銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (10) ~ 銅鐸を使用していたのは誰か?

前回までで、”銅鐸は、異文化をもった人々の侵入者によって破壊され、消滅した。”というところまでお話ししました。

今回は、いよいよ銅鐸最大の謎に迫ります。
それは、
「銅鐸を使用していたのはだれか?」
そして
「異文化をもった侵入者とはだれか?」
です。

従来の説では、
”銅鐸は稲魂信仰祭祀の象徴であり、初期大和政権の首長が、地方の豪族に対して同盟の証として与えた。首長の権威が高まるにつれ、首長霊信仰に代わり、三角縁神獣鏡の配布、さらに古墳祭祀へと変貌を遂げた。銅鐸はあるものは破壊され再利用され、あるものは忘れ去られた。”
というものが一般的でした。

この説が、近年の島根県荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡での銅鐸大量出土や、九州北部での銅鐸・銅鐸鋳型の出土などにより、説明できなくなっていることも、お話ししました。

本題に入る前に、ここで一度、ここまでの話を整理しておきましょう。

■銅鐸とは、釣鐘型の青銅器。舌(ぜつ)と呼ばれる金属の棒がつり下がり、本体を揺らすことで音を鳴らす。紀元前3世紀頃から紀元後2世紀頃にかけて発展したが、突然消滅した。

■中国大陸の鈴が起源と考えられ、紀元前4世紀頃、中国大陸から直接あるいは朝鮮半島から伝わった。

■日本では時代とともに、大型化するとともに、装飾化も進んだ。菱環鈕(りょうかんちゅう)式⇒外縁付鈕式⇒扁平鈕式⇒突線鈕(とっせんちゅう)式へと変遷した。当初は「聞く銅鐸」であったが、次第に「見る銅鐸」に変わっていった。

■分布としては、畿内を中心とした「銅鐸圏」、九州北部を中心とした「銅矛圏」という旧来の説は、その後の島根県荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡での大量の銅鐸・銅剣出土、九州北部での銅鐸・銅鐸鋳型出土などにより、成り立たなくなっている。

■銅鐸出土の分布を時代ごとに追うと、山陰地方(出雲)・北陸地方(福井)・瀬戸内海地方北東部⇒畿内⇒東海地方、という流れがみてとれる。

■最古の菱環鈕(りょうかんちゅう)式は銅鐸7個・鋳型2個しか出土してないが、畿内からは、京都府での鋳型一個の出土しかない。

■九州では、近年、銅鐸・銅鐸鋳型の出土が相次いだ。伝出雲出土銅鐸が吉野ケ里出土銅鐸と同笵(同じ鋳型で作られた)であることが判明、九州北部産である可能性が高まった。九州北部 ⇒ 山陰地方、北陸地方、瀬戸内海 ⇒ 畿内 ⇒ 東海地方、という伝播の可能性も出てきた。

■謎の一つとして「埋納」があるが、全国で人里離れた位置に埋納されているケースが圧倒的に多いことから、農業祭祀など何らかの信仰上の理由で埋納された可能性が高い。

「破壊」については、再利用された形跡はあるものの、異文化の侵入者による可能性が高い。それにより、「消滅」したと考えられる。

■銅鐸については、のちの大和朝廷に伝承されていないことなどから、初期大和政権の人々が使用したものではない。

以上です。

では、始めの問いに戻りましょう。

a.銅鐸を使用していたのはだれか?

b.異文化をもった侵入者とはだれか?
です。

aからです。
銅鐸は紀元前4世紀頃、日本列島に中国から直接、あるいは朝鮮半島経由で伝わったとみられます。この頃、東アジア、そして日本はどのような状況だったでしょうか?

中国は、春秋戦国時代の真っ最中です。春秋時代(紀元前770年-紀元前403年)から戦国時代(紀元前403年ー紀元前221年)へとちょうど変わる頃です。

中国は、形の上では周王朝(東周)でしたが、実際には、各諸国の王が覇権を争う群雄割拠の時代でした。

揚子江下流域では、呉と越が争っていました。呉は、越を撃破し服属させましたが、反撃に合い、滅亡します(紀元前473年)。ちなみに、この時代に生まれた有名な故事が、「呉越同舟」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」です。

<春秋時代の中国>
春秋時代


その越も、に滅ぼされ(紀元前306年)、その楚も、秦の始皇帝に滅ぼされ(紀元前223年)、秦が中国全土を統一しました(紀元前221年)。

<戦国時代の中国、紀元前260年頃>
戦国時代

(Wikipediaより)

この長い戦いに敗れ、あるいは戦乱を避けて、多くの人々が四散しました。そのなかで、日本列島にも多くの人々やってきました。そのハイライトが、天照大神による九州北部への「天孫降臨」であった、という話は、何度か解説しました。その時期は、紀元前4~5世紀頃と推測してます。

 スライド11

詳細は、
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(No.48、2015/10/7号)
を参照ください。

天孫降臨により、倭国の支配権を握った「天(海人、あま)族」は、次第に勢力を拡大します。天族の中心勢力を「九州王朝」と呼び、邪馬台(壹)国がその宗主国でした。

一方、九州王朝の一分派であった、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと、のちの神武天皇)は、東征して、畿内に居を構えます。時期は、紀元前1世紀頃と推測します。神倭伊波礼毘古命の子孫は次第に勢力を拡大、畿内を手中に収めます。

以上が、東アジア戦乱から、天孫降臨、神武東征までですが、ここから本題です。

まず、「銅鐸を伝えた人々」からです。

銅鐸が日本列島に伝わったのは、紀元前4世紀頃とされてますから、上の中国動乱の時期と重なり、戦乱により四散した人々とともに伝わった可能性が高いと考えられます。

では、天孫族すなわち天照大神につながる人々が伝えたのでしょうか?。

その可能性は低いと考えられます。

なぜなら、もし天孫族が伝えたのであれば、その地で銅鐸が発展するでしょうから、九州北部にもっと多くの銅鐸が発見されてしかるべしですが、数はわずかだからです。

また、天孫族の末裔とされる大和朝廷の記録に何も残っていないということは、すなわち、天孫族のものではなかった証拠です。

となると、同時代の別のグループであったということになります。

では、具体的にどの国の人々だったのかは、はっきりとはわかりません。

天孫族は、呉系の人々だったと想定されますので、そうなると呉の可能性は低くなります。一方「呉越同舟」における呉の相手国である越(えつ)の国で、銅鐸に類似した青銅器が発見されてますから、越の国に人々であったかもしれません。

あるいは、銅鐸を伝えたのは、その後の楚の国の人々であったかもしれません。あるいは、東アジア全体の動乱により、その他の国や朝鮮半島の国の人々がやってきて、伝えたのかもしれません。

いずれにしろ、舟に乗り、日本列島のどこかに到着したわけです。

可能性としては、古い銅鐸が多く出土している山陰地方(出雲)の可能性はあります。

また海流に乗り、北陸地方までいっきにやってきた可能性もあります。実は、日本の越(こし)の国(現在の新潟・富山・石川・福井県あたり)は、中国の越の国の民が渡ってできた、との説があります。

そう言えば、最古の銅鐸である菱環鈕(りょうかんちゅう)式が、福井県坂井市から出土してます。また最古級とされる愛知県朝日銅鐸鋳型に刻まれている文様と同様の文様をもつ木製の杵が発見されたのは、石川県小松市の八日市地方遺跡からでした。となると、
中国・越(えつ)⇒日本・越(こし)の国
との説にも、信ぴょう性が高まります。


あるいは、普通に考えれば、中国・朝鮮半島に最も近い九州北部に上陸した可能性も高いと考えます。銅鐸の原型となった朝鮮式小銅鐸が出土している(大分県の別府(びゅう)遺跡)こともその仮説を裏付ける一つです。

その際のネックは、九州北部からの銅鐸出土が少ないことです。
しかし、それについては、、九州北部に初めて伝わったものの根付かず、さほど発展しなかった一方、東へ伝わるにつれ、発展を遂げ、次第に大型化・装飾化していった、との仮説が考えられます。九州北部においては、墓の副葬品として埋葬されたり、集落からさほど遠くないところに埋納されているなど、他地域と異なった様相をみせているのも、こうした仮説と関連する可能性があります。

以上により、”銅鐸を伝え日本で発展させたのは、天照大神から神武天皇につながる天孫族(海人族)とは別の、中国・朝鮮半島からの弥生系渡来人である”となります。

さてそれでは、その「渡来系弥生人」となると、具体的にどのような人々でしょうか?。

ここで想い起されるのは、日本神話に出てくる素戔嗚尊(スサノオノミコト)と大国主命(オオクニヌシノミコト)の話です。
スサノオオノミコトは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟ですが、高天が原で乱暴狼藉を働いたため追放され、出雲の国に降り立ちます。スサノオノミコトの6世孫が大国主命です。日本書紀には、娘婿との記載もあります。

実は、スサノオノミコトは天照大神とは別のグループで、先に朝鮮半島から日本にやってきた人々の象徴ではないか、との説があります。もしそうであるなら、そのグループが銅鐸を伝えた人々であったかもしれません。大国主命がスサノオノミコトの6世孫であるとすれば、大国主命が銅鐸祭祀をやっていて当然です。また大国主命が、スサノオノミコトの娘婿であったとしても、同様です。

江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者である平田篤胤(ひらたあつたね)は「弘仁歴運記考」のなかで、”銅鐸は天孫以前の大国主命の系統の集団が残した”と説いているそうです。この説に、森浩一氏が、「面白い説だ」と賛同しているとのことです(「邪馬台国の会」WEBより)。

この件について、事実はどうだったのかを究めるのはなかなか難しいかもしれませんが、いろいろ想像を巡らせてみるのも、古代史探究の楽しみですね。

<出雲大社の大国主命>
大国主命  
             (Wikipediaより)

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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