邪馬台国までの道程をたどる(3) 対海国を経て一大国へ~一行がゆっくり進んだ理由とは?」

前回まで、帯方郡から船に乗り、韓国北西部に上陸して後、朝鮮半島東南端の狗邪韓国(現在の釜山付近)まで徒歩で進む道程を、見てきました。
今回は、ここから再び船に乗り、日本本土へ向かう旅になります。

【原文】
始度一海千余里、至対海国、(中略)、所居絶島、方可四百余里、土地山険多深林、道路如禽鹿径、有千余戸、良田無、食海物自活、乗船南北市糴
【訓み下し】
始めて一海を度(わた)る、千余里、対海(たいかい)国に至る。(中略)、居る所絶島、方四百余里なる可(べ)し。土地は山険しく、深山多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。

【解説】
ここから、船に乗り、対海(たいかい)国を目指します。対海国とは、対馬国のことです。
さて、対馬国へ向けて船が向かうに際して、大きな障害が立ちはだかっています。対馬海流です。潮の速さは、1 ノット、現在でも、船の航行に影響を及ぼしています。古代の航行に対する影響が、多大なものであったことは、想像に難くありません。実際、野生号は、横断に失敗しています。
ただし、多少なりとも、安全に航行するルートはあったはずです。それは、海流を利用する方法です。具体的には、できるだけ西の方角から出発して、海流に乗りながら、横断するルートをとることです。
ちなみに、野生号は、釜山付近から、海流の流れに対して直角に横断するルートを取り、失敗しています。
そのように考えると、朝鮮半島側の最終出港地は、釜山からかなり西行した地点、巨斉(コジェド)島付近と見られます。
そのルートを取れば、狗邪韓国から、対馬海流を避け、沿岸沿いに巨斉島に向い(約20km、250里)、ここで一泊。翌朝対馬に向い、約70km、900里を一気に横断すれば、到達できます。

邪馬台国まで(5) 
対馬では、二つの島のうち、南島に到着したと思われます。なぜなら、南島は、方400余里(約30km余)という条件に、符号するからです。
なお、よく勘違いしがちですが、この方400里というのは、必ずしも、"実際に島が400里の正方形であった"と解釈する必要はないでしょう。当時、地図などなかった時代です。まして、初めて訪れた島の形など、正確に把握できるはずもありません。方400里というのは、あくまで、一行が歩いてみて、島全体が四角い形をしていて、その一辺を歩くと、400里くらい歩くことになる大きさである、といったことで、解釈すべきでしょう。

一行は、島の北西側に到着、一泊してから、島沿いに進み東側の厳原港に到着したルートが考えられます。ここまで歩いた距離は、400余里の正方形の二辺に近いとして(「邪馬台国はなかった」より)、
400余里(約30km)×2=800余里(約60km)
となります。1日300里進んだとして、3日間です。翌日出港し、対馬南端に到着、ここで一泊し、翌日、一大国へ向かいます。
邪馬台国まで6)

ところで、皆さんのなかには、「どうして一行は、こんなにも起伏の多い山の中のくねくねした道を通って、ゆっくり進んだのか?」と不思議に思われた方もいるのではないでしょうか?。単に邪馬台国へ行くだけなら、島にちょっと寄って、休憩するとともに物資の補給をして、すぐに出発すればよさそうなものです。

その答えは、この一行の目的にあります。この渡航記録は、238年に卑弥呼が魏に朝貢したことに対し、240年に、太守の弓遵(きゅうじゅん)が、建中校尉の梯儁(ていしゅん)を派遣し、命令書、金印などを持たせ、倭国へ派遣した際の記録を基にしていると思われます。
その命令書の文章が、魏志倭人伝にありますので、再掲します。

その年の十二月,皇帝の命令書が、倭の女王に与えられた。
親魏倭王の卑弥呼に勅命を下す。帯方郡の劉夏が、使いをよこして、そなたの大臣の難升米(なんしょうまい)と副使の都市牛利(としぎゅうり)を送ってきて、男の奴隷四人、女の奴隷六人と、まだら模様の布を二匹二丈を献上するため、都へ来させた。そなたのいる場所は、遥か遠いにもかかわらず、わざわざ使節を派遣して貢物を持参させた。
このことは、そなたの忠孝の証であり、私は、そなたたちに、感動するにいたった。
そこでそなたを親魏倭王に任命しよう。紫の綬(ひも)のついた金印も授けよう。包装して帯方太守に託し、授けるものとする。そなたは、国民を教えさとし、忠誠を誓うようにさせるのが良い。そなたの使者の難升米と牛利は、遥か遠い道を、並大抵ではない苦労のすえに、やってきた。今、難升米には率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利には率善校尉(そつぜんこうい)の位を与え、青い綬のついた銀印も授けよう。この二人を引見して、慰労してから、帰国させることにした。
そこで、赤地に二頭の竜をデザインした錦を五匹、赤いシャギー・モヘアの布地を十張、茜色の紬を五十匹、紺青の織物を五十匹など、そなたがもたらした貢物に報いてとらせよう。また、そなたには、特に、紺地に模様のついた錦を三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれを五十斤を、与えることにしよう。すべて包装して、難升米、牛利に託しておく。
帰国したさい、目録と照らし合わせて、そなたの国民どもに展示し、わが中国が、そなたたちの国に好意をもっていることを、よく知らしめるがよい。だからこそ、わたしは、そなたによいものばかりを、丁重にとらせるのである。」

つまり、卑弥呼の魏に対する忠義に対する返礼として、手厚い下賜品を与え、倭国の人民に対して、中国が倭国に対して好意をもっていることを示すとともに、魏の威光を知らしめることが、目的だったわけです。
ですから、島に上陸してから、わざわざ島民の住んでいるところへ行き、下賜品を見せて廻ったというわけです。今まで見たこともないような豪華絢爛な品々を見た島民は、さぞかし驚き、また魏の国力を思い知らされたことでしょう。

さらに古田武彦氏は、この渡航記録にはもうひとつの目的があると指摘しています。それは「軍事報告書」としての役割です。
当時の中国は強大であり、周辺諸国を配下に置くことによる朝貢政治を行っていました。それを可能にするには、当然のことながら、配下の国の事情に精通していなければなりません。どんなに毎年朝貢してきても、いつなんどき反旗を翻すかわからないわけで、その有事の際の備えをしておく必要もあります。

倭国については、朝貢はしてきたものの、今まで倭国内の詳細については記録がありませんでした。不安定な朝鮮半島の情勢のなか、倭国が、魏に対して攻撃してくる可能性もありますし、そこまでいかなくとも倭国が、周辺諸国から攻められる場合もあります。その際には、魏が倭国に援軍を送らなくてはならない状況も考えられます。

倭国まで軍隊を送るには、倭国に至るまでの、距離、日数、周辺諸国の様子を、熟知しておかなければなりません。そうした基礎情報があって、初めて、どのくらいの軍隊を送り、兵器や食料を確保すればいいのかが計算できます。そのように考えると、島の様子を詳細に記載しているのにも、うなずけます。また、軍隊を進めることを前提とすれば、一日の行程がゆっくりとしたものになるのも、当然でしょう。

今まで、東夷とくに倭国については詳細な記録がなく、三国志魏志東夷伝序文に、それを初めて記録できたことが誇り高く記載されていることは、以前お話ししましたが、こうした背景を考えるとよく理解できるのではないでしょうか?。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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