。

また、訪問者のプロバイダを見ると、大学からのアクセスも多くみられました。少しでも、古代史研究の参考にしていただき、真実解明に役立てていただければ幸いです。

今後は、こうしたデータも頭の片隅にいれつつ、記事を書いていきたいと考えてます。
これからも、よろしくお願いいたします!!。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(6) ~ 「国譲り」と「天孫降臨」はいつだったのか?

前回は、「二倍年歴」を基にして、神武天皇が東征したのはいつ頃か?、を試算しました。

今回は、「二倍年歴」から推測される、もう一つの事例を取り上げます。
”大国主命(オオクニヌシノミコト)が「国譲り」をして、ニニギノミコトが九州北部に上陸した「天孫降臨」はいつか?”です。

「国譲り」とは、”天照大神(アマテラスオオミカミ)が大国主命に国譲りを迫り、大国主命が譲った”という神話です。「天孫降臨」とは、国譲りを受けた「天(あま)族による日本本土進出」のことで、天照大神の孫であるニニギノミコトがリーダーであったため、「天孫降臨」と呼ばれています。
ニニギ、ホヲリ、コノハナ、神武 


ここで、神武天皇即位年が、「紀元前50~紀元前100年」とすると、そこから時代を遡ると、興味深いことがわかります。

ニニギノミコトの天孫降臨すなわち天(あま)族による日本本土進出から神武天皇即位まで、3代を経ています。仮に1代20年とすると、
20年×3代=60年
の年月が経っていることになります。

単純計算すると、天孫降臨は、神武天皇即位年である「紀元前50~紀元前100年」からさかのぼり、
-50(または-100)-60=-110(または-160)年=紀元前110年~紀元前160年
となります。

ただしここで注意すべきは、火遠理命(ホヲリノミコト)の代です。以前のブログでお話ししたとおり、ホヲリノミコトの代は、古事記によれば、580年です。これは1代ではなく、何代かの襲名と考えられます。これは「二倍年歴」ですから、「一倍年暦」では290年です。これを考慮して、上の数字を290年遡らせると、
ニニギノミコトの天孫降臨は、
-110(または-160)-290 = -400(または-450) = 紀元前400年~紀元前450年
になります。

神話の世界の話に、ずいぶんとリアリティが出てきましたね。

もっとも、「こんなのは、仮定に仮定を重ねた結果にすぎないではないか。実証できるものはないのか?」
との声が、聞こえてきそうです。

では、別の角度から検証してみましょう。

まず、天(あま)族が、そもそもどこからやってきたのかから、考えなければいけません。すなわち、
”「倭人の源流」はどこか”というテーマです。

以前のブログ
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6号)
、お話しましたが、中国古代史書の「翰苑(かんえん)」のなかに、
”中国にやってきた倭人が自分たちのことを、「呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だ」と言った。”
という記載があります。

呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、紀元前12-11世紀の人物です。おおまかな流れは、
”周王朝(黄河流域中原)にいた太伯が、やがて揚子江下流域に行き、もともと住んでいた倭人とともにを建国します。時代を経て、呉は越(えつ)との戦いに敗れ(紀元前473年)、呉の地を追われ、四散しました。そのなかで、朝鮮半島に逃れた人々、あるいは海で逃れた人々が、九州北部にやってきました。”
となります。
図示します。
周から呉・日本へ


「それがいつか?」について、「資治通鑑」という中国史書のなかに、興味深い記載があります。
「資治通鑑」とは、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した編年体の歴史書です。坂本龍馬、西郷隆盛、水戸光圀、北畠親房、 そして毛沢東が愛読したとも言われています。

呉亡条記事に、「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」とあります。この記事から、
”紀元前473 年、越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。”(「日中歴史共同研究」より)
ということになります。

、呉が越に敗れた後、多くの人々が朝鮮半島に逃れたことでしょう。そして、朝鮮半島を南下して、朝鮮半島南部に住み着き、さらに対馬、壱岐まで渡った人々もいたことでしょう。そして、ついに、九州北部に上陸したと、推定されます。なかには、舟で呉から日本に直接漂着した人々もいたと思われます。

呉が越に敗れた年は紀元前473年ですが、その後、朝鮮半島に行き着き、さらに九州北部に上陸するには、相当年かかったことでしょう。

先に、天孫降臨の年を、紀元前400~紀元前450年頃と試算しましたが、ほぼほぼこの年代と合ってくることが、確認できるかと思います。

もちろん、中国本土から逃れてきたのは、この年代だけではないはずです。
呉をお滅ぼした越は、紀元前334年に、楚(そ)の国に滅ぼされます。そして、その楚も、紀元前223年に、あの始皇帝の秦(しん)に滅ぼされます。こうした戦乱のなかで、多くの人々が戦乱を逃れ、朝鮮半島、あるいは日本にたどりついたと考えられます。

さらには、もっと時代をさかのぼれば、周が東周となった時代(紀元前771年)にも、動乱はあったわけです。そのようにとらえると、春秋戦国時代(紀元前770-紀元前221年)にわたる長い時間をかけた移動があったのではなすいかと、推察されます。そのなかの一大イベントが、「国譲り」と「天孫降臨」だったというわけです。

ちなみに、”将来の成功を期して苦労に耐えること。”を意味する故事熟語に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」がありますが、これは呉と越の戦いのなかで生まれた熟語です。
”中国春秋時代、呉王夫差(ふさ)が、父の仇である越王勾践(こうせん)を討つために薪の上に寝て復讐心をかきたて、長い艱難(かんなん)の末にこれを破った。一方、会稽かいけい山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。”(「新明解四字熟語辞典」より)

中国で生まれた熟語の由来が、われわれ現代の日本人にも関連しているかと考えると、面白いですね。

では、以上のことに科学的根拠はあるのか、ですが、いくつか挙げたいと思います。

まず、この時代すなわち弥生時代に、日本に鉄器および青銅器が大陸からもたらされたことが知られています。これは、単なる貿易ということのみならず、当然、人の移動もあったことでしょう。

弥生式土器が作られるようになったのも、この頃からです。

<弥生式土器>
 弥生式土器

イネも、日本にもたらされました。最近の研究では、その時期は紀元前1000年頃までさかのぼるのでは、という説も出されています。そして、温帯ジャポニカ米(水稲)については、DNA解析の結果、揚子江流域が原産であることが報告されています。

そして極め付けは、ヒトのDNA分析結果でしょう。
「古代揚子江下流域の古代人の骨と、北部九州、山口の渡来系弥生人の骨のミトコンドリアDNAが一致した」
との調査報告があります。
(1999年、中日共同調査団)

まさに、
揚子江下流域(呉) ⇒ (朝鮮半島) ⇒ 九州北部
の流れに、文献、考古学および科学的根拠が一致していることがわかります。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか

ここまで、「二倍年歴」について、みてきました。”魏志倭人伝が描いた3世紀頃の日本では、「二倍年歴」であったこと、それよりさらに遡った古代では、「二倍年歴」さらには「多倍年歴」が使われていた可能性があること”を、お話しました。

ところで、皆さんのなかには、「何でそんなことにこだわるのか。古代の人が「二倍年歴」だろうが、たいした話ではないじゃないか?」と思われた方もいるかもしれません。

ところが、そうではないのです。

古代の日本の年代は、西暦〇〇年のように、絶対年代が定められているわけではなく、古事記、日本書記にある、天皇在位による年歴だけが、手がかりとなっています。たとえば、神武天皇の在位年数が75年、仁徳天皇が86年、などです。

古事記、日本書記の各記事が、西暦何年にあたるのかについては、実在の天皇であり、かつ記事の記載が史実とみなされる天皇、たとえば推古天皇の即位年である西暦593年を基準にして、そこから各天皇の在位年数をさかのぼって比定するわけです。

ですから「二倍年歴」とすると、そのさかのぼる年数が今までの半分になり、各時代の出来事が、今まで考えられていたよりずっと新しい時代の話になってしまいます。

たとえば、神武天皇の即位年です。一般的には紀元前660年とされ、それが皇紀元年とされています。そこから、今年2016年が、660年+2016年で、皇紀の2676年になります。それが、大幅に変わってきます。

まずは、古代天皇の寿命と在位年数を、みてみましょう。古事記、日本書紀の記事からまとめると、以下の通りです。

古代天皇の寿命と在位年数
 代天皇名寿命在位年数
古事記日本書紀他日本書紀
1神武13712775
2綏靖458430
3安寧495739
4懿徳457733
5孝昭9311382
6孝安123137100
7孝霊10612875
8孝元5711656
9開化6311160
10崇神16812068
11垂仁153140100
12景行13710660
13成務9510760
14仲哀52528
 神功皇后10010069
15応神13011040
16仁徳8311086
17履中64705神武~允恭
18反正60594在位年数計
19允恭788140 1,090
20安康56563  
21雄略1246224
22清寧 414
23顕宗38483安康~武烈
24仁賢 5011在位年数計
25武烈 189 54
   1,144
26継体438224即位年507


ご覧のとおり、寿命、在位年数とも、ずいぶんと長いですね。もう少し詳しく見ると、興味深いことがあります。

たとえば、2代の綏靖天皇は、古事記では45歳、日本書紀では84歳で亡くなってますが、ほぼ「二倍」です。
同様に、8代の孝元天皇、9代の開化天皇も、日本書紀が、古事記のほぼ「二倍」です。
逆に、21代の雄略天皇は、古事記では124歳、日本書紀では62歳と、古事記が「二倍」です。
26代の継体天皇は、古事記43歳、日本書紀82歳と、日本書紀が、ほぼ「二倍」です。

これは、後世に伝えられた年齢にも二通りあり、通常の「一倍年歴」で伝えられた記事と、「二倍年歴」で伝えられた記事が混在していたためと考えられます。逆の見方をすれば、「二倍年歴」が存在していた痕跡、とも言えます。

さて、ここから、神武天皇即位年を推測してみましょう。

実は、26代の継体天皇については即位の経緯が釈然としないこともあり、前の武烈天皇と系統的に断絶しているとの説が、多くの論者から指摘されています。このことから、古田氏は、”継体天皇以降、「二倍年歴」になったのではないか”と、推定してます。
継体天皇の即位年は、西暦の507年でほぼ間違いないとされているので、この年を基準にします。神武天皇即位から、継体天皇即位までの年数を単純にたしますと、
1144年
となります。
ここから、神武天皇即位年は、継体天皇即位年からさかのぼり、
507年-1144年=-637年=紀元前637年
となります。

皇紀によれば、神武天皇即位は紀元前660年ですから、23年ほどずれますが、天皇在位空白期間もあったでしょうから、ほぼほぼ合っていると言えます。

ところで、この紀元前660年即位の根拠は、あるのでしょうか?。これは、日本書紀神武天皇の条にある、
辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)”
とあり、60年に一回巡ってくる「辛酉(かのととり)」の年を手掛かりに、定められたようです。

ただしこの皇紀ですが、もともと日本で古来から使われていたのかと思いがちですが、実はそうではありません。江戸時代ころに出てきた考え方をもとに、明治期になって初めて制定されました。
それまでの日本人は、長い歴史を、西暦のように絶対年代で表すことはなく、”〇〇天皇の△年”のように、表していました。それが、西洋文明がはいってきた影響もあったのでしょう、”われらが日本でも、それに匹敵する暦が必要だ”となり、皇紀が定められた、と言っていいかもしれません。
話が少し広がりましたが、そもそもの神武天皇即位年も、強力な根拠があったわけではないことだけは確かです。

話を、元に戻します。
次に、1144年すべてが「二倍年歴」だとして、「一倍年歴」に直すと、
1144÷2=572年
です。
すると、神武天皇即位年は、
507年-572年=-65年=紀元前65年
となります。

当然、「二倍年歴」が「一倍年歴」に変わった時点を変えれば、結果も変わります。19代の允恭天皇は寿命81歳、在位40年とかなり長いので、「二倍年歴」の可能性があります。次の安康天皇からは、寿命、在位年数ともに少なくなっているので、「一倍年歴」に変わった可能性があります。そこで、神武天皇から允恭天皇までを「二倍年歴」、次の安康天皇から武烈天皇までを「一倍年歴」として、計算してみます。

神武天皇~允恭天皇  1090年(二倍年歴)
安康天皇~武烈天皇    54年(一倍年歴)

1090年を「一倍年歴」に直すと
1090÷2=545年
これに、54年をたすと
545+54 = 599年

継体天皇即位年からさかのぼり、
507年- 599年=-92年=紀元前92年
となります。

以上、二つのケースをまとめると、神武天皇即位年は、
紀元前65年~紀元前92年
となります。
ただし、在位空白期間があったり、在位年をだぶってカウントしている場合もあるので、巾をみて、
紀元前50年~紀元前100年
すなわち、
紀元前1世紀後半
と推定されます。

ところで、皆さんのなかには、「古事記、日本書紀の記事だけから推定しても、説得力がない。もっと、はっきりした証拠はないのか?」との感想を持たれた方も、おられるかもしれません。そこで、もう少し掘り下げてみます。

一つ参考になりそうな資料は、「七支刀」です。「七支刀」とは、以前のブログ
「七支刀(しちしとう)銘文を読む ~ 物部氏ゆかりの石上神社秘宝が物語る古代日本の真実とは?」
 
(2016/2/11号)
でもお話しましたが、奈良県天理市にある石上神社に伝来している鉄剣です。その銘文の解釈については諸説あるものの、
"369年に百済王が倭王に七支刀を贈った"
との説が有力です。

一方、日本書紀神功皇后摂政52年条に、
”百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上された”
との記述があり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められています。

このことから
神功皇后摂政52年=西暦369年
が確定します。

神武天皇即位から、神功皇后の前の仲哀天皇までの在位期間846年になるので、これをたすと神武天皇即位から七支刀献上までは、「二倍年歴」では、
846年+52年=898年
となります。これを「一倍年歴」に直すと、
898年÷2=449 年
となります。

ここから、神武天皇即位年は、
369年-449 年=-80 年=紀元前80年
となります。

この結果が、先ほどの「紀元前50年~紀元前100年」との試算結果の範囲内であることが、確認できます。

これで、考古学から見た根拠ができました。

★神武天皇東征は、紀元前1世紀後半に行われたのか・・・?
 下は、神武天皇絵図です。

神武東征1
(月岡芳年「大日本名将鑑」より)

後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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一年で二回の年を数えたという「二倍年暦」説は本当か?(4) ~ 古代世界は「多倍年暦」だった?

さて、孔子の時代、すなわち紀元前5~6世紀が「二倍年暦」だとすると、それ以前はどうだったのでしょうか?。 

孔子は、中国山東省にあった魯(ろ)の国の人です。魯は、周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した国です。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っており、この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子です。

周公旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めました。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどでした。

その周王朝の王について、見てみましょう。
*「新・古典批判「二倍年暦の世界」3 孔子の二倍年暦」(古賀達也氏)を、参考にします。

・成王(前1115~1079)    在位37年
・昭王(前1052~1002)    在位51年
・穆王(前1001~ 947)     在位55年
・厲王(前878~ 828)   在位51年
・宣王(前827~ 782)      在位46年
・平王(前770~ 720)      在位51年
・敬王(前519~ 476)      在位44年
・顯王(前368~ 321)      在位48年
・赧王(前314~ 256)      在位59年
  ※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。

以上のとおり、古代周王朝において、在位年数が突出して長い王が、多くいます。在位五十年を超えるということは、10代前半で即位したとしても亡くなった歳は60歳代以降ということになります。もちろん長寿の王がいておかしくはありませんが、当時の平均的な寿命を30歳台とすると、「長生きの王が多すぎる」といった印象はもちます。

さらに、古賀氏は、”司馬遷の『史記』において、周王朝に先立つ夏王朝において、黄帝・堯・舜の各王の年齢が百歳を越えていることから、夏王朝前後の中国は二倍年暦であったことがうかがえる”としています。さらに、その後の『管子』、『列子』『論語』『礼記』の内容も詳細に検証して、”いずれも[二倍年歴」とみなさざるをえない”としています。

ところで、もし孔子以前の中国で、「二倍年歴」が一般的であったとすると、大きな問題が発生します。”周代の絶対年代が、現在考えられているより新しい年代になる”ということです。

この点に関して、古賀氏も
”このように周代の天子が二倍年暦で編年されているとすれば、その実年代は軒並み新しくなり、中国古代史の編年は夏・殷・周において地滑り的に変動する可能性が大きい。あまりにも、重大かつ深刻なテーマだ。今後の研究課題としたい。”と、慎重な見解を述べています。

他文献とつじつまが合うのか、遺跡、出土物との整合性があるのか、など多くの事柄を検証して、結論づけるべきテーマです。

ところで、古代西洋は、どうだったのでしょうか?。

たとえば聖書をみてみましょう。聖書にも多くの神々が出てきますが、皆並はずれて長命です。列記します。

アダム     930歳
セツ         912歳
エノス         905歳
カイナン     910歳
マハラレル  895歳
ヤレド         962歳
エノク    365歳
メトセラ   969歳
レメク       777歳
ノア      950歳

<アダムとイヴ>
アダムとイヴ  
      (アルブレヒト・デューラー画)

アダムから始まり、軒並み900歳台が続きます。平均857歳です。もちろん、神話の世界と考えれば、なんら問題はありません。

しかしながら、なぜエノクを除いて、皆一様に900歳前後なのでしょうか?。「神々さ」を出すのには、ちょうどいい年齢なのでしょうか?。不思議な気はします。

それはそれで結構ですが、これを1年を24年とする「24倍年歴」で考えるとどうでしょうか。

857÷24=35.8歳

となり、昔の人の寿命を考えれば、妥当な年齢です。

「1年を24で割るなど、単なるつじつま合わせだ」と思った方も多いでしょう。実は、これには根拠があります。古代は、月の満ち欠けを元にした「太陰暦」だったことが知られています。これは、新月⇒満月⇒新月までのサイクルを、一か月としていますが、はるか昔は、
新月⇒満月を1年、満月⇒新月を1年
としていた、とする説です。確かにそれだと、1年が24年になりますね。

最近は、聖書考古学が盛んなようで、遺跡の発掘によって、聖書の記述が何らかの歴史的事実を基にしたものではないか、とする説が出てきてます。まさに、「シュリーマンの法則」です。聖書に出てくる神々も、そうした視点で考えることができるかもしれません。

ただし、この年齢の件については、単純にはいきません。たとえば、
アダムは、130歳でセツを生んだとされ、セツは、105歳でエノスを生んだ、とされています。
「24倍年歴」だと、4~6歳で子供を生んだことになり、いくらなんでもありえません。もっとも、実子だったとしたらの話ですが・・・。

私は、聖書については詳しくないので、これくらいにしておきますが、ここでは、”古代の世界では、「二倍年歴」あるいは「多倍年歴」が使われていた可能性がある”、ということを、頭の片隅に入れておいてください。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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