太宰府は、倭国の都だった!?(3) ~古代山城は、何を守っていたのか?

前々回から、3月27日に出版したシリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 ~ その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を一部公開してます。その続きです。


古代山城(やまじろ、またはさんじょう)
という言葉をご存じでしょうか?。読んで字の如しで、古代の山城のことです。一般的には、“白村江の戦い(663)で敗れ、唐・新羅連合軍の侵攻を防ぐために、飛鳥時代から奈良時代にかけて、西日本各地の山に築城された防衛施設”とされています。

いくつかの種類があり、文献に見える山城は「朝鮮式山城」、見えない山城は「神籠石(こうごいし)式山城呼ばれてます。現在わかっている数は、

・朝鮮式山城 12か所

・神籠石式山城 16か所

の計28か所です。

 

特徴としては(神籠石山城)、

  • 幾つかの谷を取り込み、山腹を取り囲む場所に立地する。
  • 標高200 ~ 400mの山頂から中腹にかけて数kmにわたって一辺が70cm位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列(列石)し、その上部に版築による土塁を有する。
  • 谷を通過する場所に、数段の石積みを有する城門や水門を設けている。
  • 列石遺構の内部に、顕著な建物遺構が見られない。

などです。

 

<大野城跡>
大野城神籠石 
(Wikipediaより)

日本書紀に、築造に関する記事があります。

"天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答ホン春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城した”とあります。

さて、防衛施設というからには、何かを守っているはずです。ここで質問です。

 

「山城は何を守っていたのでしょうか?」

 

これだけ大がかりな防衛施設となると、当然、権力者のいた宮殿ということになるでしょう。では、日本各地にある山城の位置を図示します(場所が確実視されるものだけです。)。

山城位置  




見ての通り、山城は西日本特に北九州に集中しています。瀬戸内海沿いにもありますが、数か所です。畿内には、わずか一か所です。そして、集中している北九州をよくみると、太宰府を囲むようにして築かれていることがわかります。これらの事実から、そのほとんどは「太宰府を守るために築かれた」と言ってよいでしょう。

 

一般的には白村江の戦い(663)に敗れた日本が、唐・新羅軍の侵攻に備えるため、その前線基地である太宰府を守るために築造したのだという説明がされますが、よくよく考えると不思議な理屈です。

 

前線基地である太宰府を守るため、というのはいいとして、ではなぜ本丸であるはずの畿内には、たった一つしかないのでしょうか?。なお、そのたった一つの高安城も、礎石建物跡が発掘されているだけで、明確な遺構は未だ発見されていません。

 

普通に考えれば、本丸の防御施設は前線基地をはるかに上回る規模であるはずです。それがどうしてこうも貧弱なのでしょうか?。

 

瀬戸内海に来た水軍を撃破するために、瀬戸内海沿いに築いているじゃないか?、と反論の声が聞こえてきそうですが、これだけの山城で、強大な唐・新羅連合軍を、打ち破れるのでしょうか?。あまりに手薄です。

 

また、唐・新羅連合軍は、もしかすると日本海側方面に回り、山陰あるいは丹波あたりから上陸して畿内に攻めてきたかもしれません。しかしながら、その備えとなる防御施設はありません。そういうことも思いつかないほど、当時の日本は、間抜けだったのでしょうか?。

 

答えは簡単です。当時、守るべき最重要施設は、太宰府だったのです。つまり、太宰府が、九州王朝の都だったのです。そう考えれば、小難しい理屈をこなくりまわさなくても、すっきりと解釈できます。

 

そして、問題は山城の築造時期です。一般的には、白村江の戦い(663)以降、とされてますが、ここでも内倉氏が、疑問を呈してます。


山城と並ぶ防御施設として、大水城(おおみずき)があります。太宰府市と春日市にまたがり、博多湾に迫った侵略軍を防ぐ最後の砦となります。1.2kmの長大な土塁と濠、濠に水を流すための木製の樋(ひ)からなってます。大水城には、東西二カ所に門が設けられていて、門からは道路が北へ延び、博多湾岸にある迎賓館施設に通じていたとみられます。

この水城に使用されていた木樋を年代測定したところ、540年頃という結果が出ました。

また、対馬にある金田城の土塁の中にあった炭化物を放射性炭素により測定したところ、590630年頃との結果が出ました。

詳細な調査をすれば、さらに古いものもあると推測されますから、一連の防衛施設は、少なくとも6世紀には築造されていたことが、確実視されます。


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No title

「白村江の戦い(663年)に敗れた日本(倭国政権)」につぎに襲い来たのは唐の進駐軍、大宰府(倭の都:いわゆる日本国代表政権)は占領された。こののち「倭」は「日本」に統合され機内で統一政権ができていく。と以前先生かほかの方の論文を読んだ記憶がありました。倭は邪馬台国とも比定され、事実上倭国は消滅したのだともあいまいな記憶があります。5,000以上の唐軍が来ているとの記載が文書にも残っているようです。この項をちらりと拝見して「ふと」思い付きを述べてみました。蛇足ですが、前段記載の様に、唐・新羅軍に敗れた後の日本史が「いわゆる”負けた、戻った”、あとは平和な日本となった・・・?」くらいでしょうか。ここは早く正してほしい歴史です。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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