太宰府は、倭国の都だった!?(2) ~ 太宰府遺構が物語ること

前回から、3月27日に出版したシリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 ~ その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を一部公開してます。その続きです。

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太宰府建設の由来については、
“日本書紀によれば、天智天皇二(663)年、唐、新羅の連合国白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻に備え、博多の那の津にあった大宰の府を移したところである”(福岡県教育委員会看板より)とされてます。

条坊(碁盤目道路)で区画割された大規模な都市で、その規模について
“九州大学教授となる鏡山猛が1937年(昭和12年)、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。(Wikipediaより)
との研究結果が出されてます。

<太宰府条坊>

太宰府条坊

(九州大学宮本雅明案を参考、Wikipediaより)

遺構については、九州歴史資料館や太宰府市教育委員会によると、
(1)七世紀後半(飛鳥時代)
(2)奈良時代
(3)平安時代
の三層に分かれています。つまり、一番古い遺構は、せいぜい七世紀後半であり、日本書紀の記録663年とも整合している、ということです。

ところがこの見解について、元新聞記者である内倉武久氏が、著書「太宰府は日本の首都だった」のなかで問題提起しています。以下、要約します。
現在地上に復元されている建物跡などは、平安時代に再建された遺構であり、本来の太宰府遺跡ではない。古い時期の建物群は、平安時代の「大宰府政庁」域よりはるかに広い。
下層の建物や配置、なんのための建物で、どんな風になっていたかのかは、よくわかっていない。ところが
、「上の方に平安時代など新しい遺構がある場所は、それ以上掘れない」として、詳細な調査がされていない。“
と記しています。

そして、出土した土器の年代測定に対して、科学的な根拠がないとして、
“出土した土器の年代測定からみて、飛鳥時代以降とされている。しかしながら、放射性炭素(C14)による理化学的な年代測定によれば、古墳時代の五、六世紀まで、さかのぼるのではないか?“
としています。

ここで補足します。土器の年代測定は、外国では、放射性炭素(C14)をはじめとした理化学的なデータを基に推定しているのですが、日本では異なります。日本では、“土器や埴輪などの形や製法の違いを細かく調べて年代を測定する「編年方式」がもっぱら使われているのです。

たとえば、「古墳時代の土器」として須恵器がありますが、全国どこでも、主として大阪府堺市の陶邑(すえむら)から出土した須恵器の年代を基準として、地域の特徴も加えて決定しています。そして、陶邑で須恵器の生産が始まったのは、朝鮮半島から伝わった古墳時代中期、西暦400年代の初めころとしています。実際、日本書紀にも「陶邑」の名が出ています。

そして、“古墳時代以降が、大和朝廷が日本の中心であり、日本全国から出土する須恵器の多くもここから供給された。だから、どこから出土した須恵器でも、陶邑の、どの時期の須恵器と同じ形、同じ製法かを調べれば、おおよその製作時期がわかる”というわけです。

<須恵器(日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕)>
須恵器

(兵庫県立考古博物館蔵)

ここで、読者のみなさんは、ピンとくると思いますが、次の疑問が湧くわけです。
「古墳時代に、大和朝廷が日本を統一したというのが史実でないなら、どうなるのか?」

実際、放射性炭素(C14)を用いた理化学的結果によると、九州を始め、全国で出土した土器の年代測定が、「編年方式」より150年から200年、ケースによってはそれ以上古い事例が続出しています。

この結果に対して、「編年方式」論者からは、「放射性炭素(C14)の結果など、あてにならない」「古い地層の土が付着したのだ」などの反論が出ています。ひどい話になると、理化学的調査を拒否されるケースもあるそうです。どっかで、よく聞く話ですね。

なお、笑い話のような話ですが、この「編年方式」によると、太宰府政庁遺跡には、“古墳時代の土層がないことになる”そうです。なぜかというと、本来の古墳時代の地層が、新しい飛鳥時代以降の地層とされているからです。無理に無理を重ねると、このような矛盾が、次々と出てしまうものです。

こうした問題も、単純に、“大和朝廷が全国統一したのは、7世紀後半から8世紀である。それ以前は、九州王朝さらに各地には、巨大勢力があった”とすれば、すんなり解決できるわけです。

補足が長くなりましたが、ようするに、太宰府の創建は、定説より古く、五、六世紀に創建された可能性が高いと考えられます。とすれば、その時期にこれだけの壮大な規模をもった施設は、日本のどこにも無かったことを考え合わせると、「太宰府が九州王朝の首都であった」という仮説は、俄然と現実味を帯びてきますね。

<太宰府政庁復元模型(平安時代以降?)>
太宰府政庁復元模型

(「太宰府観光マップ」(太宰府観光協会)より)
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倭国の首都が大宰府にあったということは

>ようするに、太宰府の創建は、定説より古く、五、六世紀に創建された可能性が高いと考えられます。とすれば、

〇なるほど、倭国の首都が大宰府にあったということは、古代は倭国と大和朝廷の2国時代と言う考えと一致しますね。
 こちらの方が説得力がありますね。
 草々

Re: 倭国の首都が大宰府にあったということは

レインボーさま
コメントありがとうございます。

ご指摘のとおり、当時は倭国と大和朝廷の2国時代ということです。これは中国史書の旧唐書に、「倭国伝」と「日本国伝」があることからも明らかでしょう。ただし厳密に言うと、大和朝廷はあくまで倭国(九州王朝)の一分派であったが、次第に力を蓄え、ついに併合したということになります。言わば、子が親を飲みこんだ形です。
また、各地方にも、関東はじめ独立した巨大勢力があったと考えてます。そのあたりは、いずれ書きたいと思ってます。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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