謎の国々は実在したか?(4) ~ 海はハイウェイ

海流に乗れば、侏儒(しゅじゅ)国つまり高知県の足摺岬から、南米エクアドルまで、6ケ月で舟で行けることはわかりました。

しかしながら、ここで疑問が浮かびます。
a.6ケ月の航海に耐えうるだけの舟が、果たしてあったのか?
b.食料や水は、どうやって確保したのか?
などです。

では、それぞれみていきましょう。

a.6ケ月の航海に耐えうるだけの舟が、果たしてあったのか?
古代人しかも縄文時代の舟というと、全長2~3m程度の丸木舟を思い浮かべますが、どうだったのでしょうか?

”千葉県多古町の栗山川流域遺跡群で1995年に出土したムクノキの丸木舟は全長が7.45メートルあり、京都府舞鶴市の浦入遺跡で1998年に出土したスギの丸木舟の現在長は4.4メートルであるが全長8メートル、幅0.85メートルと推定されている。”
(Wikipediaより)
とあり、かなり大きな舟が使われていたことがわかります。ある程度の人数も、乗ることができたでしょう。
またその構造も、
”水上での最初の乗り物として、太古の昔より用いられたものであるが、モノコック構造であり(特に単材刳舟は)壊れることが無く、水に沈むことも無いので安全性が高く、後に大型の船舶が登場しても一定の役割を担い続けてきた船である。”(同上)
とある通り、強固な作りで安定性もあり、外洋での航海にも充分耐えうるものでした。

6ケ月程度の航海は可能と言っていいのではないかと考えます。

<安土城考古博物館に展示されている丸木舟。先史時代に琵琶湖で使用されていたもののレプリカで、湖北町尾上から竹生島までの実験航海に使われたもの。>
丸木舟
                    (Wikipediaより)

b.食料や水は、どうやって確保したのか?
普通に考えると、6ケ月分の食料を舟に積み込むことなどできないし、まして水となると、「ペットボトルがあるわけでもなし、どうしたの?」と思います。ところが、それは現代人の感覚です。ここで、手作りヨットによる単独世界一周」の快挙を成し遂げた、青木洋氏の言葉を紹介します。(「海の古代史」古田武彦著より)
「縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行ってましたよ。」
とコメントしています。そして、食料と水については、
「水を入れる「壺」と、魚を釣る「釣り糸と針」が必要。一週間に一回くらい、スコールのような大雨が降る。それを「壺」にためておく。ときに舟に飛び込んでくる魚を解体し、「えさ」にして釣ると、直ちにかかってくる。」
というのです。
水を入れる「壺」は、縄文土器でしょうし、「針」は動物の骨で作ったもの、「糸」は人間の髪の毛で充分でしょう。

以上より、食糧や水の問題も、解決しました。

こうなると、太平洋横断も、現実味を増してきますね。

そもそも、我々現代人は、古代人のことを、能力的に劣っていたと考えがちです。もちろん、数学の問題を解いたり、文章を書いたりすることは、我々のほうが勝っているかもしれません。しかしながら、人間の生存本能とも言うべきこと、つまり衣食住を確保して子孫を増やすという「生きる」ということに関しては、古代人は、私たちをはるかに上回る能力をもっていたと考えられます。

縄文時代の遺跡として青森県の「三内丸山遺跡」(5500~4000年前)をみてみましょう。
あの、巨大な六本柱建物跡が発掘されたことで、一躍有名になりましたが、遺跡からは、黒曜石、ヒスイ、琥珀、など多くの出土物が出ました。
黒曜石は北海道十勝や白滝、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰産、ヒスイは約600km離れた新潟県糸魚川産とされ、いずれも日本海の海上ルートで運搬されたと推定されてます。

<ヒスイ>
三内丸山遺跡ヒスイ

<黒曜石>

三内丸山遺跡 黒曜石

三内丸山遺跡 原産地
                           (三内丸山遺跡 公式HPより)
                                  
北海道伊達市有珠(うす)モシリ遺跡
からは、なんとイモガイ製の腕輪が見つかってます。イモガイは、沖縄など南海地方にしか生息しない貝であり、沖縄など南海~北海道の交易ルートがあったことになります。

また、佐賀県の腰岳産の黒曜石が、韓国釜山の東参洞貝塚や、沖縄県恩納村の仲泊遺跡からも見つかってます。

縄文人の交流範囲は、私たちの想像を、はるかに上回るものだったようです。

1946年6月、終戦を知らなかった西田定一軍曹以下9名の兵隊が、フィリピン・ポリリョ島から脱出、カヌーを2500キロにわたって漕ぎ、自力で鹿児島県の口永良(くちのえらぶ)島に到着しました。30日かかりました。

1977年には、同じくフィリピンから鹿児島まで、長さ12m、帆とアウトリガーつきカヌーで、44日にわたる冒険実験が行われました。
顧問を務めた茂在寅男・東京商船大(現東京海洋大)名誉教授は、
”「古代日本の航海術」で、「舟が小さいから航海は不可能という判定は、簡単には下せない。」と強調。「人の移動というものを考えると、(中略)海は決して障害ではなく、むしろハイウェイ”
との考えです。(以上、「style.nikkei.com」( 2015/2/23) 他より)

このように考えると、太平洋横断も、決して夢物語とは言えないのではないでしょうか?



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謎の国々は実在したか?(3) ~ 古代日本人は太平洋を舟で渡った!?

さて、「侏儒(しゅじゅ)国」を探し求めて、高知県は土佐清水市、足摺岬までやってきました。問題は、この先です。ここで、もう一度、三国志魏志倭人伝をみてみましょう。


【現代訳】
女王国から東へ千里ほど海を渡ると、また国がある。みな倭と同じ人種である。その南に侏儒国(しゅじゅこく)がある。身長は、三、四尺である。女王国から四千里ちょっと離れている。さらに裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)があるが、どれも東南にあたる。一年も航海すれば、たどりつけるだろう。

すなわち、”裸国、黒歯国は、侏儒国の東南、舟で1年航海したところにある”、とあります。こうした記述から、一般的には、
「だから、魏志倭人伝の記載はいい加減なのだ。」
「倭人のほら吹きを、そのまま記載しただけだ」
と言われているわけです。

ところで、裸国、黒歯国という文字を見て、皆さんは、どんなイメージをもつでしょうか?。

そのまま読めば、”裸の国”、”歯が黒い国”ですから、何となく、南方の国を思い浮かべる方が、多いのではないでしょうか?。

では、侏儒国の東南に、そのような国があったのでしょうか?
地図でみてみましょう。

侏儒国東南

侏儒国から東南の方向は、太平洋ですが、太平洋を横断してさらに東南へ行くと、南アメリカ大陸へと到着します。

古田武彦氏は、南米「エクアドルの辺り」と主張しました。

あまりに突飛なので、驚かれた方もいると思います。なかには、
「小さい舟で1年かけて、そんなに遠い国へ、本当にたどりつくのか?」
と思われた方も多いでしょう。
また、
「具体的証拠はあるのか?」
というのも、もっともな指摘です。

では、科学的視点をもって、見ていきましょう。

当時は、帆船ではなく、手漕ぎの舟です。手漕ぎだけでは、そんなに遠くへ行けませんから、潮の流れ、すなわち海流に乗ることになります。そこで、太平洋の海流の流れを見ます。
海流1 
海流2

図の通り、足摺岬を舟で出れば、黒潮に乗り、日本列島に沿い、北東の方向へ運ばれます。そこから太平洋の大海原を、海流に乗り、ひたすら東の方向へ進みます。

北アメリカ大陸に近づくと、カリフォルニア海流が、南に向かって流れています。その流れに乗り、次第に大陸に近づきながら、南下していきます。赤道を越えたあたりで、今度は、南から北上してくるペルー海流(図には記載されてません)とぶつかります。したがって、これ以上、南へは進めず、ここでストップすることになります。ここが、ちょうど、南米エクアドルなのです。

つまり、海流の流れにうまく乗れば、自然とアメリカ大陸に到着する、というわけです。実際、東日本大震災において大量のがれきが太平洋に流れだし、北米大陸のカリフォルニア沿岸に到着したことが、報道されました。巨大ながれきが、自然とアメリカ大陸に流れ着いたのですから、もともと潮の流れにうまく乗るように作られた舟であれば、もっと容易にたどりつくことでしょう。

ところで、実際に舟で太平洋を横断した勇気ある人が、現代にもいました。
・堀江謙一氏 (1962年) 西宮⇒サンフランシシコ 3ケ月と1日
・牛島龍介氏  (1969年)   博多⇒サンフランシスコ 2ケ月と20日
です。 
いずれもヨットですが、日本〜サンフランシスコまでほぼ3ケ月です。サンフランシシコから南下して、エクアドルまで同じくらいかかるとして、約3ケ月かかるとすると、
侏儒国からエクアドルまでは、
3 +3 = 6ケ月
かかることになります。

また、1980年に興味深い実験が行われました。「太平洋古代文化の会」による古代航海実験です。
下田~サンフランシスコ~アカプルコ~グアヤキル~リマ~アリカ(チリ)
の18000kmを.野性号Ⅲにて航海しました。
日本〜サンフランシスコが、50日
日本〜チリ最北端の町アリカが、207日
でした。

この実験からも、侏儒国からエクアドルまで、6ケ月という数字は、妥当なものと言っていいでしょう。

ところで、魏志倭人伝を見ると、
”侏儒国から裸国、黒歯国まで1年かかる
とあります。

「何だ、月数が倍も違って、合わないじゃないか」
との考えをもたれた方もいると思います。

ここで、「いや、そうではないよ」と、反応された方は、このブログをよくよく読まれて理解されている方です。

そうです。ここで、あの「二倍年歴」の登場です。
つまり、「二倍年歴」を考慮すると、
1年÷2=6ケ月
となり、魏志倭人伝の記載(1年)が、実際の月数(6ケ月)と、ピタリと合ってくるのです。

「こんな計算は、単なるこじつけだ。」
とか、
「たまたま偶然、合っただけだ」
という方も、多いでしょう。

当然予想される意見ですが、ここで、この解釈についていくら議論したところで、水掛け論で終わってしまいます。そこで、次回からは、別の視点から、みていきます。

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謎の国々は実在したか?(2) ~ 縄文灯台

前回は、「侏儒国」が、高知県足摺岬近辺にあった国であることを、お話しました。そして、足摺岬には、巨岩遺跡である「唐人駄馬(とうじんだば)遺跡」があることも、触れました。実は、「唐人駄馬遺跡」については、とても興味深い話があります。”縄文時代の灯台の役目を果たしていたのではないか”とする説です。キーワードは「黒潮」です。では、詳しくみていきましょう。

唐人駄馬遺跡





1993年(平成5年)~1995年(平成7年)にかけて、面白い調査実験が行われました。調査主体は、高知県土佐清水市教育委員会で、古田武彦氏統括のもとに、実施されました。

実験の目的は、「唐人駄馬の巨石が、海上の舟(ことに黒潮に乗じて北上してくる舟、人々にとり、一種の灯台の役目を果たしていたのではないか」との仮説を検証することでした。

日本列島の南側から北東方向にかけて黒潮(日本海流)が流れていますが、黒潮が北上してちょうど日本列島にぶつかる地点が、足摺岬です。流れが強いことで有名で、しばしば船が遭難する要因となります。ちなみに、江戸時代、漁業中に流され、アメリカ漁船に助けられたのちアメリカ本土へ行き、勉学に勤しみ、帰国後、明治維新の前後で大きな活躍をしたあのジョン(中浜)・万次郎も、ここ土佐清水の漁師でした。海に慣れているはずの漁師が流されるわけですから、海流の強さが、想像できます。

灯台の仕組みは、自然の石を利用して配石、研磨して、太陽や月の光線からの反射光線を、海上の舟から見えるようにする、というものです。

実験としては、海に舟を浮かべ、そこから唐人駄馬の巨石を見て、本当に反射光が目視できるかを確認しました。なお、本来であれば、光を反射するように巨石を研磨する必要がありますが、役所の許可を要するため、巨石に銀紙を貼ることで、代用しました(実際、石には、かつて黒潮や朝日に向って削平されたと見られる痕跡があります。)。

測定対象は
1.唐人岩
2.三列石(堂ケ森の鏡岩)
3.大岩
です。

さて、結果はどうだったでしょうか?

皆さん想像のとおり、舟から見事に反射光が確認されたのです。感動ものですね。

はたして、この結果は、”巨石がちょうどいい位置と角度にあって、太陽の光が反射して偶然うまい具合に舟から見えただけ”なのでしょうか?。事実、その後、さまざまな専門家から、「また古田某が、古代妄想を言い始めた」との批判の声が挙がりました。

しかしながら、
巨石の一部は、人為的に、移動されたことが確認されていること。
巨石は、光が反射するように、研磨された痕跡があること。
という歴然とした事実があります。

となると、古代人は何のために、このようなことをしたのでしょうか?。
何かの宗教的儀式のためでしょうか?
もちろん、それもあるでしょう。特に古代日本は、太陽信仰があったともされていますから。

<唐人駄馬遺跡>
唐人駄馬遺跡2 
唐人駄馬遺跡3 
                                                                                                                                               (高知県土佐清水市HPより)

確かに、単なる灯台の役割だけでなく、宗教的儀式に利用されたことは考えられます。

ここで、注目したいのは、ではこの巨大施設を作るのには、多くの人々が必要とされたであろうことです。

では、それはいつの時代の人々だったのでしょうか?

現地調査では、出土物としては、ほとんどが縄文土器や黒曜石(大分県姫島産)であることから、縄文人によって造られたと推測されます。それだけの、文明、技術力をもった人々が、この地域に住んでいたということです。注目は、大分県姫島産の黒曜石が、出土していることです。姫島は四国の対岸に当たるわけで、海を渡った地域との交流があったということです。当然、交流するには、舟が使われました。

また、唐人駄馬巨石には、その他、男女の性のシンボルの形をなす巨石群や、大ウミガメの形を造形した巨石群もあります。「こよみ石」と呼ばれる「太陽や月の出没」に対応したごとく見える配石もあります。さらに、世界最大級とも言われるストーン・サークルもあります。こうしたことを鑑みると、唐人駄馬遺跡は、当時の日本にあった縄文巨大文明のひとつであったと言えるでしょう。
その流れが、「侏儒国」に引き継がれたと考えられます。

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【本を出版しました!】

いつも、ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
さて、皆さんにお知らせがあります。

ブログ100号を記念して、このたび本を出版いたしました。
タイトルは、ずばり
「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 
 ~ 神話の世界から邪馬台国へ」

です。


目次は、以下のとおりです。

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謎の国々は実在したか?(1) ~ 侏儒国(こびとの国)とは?

前回まで、「二倍年歴」説を検証して、それを基に、「神武天皇の東征」が紀元前1世紀前半であることや、「国譲り」「天孫降臨」が紀元前5世紀頃であることを、推測しました。
今回からは、再び魏志倭人伝にもどり、残された宿題について、みていきます。

魏志倭人伝のなかで、最も解釈しずらいのは、「謎の国々」についての記載でしょう。では、改めてその箇所を読んでみましょう。

【現代訳】
女王国から東へ千里ほど海を渡ると、また国がある。みな倭と同じ人種である。その南に侏儒国(しゅじゅこく)がある。身長は、三、四尺である。女王国から四千里ちょっと離れている。さらに裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)があるが、どれも東南にあたる。一年も航海すれば、たどりつけるだろう。


まず登場する国が、「侏儒(しゅじゅ)国」。邪馬台国から東へ海を渡り1000里、その南にある、つまり、邪馬台国の東南4000里にある。さらに、東南の方向に舟で1年行くと、「裸(ら)国」「黒歯(こくし)国がある、と記載されています。

以上の、「侏儒国」、「裸国」、「黒歯国」は、すべて架空の国とされています。
「倭人のホラ話を、著者な陳寿がそのまま書いたのだ。」
というわけです。
その理由は、
「記載されている位置に、そんな国はないではないか」
というものです。あるいは
「侏儒国=こびとの国など、おとぎ話である証拠だ」
とも言われます。

たしかに、当時の1里=400 mとすれば、侏儒国の位置は、邪馬台国から東南に、4000里=1600kmとなり、はるか太平洋の海のなかになってしまいます。
また、「裸国」「黒歯国」などは、さらに舟で1年となると、とんでもない場所になり、
「そんなところへ当時の人々が行けるはずはない。」
と考えるのも当然化かもしれません。

ようするに、
「こんな話は、当時の中国人の誇大妄想思想の表れだ。」
というわけです。一見すると、尤もな考えのようにも思えます。
しかしながら、これでは科学的態度とは言えないでしょう。もう少し、緻密に考えるべきではないでしょうか。

では、ここから、冷静にみていきます。この際キーとなるのが、このブログでも詳しくお話してきた「短里」と、「二倍年歴」です。
「短里」説とは、当時の1里=約75mであったとする説です。
「二倍年歴」説とは、当時の倭人は半年を1年と数えていたとする説です。

この考え方で試算します。まず侏儒国です。
侏儒国は、”邪馬台国から東へ海を渡り75km(1000里)、別の倭種の国があり、その南にある。それは邪馬台国の東南300km(4000里)の位置になる”ことになります。

邪馬台国は博多湾岸ですから、そこから東へ向かいます。1000里(75km)というのは目安であり、水行の場合は2日、陸行の場合は3~4日かかったということでしょう。関門海峡手前まで歩いて行きそこから舟で渡ったのか、それとも博多湾岸から舟に乗り関門海峡を渡ったのかは定かではありませんが、ほぼほぼ合ってます。「侏儒国」は、そこから南の位置にあります。同時に、邪馬台国の東南4000里(300km)とありますから、その両方を満たす位置は、ちょうど高知県の足摺岬のあたりになります。そこが、「侏儒国」です。

以上を図示します。

侏儒国まで 
魏志倭人伝の記載からすると、この位置になりますが、その証拠はあるのでしょうか?

余り知られていませんが、足摺岬近辺には、巨岩遺跡があります。「唐人駄馬(とうじんだば)遺跡」です。一般的に、縄文時代には巨岩信仰があったとされてますが、唐人駄場遺跡の巨岩には、明らかに人が加工した痕跡があり、祭祀の対象とされていたと考えられています。世界最大級と言われるストーンサークルもあります。また紀元前5000年頃から弥生時代にかけての石器や土器片などが多数発見されています。ということは、古代には、文明をもった多くの人々が住んでいたことになります。

<唐人駄馬遺跡>
唐人駄馬遺跡1                                                                                        (高知県土佐清水市HPより) 

 
そしてもうひとつ、「侏儒国」=「こびとの国」とは、何なのかです。身長3,4尺とありますから、当時23-24cmほどとして、70cm-1mほどです。確かに、「こびとの国」となります。こうした話は、単なるおとぎ話なのでしょうか?。

実は、この地域の近傍に、背の小さい人々が多い地域があった、との記録があります。もしかしたらその人々が侏儒国の人々の末裔だった可能性もあり、あながち「おとぎ話」の話とも言えないのではないでしょうか?。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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