日本人は、どこからやってきたのか?(24) ネアンデルタール人は、現生人類と交雑していた!!

さてここまで、日本人がどこからやってきたのか、について、諸説織り交ぜながら、お話してきました。ざっとおさらいしますと、
”7~8万年前にアフリカを出た私たちの祖先は、東に海岸沿いに進み、インドさらに東南アジアのスンダランドにやってきた。そこから北上、中国大陸を経て、日本列島にたどりついた。「海上の道」にて琉球諸島へやってきた可能性もある。また、インド手前で北上し、大陸を横断して日本列島にやってきた集団がいた可能性もある。”

このように、いくつかのルートが推定されます。そして日本列島にやってきた時期は、4万年前くらいではないかと考えられてます。

ところで、現在地球上で暮らしている私たち人間(現生人類)の前に生存していたネアンデルタール人と、私たち人間とは、どのような関係なのでしょうか?

今一度、人類進化図をみてみましょう。
人類進化系統図 

この図を見ると、ネアンデルタール人は、70~80万年前に旧人から分岐し、私たち人間の祖先とは、別々に進化しています。そして2万数千年前に絶滅しました。これだけですと、ネアンデルタール人と私たち現生人類とは、はるか昔に分かれた遠い存在のようです。

ところがです。近年、驚くべき発表がありました。

なんと、”ネアンデルタール人と私たち人間の祖先は、交雑していた。”というのです。

”人類進化の定説が大きく揺らいでいる。最近の研究では、ネアンデルタール人などの旧人類と現生人類との間に、これまでいわれていたような深い断絶はなく、実はかなりの交わりがあったことが明らかになってきた。むしろ、別の血を入れることが人類をより強く進化させてきたようだ。”

”現生人類とネアンデルタール人の間の解剖学的な共通点に加え、遺伝学的研究からも両者の間に混血があったことがわかってきた。 その結びつきはかなり強く、今日の非アフリカ系の人々のゲノム(全遺伝情報)の最大3%がネアンデルタール人由来だ。人によってそれぞれネアンデルタール人由来の異なるDNA断片を持っている。そのため、現生人類が受け継いだネアンデルタール人の遺伝情報の総和は3%よりはるかに高く、最近の計算によれば少なくとも20%にはなると考えられている。

 ホモ・サピエンスとの混血があった旧人類はネアンデルタール人だけではなかった。近年発見されたデニソワ人(シベリアの洞窟で見つかった4万年ほど前の謎めいた指の骨から回収されたDNAによって特定された人類集団)も、私たちの先祖との間に混血があった。

 そうした混血はホモ・サピエンスに有益だったようで、そのおかげでホモ・サピエンスは生存に有利に働く遺伝子を獲得できた。

 例えばネアンデルタール人から受け継いだDNAは免疫力を高めたらしい。またデニソワ人由来のある遺伝子変異は、チベット人が酸素が希薄な高地で生活するのを助けている。
(「我々はネアンデルタール人との混血だった 覆る進化の定説」 日経サイエンス、2014年 10月25日より)


私たち人間の祖先は、ネアンデルタール人のみならず、デニソワ人とも交雑していたのです。興味深いのは、交雑により免疫システムなど生存に有利に働く遺伝子を獲得した、としている点です。確かに一般的に、雑種は純粋の種より強いと言われますが、それを実証しています。


また、アフリカ系の人々は、ネアンデルタール人のゲノムをもっていないとのことで、交雑は、わたしたち人間の祖先がアフリカを出たあとに起こったことがわかります。

別の情報によれば、南太平洋の島国の人々には、デニソワ人のDNAが6パーセントも残っているとのことです(ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所研究所による)。
さらに日本人は、ネアンデルタール人とデニソワ人のDNAを多くもっているとの研究結果もあるようです。

こうした近年の研究研究結果から、ネアンデルタール人やデニソワ人は、数十万年前にアフリカを出て、世界中で繁栄していましたが、私たち人間の祖先が、7~8万年前にアフリカを出て、中東あるいはアジア内陸などで、彼らと遭遇したと考えられています。

そこでどのような状況になったのかは、よくわかっていません。

かつては、そこで戦いが起こり、やがてネアンデルタール人やデニソワ人は絶滅したとも考えられていました。確かにそのようなこともあったでしょう。しかしながら、何がしかの交流があった可能性もあります。

ネアンデルタール人の特徴として、以下のものが挙げられます。


・左右対称になるよう加工されたハンドアックス(握斧)や、木の棒の先にアスファルトで接着させ穂先とし、狩りに使用したと考えられている
石器をもっていた。

・火を積極的に利用していた
・遺体を屈葬の形で埋葬していた。

・コロンビア大学教授R・ソレッキーらの研究チームはイラク北部のシャニダール洞窟の調査で、ネアンデルタール人の化石とともに、ノコギリソウや、ヤグルマギクなど数種類の花粉を大量に発見した。量の多さとこれらの花が現代当地において薬草として扱われていることから、ソレッキー教授らは「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を遺体に添えて埋葬する習慣があった」との説を唱えた。
フランスの遺跡からはシカやオオカミの歯を利用した、ペンダント状のものが発掘されている(正確用途は不明)。(Wikipediaより)


どうでしょう、ネアンデルタール人に対する認識が随分と変わったのではないでしょうか?。何か私たち人間と共通するものを感じますね。もしかすると、このような技術や風習は、私たち人間の祖先が、彼らから学んだのかもしれません。


私などは、この地球上で文明と呼べるものをもったのは、私たち人間が初めてだと思っていましたが、すでにネアンデルタール人やデニソワ人が、初期段階とは言え文明をもち生活していたと思うと、不思議な気がしてしまいます。

そして、地球上で大いに繁栄したネアンデルタール人やデニソワ人ですが、突然姿を消します。

”ネアンデルタール人が絶滅したのは2万数千年前だが、その原因はよくわかっていない。クロマニョン人との暴力的衝突により絶滅したとする説、獲物が競合したことにより段階的に絶滅へ追いやられたとする説、ホモ・サピエンスと混血し急速にホモ・サピエンスに吸収されてしまったとする説など諸説ある。
”(Wikipediaより)

絶滅の原因が何にせよ、私たち人間には、ネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が伝わっています。
しかしながら、彼らがどこで、どのような生活をしていたのか、そして彼らの遺伝子がどのように私たちに伝わったのか、はよくわかっていません。そして、日本人とのかかわりも同様にわかっていません。

実は、日本列島には、中期旧石器時代という極めて古い時代の石器が出土しています。最古のものとして、約12万年前とされている、島根県砂原遺跡があります。

”島根県出雲市の砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)は7日までに、出土した石器36点について見解を再修正し、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた報告書にまとめた。”
(日本経済新聞、2013年6月7日付)

旧石器時代の石器発見と聞くと、かつて2000年に発覚して日本中を騒がせた「旧石器ねつ造事件」を思い出してしまいます。あの事件がきっかけで、それ以降、この手の話題にはアレルギー反応をおこしがちです。一方で、学術的な調査研究も継続的にされています。不確定な要素はあるものの、すべてをいちがいに「ねつ造」と言って否定してしまうのは、科学的姿勢とは言えないのではないでしょうか。

では、仮に石器の12万年前というのが真実だったとしたら、その石器を作り使用していたのは誰だったのでしょうか?。

「私たち日本人の祖先」でしょうか? 

それとも「ネアンデルタール人やデニソワ人」でしょうか?

いやもしかするともっと昔の「北京原人」や「ジャワ原人」の仲間でしょうか?

今のところ全くわかっていません。

この分野の研究は、まだまだ始まったばかりです。今後、遺伝子工学のさらなる進歩や、骨や遺跡・遺物などの発見により、さまざまな説が唱えられていくことでしょう。もしかしたら、今の私たちの常識からすると考えられないような説も出てくる可能性もあります。今後の研究成果が楽しみですね。

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日本人は、どこからやってきたのか?(23) ~ 古代日本は最先端技術の集積地だった!!

日本出土の「磨製石器」が4万年に近い前のものであり、世界最古であること、「土器」も東アジアが起源であり、16500年前のものが日本で出土し世界最古級であること、などをお話してきました。

こんなにも古代日本において、当時の世界最先端技術とでも言うべきものが存在したのか、と驚かれた方も多いと思います。他にもないのか、もう少しみていきましょう。

たとえば、「漆(うるし)」です。

”長江河口にある河姆渡遺跡で発掘された木弓は、放射性炭素年代測定で約7500~7400年前と確認されたことから、漆器は中国が発祥地で技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。

北海道函館市南茅部地区から出土した漆の装飾品6点が、米国での放射性炭素年代測定により中国の漆器を大幅に遡る約9000年前の縄文時代早期前半の装飾品であると確認された。縄文時代の集落と生活様式の変遷が確認できる垣ノ島遺跡からは、赤漆を染み込ませた糸で加工された装飾品の他に、黒漆の上に赤漆を塗った漆塗りの注口土器なども発見されている。

さらに、福井県(鳥浜貝塚)で出土した漆の枝は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析の結果、世界最古の約 12600年前のものであると確認された。更なる調査で技術的に高度な漆工芸品である「赤色漆の櫛」も出土、この他に、木製品、丸木船、縄、編物、その加工に用いられた工具なども相次いで出土しており、漆工芸品も含めた木材加工の関連品が発見されている。化石証拠から縄文時代早期末以降にウルシが自生していたとされる。”(Wikipediaより)

中国最古の漆器については諸説ありますが、今のところ8000年前を遡るものは発見されてません。それを上回る9000年前の漆の装飾品が、北海道函館市の垣ノ島遺跡から出土しました。

<垣ノ島B遺跡出土の漆副葬品>

垣の島 漆1 

<同上肩当て部分>
垣の島 漆2 

さらに、福井県鳥浜貝塚から、12600年前の漆の枝が出土しました。

<鳥浜貝塚出土の漆の枝>

鳥浜貝塚 漆枝 

また、時代はやや新しくなりますが、「赤色漆の櫛」も出土しました。

<鳥浜貝塚出土の赤色漆の櫛>

鳥浜貝塚 漆塗り櫛(表)(掲示)

(福井県報道発表資料、平成28年3月8日より)

この漆塗技術について、「「福井県史」通史編1」において、以下の見解が示されてます。
”従来、漆塗りの技術は大陸から伝播したとなかば信じられてきたようであるが、鳥浜貝塚とよく比較される中国浙江省の河姆渡遺跡では、赤色漆の木製の椀が出土している。その年代については、放射性炭素による年代測定で、今から約六二〇〇年前とされている。浙江省は福井県と友好関係にあり、漆の古さにおいても、その技術についても、歴史的に深いつながりがあったことになる。これまでの諸先学の研究成果でも、かならずしも中国大陸が漆文化の発祥の地とは断定し難いようである。中国河姆渡遺跡の漆と鳥浜貝塚のそれとは、同じような古さであり、さらに両者の技術の内容を比較しても、種類といい赤色漆・黒漆の使用といい、鳥浜貝塚の方が多彩で内容の濃い漆文化があったといえるからである。話は大きくなるが、漆文化をはじめ栽培植物の問題などから、縄文文化も東アジアのなかでお互いの文化交流の足跡がみえてくるようである。”

同年代の中国浙江省の河姆渡遺跡と深い交流があり、むしろ鳥浜貝塚のほうが技術的に上回っているのではないか、という指摘です。となると、日本で世界最古の漆の枝が出土したこと、垣の島遺跡の漆副葬品も、中国最古のものより古いことから推察すると、漆技術は、日本から中国に伝わった可能性が高いと言えます。 

ところで福井県といえば、眼鏡生産で有名な鯖江市の「越前漆」が知られています。
越前漆器の起こりは、約1500年の昔にさかのぼるといわれています。

”大和・飛鳥時代に、継体天皇が今立郡味真野の郷に来た際、冠の塗り替えを片山町の 塗師に頼んだところ、黒漆の椀も併せて献上した。その光沢の見事さに深く感銘して、大いに奨励されたことが越前漆器の始まりと伝えらる。”(Wikipediaより)

とあり、1500年の歴史があると言われます。もしかすると、12000年前から連綿と継承されてきれてきた技術かもしれませんね。

なお、「漆」というと、工芸品を連想しますが、実は古代の人々にとり、ある重要な役割を果たすものでした。それは、「漆」の強力な接着力を利用した「接着剤」としての役割です。「漆」を用いて、武器、土器などの生活用具を作ったと考えられてます。
それが時代とともに、装飾品としても利用されるようになったのでしょう。

また以前紹介しましたが、沖縄県南城(なんじょう)市のサキタリ洞(どう)遺跡で、世界最古となる2万3千年前の釣り針が見つかりました。

<出土した釣り針と未完成の釣り針(中)。(右)は素材となる巻き貝の破片>
サキタリ洞遺跡 釣り針(東京新聞) 
 
(東京新聞WEB版(2016年9月20日)より)

”県立博物館・美術館によると、貝製の釣り針は東ティモール(東南アジア)のジェリマライ遺跡でも1万6千~2万3千年前とされる先端部が出土しているが、今回見つかった釣り針は年代がより確実で保存状態もよいという。”
(朝日新聞DEGITAL,2016年9月20日)

世界最古級であることは、間違いありません。また、石鏃(せきぞく)についても、青森県大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡から出土したものが、世界最古とされているようです。
”石鏃も世界でもっとも古いもので、これは世界で最も古い弓矢の使用を示す。”(Wikipediaより)
ちなみに大平山元遺跡は、日本最古の土器(16500年前)が発掘された遺跡です。

このように見てくると、日本列島には、古代から当時の世界の最先端とも言うべき技術があったことがわかります。整理すると、

■磨製石斧   38,000年前

■釣り針    23,000年前
■土器       16,500年前

■石鏃、弓矢 16,500年前?

■漆          12,600年前

まさに、「技術立国」と言えますね。

もちろん、これらすべてが世界最古というわけではありません。今後、世界中で発掘が進めば、これらを上回る古いものが発見される可能性はあります。また、氷河期には現代より100m以上海水面が低かったので、多くの遺跡が海底に沈んでいます。特に、日本人の故郷とでも呼ぶべき「スンダランド」は、古代において、東南アジアから台湾、黄海にいたるまで陸地でつながっており、当時人々が住んでいたと考えられる海岸沿いの地域は、現在はすべて海面下にあり、発掘できません。こうした地域に、より古い遺物が埋まっている可能性はあります。

とはいえ、少なくとも、日本で発掘されているものが世界最古級であることは間違いないでしょう。となると、こうした技術が、日本から大陸へ伝播していったことになります。当然、人の移動も伴ったことでしょう。


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日本人は、どこからやってきたのか?(22) ~ 世界最古の土器が語ること

「日本列島→大陸」という人の移動はなかったのか?、というテーマで、世界最古とされる3万数千年前の「磨製石斧」が、日本列島で多数発掘されていること、それと併せて「海上の道」があったのではないか?、さらに「貝の道」とでも言うべきルートを使い、台湾・琉球諸島の人々が、古代中国の殷・周王朝へ運んでいた、という話をしてきました。

だいぶ話が広がったので、話を戻します。

まず皆さんに質問です。

はるか昔から世界中で「土器」が使用されてきたわけですが、「世界最古の土器」は、どこで発掘されたものでしょうか?。

かつて私などは、何となくメソポタミア文明かなあ?、と思っていました。なんといっても世界四大文明の一つですから。ところが、地域最古の土器は、南アジア、西アジア、アフリカが約9千年前、ヨーロッパが約8500年前といったところです。もちろん、これだけでもかなり古いのですが・・・。

ところがです。ここ
日本の「縄文土器」は、それをはるかに上回り古い土器が、次々と発掘されています。

日本最古の土器は、大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から出土したものです。大平山元Ⅰ遺跡は、”青森県外ケ浜町にある縄文草創期の遺跡で、縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法[2]の算定で16,500年前(暦年較正年代法による)とされる。 ”(Wikipediaより)。ちなみに、”同遺跡から出土した石鏃も世界でもっとも古いもので、これは世界で最も古い弓矢の使用を示す。”(同上)とあり、これも興味深いです。


太平山本I_土器破片

(Wikipediaより)

少し前までは、この大平山元Ⅰ遺跡から出土した土器が世界最古とされていましたが、最近、中国で最古とされる土器が発見されました。

”世界最古となる約2万年前の土器片を、中国・江西省の洞窟遺跡で発見したと、北京大や米国などの研究チームが29日付の米科学誌サイエンスに発表した。これまで日本を含む東アジア各地で見つかっていた、最古級の土器より2千~3千年古いという。洞窟からは280個以上の土器の破片が出土。多くに焦げた跡があり、チームは「現生人類の祖先が、料理に使ったのではないか」と推測している。 チームは、破片が見つかった地層を詳しく調べ、地層に含まれる動物の骨や炭などの炭素を解析。古い地層は氷河期とされる1万9千~2万年前と結論付けた。”(日本経済新聞WEB版、2012年6月29日付)


また、ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5千年前と考えられる土器が見つかっています。

中国の発見については、土器の付着物ではなく地層の分析であることから、疑問の声もあるようですが、それはさておき、今のところ日本を含めた東アジアのものが世界最古であることは、間違いありません。しかも、南アジア、西アジア、アフリカの約9千年前、ヨーロッパの約8500年前に比べて、けた違いに古いですね。

となると、ここで疑問が浮かびます。

「そもそも土器は、東アジアで発明され、西に伝播したのではなかろうか?」

この疑問に対して、小山修三氏(元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授)の、興味深いコラムがありますので、紹介します。
「小山センセイの縄文徒然草 第10回 土器の起源:年代と拡散 (小山修三)」(「JOMON FAN」(青森県企画政策部 世界文化遺産登録推進室運営サイト)より)

要約すると、”総合地球環境学研究所のプロジェクトで、土器の始まりと拡散について、P.ジョーダン氏が発表した。氏は、各地の古いC14年代を高さとみなし、等高線を引いた地図を描き出している。それによると、東アジアからユーラシア大陸を横切って中東、ヨーロッパへと土器が伝播していった道筋があらわれる。”
ジョーダン氏作成図面です。


土器伝播

やや見にくいですが、色が薄い(白~黄色)ほど土器の使用が早く、濃くなるに従って(赤~紺色)土器の使用が新しくなります。東アジアの色が薄い、すなわち時代が古いことがわかります。特に日本、ロシア極東、中国東方が、古いですね。その一方、西のヨーロッパの色が濃く、時代が新しいことがわかります。

この地図を自然に解釈すれば、”土器は東アジアで発明され、次第に西に伝播していった”、となります。

もうひとつ注目すべきことがあります。


”最近北アフリカで1万年前後の土器遺跡が続々と見つかっていることだった。時間的、空間的に、これを東アジアと関係付けることは無理なので、アフリカでも土器文化が発生していたと考えざるをえない。”

確かに、地図をみるとアフリカに色の薄い地域が見えますね。そこでは時代の古い土器が発見されてることを示しています。またそのエリアは、東アジアから伝播していったエリアとは、隔絶されています。このことから、土器の発明は東アジアであり、それが西に伝播していった一方で、それとは別に、アフリカでは独自に土器が発明された、ということになります。


いずれにしろ、日本の土器文明が世界最古級であることは間違いありません。そして日本を含む東アジアから土器が西に伝播したのであれば、人もまた「東アジア→西」へ移動した可能性が高いと考えられます。


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日本人は、どこからやってきたのか?(21) ~ 「倭人」は東アジアの交易を担っていた!? 

前回は、台湾周辺を含めた琉球諸島から中国周王朝へ、キイロダカラガイを「貝の道」で運んでいた、という話でした。この話を聞くと、あの中国史書「論衡(ろんこう)」に記載されている有名な文章を思い出します。

の時代、天下は太平で、倭人がやって来て暢草(ちょうそう)を献じた。”(異虚篇第一八)

成王(せいおう)の時代、越常(えっしょう)を献じて、倭人暢草を献じた。”(恢国篇第五八)

「暢(鬯)草」ですが、「鬯」とは「にほいざけ」で、くろきびで作った酒、神に供える酒だ、と言います。そして
「鬯草」とは、その神酒にひたす、香りのいい草のことですが、具体的によくわかっていません。
そして問題は、この「倭人」です。この「倭人」が誰を指しているのか、もわかっていません。わかってませんが、「倭人」が周王朝(紀元前1046年頃~紀元前256年)に「暢草」を朝貢したのは確かです。
ちなみに「越常」とは、今のベトナム付近に住んでいた人々と考えられてます。その「越常」と「倭人」が、対比して描かれているわけです。このことから、周王朝は、「越常」と「倭人」を、同列とみなしていたことがわかります。

「暢草」を、日本列島に自生するウコンだとして、日本列島に住んでいる「倭人」が、周王朝に朝貢したのだ、とする説もあります。確かに、沖縄は日本におけるウコンの主要生産地です。もっとも、日本にウコンが伝わった経緯は、「平安時代に中国から琉球に伝わった」とされてるようです(「ウコンについて(食品成分有効性評価及び健康影響評価プロジェクト解説集)」(永田 純一 (国立健康・栄養研究所 食品機能研究部)より)。そうなると、「暢草」=「ウコン」説は成立しませんね。

一方、前に「論衡(ろんこう)」についてお話したときに、張莉氏(元同志社女子大学准教授)の論文から、

”暢(ちょう)は鬯艸(ちょうそう)のことであり、「鬯」と同意の「鬱」について、説文解字五下に
「一に曰く、 鬱鬯は百艸の華、遠方鬱人の貢ぎする所の芳艸なり。これを合醸 して、以って神を降ろす。 鬱は今の鬱林郡なり。」とある。
 鬱林郡は今の広西省桂平県に当たり、「鬯」の産地が中国南方にあったことが知られ、「論衡」の 鬯艸 とつながる。「三国志」魏書倭人条の中には、 鬯草の記録はない。周王朝に鬯草を献上した倭人のことは著者陳寿も必ず知っていたはずで鬯草が日本産であるならば、1988文字の長文で書かれた倭人条内に特産物としてそのことが記されないはずがない。したがって「論衡」の倭人とは、中国南部に定住していた越族の中の倭人を指すと思われる。”
(「「倭」「倭人」について」より)
という考え方を紹介しました。
詳細は、
「論衡(ろんこう)の中の倭人 ~ 倭人が周王朝に献じたものとは?」(No.51)  
を参照ください。

確かに、「三国志魏志倭人伝」には、「ウコン」の記載はありません。それほど貴重なものであり、特産品として古代から中国王朝に献じていたものであるならば、当然記載されるべきものです。このように考えると、張莉氏の説のほうが、説得力があると思われます。つまり、「周王朝に朝貢したのは、中国南部に定住していた越族の中の倭人である。」ということです。

中国南部の越族の中の倭人が、「暢草」をどのルートで周王朝まで運んだのかはわかりません。しかしながら、鬱林郡が海の近くにあったことを考えると、海岸沿いに舟で運んだ可能性もあります。そのルートは、前回お話した「貝の道」とも重なってきます。となると彼らは、台湾・琉球諸島から、周王朝にキイロダカラガイを運んだ人々と同じ「海洋民族」であった可能性が大です。

前に、「倭人」について、弥生時代に日本列島にやってきた「渡来系弥生人」と定義しました。「縄文人」と区別するために便宜上、そのように定義したわけですが、もう少し広くとらえて、”「倭人」とは、中国南部から揚子江下流域、台湾、琉球諸島にかけて住んでいた「海洋民族」の総称である。”としてもいいかもしれません。

そしてもしかすると、「倭人」は、当時の日本列島にも九州をはじめとした地域に住んでいたかもしれません。何せ、当時の日本の人々は、海洋民族が多かったわけですから・・・。

となると、”「倭人」の住んでいた領域は、私たちの考えるよりはるかに広大なエリアであった”ということになります。その「倭人」が、中国をはじめとした東アジア圏の海洋交易を担っていた可能性があります。なんとも壮大な話になりますね。

<倭人の活動範囲イメージ>
倭人活動領域

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日本人は、どこからやってきたのか?(20) ~ 古代「貝の道」があった!

前回、前々回と、「海上の道」についてお話しましたが、もうひとつお話したいと思います。


皆さんも、学生時代の歴史の授業で、”古代、貨幣ができる前は、「貝」が貨幣の役割を果たしていた。”と習いましたよね。

当時私は、これを聞いたとき、不思議に思ったものです。

「貝などというものは、海にいけばいくらでも手に入るはずだ。実際、貝塚など貝だらけではないか。そんなものが、何で貨幣として使われていたのだろう。価値がないではないか。」と。


これは極めて自然な疑問ですが、これに対する答えは、簡単です。

「その近辺では絶対に手に入らない、極めて貴重な貝を使っていた。」

ということです。

では、「その貝は、どの産地のものだったのか?」です。


古代中国では、今から三千年以上前の殷、周の時代から、貝を貨幣として使っていたことが知られています。だから、お金に関する漢字には、必ず「貝」がつきます。貨幣の「貨」、財産の「財」、買うの「買」など、数多くありますね。


その殷、周の遺跡から、多くの貨幣として使用されたと考えられる「貝」が、多量に出土してます。

その「貝」の大半が、タカラガイです。そのなかでも特に、キイロダカラガイが珍重されたようです。


ここでキイロダカラガイですが、

”インド洋と太平洋の熱帯・亜熱帯海域に分布する。西は南アフリカ、南はオーストラリア北部、北は南日本やハワイ諸島、東は南北アメリカに程近いガラパゴス諸島やクリッパートン島まで、分布域は広い。日本での分布域は、日本海側で山口県以南、太平洋側で房総半島以南である。浅い海のサンゴ礁や岩礁に生息し、転石等の物陰に潜んでいる。”

<キイロダカラガイの分布>

宝貝分布


日本近海では、台湾、琉球諸島が主要な分布範囲のようですね


”古代中国では、同属のハナビラダカラとともに貝貨に多く使われており、貝殻の背面を削り取って大きな穴を開けたものが流通した。この穴からは中の幼殻や殻口が縦線として見えるため、「貝」の象形文字は貝貨を横倒しにした形に由来するとされる。”

<中国出土の貝貨>

宝貝貨幣 
(以上Wikipediaより)


通貨として使用されたキイロダカラガイには、大きな穴が開けられていたようです。「貝」の漢字の由来も、なるほどといったところですね。


さて、このキイロダカラガイの産地についてです。熊本大学文学部教授の木村尚子氏が、詳細な研究をしていますので、紹介します。

「琉球列島間のタカラガイ需要・供給に関する実証的研究-新石器時代から漢代まで-」より

”本研究は、古代中国において威信財ならびに貨幣として流通したタカラガイを対象に、その消費地、産地、流通経路を明らかにし、東アジアにおけるタカラガイ産地である琉球列島との関係を探ることを目的にした日本と中国の、また考古学と貝類学の共同研究である。中国社会科学院考古研究所ならび青海省文物考古研究所と共同で、4年間の研究を進め、安陽殷墟を中心に、合計32遺跡、183遺構(うち墓は176)で出土したタカラガイ21993個を実見し、11142個をデータ化した(大きさ、加工の程度、磨耗の程度など)。その結果以下が明らかになった:


1.中国新石器時代から商周代において、海産貝類を威信財に用いる習俗は黄河流域に集中する。

2.黄河流域に認められる貝類は、2綱18科67種におよび、その9割以上がタカラガイである。


3.安陽殷墟で出土した貝類約1万個のうち、8割弱は現在の台湾、南中国海、琉球列島などの熱帯海域に生息するもので、2割弱は南中国海から東中国海に生息するもので占められている。


4.出土貝類の組成分析を踏まえると、これらがインド洋経由でもたらされた可能性は低い。


5.山東半島に、安陽殷墟と同様の貝類組成をもつ商周代の遺跡があり、貝殻の出土状況の検討から、この地の人々が中原への貝類流通に関わっていた可能性が高い。


6.
中原で消費されたタカラガイは、台湾を含む中国東南沿岸域で採取され、山東半島を通って黄河流域にもたらされた可能性が高い。


7.中国においてタカラガイの消費量が増大する商周代併行期、台湾や琉球列島で玉加工品やこれに関わる製品が流行する。これはタカラガイの採取を目的として移動した人々の動きを反映する可能性がある。


ポイントとしては、

・商(殷)・周時代の貝貨は、黄河流域に集中しており、その9割がタカラガイである。

・そのタカラガイは、台湾、南中国海、琉球列島に棲息するもので、山東半島を経由して、黄河流域の殷・周に運ばれた。

というところです。

注目の具体的産地ですが、木村氏の別論文によると、”東南部海域(澎湖諸島を含む中国南部沿岸・台湾)で、ここから琉球列島や中国東海岸沿いに北上して、東部海域(渤海・黄海・長江以北の東中国海)から 山東をへて中原の<殷>中心地に運ばれたと考えられる。”としてます。

(『中国古代のタカラガイ使用と流通、その意味-商周代を中心に-』2003年より)

このルートを、図にしました。いわば「貝の道」です。

貝の道

なお、キイロタカラガイは、残念ながら琉球諸島産ではなかった、ということになりますが、今一歩腑に落ちません。琉球諸島はキイロダカラガイの一大産地です。わざわざ台湾西側の貝を琉球諸島に運び、そこで加工して、殷・周まで運ぶ、などということをしなくとも、琉球諸島産のキイロダカラガイを加工すれば、簡単なはずです。なぜそのような手間のかかることをしたのか、わかりません。

論文の原文が入手できないので詳細は何とも言えないのですが、琉球諸島産のキイロダカラガイも加工して運ばれていた可能性もあるのではないでしょうか?。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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