隋書倭国伝を読む その7 ~ 「日出ずる処の天子」と表現した理由とは?

いよいよ隋書倭(原文は俀(たい))国伝のハイライトです。

【現代訳】
隋の煬帝(ようだい)の大業(たいぎょう)三年(607年)、俀国の王の多利思北孤(たりしほこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
「大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それゆえに使者を派遣して天子に礼拝をさせ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせたいと思ったのです。」
そして倭国の国書には、こう書いてあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりはないか・・・」
煬帝は、この国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
「蛮夷からの手紙のくせに、礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。」
【解説]
知らない日本人がいないほどの、有名なくだりです。歴史の授業でも習いましたよね。国書を出したのは、聖徳太子だと習ったと思いますが。ただ、私としては、なんとなく腑に落ちない感覚を持っていました。
「徳のあるはずの聖徳太子が、どうして相手を怒らせるような礼を失した表現を使ったのだろう?」と。
「当時の日本は、文化が成熟しておらず、中国の風習も知らなったからだ。」などという説明があった記憶がありますが、そんなことがあるのでしょうか。中国との関係は、卑弥呼の時代から倭の五王の時代まで、恭順の意を示すなど、非常に気を使っていたわけで、その歴史を知っていれば、こんな国書を出すはずがありません。何か理由があるとしか思えません。
前回までで、国書を出した倭(原文は俀(たい))国王の多利思北孤(たりしほこ)は、推古天皇ではなく、聖徳太子でもない。九州王朝の王だという話をしました。となると、多利思北孤とは、礼儀もわきまえない傲慢な人だったのでしょうか。

煬帝(569~618年)絵図
170px-Sui-yangdi.jpg

この点に関し、古田武彦氏が、とても鋭い指摘をしています。これには、中国王朝の系統の話が関係している、と。

中国王朝の系統といっても、自分のなかでは、北方遊牧民のチンギス・ハーンが建国した元(1266~1367)が異民族支配した話が有名で、あとは同じ中国人のなかで王朝交代がなされたのか、程度の認識でした。日本で言えば、平家がいて、それを鎌倉幕府が倒して以後、政権が代わりましたが、戦国時代を織田信長が統一し、豊臣秀吉を経て徳川家康の江戸幕府ができるわけです。いってみれば同じ大和民族内での話です。ところが、中国はまったく異なります。
ここで、中国王朝の系統を整理します。

一度、時代をさかのぼります。
邪馬台国の卑弥呼が交流したのは、三国志時代のでした。その魏から禅譲されてできた国が西晋で、魏志倭人伝を書いた陳寿も西晋の役人でした。西晋が滅ぼされたのち建国された国が、東晋(317年~420年)です。そののち、宋、斉、梁、陳と続きます。邪馬台国ののち、倭の五王の時代などを通じ交流したのは、すべてこの系統の国々です。この系統の王朝を、南朝と呼びます。

一方、西晋が滅ぼされたのち、北部については、五胡十六国の、戦乱の時代に突入します。五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五つの北方民族を指します。これらを北魏が統一し(439年)、南北朝時代となります。
北魏が534年に滅亡し、東魏と西魏に分裂します。その後、東魏が北斎に、西魏が北周に代わります。この系統を、北朝といいます。

そして南朝と北朝を統一したのが、北周の流れをくむ隋の楊堅(のちの隋の文帝、煬帝の父)です。
つまり、隋は北朝系ということになります。

南北朝時代(北魏時代)の中国勢力図(Wikipediaより)

320px-Sakuhoutaisei_Early_6C.png 

おおまかな流れは、以上のとおりです。
ようするに、邪馬台国以来、倭国が恭順の意を示してきた南朝が倒され、北方民族系の北朝にとって代わられた、ということです。

さてここで、考えてみてください。俀国王の多利思北孤は、どう考えたでしょうか?。
「長いものには巻かれろ」の例えどおり、変わり身早く、新たな北朝の皇帝におべっかを使ったでしょうか。

皆さんおわかりのとおり、多利思北孤は、滅ぼされた南朝への義を立てました。それが、「日出ずる処の天子・・」の表現だったのです。
天子とは本来中国皇帝のことであり、唯一絶対の存在です。その天子を、俀国王が名乗ったわけですから、煬帝が不機嫌になったのも、当然かもしれません。
逆に言えば、それほどまでに、俀国王の多利思北孤には、南朝に対する忠義心と、「自分は正統な南朝から認められた王だ。」という自負心があったのでしょう。まさに、武士の美学とでもいうべきものを(時代は異なりますが)、感じませんでしょうか?。

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お世話になります

はじまして、とんちゃんと言います。

いい文章を書かれていますね。

中国の自尊心である中華思想は、しかし周辺諸国に対する差別、自己中心主義でもあり、現代中国も変わりませんから、がつんと言ってやったほうがちょうどよいくらいです(笑)。

Re: お世話になります

コメントありがとうございます。
当時の史書を読むと、いかに中国が東
アジアの中心だったかのか、よくわかります。現在の中華思想も、そうしたことを背景にしているのかもしれません。
ただし、幸いなことに日本は、以後独立した対等な国となりました。
正しい歴史を学び、教訓を皆で共有する
ことが、世界をより良くしていくことにつながるのではないかと、考えています。

まとめて一気に読ませていただきました!

初めまして。私は長年、邪馬台国が何処にあったのかという疑問を持ち続けて、ネットで様々な説を読んでは胸を躍らせておりましたw
最近は近畿説が有力となり箸墓古墳が卑弥呼の墳墓であるというのがさも当然のように語られ中国史書がないがしろにされる傾向が強く漠然と納得がいかない状態が続いておりました。そこで本ブログに出会い久々に歴史ロマンを感じて思わずコメントを書かせていただきましたw私も九州王朝説に興味があり
大和王朝との変換期はいっしの変あたりかな
などと根拠もなく妄想して悦にひたっておりましたので今後の先生の説を楽しみにしております!長々とかきこみましたが言いたいことは楽しみにしておりますの一言です!

Re: まとめて一気に読ませていただきました!

拙ブログをはじめから読んでくださったとのこと、誠にありがとうございます。
仰せの通り、あたかも邪馬台国は畿内説で決まりのような雰囲気ですよね。それはそれで根拠があれば納得感があるのですが。
遺跡や出土物などの報告をみると、部分からみた断定になっており、日本全体からみた位置づけなど、総合的、多面的なアプローチがされていないと感じます。

Re: まとめて一気に読ませていただきました!

(続き)
また史書との整合についても、充分されているとは言えません。
こうした風潮に一石を投じ、少しでも真実に近づくことができればと考えております。
今後ともよろしくお願いします。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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