日本人は、どこからやってきたのか?(1) ~ サルから人類の誕生まで

前回まで、古代日本人が舟で太平洋を渡り、南米エクアドルまで行っていたことをお話ししてきました。また、以前には、倭国を作った倭人は中国および朝鮮半島からやってきたこともお話してました。

テーマが、かなり大きなものになってきましたが、こうなってくると、さらに興味が湧いてきませんか。そのテーマとは、


「そもそも日本人は、どこからやってきたのか?」

です。


これは、われわれ多くの日本人が、一度は考えたことがあるテーマではないでしょうか?。ただし、現在でも確定的な説は出ておらず、諸説紛々といった様相を呈しているのが、実態です。それゆえに、「永遠のテーマ」とも言えるかもしれません。

しかしながら、これまでの考古学的、生物学的成果に加え、近年の遺伝子工学のめざましい発展により、多くの興味深いことが、わかってきました。そのあたりをみていきながら、本質に迫っていきたいと思います。


さて、皆さんは、我々人間の祖先は、どこからやってきたと思いますか?。

それにあたっては、少し整理しておきたいことがあります。


時代を、はるかかなたの太古にぐっと遡ります。人間に近い動物として、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、サルなどがいますが、こうした動物と人間は、どのような関係なのでしょうか?。(以下、Wiipedia参照)。

何となく、人間と祖先が共通だ、くらいの認識の方が多いと思いますが、具体的に、どのような関係でしょうか?。


日本人にとっては、サルが身近ですから、何となく、人間とサルが一番近いのかなあ、と思ってしまいます。(恥ずかしながら、私もその程度の認識でした・・・(汗))。


ところが、実際は、サル(テナガザル上科)から分岐したのが最も古く、2000万年前-1600万年前、とされてます。
そこから、1400万年前に、オランウータンと分岐し、1000万年前に、ゴリラと分岐しました。
そして、700万年前に、チンパンジーと分岐しました


つまり、人間に最も近いのは、チンパンジーということになります。
そして、チンパンジーと分岐した族を、ヒト亜族と呼びます。

図示します。年代に上の説明と違いがありますが、出典元が異なるためです。あくまで、イメージとして、つかんでくだい。

類人猿分岐図 
                                                          (札幌市丸山動物園HPより)

つまり、ヒト亜族が、われわれ人間のご先祖さま、ということになります。

700万年前に始まったヒト亜族は猿人と呼ばれ、その後240万年前に原人に進化します(ヒト属(ホモ属))。80万年前に旧人に進化、25万年前に新人に進化を遂げ、そのうちのホモ・サピエンスが、われわれ人間です。

系統的にはこうなるのですが、一筋縄ではいっていなくて、途中多くの種が分岐し、また絶滅しています。

ここで頭が混乱してしまうのですが、北京原人とか、ジャワ原人、あるいは、ネアンデルタール人なども、聞いたことがあると思いますが、そうした種と、われわれ人間は、どのような関係なのでしょうか?。


「われわれ人間のご先祖さま?」

いえいえ違います。


彼らは、我々の先祖ではなく、途中で分岐しました。その後長い間にわたり、繁栄するのですが、最終的には絶滅してしまいます。残ったのは、われわれ人間だけです。

図示します。

 人類進化系統図

猿人(アウストラル・ピテクス) ⇒ 原人 ⇒ 旧人 ⇒ 新人(ヒト)

という流れが、確認できるかと思います。もっとも、この間にも多くの種がいたのですが、割愛します。また、
この分類はあくまで一つの説であり、諸説あることに、留意ください。

このなかで、ネアンデルタール人は生きていた時代が比較的新しく、人間が生きていた時代とも重なり合うことは以前から知られていました。ただし、 われわれ人間とは、全く別の系統である、と考えられていました。


ところが、最近の遺伝子工学の発展により、驚くべきことがわかりました。


なんと我々の遺伝子のなかに、ネアンデルタール人の遺伝子が、わずかではありますが、含まれている、という分析結果が出たのです。つまり、人間と彼らは、交雑していた、というのです。このあたりは、いずれ取り上げます。


以上が一般的に考えられている、人類誕生までの大まかな流れです。ここで原人になるまでは、その舞台がアフリカであることに注目して下さい。北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人も、すべてアフリカから出ていることになります。そして、われわれ人類も、アフリカから出ています。アフリカから出て、世界中に拡散していった、ということです。

以上から、この人類進化の説を「アフリカ単一起源説」といいます。皆さんのなかにも、人類の起源はアフリカだ、ということは、聞いたことがある方も、多いと思います。


一方それに対して、世界中に分散した単一のヒト属、おそらくホモ・エレクトスが各地でホモ・サピエンスに進化したとする「多地域進化説」を唱える学者もいます。

現在のところ、「アフリカ単一起源説」が有力ですが、今後新たな調査研究結果が出る可能性は、充分にあるでしょう。


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謎の国々は実在したか?(13) ~ まとめ

さて、ここまで12回にわたって、三国志魏志倭人伝に出てくる「侏儒(しゅじゅ)国」「裸(ら)国」「黒歯(こくし)」国について、いろいろ推測してきました。その結論は、「侏儒国」とは、高知県足摺岬近辺にあった国、「裸国」「黒歯国」とは、南米エクアドルにあった国であり、古代日本人は、「侏儒国」から舟で太平洋を渡り、たどり着いたこと、さらには、そこから日本に戻ってきた人々もいたのではないか、と推測しました。話が多岐にわたっているので、ここでまとめます。


■中国史書「三国志魏志倭人伝」に、”
女王国から東へ千里ほど海を渡ると、また国がある。みな倭と同じ人種である。その南に侏儒国(しゅじゅこく)がある。身長は、三、四尺である。女王国から四千里ちょっと離れている。さらに裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)があるが、どれも東南にあたる。一年も航海すれば、たどりつけるだろう。との記載がある。


■侏儒国(侏儒=小人)は、高知県足摺岬近辺にあった国。巨岩遺跡で知られる「唐人駄馬(とうじんだば)遺跡」がある。巨岩に太陽光を反射させるやり方で、航行中の舟のため灯台の役目を果たしていたのではないか?


■侏儒国から黒潮に乗って、南東に舟で半年ほで行くと、「裸国」「黒歯国」がある。そこは、エクアドルに当たる。


■古代人が舟で太平洋を横断できることは、数々の事例と証拠がある。


■エクアドルに、縄文土器と似た土器が出土していることもその一つ。


■南米アンデス先住民の血液から、日本人と同一系統のHTLV-1ウイルスが検出された。さらに、チリ北部に埋葬されたミイラから、アイヌ民族と同じ系統のウイルスが検出された。


■また、南米北中部のモンゴロイドミイラおよび体外の糞石(糞の化石)から、日本列島に多い寄生虫(コウチュウ)の卵が発見された。コウチュウは、摂氏22度以下では死滅する。したがって、縄文人が、日本を北上してベーリング海を渡ってくることはできなかったはずである。


■裸国とは、”裸で生活する人々の国”の意味であり、100年ほど前までそのような民族がいた。黒歯国は、”歯を黒く染める風習のある国”の意味であり、現在でもその風習をもっている民族はいる。


■中国古代史書「海賦(かいふ)」に、古代日本(倭国)から裸国、黒歯国へ行き、また倭国に戻ってくる、という記載がある。


■日本で産卵して孵化したアカウミガメは、黒潮に乗って、北米カリフォルニア沖まで泳ぎ、そこで成長して、また日本に戻ってくる。このルートは、古代日本人の太平洋横断想定ルートとほぼ同じである。

■「裸国」「黒歯国」の末裔は、その後インカ帝国に征服されるが、文明は継承されて、現在にも伝わっている可能性はある。


いかがでしょうか?。このように考えてくると、”古代日本人の太平洋横断”という説は、一笑に付すべき説ではないという気がしてくるのではないでしょうか?。今後また、さまざまなデータが出てくるでしょうから、それらを基にした科学的検証に期待したいところです。


<古代日本人の太平洋横断想定ルート>・・・読者の皆さんは、どちらのルートだったと考えますか?。

 古代日本人横断ルート

以上で、「謎の国々は実在したか?」は、終わりです。


今回、古代日本人が南米まで渡った話をしました。また以前には、倭人は古代中国や朝鮮半島から来た、という話もしました。つまり、”日本人は、遠いはるかな古代から日本列島に住んでいて、海外との交流もなく現代にいたっている”ということでははなく、
”海外とのダイナミックな移動を繰り返して、日本人を形成し、またさらに海外にも出て行った”
ことがわかります。


では、そもそも日本人は、どこからやってきたのでしょうか?。その謎について、次回からみていきます。


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謎の国々は実在したか?(12) ~ 「裸国」「黒歯国」とインカ帝国の関係とは?

ここまで古代日本人が、太平洋を舟で渡り、南米エクアドルにあった「裸(ら)国」「黒歯(こくし)国」までたどり着いていたことを、検証してきました。

「裸国」「黒歯国」は、三国志魏志倭人伝に記載されている国ですから、日本で言えば「邪馬台国」の時代、すなわち、紀元3世紀頃にあった国と推定されます。

ここで、エクアドルの歴史をみてみましょう。

縄文土器と似ている土器を作っていたのは、バルディビア文化(紀元前4000年-同1500年頃)ですが、その後マチャリーリャ文化、チョレーラ文化などを経て、地方発展期(紀元前300年-紀元700年頃)には、階層社会や祭祀センターなどが成立しました。
「裸国」「黒歯国」は、この時代の国のことと考えられます。
紀元700年から16世紀半ばまでは統合期と呼ばれ、サランゴと呼ばれる強力な首長を戴いた首長制社会が成立していたことがスペイン人の残した記録から明らかになってます。最終的に15世紀後半にタワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝 トゥパク・インカ・ユパンキによって征服されました。後にインカ帝国は、北はエクアドルとコロンビアとの国境、南はチリ北部にいたる南北4000kmを支配するまでの大帝国になりました。

つまり、「裸国」「黒歯国」は、最終的に、インカ帝国に征服された、ということになります。


インカ帝国と言えば、最近は、マチュ・ピチュ遺跡がよく話題になりますね。天空都市として有名で、世界遺産にも登録されてますが、何のために作られたのかは、皇帝の離宮あるいは宗教施設など、諸説あります。

<マチュ・ピチュ遺跡>
マチュ・プチュ遺跡  
 
<インカ帝国末裔とされるケチュア族>
ケチュア族(インカ)  
                          (Wikipediaより)


さて、「裸国」「黒歯国」の末裔は、最終的にインカ帝国に征服されたわけですが、それとともに「裸国」「黒歯国」の文明は消えてしまったのでしょうか?。


ここからは推測になりますが、彼らの文明は、何がしかの形で、インカ帝国に引き継がれていった可能性はあります。


その痕跡はあるのか?、ですが、いくつか挙げることができます。


一つ目は、現地の言葉です。

インカ帝国の中心はペルーですが、ペルーの南、ボリビアとの境に「チチカカ湖」という大きな湖があります。この名前が、古代日本語の影響を受けているのではないか?、との説があります。


「ああ、それなら聞いたことがあるよ。「父母(チチハハ)湖」でしょ。」

との声が聞こえてきそうですが、残念ながらそうではありません。


古田氏の説によれば、古代日本語では、「チ」とは、”(古い)神様”を表すといいます。確かに、古代日本語には、「チ」のつくものが多いですね。大国主命の別名である「オオナムチ」、スサノオノミコトが退治した「ヤマタノオロチ」などです。

また、「カ」とは、”神聖な水”を表すといいます。「河」「川」の「カ」です。


”「チチ」も「カカ」も、南方型の言語に多いダブリ表現で、これを合わせたものが「チチカカ湖」だ”,との説です。つまり、「チチカカ湖」とは、「神聖な神の水」となります。


これは、つじつまを合わせるために作った説ではなく、前々から古田氏が唱えていた説でした。その後、実際に現地調査に行ったところ、なんと原住民のアイマラ族の言葉で、「チチカカ湖」とは、「太陽の神から授かった神聖な水」との意味だということがわかりました。

現地調査では、他にも共通すると思われる言葉が、見出されました。


これは、単なる偶然でしょうか?。


もうひとつ、根拠を挙げます。


インカ帝国は文字文化をもちませんでした。その代わりに、、キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行いました。さらに、このキープが、言語情報を含んでいることがわかってきました。


<キープ>

キープ

                (Wikipediaより)

キープは紐の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれています。

この「結縄」ですが、古くから日本にあるものです。

”「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされ、日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていた。沖縄では、琉球王国時代から徴税事務や日常活動において数量を数える表示・記録の手段として用いた。沖縄では結縄を「ワラザン」「バラザン」などと称し、単位を区別するために紐には太さや材質の異なる複数の藁を用いた。この制度は琉球処分後も継続された人頭税が廃止される1903年まで継続された。”(Wikipediaより)


また、日本の縄文土器についても、複雑につけられた縄目の模様が、製作者の芸術的センスのみでつけられたのではなく、ある種の数字や記号を表している、との説が唱えられています。


キープと同じ発想ですね。

はたして、このように似たような方式が、太平洋を隔てた東側(南米)と西側(日本)に存在しているのは、なぜでしょうか?。たまたま偶然、同じようなやり方を、それぞれの先祖が思いついたのでしょうか?。

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謎の国々は実在したか? (11)~ 古代人が太平洋を渡った理由とは?

ここまで古代日本人、特に縄文人が太平洋を舟で渡ったという説について、みてきました。もちろん、賛否両論あることは充分承知しています。しかしながら、もろもろの証拠をみていくと、決して、一笑に付すことはできないと思いますが、いかがでしょうか?。

さて、実は最後に残った課題があります。

”縄文人は、何のために、太平洋を舟で渡ったのか?”
です。

私たちが歴史の教科書で習った縄文時代とは、”気候が温暖で、家族を中心とした小さい集団が、狩猟採集をしつつ移動しながら生活していた。激しい戦いもなく、土器など作りながら、平和に暮らしていた。”みたいなものだったと記憶してます。もっともこれも、最近では、大きく変わってきていますが・・・。

それはさておき、そのような生活をあえて捨てて、なぜ、太平洋を舟で渡るという、命を懸けた試練に立ち向ったのでしょうか?。そこには、大きな理由があるはずです。その理由とは、何でしょうか?。

同じ問題提起が、当初、メガーズ博士が、「縄文人太平洋横断説」を唱えた時にも出されました。皆さんは、どのように考えますか?。

その答えのキーが、「火山」です。

歴史的にみると、現在の日本の火山は、「静穏期」にあります。たしかに首都圏に住んでいると、富士山も、1707年の宝永噴火から300年以上も噴火していないなど、自分たちの生活に火山が大きく関わるという意識が希薄かもしれません。

しかしながら、ここ数年、日本の火山活動が活発になっているようです。御嶽山や口永良部島などの噴火があったのは記憶に新しいですし、つい先日も、阿蘇山が噴火しました。

日本は、火山列島であり、有史から何度も、破局的と言っていいくらいの巨大噴火を繰り返しています。そのなかで、縄文文明に大きな影響を及ぼしたと考えられている噴火があります。それは、「鬼界カルデラ噴火」です。

「鬼界カルデラ」とは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラです。過去何度も噴火していますが、そのなかで7300年前に起こった噴火があります。

”噴出量170km3(過去1万年間に地球上で発生した噴火としては最大規模)、広域テフラ鬼界アカホヤ火山灰を放出。
噴火規模は1991年6月3日雲仙普賢岳の約1,000倍、同時期のピナトゥボ山の10 - 15倍と言われており、完新世における地球上最大の噴火。”
”鬼界アカホヤ火山灰は、九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方まで、到達した。”

<鬼界カルデラ位置>
 鬼界カルデラ位置

<薩摩硫黄島>
薩摩硫黄島



<火砕流および鬼界アカホヤ火山灰の広がり>
鬼界カルデラ噴火 
(Wikipediaより)

この火砕流および火山灰により、鹿児島県の大隅半島・薩摩半島南部、屋久島に住む縄文人は、絶滅したと考えられています。また、九州の南半分や四国、紀伊半島南側に住む縄文人にも大きな影響を及ぼしました

辛くも絶滅を逃れた周辺(九州南部など)の縄文人は、どうしたでしょうか?。

たぶん、火山噴火や火砕流の恐怖におそれおののき、どこかへ逃れようとしたでしょう。そのなかには、舟で海上に出た人々もいたことでしょう。彼らのなかで、舟で通常の交易ルートであった黒潮に乗り、東北の方向へむかった人々もいたでしょう。

彼らが向かった先は、交易ルート上の、紀伊半島さらには関東や伊豆諸島方面だったと思われます。もちろん無事たどりついた人々もいたでしょうが、たどり着けずに、そのまま黒潮の流れに乗り、太平洋の海原へ出た人々もいたでしょう。そのなかに、南米エクアドルにたどり着いた人々がいたのではないか、と推察されます。

この大胆な仮説ですが、根拠はあるのでしょうか?。

それがあるのです。

エクアドルから出土した縄文土器に似ている土器ですが、実は様式が限られています。その様式に類似する日本の土器は、阿高式土器、曾畑式土器出水式土器、跡江貝塚遺跡出土です。その出土分布は、熊本県、宮崎県、鹿児島県北西部です。

<曾畑式土器>
曾畑式土器 

                            (熊本県宇土市観光情報サイトより)

つまり、”鬼界カルデラ噴火で、鹿児島県南部は壊滅的になり、縄文人も絶滅。その影響をのがれようとしたその北にあたる鹿児島県北部、熊本県、宮崎県に住んでいた縄文人が、舟で海上へ出て、やがてエクアドルにたどりついた。”、ということです。

もちろん、実際にたどり着いた縄文人は、そのなかのごくごく一部だったでしょう。それでも
長い年月をかけて数千~数万人の人々が舟で出たとして、そのうちの数パーセントの人がたどり着いたとしても、少なく見積もっても数百人以上はたどり着いた、という計算になります。それだけの人々であれば、いわば集団移住みたいなものです。遠い異郷の地とはいえ、そこに何がしかの影響を及ぼしたことは、容易に想像できます。

ここで、もうひとつ考えなければいけないことがあります。それは、鬼界カルデラ噴火は、約7300年前であり、エクアドル出土の土器の年代測定結果は、約5500年前であり、エクアドル出土の土器のほうが新しいことです。

これをどのように考えるかです。

まず、年代推定の問題があります。7300年前とか5500年前というのは、あくまで推定であり、推定方法により1000年単位でずれることは、よくあります。ただし、それでも二つの間隔が空きすぎている思います。

一つの仮説として、古田氏が、”人々の「恐怖体験」が大きな要因ではなかったか”、という説を挙げています。

鬼界カルデラ噴火により、周辺は1000年近くも人が住めない状態になったとされています。4400年前には鹿児島県大隅半島南端に位置している開聞(かいもん)岳の噴火もありました。その間、断続的に噴火もあったでしょう。こうした状況のなか、周辺に住んでいた縄文人たちは、かつての恐怖体験の言い伝えなどから、長い年月をかけながら少しずつ地域からの脱出を図った、というものです。そして彼らのなかに、太平洋を横断して、南米エクアドルにたどりついた人々もいた、ということです。

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謎の国々は実在したか?(10) ~ アカウミガメと浦島太郎

今回は、「カメ」の話です。何で突然「カメ」の話なの、と思った方もおられると思います。


侏儒(しゅじゅ)国、つまり現在の高知県足摺岬近辺の「唐人駄馬(とうじんだば)遺跡」のひとつに、「亀石」と呼ばれる巨石があることは、お話しました。その「亀石」は、単に"「カメ」の形をしていて面白いからそこに置いた"、といったことではなく、「祭祀」あるいは「信仰」の対象とされていたとみられています。つまり、古代日本の「カメ信仰」に基づいたものだったというわけです。


古代中国でも、亀の甲羅を火で焼き、その模様で占いをしました。その模様が、甲骨文字であり、やがて漢字に変化していきました。また、家を支える4本の柱の下に生きた亀を埋めると、その家は長く持つという風習もありました。今でも、ハワイでは、「カメ」は神様とされてます。


日本は、ウミガメそのなかでもアカウミガメの産卵地で知られています。北は、千葉・茨城の房総半島から、南へ、伊豆、静岡、三重、和歌山、徳島、高知、鹿児島、沖縄まで、産卵地です。アカウミガメは、温帯から亜熱帯地帯まで、広く分布します。

<アカウミガメ>

アカウミガメ

”アカウミガメは信仰の対象としてもしばしば用いられる。

長寿の象徴、卵を多く産むため子宝の象徴としても信仰されている。網の中にアカウミガメが迷い込んだとき、御神酒を掛け海に返すという風習が残っている地方もある。静岡県御前崎市漁業関係者の間では大漁、豊漁のシンボルとして敬愛され、死んだアカウミガメを供養した「亀塚」が市内各所に実在している。”(Wikipediaより)


ところで、ここ日本で産卵、生まれた「子カメ」は、どこに旅立つと思いますか?。


アカウミガメの生態については、まだわかっていないことが多いのですが、最近の研究により、日本で生まれたアカウミガメは、北太平洋海流に乗りアメリカ西海岸沖へ、さらにそこから南下してメキシコ沖で成長し、やがて北赤道海流に乗り、日本に帰ってくることがわかってきました。

親ガメになる確率は、5000分の1と言われており、たいへんな試練の旅ですね。しかし、それでも小さい体ながら、苦労に苦労を重ねて、太平洋を横断するわけです。

<アカウミガメの回遊ルート>

アカウミガメ回遊図

(NPO法人 屋久島うみがめ館HPより)

このルート、どこかで見ませんでしたでしょうか。


そうです。古代日本人が太平洋を舟で渡ったとした場合の想定ルートです。今のところ、日本で生まれたアカウミガメがエクアドル沖までたどりついたという調査報告はありませんが、途中までほぼ同じルートです。逆に言えば、さほど泳ぐ力がなく、潮の流れに任せて進むしかない「子カメ」でさえ、最終的には、アメリカ西海岸~メキシコ沖までにたどりつくことができるのですから、人間が乗った舟がたどりつくことも可能と言えます。


そして、そこで成長して大きくなったアカウミガメは、やがて西へ向かい泳ぎに泳いで、ついに生まれ故郷の日本に戻ってくるのです。親ガメとなってますから、この間、数十年が経過していると思われます。それまで生まれ故郷を忘れずにいて、やがて子孫を増やすために戻ってくるなど、ロマンを感じますね。


ところで、われわれ日本人に最もなじみ深い昔話のひとつに、「浦島太郎」があります。皆さんご存知の話ですが、

”浜でいじめられていた亀を助けたお礼に、亀の甲羅に乗って、竜宮城へ行き乙姫と出会い、楽しい暮らしを過ごします。やがて生まれ故郷に帰りたくなり、戻ってきますが、すでにそこは遠い未来の世界になっていた。自分の知っている人は誰もおらず、悲しくなった浦島太郎は、開けてはいけないと言われていた玉手箱を開けてしまいます。するとそこからもうもうと煙が出て、浦島太郎はおじいさんの姿になってしまった。”

というストーリーですね。


この話も、何の脈絡もなく、ただの思いつきで作られた、ということではなく、何がしかの伝承などを基に作られたのではないでしょうか?。


もしかすると、”昔々、ここ日本から舟に乗り、カメが黒潮に乗っていくルートで、南米エクアドルにたどりついた人がいた。見るもの、聞くものすべて新しく、しかも赤道直下の国なので食べる物も豊富にあり、とても過ごしやすく、楽しい日々を送った。そこで何十年もすごしたが、やはり生まれ故郷の日本に帰りたくなり、現地の人々に別れを告げて、舟で日本に向かった。ついに日本にたどりついたものの、時代はすでに変わっていて、知っている人は、誰もいなかった。”

という話が実際にあり、それが、「浦島太郎」という昔話となったのかもしれません。


そう考えると、なんとも壮大な話になりますね。皆さんは、どう考えますか?。

<浦島太郎絵図>

浦島太郎
                           (Wikipediaより)

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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