銅鐸にみる「西→東」への移動 (6) ~ 九州出土銅鐸が与えたインパクト

ここまで、銅鐸の概略についてみてきました。”銅鐸は中国起源で、直接あるいは朝鮮半島経由で、紀元前4世紀頃、日本列島に伝わり、独自に発達しました。伝播ルートとしては、山陰地方(島根)、北陸地方(福井)、瀬戸内海(淡路島)などから畿内に伝わり、東海地方へと、広がっていった”との仮説を立ててます。


ところで、今まで九州のことには触れてきませんでしたが、九州との関係については、どうなのでしょうか?。


ひと昔前の歴史の教科書なら、銅鐸は畿内中心で「銅鐸圏」、九州は矛を主とする「銅矛圏」とありました。ところが、近年、畿内ではない島根県の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から、多くの銅鐸が発見され、これまでの定説が、覆されてます。


かつては九州においては、小銅鐸は出土していたものの、銅鐸は出土していませんでした。だから、「銅矛圏」と呼ばれていたわけです。


ところが、1980年、佐賀県鳥栖市安永田(やすながた)遺跡から、銅鐸の鋳型が発見されました。つまり、銅鐸が生産されていたことが明らかになりました。ここで作られた銅鐸は、主に山陽・山陰地方で出土するものと共通する特徴をもつものです。その後も、福岡市赤穂(あこう)の浦遺跡など、鋳型の発見例も増えました。

そして、1998年、ついに佐賀県の吉野ケ里遺跡で、銅鐸そのものが発見されました。その銅鐸はそれまでに発見されていた鋳型と、文様などの特徴が同じで、九州でも製作だけでなく。銅鐸を用いた祭祀が行われていた可能性が強くなりました(以上、「福岡市博物館HP、九州の銅鐸」参考)。


さて、この吉野ケ里銅鐸ですが、何と出雲で出土したと伝わる「伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」と、同笵(どうはん、同じ鋳型で作られたもの)であることが、明らかになりました。

<伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)と吉野ヶ里銅鐸(右)>
伝出雲・吉野ヶ里銅鐸

この「出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」については、

”・鈕ちゅう)(吊り手の部分)の上半分が失われていますが、現状で高さ22.3cm、下辺の長径が13.5cmと銅鐸としては比較的小さい部類で、弥生時代の中頃(約2000年~2200年前頃)に製作されたのではないかと考えられています。
・この銅鐸の身の片面には、三段の
横帯おうたい(横方向の帯状の文様)に挟まれた上下の区画に注目すべき文様が出されています。
・上段には切れ長の目と眉、目の下に連続する鼻が描かれていて、怪しげな雰囲気を漂わせています。このような文様は
邪視じゃし文」あるいは「辟邪へきじゃ
文」とも呼ばれ、邪悪なものを追い払う意味があるともいわれています。
 ・下段には首が長くてくちばしの長い鳥(サギだと考えられます)が描かれています。

・これらの特徴をもつ銅鐸は「福田型銅鐸」と呼ばれていて、この種の鋳型が九州で出土したことから、九州で製作されたと考えられます。


<伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)復元想定図 >

伝出雲銅鐸

(「伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」(市報松江8月号)より)

たしかに、銅鐸のやや上面に、人の顔と思しき怪しい文様が刻まれてますね。ちなみに、佐賀県安永田遺跡出土の銅鐸鋳型も、「福田型」です。


そして、「伝出雲出土銅鐸」は、北部九州で作られた可能性が高いとされています。

福田型である伝出雲と伝伯耆国出土の横帯文銅鐸も北部九州産と考えられ、製品が移動してきただけでなく、福田型銅鐸を受容した思想的背景には、北部九州と共通する価値感が存在したことを想定してよいだろう。”(「山陰地方の青銅器をめぐって」(石橋茂登、奈良文化財研究所)より)


石橋氏は、伝出雲(現島根県)出土銅鐸のみならず、伝伯耆国(ほうきこく、現鳥取県)出土銅鐸も、北部九州で作られたとしてます。


こうした近年の発見は、これまでの「銅鐸圏」の概念を、一気に吹っ飛ばしてしまいました。


では、これらをどのように考えるかです。


冒頭お話ししたように、前回までで、伝播ルートとして、山陰地方(島根)、北陸地方(福井)、瀬戸内海(淡路島)などから畿内に伝わり、東海地方へと、広がっていったとの仮説を立てました。


ところが、九州北部での銅鐸出土および研究結果からみると、九州北部から山陰地方という伝播の可能性が出てきました。つまり、

九州北部 ⇒ 山陰地方、北陸地方、瀬戸内海 ⇒ 畿内 ⇒ 東海地方

というルートです。


もちろん現時点では、九州北部で出土している銅鐸の数は、他地方に比べ圧倒的に少ないうえに、九州北部では古い形の銅鐸は、出土していませんので、すぐにこうとは言い切れません。出雲からの伝播の可能性もあるでしょう。

しかしながら、少なくとも、出雲出土銅鐸と九州北部出土銅鐸が同笵であり、九州で作られた可能性が高いという事実は、重視すべきです。

また、そもそも銅鐸が、中国、朝鮮半島からもたらされたのですから、最初に九州北部に到達するのも自然です。

となるとたとえば以下のシナリオが考えられます。
1.銅鐸は、中国、朝鮮半島から、九州北部にもたらされた。
2.九州北部で生産が開始され、祭祀としての使用も始まった。
3.九州北部から、山陰、瀬戸内海に広まった。
4.さらに畿内、東海地方にも広まった。
5.九州北部の銅鐸祭祀は、早い時期に下火になった。そのため大型化もされず、生産量も少なかった。
6.他地方は、祭祀として長い期間使用され、次第に大型化していった。

もちろん一つの仮説に過ぎません。

しかしながら、可能性のひとつとしてはありうると考えます。

ちなみに、独自のスタンスで古代史研究に生涯を捧げた森浩一氏(もりこういち、元同志社大学教授)も、銅鐸について、「北部九州説」をとってました。

みなさんは、どのように考えますか?。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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