三国史記新羅本紀を読む その1 ~ 新羅第四代国王脱解(だっかい)の出身地である多婆那(たばな)国とはどこにあったのか?

これまで、中国史書、資料を読んできました。外国の史書としては、他にも朝鮮の「三国史記」「三国遺事」などが、日本について記載してます。
今回は、「三国史記」を読みます。「三国史記」とは、
”高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。”(WIKIPEDIAより)
編纂された時代は、12世紀とやや新しくなりますが、かなり詳しく書かれており、参考になります。
まず、新羅本記です。訳は、「三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝Ⅰ」(佐伯有清編訳)からです。

【現代訳】
1.倭人が軍隊をつらねて、辺境を侵犯しようとした。始祖(赫居世)には、神の威徳があると聞いて、引き返していった。
2.  瓠公(ここう)を派遣して馬韓を訪れさした。馬韓の王は、瓠公を責めとがめて、「辰韓と卞(べん)韓の二韓は、私の属国なのだ。(にもかかわらず)毎年、貢物を送ってよこさぬ。大国に仕える礼儀は、そのようなものではないではないか」と言った。(瓠公は)答えて、「我が国は、二聖(始祖赫居世と妃閼英(あつえい))が国を建ててから、世の事柄は治まり、天候は不順で、穀倉は充ち、人民は敬い譲り合っている。辰韓の遺民より卞韓・楽浪・倭人に至るまで、敬い懐(なつ)かないものはない。それでもわが王は謙虚であって、下臣を遣わして修交しようとしたのである。礼儀に過ぎたことと謂うべきであろう」と言った。そこで(馬韓の)大王は、激しく怒って、武器で脅かした。(瓠公は、)「これはどういう意味なのか」と言った。(馬韓の)王は、怒って瓠公を殺そうとした。近臣は諌めとどめた。そこで帰国を許されたのであった。
3.瓠公は、その族姓が詳(つまび)らかではない。もとは倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰につけて、海を渡って来たのである。だから瓠公といった。<BC20年条>
4.倭人が、兵百余艘をくり出して、海辺の民家を略奪した。六部の強力で勇敢な軍隊を出して、防御した。

【解説】
冒頭から、倭人が侵犯してくる話ですが、この類の話は非常に多く出てきます。ということは、頻繁に起こっており、新羅は常に倭に対して脅威を感じていたことでしょう。
ここで、瓠公(ここう)の登場です。瓠公とは、”新羅の建国時に諸王に使えた重臣で、新羅の王統の始祖の全てに関わる、新羅建国時代の重要人物です”(wikipediaより)。彼が「腰に瓢(ひょうたん)をつけて、倭からやってきた」とあります。「海を渡ってやってきた」とあることから、日本出身ということになります。


【現代訳】
5.脱解は、もとは多婆那国の生まれであった。その国は、倭国の東北一千里にあった。<脱解尼師今即位前紀>

【解説】
脱解(だっかい)とは、新羅第4代の王である脱解尼師今(だっかいにしきん、在位57-80年)です。その脱解が、倭国の東北1千里にある多婆那(たばな)国からやってきた、とあります。問題は、その多婆那国は、どこにあったのか?、です。さまざまな説がありますが、ここでも古田武彦氏が、納得感のある説を、提唱しています。以下、「倭人伝を徹底して読む」(古田武彦著)からです。

"『三国史記』つまり新羅・高句麗・百済三国の歴史を書いた朝鮮半島最古の史書の書き方では、倭国の東北一千里という場合は、多婆那国は「倭国」の一部分なのであって、「倭国」とは別国ではないのです。これと同じような例は、他にいくつも出てきます。だから脱解も、いってみれば「倭人」です。「倭人」の中でも「多婆那国の人」であるということです。「倭人」というのは、非常に広い概念なのです。
この(a)(b)から言えることは、新羅第四代は、国王が「倭人」であり、宰相も「倭人」であるということです。すると先ほどの『三国志』魏志韓伝の(4)で、辰韓人というのは男女とも倭に近しと書いた陳寿の暗示は、ズバリ当たっていることになります。国王も「倭人」、宰相も「倭人」というのですから関係が深くなければおかしい。ですからこの段階の新羅という国は、「倭人」とか「穢*人」「韓人」が寄り集まって一つの国をつくっていたようで、その中で「倭人」の占めている比重はかなりのものだったと思われます。そうでなければ国王と宰相の地位を「倭人」が占めることはできないはずです。"

たしかに、新羅第四代国王(脱解)も倭人、宰相(瓠公)も倭人となれば、当時の朝鮮半島は、韓人、穢人、倭人が入り混じって生活してたと考えてよいでしょう。先を読みます。

"ついでながら、多婆那国というのはどこかということについて結論だけのべておきます。いまの福岡県の遠賀(おんが)川下流から関門海峡一帯であろうとわたしは考えています。というのは、倭国は、博多湾岸を原点と考えていますから、そこから東北一千里というと、ちょうどこの一帯となるからです。ただしこの場合の里程には、長里と短里があって、長里の場合、一里が四三五メートル、短里(周朝代に短里が行われ、そのあと魏朝がこれを復活し西晋朝まで受け継いだ)が七六~七七メートルの間、約七七メートルです。『三国志』は、この短里で書いてあるとわたしは見ています。もしこれを長里で考えると、この話は、全く成り立たない。博多を原点にしてそこから東北へ一千里とすると出雲では止まらず、但馬から舞鶴、下手をすると能登半島まで行ってしまうからです。
なぜそれがだめかというと、脱解の話にはその続きがあります。脱解は、多婆那国王と妃の間に生まれたが、「卵」で生まれました。人間の形ではなかった。母親はこれを大変いとおしんだけれども、父親はこんなものはみっともない、壊してしまえという。母親は壊すにしのびずそっと舟に乗せて沖合に流した。それが最初に金官国(いまの釜山の近辺)に流れ着いた。金官国の人は、こんな不思議なものがと気味悪がってまた沖合へ流した。そのあと新羅の都慶州の海岸に流れ着き、そこで老夫婦に拾われ、持って帰って床の間に置いていたところ、卵から男の子が生まれた。大変美男子で賢く、大きくなって新羅の朝廷に仕えるようになり、二代目の国王に見込まれ、その娘と結婚し、四代目の国王になるというのです。こんなことはありうる話ではありませんが、それを語る人がおり、語られる人がいるのですから、語る人と語られる人の地理感覚に合っていない話というのは、成立しえないのです。つまりいまのようにただ単に沖合に(漕ぐ人がいれば別ですが)流れ着くといっても、多婆那国からその沖合へ流したら金官国へ着き、そこからまた流したら慶州へ着くという、そういう海の知識を持っていなければ、いいかえれば語る人と語られる入が「共通の約束事」を持っていなければ、こういう話は成立しないのです。たとえ「ウソ話」でも「おとぎ話」でも、成立しない。とすると、この海の知識というのは、海流です。対馬海流が西から東へ流れているということだけではこの話は絶対成立しない。東鮮暖流をぬきにしては語れないのです。つまり対馬海流は、壱岐・対馬のあたりで二つに分かれます。その一つが東鮮暖流で、これはウラジオストックの方から下りて来た寒流と朝鮮半島東岸部の中ほどでぶつかり、東へ向い、その一帯(竹島付近)は魚の宝庫になっています。
金錫亨氏も倭国博多説で、この問題に関しても博多を前提にして出雲説を出しておられます。朝鮮半島の人が『三国史記』や「魏志」に出てくる「倭国」を“博多あたり”だというのは、そう考えないと辻棲が合わない事件や説話がたくさん出てくるからです。別に論証はされていませんが、常識的な判断から倭国というのは博多付近として扱われています。金氏は、その東北だから出雲であろう、と論じておられるわけです。
しかしわたしは、その方角はいいけれども、長里で千里では舞鶴か能登半島近くへ行ってしまって出雲ではとまらないし、また短里では出雲まではいかない。関門海峡近辺どまりです。また短里だと博多湾岸から遠賀川の下流、関門海峡あたりまでが千里になります。なお大事なことは、出雲だとしたら、そこから卵だけを乗せた無人の舟を沖合に流しても釜山へ流れ着くことはまず無理だと思われることです。風などのこともあって、絶対とはいえませんが、常識的に見て難しい。とすると、この話はどうしても、遠賀川の下流域から関門海峡近辺ということになります。ここからだと東鮮暖流に乗ることができます。もちろんこの場合でも、もう一つ風がプラスしなければなりません。というのは、冬は風が北から南へ吹くので出雲へ行く可能性が強いのですが、春から夏にかけては北に向かって風が吹くので東鮮暖流の方に乗る可能性が強いからです。このようにシーズンによってもちがってきます。
また関門海峡は、潮の干満によっても流れが変わります。瀬戸内海に流れ込む時間帯と、逆に流れ出る時間帯がある。この流れ出る時間帯に流せば、卵を乗せた舟は東鮮暖流に乗りやすい。とすると、卵を乗せた舟が、「釜山→慶州」に流れるのに合う時期は、春夏の季節で、しかも関門海峡の潮の流れが外へ流れ出る時間、ということになります。したがって多婆那国は、大体この関門海峡あたりにあったとわたしは理解しています。
こうしてみていくと、この『三国史記』に出ている「倭国」も、実は、第一次の「チクシ倭国」であるということがいえます。これを「ヤマト倭国」にしたらどうなるか。「大和倭国」から東北一千里というと新潟か山形の方へ行ってしまいます。そこから卵を乗せた無人の舟が釜山へ流れ着くというのは、奇跡に近いでしょう。"

多婆那国の位置について考察しています。結論として、遠賀川の下流域から関門海峡近辺としてます。その根拠としては、倭国の中心が博多湾岸であり、そこから東北1千里にあたるからです。その際のポイントは、長里、短里という距離の単位ですが、ここは議論が分かれるところなので、詳細はあらためてお話しします。もう一つの根拠が海流です。こちらは、下の図をみれば合点がいきます。

紀元前後の朝鮮半島

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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