銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎

では、あらためて「埋納」について、考えてみましょう。

まず、状況の整理です。


”埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。”
(Wikipediaより)

銅鐸は祭祀に使用されたと考えられますから、住居からの出土はないのはわかりますが、墳墓の副葬品としての出土がない、というのは、きわめて特徴的です。銅剣、銅矛とは、異なる扱いだったということです。なお
”九州においては、主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない周辺部で見つかってます。また原田(はるだ)遺跡出土小銅鐸のように、副葬品として見つかる例もあります。”(福岡市博物館HP「九州の銅鐸」より)。

つまり、九州における銅鐸の扱いは他の地域とは異なるわけで、ポイントの一つと考えます。

では、なぜ銅鐸は埋納されたのか?、です。Wikipediaに記載されている理由を見てみましょう。

a.平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)
<寸評>
もっともらしい説ですが、”使われなくなって忘れられた”というのも、ずいぶんと間抜けな話です。青銅器といえば、今で言えばレアメタルのように高価な超貴重品だったわけで、溶かして他の物を作ることも可能です。簡単に忘れ去られるようなものではないでしょう。

b.米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかという説
c.大変事にあたり神に奉納したのではないかという説
d.地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説
<寸評>
こうした風習は、東南アジアでもあったとのこで、ありえるでしょう。ただし、ここでも、青銅器という貴重品を一つ二つならいざしらず、大量に埋めたままにしとく、というのはもったいない気はします。特に島根県の荒神谷遺跡などは、銅鐸6個のほか、銅剣358本、銅矛16本も一緒に埋納されていました。これだけの資源を、将来の利用も何も考えずに単に埋納した、というのも、しっくりきませんね。
いや、祭祀のときに取り出し利用したのだ、との考えもありますが、それではaと同じで、なぜ大量に埋納されたまま放置されたのか、の説明がつきません。

e.文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説
<寸評>
解説にも”そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である。”とあります。またもし仮に授与されたものだとしても、なぜ埋納したのか、の疑問は残ります。授与されたなら、恭しくどこかに飾るのが、普通だと思いますが・・・。


f.政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)

<寸評>
祭祀の象徴を突然中止するほどの「政治的変動」とは何でしょうか?。よほどのことがあったとしか、考えられません。同じ文化をもつ支配者系統内での「政治的変動」考えにくいのではないでしょうか?。


g.銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)

<寸評>
銅鐸が突然消滅したということは、単なる社会変動とは思えません。そうした観点から言えば、異文化をもった外的の侵入があった可能性が高いと考えます。ただし、外敵が攻めてきたときに銅鐸を隠したというのは、考えにくいでしょう。銅鐸埋納場所は、全国どこでもほぼ同様の場所であり、緊急事態のときにあわてて隠したとは、思えないからです。


以上のとおり、どの説も説明しきれない点があります。


では、どのように考えればよいでしょうか?。


確かに、外敵の侵入はあったかもしれません。これについては、次回以降取り上げます。ただし、埋納されている状況が、ほぼ全国同じであるということは、やはり何らかの共通する祭祀や風習などによるものと考えざるをえません。では、それの手掛かりはあるのでしょうか?。


興味深い事例があります。これも春成氏論文に記載されていたものです。

”・東京都府中市人見では、大正時代までは、石に像を彫った塞の神は、祭りが済むと穴を掘って埋めておき、明くる年の祭りの時にはまた掘り出してきれいに洗って祭壇を設けて祭っていた。そしてそれに近いようなことは方々でやっていたという。(「日本文化の形成」(宮本常一)より)

・宮城県船形山神社に神体として伝わる高さ19.4cmの金剛菩薩立像は、古代朝鮮からの渡来仏と推定されているが、平生は山麓に埋めてあり、例祭の日に、別当により秘密の場所から掘り出され、拝殿に安置されるという。(「飛鳥仏の誕生」(久野健)より)

・白川静氏が、代の青銅器がやはり、殷都を遠く離れた辺境の地に埋蔵されていることについて、異族を呪詛し、悪霊を圧服するために呪儀を行った痕跡であると論じ、日本の銅鐸についても論及している。”

このように、日本においても、埋納の風習が近年まであるばかりか、中国においても3000年前において、同様の文化があったとすれば、銅鐸埋納もこうした流れのなかで理解してもいいと考えられます。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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