シュリーマンの法則で日本神話を見直すと・・・

ここまで「神話はある史実を反映している」というシュリーマンの法則について話してきました。(詳細は下記過去ブログを参照ください。)こうした視点でみると、神話に対する私たちの固定観念も、大いに変わってくるのではないでしょうか?

それでは、このシュリーマンの法則で日本の古代神話をあらためてみると、どのような見方ができるでしょうか?

古事記、日本書紀に載っている日本の代表的な古代神話のなかから、日本の国が生まれてから神武天皇までの流れについてみてみます。選んだのは、「国産み」「神産み」「スサノオノミコトの追放」「国譲り」「天孫降臨」「神武天皇東征」の各神話です。以下、あらすじを記しますと、


<国産み神話>
国生み神話1 
伊弉諾(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の二人の神は、天沼矛で混沌とした大地をかきまぜました。このときしたたり落ちたものが積もって淤能古呂島(オノゴロジマ)ができました。二神は島に降り立って結婚しました。
二神は、8つの島(大八島国)を生みました。8つの島とは、古事記では、淡道之穂之狭別島、伊豫之二名島、隱伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島、佐度島です。

<神産み>
イザナギ・イザナミは、次々と子供を産みます。イザナミが死後、黄泉の国から追いかけてきたので、千人がかりでなければと動かないような大岩で黄泉比良坂をふさぎ、悪霊が出ないようにしました。イザナギは黄泉の穢れから身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)で禊を行いました。
その後多くの子供をうみ、最後に天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツキヨミノミコト)、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)を産みました。
天照大神には高天原を、月読命には夜の食国(ヲスクニ)を、須佐之男命には海原を委任しました。

<スサノオノミコトの追放>
スサノオノミコト3 
高天原にいたスサノオノミコトは、乱暴狼藉をはたらくので、アマテラスオオミカミは、天の岩戸に隠れてしまいました。そのためスサノオノミコトは、高天原を追放され、出雲の鳥髪山に降り立ちました。そこでその地を荒らしていた八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、出雲の根の堅洲国にある須賀の地へ行き、そこにとどまりました。
スサノオノミコトは、娘のスセリヒメを大国主命(オオクニヌシノミコト)の妻とさせました。(古事記では、大国主命は、スサノオノミコトの6代孫となっいている。)

<国譲り神話>
国譲り神話 
天照大神(アマテラスオオミカミ)ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に遣わし、出雲を治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト)に迫りました。大国主命は自分の二人の息子に訊くように答え、事主神(コトシロヌシ)は承諾、もうひとりの建御名方(タテミナカタ)は抵抗しましたが、科野国まで追われ敗れました。大国主命は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。」と言って、国を譲りました。

<天孫降臨>
03-01.jpg 
天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(オマノコヤネノミコト)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かいました。途中、猿田毘古神(サルタヒコノカミ)が案内をし、瓊瓊杵尊は筑紫の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(クシフルダケ)に降り立ちました。瓊瓊杵尊は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である。」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

<神武東征>
神武東征1
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコのちの神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂より、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにしました。舟軍を率いて筑紫へ行き、以後、豊国の宇沙、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしました。浪速国の白肩津にてナガスネヒコの軍勢が待ち構えていて、戦いとなり、南へ回るもイツセは戦死してしまいます。熊野から大和の宇陀へ攻め入りついにナガスネヒコを破って畝火の白檮原宮で即位しました。


いかがでしたでしょうか?。何か気づきはあったでしょうか?。

ここで注目すべき点は、
a.神話の舞台は、出雲、筑紫、高天原などである。
b.大和が出てくるのは、だいぶ後の時代になってからある。
c.邪馬台国という国名は出てこない。当然卑弥呼も出でこない。
d.矛(天沼矛ですが)は出てくるが、銅鐸は出てこない。
です。

ここでシュリーマンの法則で見てみます。シュリーマンの法則とは、「神話は、ある史実を象徴的に表現している」ですが、これを前提にしてみますと、こんな仮説が立てられます。

1.日本の西域を活動範囲とした勢力があった。
   
→ 国産み神話
2.髙天原と呼ばれる地域を中心拠点として、天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツキヨミノミコト)、素戔嗚尊(スサノオミコト)の3人で支配していた。
   
→ 神産み神話
3.高天原から、スサノオノミコトが追放され、出雲に行き支配した。
   
→ スサノオノミコトの追放神話
4.高天原の支配者(天照大神)が、葦原中国を統治しようと出雲の大国主命に迫り、大国主命が、国を譲った
   
→ 国譲り神話
5.高天原の支配者(天照大神)の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が筑紫の日向に進出し、葦原中国を統治した。
   
→ 天孫降臨神話
6.天照大神の子孫である神武天皇が、日向から東に向かい、大和に入り、支配し即位した。
   
 神武東征神話

ではこれらは具体的にいつのことなのか、また高天原、日向とはどこなのか・・・?などについて、今後順次説明していきます。


参考過去ブログ
・神話って単なる作り話なの(1)?~シュリーマンの法則
http://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-3.html


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王権のエスプリ

 古代日本において王権という場合に、天皇制が唯一の王権であるとして、王権論は天皇制の問題として論じられることがほとんどである。あるいは、天皇制は日本の特殊な制度としてあり、王権とは区別すべきだというふうに論じられることもある。その場合には、どこがどのように本質的に違うのかということを厳密に論じてゆく必要があるわけで、ここではその問題を措いていえば、古代天皇制の基本的な構造は一般的な王権と同じものだったはずだと認識してよいのではないかと考えている。もし天皇制が他の王権と違うとすれば、古橋信孝がいうように、「この世におけるさまざまな責任から免れうる位置」に立つための「祓え」という祭祀体系をもったことなのかもしれない(「王権と天皇制」)。しかし、すでに王権の段階で、具体的な祭祀実行者である巫者と王とが分離し、王が血筋によって継承される存在であったとみれば、そうした体系は何らかの形で、すでに王権の段階にも現れていたはずなのである。
 古代国家の統一により天皇は唯一の支配者となり、それぞれの在地豪族たちは古代天皇制のなかに組み込まれていったのだが、それ以前には、彼らもまた王あるいは首長として存在していた段階があったはずで、天皇制こそが古代日本の唯一の王権であったと考えるべきではない。そうでありながら、我々が目にすることのできる文献、記紀や風土記によると、すべての民や土地は天皇家に隷属するものとして整序され、唯一の歴史であるところの天皇家に隷属する存在として中央や地方の豪族たちはいる。古代天皇制はそれだけ強固な制度を確立していたということになるのだが、それでも、注意深くみてゆけば渾沌とした前代が見えてくるのである。
 いうまでもないことだが、王権が確立し存続し、王あるいは天皇が恒久的な支配権を保証されるためには、その制度を支えるための構造をもたなくてはならない。それは、具体的には、神話をもつことであり、シンボルとしての神宝をもつことであり、血筋を保証する系譜をもつことであり、人々の生活を可能にする呪的な力能をもつことであった。
 始源的な共同体にその共同体を統括する者が発生する段階を想定していえば、その統括者は、首長としての権力を持つとともに呪力を行使できる者だったはずである。つまり、首長=シャーマンであることが共同体を統括する力だったのであり、その首長が王になる段階が、王権の発生する時であった。そして、そこで王とシャーマンの役割は分離し、両者は別の存在になってゆくのである。
 王は、天皇の場合もそうだが、王権の成員一般とは区別された存在でなければならない。だから、多くの場合に王は神の子として幻想されてゆく。神に繋がる者であることにおいて、王あるいは天皇は存在自体として擬制的な共同体=国家を統括する力をその内部に保証されるのである。王あるいは天皇が宗教的な存在であるのはそのためである。そして、その王の力は、具体的には神話や系譜や神宝によって示される。どのような神から生まれ、どのような歴史によって王となり、代々の王はどのように繋がり、他の人々とはどのような関係性をもつかというふうな秩序が、系譜や神話として語られるのである。それが共同体全体の成員にとって確かな幻想になるために、神話や系譜は語り継がれなければならず、そこに、語部という制度化された存在が要請されてくる。語部は、王と分離された巫者的存在であった。彼らは人間の言葉ではない神の言葉を、神の立場で伝えることのできる力をもたなければならないのであり、だからこそ巫者的な存在でなければならなかったのである。たとえば、出雲国風土記意宇郡安来郷条にみえる語臣一族は、そうした王権に隷属する語部の性格をよく示している。
 また、神宝は人である王が神の子孫になるための呪具であり、語り継がれる神話や系譜の事実性を保証するための証拠である。天皇家に受け継がれる三種の神器だけが神宝だったのではない。日本書紀の崇神天皇六十年条・垂仁天皇八十八年条あるいは肥前国風土記彼杵郡・豊後国風土記速見郡などに、もともと王として存在していたであろう在地豪族が自らの神宝を天皇に献上するという伝承が伝えられており、その背後に古代王権の存在が暗示されている。そして、それらの神宝献上譚は、前代の王権が天皇制のもとに吸収解体されてゆく、その象徴的な神話であった。また、諸国の語部が古詞を奏上する天皇の即位儀礼としての大嘗祭は、それらの王権がもっていた神話や系譜を捧げて天皇への服属を誓うための神話的な場でもあったのである。

Re: 王権のエスプリ

四隅突出墳丘墓さま
コメントありがとうございます。
ご指摘の内容は、”古代日本においては、大和朝廷が唯一だったのではなく、各地方に支配者がいた。それを大和朝廷が併合していった。神話には、その過程が描かれている。”ということだと思います。
それはまさに、古田武彦氏が唱えた「多元王朝説」と同じだと考えます。実際そのように解釈しないと整合性が取れない話が、多々あるわけです。こうしたテーマを、多くの人が同じ土俵で議論できるようになるといいですね。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
2016年8月に出版しました。

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