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三国史記新羅本紀から七支刀銘文までのまとめ ~ 倭国と新羅との深い関係 

今回は、朝鮮史書の「三国史記新羅本紀・百済本紀」「広開土王碑」「七支刀銘文」のまとめです。

【三国史記新羅本紀】
・倭人が、頻繁に侵犯してきた。
・新羅建国時の重臣瓠公(ここう)は、日本からやってきた。
・新羅第四代国王脱解(だっかい、BC19?-AD80)は、多婆那(たばな)国出身であり、その国の所在は、博多西から関門海峡付近と考えられる。
・173年頃に、卑弥呼が使者を遣わしてきた。
・402年頃、倭国と和睦し、奈勿(なもつ)王の子未斯欣(みしきん)を人質に出した。
・日本書紀では、神功皇后の時代に当たる。
・倭国と激しい戦いを繰り返す。
倭の五王の時代に当たるが、古事記・日本書紀には、記録は全くと言っていいほどない。
・新羅は、白村江の戦い(663年)に勝利し、唐の武将仁軌(じんき)に連れられ、百済・耽羅・倭人とともに、中国泰山を祀った。
・670年頃、倭国が、国名を日本とした。

【三国史記百済本紀】
・397年頃、倭国と和睦し、太子の晪支(てんし)を、人質に出した。
・百済国内の権力闘争に対し、倭国は、
支を守り、王に即位させた。
・653年頃、和睦した。
・660年頃、かつて倭国の人質だった扶余豊を、王とした。
・倭国と組み、再興を図るも、白村江の戦い(663年)で敗れた。

【広開土王(好太王)碑】
・391年、倭がやって来て、百済・新羅らを臣民とした。
・399年、百済は、高句麗を裏切り、倭と和を通じた。
広開土王は南下して、400年に新羅を救援した。
・404年、倭が帯方郡に侵入してきたので、潰滅させた。
・三国史記新羅本紀・百済本紀の内容とも、整合している。
かつては改竄・捏造説があったが、否定されている。

広開土王碑
好太王碑  

【七支刀銘文】
・369年、百済王世子が、倭王旨のために、この刀を造った。
・奈良県天理市にある石上神社に保管されている。
・日本書紀に、神功皇后52年条に、百済から七枝刀を献上されたとある。
神功皇后52年条はAD250年にあたるが、干支で二回り(120年)繰り下がり、AD370年が正しいと推定される。

七支刀のレプリカ
七支刀

新羅、百済、高句麗といった朝鮮の国々と古代日本との関係がよくわかります。三つの国々のうち、百済とは良好な関係を築いていたのに対し、新羅、高句麗とは、敵対する時代が長く続きました。ところが意外にも、新羅王家は倭国と深いつながりがあったことがわかります。実は神功皇后も新羅の血を引いているとされています。古事記によると、その昔に日本に渡来した新羅国王の子の天之日矛(あめのひぼこ)の六代孫としています。
この話が事実かどうかはさておき、少なくとも、こうした類の話が多々記録に残っていることは、倭国と朝鮮半島の国々とは、深い関係にあったことを示していると言えます。


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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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