三国史記百済本紀を読む 後編 ~ ついに百済滅亡す

百済本紀の後編です。

【現代訳】
72.隋の文林郎の裴清(はいせい)が、使者となって倭国に行くのに、我が国の南路を経て行った。<608年3月条>

【解説】
遣隋使に関する話です。遣隋使については、以前のブログ
「隋書倭国伝を読む その8(最終回) ~ 聖徳太子の遣隋使はなかった!?」(2015/8/17号)
で、お話ししました。時系列を隋書俀(たい)国伝から記すと、

<600年>  第一回遣隋使
阿毎多利思弧(あまたりしほこ)が、隋へ使いを遣わす。
<607年>   第二回遣隋使
・隋の煬帝へ国書を出す。差出人は、阿毎多利思弧。「日出処の天子より、日没する処の天子へ・・」の記載が失礼だとして、煬帝の機嫌を損ねる。
<608年>
隋が文林郎の裴清を倭国に遣わし、  倭国王が歓待する。 

となります。
この内容を、日本書紀と見比べると、つじつまの合わないことが多数あります。たとえば、
①600年の第一回遣隋使の記載が日本書記にない。
②607年の第二回遣隋使の際、中国皇帝へあてた国書「日出処の天子より、日没する処の天子へ・・」の記載が、日本書記にない。(記載されているのは、隋書俀(たい)国伝のみ)
③日本書記には小野妹子を派遣した記事があるが、相手国はではなく大唐である。なお、隋書俀国伝には、小野妹子の記載はない。
④当時の天皇は女性の推古天皇なのに、国書の差出人が、阿海多利思北弧という男性の名前となっている。
裴清の官職名が、異なっている(隋書と三国史記には文林郎、日本書記には、鴻臚(こうろ)寺の掌客(しょうきゃく)と記載)。
などです。

その第二回の遣隋使の翌年に、隋から遣わさたのが、裴清(はいせい)で、その途上、百済の南部を通過したことになります。日本書記によれば、その使節団に、前年隋に派遣されていたとされる小野妹子がいたわけです。そして、皇帝からの返書を携えていたものの、途中まさにこの百済で、返書を盗み取られたと記載されています。あまりにも間の抜けた話ですね。「倭国を臣下扱いする内容だったので、わざと盗まれたことにしたのだ。」などと憶測はされていますが、どうでしょうか?。
この二回の遣隋使を大和朝廷(聖徳太子)が派遣したとすると、こうした疑問に対する答えは、どれもしっくりきません。そうではなく、他の勢力(九州王朝)が派遣したものと解釈すればきれいに説明できます。

では、聖徳太子が派遣したとされる遣隋使は何だったのか?ですか、古田武彦氏は、興味深い説を唱えています。"この時代の日本書記の年次は、他の記事からみても少なくとも10年以上繰り上がって記載されている。したがって遣隋使を10年以上あとの話とすると、ちょうど唐の時代となり、つじつまが合う。つまり遣隋使ではなく遣唐使だった。"というものです。とても面白い説ですが、今回は紹介するにとどめます。


【現代訳】
73.(義慈)王は、倭国と好(よしみ)を通じた。<653年8月条>
74.文武王の甥である福信は、かつて軍兵を率い、僧侶の道琛(どうちん)とともに周留城に立て籠って叛(そむ)いた。もと王子であった扶余豊は、かつて倭国に人質になっていた者であるが、それを迎えて、彼を立てて王とした。<660年条>
75.この時、福信は、すでに権勢をほしいままにしており、扶余豊と次第に互いに猜忌(さいき)するようになった。福信は、病気だと偽って窟室に臥し、扶余豊が病気見舞いに来るのを待ち、捕えて彼を殺そうとした。扶余豊は、それを察知して、親しみ信頼している者を率いて、福信を不意に襲って殺した。使者を高句麗と倭国に遣わして援軍を要請し、唐軍を防ごうとした。<662年7月条>
76.劉仁軌と別将の杜爽(とそう)は、水軍と兵粮船を率い、熊津江(ゆうしんこう)から白江(はくこう)へ行き、そこで陸軍と会い、合同して周留城に迫った。倭人と白江の入り口で遭遇し、四度、戦って、そこで勝ち、その舟四艘を焼いた。煙と炎は、天をこがし、海水は赤く染まった。<662年7月条>
77.王子の扶余忠勝・忠志らは、その軍勢を率い、倭人とともに連れだって降伏した。<662年7月条>

【解説】
義慈王とは、百済の王です(在位641-660年)。一方、文武王とは、新羅の王です(在位661-681年)。唐とともに百済を攻め百済は消滅(660年)、白村江の戦いで倭国・百済連合軍を破った(663年)のち、高句麗を滅ぼし(668年)、さらに唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、朝鮮半島の統一を図りました(676年)。唐と組んで百済・倭国・高句麗に勝利して、後に唐を朝鮮半島から追い出すなど、したたかな王ですね。

その文武王の甥が福信で、文武王を裏切って、百済復興を図り、倭国へ人質となっていた百済王子扶余豊を迎えて王としたわけです。ところが、自分で迎えた扶余豊をうとましく思うようになり、殺害を企てます。しかし企てを見破られ、逆に自分が殺害されます。”一度裏切った人間は、二度目も裏切る”という、古今東西どこにでも似たような話がありますね。人間の本性というものは、昔から変わっていないということでしょう。また、"裏切り者の末路は、いつの時代も哀れである"ことを物語っているとも言えますね。

そして、倭国と組んで復興をめざした百済ですが、唐・新羅連合軍に白村江の戦いで敗れ、ついにその夢もかないませんでした。

白村江の戦い(663年)頃の朝鮮半島情勢

白村江の戦いの朝鮮半島 
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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