日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②

小田静夫氏論文の続きです。


”最新の分子人類学の成果によると、約7万年前頃ホモ・サピエンス(新人)たちがアフリカを出てユーラシア大陸に拡散した(第2の出アフリカ)。その後、彼ら新人たちは、約6万年前頃には東南アジアの「スンダランド」と呼ばれる広大な大陸に定着した。やがて海岸や島嶼部に生活した集団は、筏舟(竹材、丸太材、動物の浮き袋)や丸木舟などの渡航具を開発して、河川や沿岸海域さらに外洋にまで出漁(貝塚遺跡、骨角製釣針)し、豊かな海洋資源を主生業にした「海洋漁撈民」に成長していた。

 約5万年前頃、このスンダランドからウォーレス線を越えて、ニューギニアとオーストラリアが陸地で繋がっていた「サフルランド」と呼ばれる大陸に移住した新人集団がいた。京都大学の片山一道氏、国立民族学博物館の小山修三氏、同志社大学の後藤明氏らによると、この移住行為は単なる1グループの偶発的な拡散ではなく、意図的に複数回行われ、その移住人数は1,000人規模の多数に及んだという。彼ら新人たちはその後、この新天地に定住しオーストラリア先住民(アボリジニ)、ニユーギニア高地人(パプア人)の祖先になった。スンダランドからサフルランドへは、海面が現在より120m以上低下した最終氷期最寒冷期(約1万8,000年前)でも「ウォーレシア」と呼ばれる多島海を最大約80~100km航行する必要があった(大塚柳太郎編1995『モンゴロイドの地球2 南太平洋との出会い』、片山一道2002『海のモンゴロイド』、後藤明2003『海を渡ったモンゴロイド』、海部陽介2005『人類がたどってきた道』、小田2005ほか)。”


50000年前に、「スンダランド」から「ウォーレス線」を超えて「サフルランド」へ移動した集団がいた、とあります。彼らが、アポリジニ、ニューギニア人となったわけですが、注目すべきは、その航海技術です。「ウォーレシア」と呼ばれる多島海を最大80~100km航海した、とあります。当時も陸地とつながっていなかったわけですから、そのように考えるしかない、となります。われわれの想像をはるかに上回る技術をもっていたことになります。

ちなみに「ウォーレス線」とは、図中では「Wallace Line」と記載されている線です。この海峡を境に、生物の特徴が大きく異なる線のことであり、西側は東洋区、東側はオーストラリア区の生物が見つかることで、知られています。陸上生物は、海を渡れなかったから、進化の過程で、大きな差異が生じたということです。逆に、われわれの祖先はその海を渡れた、ということになります。

スンダランド・サフルランド


"ここで日本列島に渡来した最初のホモ・サピエンスたちのルートを探ってみることにしたい。1995・96年國學院大学の加藤晋平氏は、台湾島を含めた東南アジア地域の剥片石器群を「不定形剥片石器文化」と呼称し、古期と新期に区分した(國學院雑誌96-7、地学雑誌105-3、月刊地球206)。古期は更新世にスンダランド海岸部から、サフルランドと黒潮海流を北上して琉球列島を北上して奄美諸島まで到達した旧石器人集団である。新期は完新世になって、東南アジア大陸沿岸や島嶼部に分布していた土器を持たず中石器的な生活段階の海洋航海民の文化と考えられている。共に「南方型旧石器文化」とも呼べるもので、黒潮海流を北上した「黒潮圏」からの渡来ルートの軌跡であった(小田2007b)。

 この「新・海上の道」とも呼称できる南方ルートの旧石器人集団は、①ウォーレシアの道、②琉球列島の道、③黒曜石の道の三つの海洋航行行動が知られ、最古の渡来は①の段階の旧石器人たちで、それは日本の旧石器時代編年で、「先ナイフ形石器文化」(約3万5,000年前頃)に相当する(小野昭・春成秀爾・小田静夫編1992『図解・日本の人類遺跡』)。彼らはスンダランド海岸部で世界に先駆けて「海洋適応」を獲得し、サフルランドへ拡散するとともに世界最強の「黒潮海域」を北上し、琉球列島を経由して本州島の太平洋沿岸部を遊動した「海洋航海民」であった。そして伊豆諸島の神津島で石器製作の優れた原材である「黒曜石」の大原産地を発見し、この島を海に浮かぶ神聖な「宝の島」として、旧石器・縄文・弥生時代に亘って大切に利用してきた歴史を知ることができる(小田2002,2014a)。”

スンダランドから黒潮に乗って、日本列島にやってきたルートとして、「ウォーレシア」→琉球列島→本州太平洋沿岸と渡り、神津島で黒曜石を発見した、としています。図示します。

新・海上の道

<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>

                   

ここで当然のことながら、「本当にこんな遠距離を、当時の舟で渡れたのか?」という疑問は湧きますので、少し考察してみます。


まず、当時から80~100km渡航できたことは、スンダランドからウォーレンス線を越えてサフルランドへやってきたことから明らかです。


ウォーレンス線は、図中では、左下のボルネオ島(たぬきの形をした島です。たぬきの頭の部分が見えますね。)からフィリピン諸島南部を通る線です。


そのフィリピン南端から、黒潮に乗って、一気に宮古・八重山諸島まで来れるかです。距離にして、ざっと2000kmです。


”黒潮は世界最大の規模の海流で、最大流速は最大で4ノット(約7.4km/h)にもなる。また、600 - 700mの深さでも1 - 2ノットになることも珍しくない。”(Wikipediaより)


そこで黒潮に乗った舟の速度を、2ノット(3.7km)としてみます。すると、一日で、

3.7km/hr×24hr=88.8km

進みます。

2000km航行するのに必要な日数は、

2000km÷88.8km/日=22.5日

となります。


黒潮に乗れば、自然と23日で宮古・八重山諸島周辺の海域に行き着きます。そのあたりへ来れば、島々が見えてきますから、無事どこかの島へたどり着くことができます。彼らはもともと海洋民ですから、舟の操縦は得意ですし、魚を釣ることで食料を確保することもできたはずです。雨は豊富な気候だったので、器状のものがあれば、水も問題なかったでしょう。

ただし、もともと何の情報もないまま、つまり目的地もないまま大海原へ漕ぎ出したのか、という疑問は残ります。出発した時点では、目的地が視界のなかにないからです。


そこで、もう一つのルートとして、島から島へと進んだとしてみます。


ウォーレンス線に沿い、フィリピン南から、フィリピン諸島東を海岸線沿いに進めます。あるいは、スンダランドとフィリピンは、ほぼ陸続きであったことから、フィリピン諸島の中を通ることもできたでしょう。


そのようなルートで最北のルソン島北端まで進むと、当時大陸と陸続きであった台湾まで300kmほどです。途中にバタン諸島という小さい島々がありますから、それらの島から島へ渡ると、台湾まであと150kmほどですので、黒潮に乗れば、台湾に到着します。


台湾にたどり着き、東海岸沿いに進めば、100kmほど東に与那国島、さらに石垣島、そして宮古島がありますので、渡航できます。そして宮古島から沖縄本島まで250kmほどで到着します。


沖縄本島に、3万五千年前の人骨が発見されてます。ということは、当時人類が住んでいたということです。彼らは250kmの海を渡ってくる他なかったわけですから、当時の航海技術の高さが証明されます。また彼らは南方のオーストロネア系であったことがわかってますから、以上のルートで渡ってきた可能性は高いでしょう。


もちろんこの移動は、幾世代もかけた壮大な旅であったはずで、少しづつ大移動をしていったことの積み重ねでしょう。


いずれにしろ、このように細かくみていくと、南方のスンダランドから日本列島へ「海上の道を通ってやってきた」という仮説も、現実性が出てきますね。


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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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