銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (4) ~ 銅鐸分布からわかること②

前回の続きです。

5.突線鈕式(とっせんちゅうしき)銅鐸の密度分布(下図11~15)
”全体の分布域は、前段階からわずかに東へ移行する程度でほとんど変わらないが、密度分布に大きな変動がある。すなわち、畿内地域と、これまで明確な集中を見せなかった三河・遠江地域において、密度分布の高まりを形成する(図11)。
(1)突線鈕式(1・2式)
畿内地域から近江地域を中心に密度分布の高まりが形成される(図12)。これは、大岩山遺跡出土25個中の9個によるもので、畿内地域の少なさとも相まって、北に偏った密度分布となっている。また、吉備地域などにやや集中傾向が残るなど、迷走派流水文銅鐸群との対応もみられ、後半段階への過渡的様相を示している。
(2)突線鈕式(3から5式)
畿内・近江地域に加え、むしろより高密度の地域として、三河・遠江地域が登場し、さらに、紀伊地域あるいは阿波・土佐地域に集中傾向が認められる(図13)。”

<解説>
さらに時代が新しくなるにつれ、東へ移動して、三河・遠江地域まで広がります。図で見る限り、最終的には、三河・遠江地域のほうが、密度分布が高いですね。



銅鐸分布3 
銅鐸分布4 
”この段階は、近畿式と三遠式という銅鐸群に2分され、それぞれの密度分布を別々に示した。
・近畿式
畿内・近江地域・紀伊地域、そして三河・遠江地域という3箇所に密度分布の高まりが見出せる(図14)。
・三遠式
一部で日本海沿岸まで分布を広げるものの、尾張・三河・遠江地域集中し、その他は密度分布の高まりを見せない(図15)。しかも、その三遠式の分布の中心は、近畿式の密度分布の高まりに一致する。決して、三遠式が単独で排他的に分布圏を形成していないのである。”

<解説>
突線鈕式の最終段階において、近畿式と三遠式に分けて、分析してます。三遠式については、近畿式との関連を強調してますが、図を見る限りにおいて、三遠式(図15の○)は独立して存在しており、そこまで言い切れるのかなという気はします・・・。



銅鐸分布5

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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (3) ~ 銅鐸の分布からわかること

前回は、銅鐸の形式についてお話ししました。今回は、それらの銅鐸が、日本全土でどのように分布しているのかをみていきます。

銅鐸の分布というと、昔歴史の授業で習った、「銅鐸圏」、「銅矛圏」の話を思い出します。銅鐸、銅矛の分布には地域的に大きな偏りがあり、畿内を中心とする「銅鐸圏」と、九州北部を中心とする「銅矛圏」に分けられる、というものです。

その後、「銅矛圏」内とされてきた島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で多くの銅鐸が発見され、また佐賀県吉野ヶ里遺跡でも銅鐸が発見されるなど、かつての説は成立しなくなりました。

ただし、青銅器による分布が大まかな傾向を示しているのは間違いなく、教科書でも下のような図が使われているようです。


銅鐸分布
上の図は、あくまで全体の傾向であり、時間の変遷を考慮していないので、それらがどのような推移をしたのかが、よくわかりません。そこで、銅鐸の各形式がどのように分布し、どのようは盛衰をしたのかを追いかけます。出典は、引き続き、「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」(吉田広、増田浩太、山口欧志)および「銅鐸分布考」(WEB版)です。

最も古い菱環鈕式銅鐸は、出土地が明確なものが少ないため、密度分布図は作成されていません。次の外縁付鈕式からです。

1.外縁付鈕1式銅鐸の密度分布(下の図5)
 中四国地方東部から東海地方の広範囲に、銅鐸分布の広がりが確認できる。なかでも、密度分布の高まりを、特に出雲地方に認められるが、これは加茂岩倉遺跡出土39個中の19個によるものである。他地域出土銅鐸とも同笵関係(同じ鋳型で製作されたもの)もあるが、同笵関係の結節点はむしろ畿内地域に集まり、出雲地域を分布の中心地、あるいは進んで製作地とまでみなす必要はない。他方、出雲地域ほどではないが、畿内地域と尾張地域にも密度分布の高まりが認められる。”

<解説>
出雲地方の密度分布が高いのは、島根県加茂岩倉遺跡から多くの銅鐸が発掘されたからわかるのですが、図5を見る限り、”同笵関係の結節点が畿内に集まっている”とは言えないのではないでしょうか?。福井県(越の国)出土銅鐸にしても、図6では、出雲銅鐸と同笵関係にあるわけですから。
さらに、2015年に淡路島にて発見された銅鐸が、加茂岩倉遺跡のほか、同じく島根県荒神谷遺跡出土との銅鐸と同笵関係にあることがわかっています。となると、やはり分布は、出雲を中心に考えるべきではないでしょうか?。むろん、淡路島との関係も見逃せませんね。


2.外縁付鈕2式銅鐸の密度分布(下の図6)
”分布全体の広がりは、前段階とほとんどかわらない。出雲地域については前段階と同様に説明できるが、この段階から畿内地域の密度分布が高まる。銅鐸群としての型式学的まとまりが成立し、それに応じた銅鐸製作地が畿内地域の南北に想定されるのもこの段階からであり、畿内地域での製作・流通が、密度分布にも対応した格好である。
同笵関係の結節点も、やはり畿内地域を中心とし、因幡地方や讃岐・阿波地域などで密度分布の高まりを認められるが、同笵関係において、いずれも畿内地域との連関を示す。”

<解説>
出雲地方から畿内に中心が移っていく様子が、見てとれます。一方、鳥取県東部(因幡地方)や、四国北東部(阿波・讃岐地方)、また数は少ないものの福井県(越の国)との関係も、注目ですね。



銅鐸分布1 


ようは、図5、図6を単純にみると、出雲地方から東へと移行していると言えます。


3.扁平鈕1式銅鐸の密度分布(下図7)
”全体分布が、わずかながらも東西に拡大する。加茂岩倉の余波により出雲地域にまだ高密度を残すが、基本的に畿内地域を中心に高密度分布域を形成する。しかし、前段階と異なり、紀伊地域から阿波・讃岐地域、そして吉備地域へと同様の高密度地域が続く。製品での分布密度は高くないが、播磨地域において鋳型出土があり、畿内地域以外での製作が確実に存在する。製品の密度分布における畿内地域以外の高まりも、銅鐸製作地拡散による可能性が想定できる。実際、同笵関係も前段階とは大きく変動し、同笵関係自体が減少し、しかも畿内地域を外れた連関を示している。”

<解説>
畿内への移行とともに、阿波・讃岐に続き、紀伊・吉備に広がってます。


4.扁平鈕2式銅鐸の密度分布(下図8~10)
”点数自体が最大になるとともに、全体分布がさらに拡大し、銅鐸分布のほぼ最大範囲となる。密度分布は、前段階よりやや後退して、畿内地域への集中が再び強まったようにも見える。しかし、阿波・讃岐地域になお高密度地域が舌状に広がる(図8)。これを、亀山や名東といった特徴的な銅鐸群別で見てみると、畿内地域よりも東四国地域に中心をおくことがある(図9・10)。前段階の製作地拡散を考慮し、鋳型出土は欠くものの、密度分布には明確に表れない特徴的な銅鐸群も存在し、畿内地域以外での製作が強く想定される。”

畿内への集中が再び強まっているように見えますが、亀山・名東といった特徴的な銅鐸が東四国に集中してます。この地域に、畿内とは一線を画す巨大勢力があったことを推測させますね。

銅鐸分布2 

銅鐸分布3 



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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (2) ~ 銅鐸を分類すると・・・

銅鐸と言っても、大きいものから小さいものまで、また「聞く銅鐸」や「見る銅鐸」など、さまざまな種類があります。今回は、銅鐸の型式とそれが時代とともにどのように変遷したかについて、みていきましょう。以下、「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」(吉田広、増田浩太、山口欧志)および「銅鐸分布考」(WEB版)を参照します。

区分の手法としては、銅鐸の釣り手である半環状部(鈕、ちゅう)が、釣り手としての機能を喪失し文様帯化する様相によって、4段階に分けてます。
ちなみに鈕とは、銅鐸をぶら下げる際に紐を通す部分です。

<銅鐸の型式分類と変遷>
銅鐸形式  

図では、左側が古く、右にいくにしたがい新しくなります。一見してわかるとおり、時代が新しくなるとともに、巨大化するのが、よくわかりますね。一番左側のⅠー1式は、高さが20cm余りですが、一番左側のⅣー5式は、高さが130cmほどで、装飾も複雑化しています。

では、詳しく見ていきましょう。左側の古い型式から順に解説します。

<Ⅰ>菱環鈕(りょうかんちゅう)式
最も古い形態です。鈕の断面が菱型をしているところから、名づけられてます。上写真の一番左の銅鐸の鈕をみると、確かに菱型に見えますね。大きさも小さく、装飾性もほとんどありません。

<Ⅱ>外縁付鈕式
次の段階の銅鐸です。鐸身(銅鐸本体)の両側の鰭(ひれ)が発達して鈕の部分まで延びて、鈕の外側に外縁がつきます。銅鐸本体の両側のラインも直線ではなく、やや反りをもってきます。もとの名前は、「外縁付菱環鈕式」とのことですから、ようは「Ⅰの菱環鈕式銅鐸+外縁」ということです。上写真の左から二番目の銅鐸です。小さいですが、鈕が付いていて、上部の鈕にまでつながっているのが確認できますね。

<Ⅲ>扁平鈕式
さらに進んだ段階です。鰭(ひれ)および外縁がさらに発達して装飾性が高くなり、鈕の内側には内縁が付きます。もともとの鈕であった菱環部はお飾りに近いものになり、菱環の位置も内側に入ってきます。また鐸身の反りもさら顕著になります。上写真の左から三番目の銅鐸です。
鈕の内側に内縁がついていることが確認できます。また写真下の絵Ⅲ-1,Ⅲ-2とも、鐸身が内側に反ってますね。

<Ⅳ>突線鈕(とっせんちゅう)式
最後に位置して、1mを超える大型銅鐸となっていく型式です。鰭や鈕・鐸身に突線と呼ばれる太い盛り上がった線で装飾が施されるのが特徴です。もともと銅鐸をつるす役割であった断面菱型の菱環部が、その意味を果たさなくなり、単なる飾りになったようです。
上写真の一番右側の銅鐸で、菱環部のところに、突線が見えます。装飾性も高くなってますね。
1式から5式の5つに分けられており、2~5式は、一部の流水紋銅鐸を除き、近畿式と三遠式に大別されます。

以上の通りです。
専門的すぎて少し難しくなってしまったかもしれませんが、さらりと流してもらって構いません。ようは、一口に銅鐸と言っても、さまざまな種類があること、時代とともに大型化して装飾性が増してきたこと、それとともに役割も「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化していった、ということを頭に入れていただければOKです。

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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (1) ~ そもそも銅鐸とは?

このブログでは、古事記や日本書紀など神話の世界は、単に昔の人が勝手に作った話ではなく、何らかの史実を象徴的に描いたものである、という話をしてきました。そして、中国史書や朝鮮史書なども併せて読み解けば、日本の国の成り立ちの全体像が見えてくる、ともお話ししました。その全体のストーリーとは、

”もともと日本列島には、縄文人が住んでいた。弥生時代に、中国動乱に伴い、中国・朝鮮半島から、多くの人々が日本列島にやってきた。そのなかに天孫族がおり、そのリーダー天照大神(あまてらすおおみかみ)は、当時西日本を支配していた大国主命(おおくにぬしのみこと)に対し、支配権の譲渡を迫り承諾させ、北部九州を中心とした支配体制を築いた(紀元前4~5世紀頃)。その流れにあるのが邪馬台国であり、九州王朝である。
九州王朝の一分派であった神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)のちの神武天皇は、新たな地を求めて東へ進み、最終的に畿内に居を構えた(紀元前1世紀頃)。神武天皇の系統は次第に勢力を拡大、一方九州王朝は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗して没落、ついに神武天皇の系統が大和朝廷として日本を支配することとなった(8世紀初頭)。”

そしてこのストーリーを、科学的データで検証しました。たとえば、鉄、鏡、勾玉、銅矛、絹、三種の神器(鏡、剣、勾玉がセット)の出土地からも、この仮説が実証されることをお話ししました。

また、古代山城が太宰府を防衛している事などから、九州王朝の都が最終的に太宰府にあったこともお話ししました。

近年の日本人男性の遺伝子Y染色体DNAの分析結果も、この仮説と一致していることもお話ししました。

ところで、日本古代史というと思い出すものに、銅鐸(どうたく)があります。銅鐸については、今まで詳しくみてきませんでした。では銅鐸は、こうした話と関係があるのでしょうか?。

これから、銅鐸についてみていきましょう。

■銅鐸とは?

銅鐸とは、”弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。”
(Wikipediaより)とあります。

中に、舌(ぜつ)と呼ばれる金属が紐でぶらさがっており、それが揺られて外側の鐘にあたり、音がなるという仕組みです。

<銅鐸(滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土)>
銅鐸2(東京国立博物館蔵) 

読んで字の如く「銅でできた鐸(たく)」ですが、では「鐸」とは何でしょうか?。

佐原真氏によると、中国では英語のヘルに対応するものが3種類あるそうです。
「鐘」 ・・・ 紐で吊り下げられて、外から叩いて鳴らす。舌(ぜつ)はない。日本のお寺の鐘がそうですね。
「鈴(レイ)」 ・・・ 紐で吊り下げられて、揺らして鳴らす。舌がある。
「鐸」 ・・・ 柄があり、柄を手に持って鳴らす。舌がある。

ですから、中国本来の呼称では、「鐸」とは、”柄がついていて手に持って鳴らすカネ”ですから、銅鐸は「鐸」ではありません。「銅鐸」は、”柄がなく、吊り下げて鳴らす、かつ舌がある”ものですから、「鈴」に分類されます。

ちなみに「鐸」と言えば、「木鐸(ぼくたく)」という言葉をご存じの方も多いでしょう
”木の舌のある金属製の大きな鈴。古代中国では、政令を布告する際、この木鐸を鳴らして人民を市や村の辻(つじ)などに集め、説明をする習わしがあった。『論語』「八(はちいつへん)」に「天下これ道なきや久し。天まさに夫子を以(もっ)て木鐸となさんとするごとし」などとあるように、これから転じて、世論を喚起し、民衆を教え導く人物をなぞらえることばとなった。なお、舌も金属製のものは金鐸といって、軍事に関する件の布告に用いられた。[田所義行]”日本大百科全書(ニッポニカ)より)

とあります。かつて新聞などは、「世の木鐸たるべし」などと言われたものです。果たして現在、新聞がその役割を果たしているかは、皆さんの判断に委ねますが、少なくともこうした使い方をされたことからもわかるとおり、「鐸」とは政治的なものと関わりが深かったことがわかります。

■用途

では、銅鐸は、何のために作られたのでしょうか?。今までさまざまな説が唱えられてきましたが、ついにその論争に決着をつける発見が2015年6月にありました。淡路島で銅鐸4個が発掘されましたが、それらととともに、音を鳴らすための青銅製の「舌(=振り子)」と舌をつるす紐が出土したのです。これらのことから、銅鐸は、吊り下げて揺らし、音を出すために使用されたと推測されます。そして、祭祀あるいは政(まつりごと)の儀式の際に、使われたと考えられます。

<淡路島出土の銅鐸と舌>
淡路島銅鐸 
(毎日新聞、2016年1月7日より)

その後、1世紀末頃には大型化が進み、音を出して「聞く」目的から、地面か祭祀の床に置かれて「見せる」銅鐸へと変化したと考えられます。

■起源

かつては、中国大陸を起源とする「鈴」が、朝鮮半島から伝わったと考えられていました。牛や馬など家畜の首につるす「鈴」が起源ではないか、との説で、何となくモンゴル平原の騎馬民族を連想させます。
ところが、中国春秋戦国時代(紀元前770年-同221年)の地方国家、越(えつ)の貴族墓から、銅鐸に似た青磁器の鐸が出土しました。このことから、中国南部の越から直接伝わった可能性が指摘されてます。

越と言えば、「呉越同舟」の故事で有名です。呉越同舟とは、仲の悪い同士が同じ場所にいる例えですが、越は呉とライバルにありついに紀元前473年に滅ぼしますが、越も起源前306年頃に楚に滅ぼされます。そしてその動乱により、多くの呉・越(さらに楚)の人々が四散し、日本列島に多くの人がたどり着きました。そのなかの最大イベントが、天孫族の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨、すなわち九州北部への進出だったことは、前にお話ししました。

人の流入とともに、多くのものも日本列島に伝わってきました。青銅器や鉄器、稲作(水稲)もそのひとつでしょう。そのなかに、銅鐸(の原型)があったとしても、不思議ではありませんね。

ただし、では天孫族が銅鐸を持ち込んだのか?、というと、そうではありません。実は、古事記、日本書紀には、銅鐸に関する記載が全くありません。となると、別の集団が持ち込んだということになります。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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