論衡(ろんこう)の中の倭人 ~ 倭人が周王朝に献じたものとは?  

これまで日本、特に倭国および倭人に関する中国史書を紹介してきました。
具体的には、国家として正式に編纂された二十四史として、魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書俀(たい)国伝、旧唐書倭国伝・日本国伝、新唐書日本伝、それに二十四史ではありませが、翰苑(かんえん)を読んできました。
これらをひと通り読み解いていくことにより、古代日本の姿、倭国と邪馬台国、日本国の関係が、浮かびあがってきました。

それは、今まで私たちが歴史の授業で習った世界とは、全く別の世界です。日本国の成立は、畿内から始まったのではなく、もともと九州北部を中心とした倭国(九州王朝)があり、時代を経て権力の移動の結果として、最終的に大和朝廷ができた、というストーリーです。

さて、それではその九州王朝はどのように成立したのでしょうか?。

さらに古い中国史書を、見ていきましょう。

倭人が初めて中国史書に登場したのは、「論衡(ろんこう)」です。「論衡 」は、王充(おうじゅう、27-97年)が著しました。ちなみに王充は、次にお話しする「漢書」の著者、班固(はんこ)の5歳先輩で、親交がありました。

【現代訳】
の時代、天下は太平で、倭人がやって来て暢草(ちょうそう)を献じた。(異虚篇第一八)

成王(せいおう)の時代、越常(えっしょう)を献じて、倭人暢草を献じた。(恢国篇第五八)

の時代は天下太平で、越裳(えっしょう)白雉を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を献じた。白雉を食べ鬯草を服用したが、凶を除くことはできなかった。(儒増篇第二六)

【解説】
周というのは、ここでは西周(BC1046頃-BC771年)のことです。
この文章を単純に受け取ると、
「倭人は当時から日本にいて、周王朝へ朝貢していた。」
となります。
事実、そのように解釈する方もいます(古田武彦氏の解釈もそのようです)。

しかしながら、紀元前1000年と言えば、日本では縄文時代です。直感的に、考えにくいのではないでしょうか?。そもそも、まだ倭人は、日本に渡ってきていなかったのではないか、という疑問です。

中身を見ていきます。(「邪馬一国への道標」古田武彦著参照)
まず越裳ですが、安南(ベトナム中北部)の南部にあった国です。
「周公の居摂(きょせつ)六年に白雉を献じた」と記録されています(後漢書南蛮伝)。
この献上された雉は、周の天子たちによって食べられ、これを食べれば”吉を招き凶を除く”と信じられたと
考えられます。いわゆる”縁起物”です。

また暢(鬯)草ですが、「鬯」とは「にほいざけ」で、くろきびで作った酒、神に供える酒だ、と言います。そして
「鬯草」とは、その神酒にひたす、香りのいい草のことです。今でも正月に飲む「おとそ」のようなものでしょう。
周の天子たちは、”縁起物”としてこれを飲んだようです。そしてこの香草を献上したのが「倭人」というわけです。ところが、それは”効き目がなかった”と書かれています。

これが具体的に何を指しているのか?。
成王が若くして崩御した(「史記」周本紀より)ことと関係しているのかとも考えられますが、古田氏は、”周王朝が滅んだことを指している”と言っています。

さらに、ここから論を展開し、「ここでいう倭人とは、日本本土にいた縄文人をさしている」と結論づけています。なかなか面白い内容なのですが、やはり「縄文人が周王朝に献じた」というのには、違和感があります。ただしこれ以上は詳細に入ってしまうので、興味のある方は、「邪馬一国への道標」(古田武彦著)をご覧ください。

こうした様々な意見を検討していくには、「縄文人」と「倭人」がどこに住んでいたどの人々を指すのか、を明確にする必要があります。このブログでは、倭人を「縄文人」と区別して、「渡来系弥生人(渡来以前も含む)」と仮説を立て、お話していきます。

さてそれではここでいう「論衡」でいう「倭人」とはどこにいた人々なのか?です。
これに対しては、このブログでもたびたび引用させていただいている張莉氏(元同志社女子大学准教授)が、鋭い指摘をしています。以下、氏の論文(「倭」「倭人」について)を引用しつつ考えていきます。

[論文]
周の成王(BC1115-BC1079年の頃といえば日本では縄文時代にあたるから、この話は信じるべきではないという意見が多い。ところが、古代中国の歴史を辿っていくと、にわかに信憑性を帯びてくる。  
暢(ちょう)は鬯艸(ちょうそう)のことであり、「鬯」と同意の「鬱」について、説文解字五下に
「一に曰く、 鬱鬯は百艸の華、遠方鬱人の貢ぎする所の芳 艸なり。これを合醸 して、以って神を降ろす。 鬱は今の鬱林郡なり。」とある。
 鬱林郡は今の広西省桂平県に当たり、「鬯」の産地が中国南方にあったことが知られ、「論衡」の 鬯艸 とつながる。「三国志」魏書倭人条の中には、 鬯草の記録はない。周王朝に鬯草を献上した倭人のことは著者陳寿も必ず知っていたはずで鬯草が日本産であるならば、1988文字の長文で書かれた倭人条内に特産物としてそのことが記されないはずがない。したがって「論衡」の倭人とは、中国南部に定住していた越族の中の倭人を指すと思われる。

[解説]
ここで説文解字とは、
「最古の部首別漢字字典。後漢の許慎の作、100年に成立。漢字を540の部首に分けて体系付けその成り立ちを解説し、字の本義を記す。」(wikipediaより)
であり、古代の漢字の意味を知るうえで、極めて価値の高いものです。

また「越族」とは、
「古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江(揚子江)以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。」(wikipediaより)
とあります。
その中で安南の南(今のベトナム)に住んでいた人々を「越常(裳)」と呼び、揚子江下流域に住んでいた人々を「倭人」と呼んだと思われます。

その越常が、白い雉を献じ、倭人が暢草を献じた、と対比しているわけです。

そして確かに指摘のとおり、魏志倭人伝には、倭国の風俗文化はじめ資源から植生、特産物に至るまで、こと細かに記載されていますが、暢草と思しきものは記載されていません。

このことからも、当時の倭人とは、日本本土に住んでいた人々ではなく、揚子江下流域に定住していた越族の倭人を指す、と言えそうです。

地名がいろいろ出てきて、ゴチャゴチャしてきましたが、図示するとよくわかります。

周時代の越族領域 (2) 
 
「鬯」=暢草(ちょうそう)の産地が中国南方鬱林郡であったのなら、日本本土に住んでいた縄文人が、周に献上したという説は、どうみても無理がありますよね。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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