銅鐸が語る「西→東」への権力移動(11) ~最後の謎、 銅鐸を消滅させたのはどの人々か?

前回、銅鐸を伝えたのは、天照大神から神武天皇・大和朝廷につながる系統とは別の弥生系渡来人である、という話をしました。

かれらは紀元前5~同4世紀頃、日本列島の九州北部か山陰・北陸地方に上陸、住み着き、銅鐸を伝えたと考えられます。当時の日本列島には、縄文人がいましたし、彼らに先行して日本列島にやってきた渡来系弥生人もいました。先住者との関係は不明であり、さまざまな抵抗もあったでしょうが、その後の銅鐸文化の急速な発展を考えると、次第に受け入れられていったと推測されます。

そして、銅鐸も次第に大型化・装飾化していき、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと、大陸にはない日本独自の文化となりました。

西日本を中心に、広い範囲にわたり数百年にわたり祭祀に使用されましたが、紀元後2世紀から3世紀頃、突然姿を消します。その原因は、「異文化をもった侵入者である」としました。

では「銅鐸を消滅させた”異文化をもった侵入者”とは誰か?」

これが、最後の謎です。

ここまでお読み下さった方は、もうおわかりでしょうが、一度話を整理します。

■銅鐸が消滅したのは、紀元後の2~3世紀頃である。
■銅鐸を使用していたのは、天照大神から神武天皇・大和朝廷につながる系統とは別の弥生系渡来人である。
■銅鐸を破壊し再利用した工房とみられるあとが、奈良県桜井市の脇本遺跡で見つかった。時期は3世紀初めで、大和朝廷につながるとみられる纏向遺跡の建設と同じ時代である。
■銅鐸は、西から次第に消滅していった。

もうひとつ、この同じ3世紀の日本に起こった大きな出来事がありました。中国史書「魏志倭人伝」に記載されているあの有名な話です。

倭国大乱ののち、「卑弥呼」が女王として倭国を統一した。卑弥呼死後、再び国が乱れたが、卑弥呼の宗女壹与(いよ)を立て、国が治まった。

またここまで、このブログでは、天照大神による天族(海人族、あまぞく)の天孫降臨を史実と仮説を立て分析してきましたが、概要は次のとおりです。

■天孫降臨とは、天孫族による九州北部への進出であり、その時期は、紀元前4世紀~同5世紀頃である。
■その天孫族が倭国の支配権を握り、次第に勢力を拡大た(その中心勢力が九州王朝)。
■一方、九州王朝の一分派であった神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと、のちの神武天皇)は、東征し、大和に居を構えた(紀元前1世紀頃)
■神武天皇の子孫たちは次第に勢力を拡大し、畿内での実権を握った(3世紀頃)。やがて、九州王朝を上回る勢力となり、ついに日本国として統一政権となった(紀元8世紀頃)。

ここで、纏向遺跡が神武天皇系統の遺跡であることは間違いないので、神武天皇の子孫が畿内で実権を握った時期は、纏向遺跡建設の時期、すなわち3世紀頃と推測してます。

以上を考え合わせると、”銅鐸を消滅させた人々とは天孫族の人々であった”、ということがみえてきます。

つまり、天孫族が九州北部に上陸、東へ勢力を拡大するに連れ、また神武天皇の子孫が畿内で実権を握るにつれ、「異文化」である同銅鐸を消滅させていった、ということです。銅鐸の分布が、「西→東」へと移動したこととも整合します。

ただし、こうした反論が予想されます。

a.天孫降臨は、紀元前4~同5世紀というが、銅鐸消滅は紀元後2世紀から3世紀であり、時期が合わないのではないか。
b.神武天皇が畿内に居を構えたのが紀元前1世紀頃というが、これも銅鐸消滅の時期と合わないのではないか.

まずaですが、このように考えれば、整合します。
”天孫降臨の時期(紀元前4~同5世紀)と前後して、銅鐸も伝わりました。天孫降臨の場所は九州北部であり、当初はその近傍の支配に過ぎなかったと思われます。当時は、縄文人や銅鐸を使用する弥生系渡来人など、さまざまな人々がいました。天孫族は西日本において次第に支配権を拡大していきますが、実際の支配体制は、中央集権体制ではなく、各地の国王に支配を委ねた連合国体制であったと推測されます。したがって、文化なども各地における独自性を継承しました。
天孫族は九州王朝(倭国)として、次第に勢力を広げ、倭国大乱ののち、女王卑弥呼が即位、倭国を統一します(3世紀前後)。倭国統一とともに、文化も天孫族の文化が流入し、先住民の文化であった銅鐸祭祀が消滅しました。”

銅鐸消滅を、倭国大乱から卑弥呼による倭国統一に関連づけたのは、大胆な仮説ですが、倭国統一というのは当時の倭国における最大の出来事であったはずです。このことが、人々の生活や文化に大きな影響を与えたとしても、何ら不思議はありません。というか、むしろ社会に大きな変化をもたらさなかったというほうが、無理があるのではないでしょうか?。

なお、卑弥呼即位後、ライバル国である狗奴国との戦いがあり、激闘の末勝利しました。狗奴国は銅鐸圏の国である、との説もあります。となると、狗奴国の敗北と、銅鐸消滅が関連している可能性もあります。

次にbです。こちらはシンプルです。
”神武天皇が畿内に居を構えたのは紀元前1世紀頃だが、当時は一豪族に過ぎなかった。子孫が次第に勢力を拡大し、紀元後2~3世紀には畿内を制することとなり、纏向遺跡の都市を建設した。それとともに、それまで地域を支配していた豪族が行っていた銅鐸祭祀は消滅した。”

皆さんのなかには、古事記、日本書紀の記載と異なるので、あれ?、と思った方もおられるかもしれません。あるいは、「纏向遺跡は邪馬台国の遺跡ではないのか?」と思った方も多いでしょう。そのあたりをお話しすると膨大になりますので、別の機会に譲ります。

ともかく概略ではありますが、このように解釈すれば、さまざまな矛盾が解消し、すっきりと理解できるのではないでしょうか?。

というより、この解釈以上に説得力のある合理的な仮説は他にない、と思われますが、いかがでしょうか?。

★神武天皇の系統が、銅鐸文明を消滅させた!?

<神武天皇>
神武東征1
(月岡芳年「大日本名将鑑」より)

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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