一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(1) ~ 古代天皇が超長寿な理由

前回まで、「三国志魏志倭人伝」から導かれる「邪馬台国」の位置と、考古学的見地からアプローチした結果が一致するという話をしました。さらにそれらの結果は、「古事記」などの神話とも一致しており、”神話は、ある歴史的事実を反映したものである”という、「シュリーマンの法則」が正しいことが実証できるかと思います。

さて、今回からは再び魏志倭人伝に戻り、積み残してきたいくつかの宿題について、考えていきます。

まずは、「二倍年歴」です。以前のブログ
「魏志倭人伝を読む その4 ~ 倭の風俗 倭人は年に二回歳をとっていた!?」(2015年5月6日号)
で少しお話ししました。

魏志倭人伝のなかに、"倭人は、寿命が80、90歳から100歳と長生きである"との記載があります。

何も考えなければ、「なるほど日本人は現代も長生きだが、昔からそうだったんだな。」と解釈して、読み過ごしてしまうところです。

しかし、よく考えていただきたいと思います。当時の平均寿命は、せいぜい40歳程度と言われています。その倍以上とは、いくらなんでも「長生きが過ぎる」とは思いませんでしょうか?。

そもそも、現代においてさえも、日本人の平均寿命は、男性80.5歳、女性86.8 歳です(2014年)。栄養状態も今から考えれば、はるかに劣っていたはずですし、医学など無いに等しい時代でした。

そのように考えると、「だから、魏志倭人伝の記載は、信用できないのだ。倭人のほら吹きを、そのまま書いたのだ。」との反論が聞こえてきそうです。事実、そのように解釈する論者もいます。

これらの考えに対して、古田氏が「二倍年歴」説を発表して、衝撃を与えました。

確かに、「二倍年歴」であれば、倭人の寿命は45から50歳となり、当時の平均寿命40歳を、やや上回るだけとなり、現実的です。

ただし、古田氏は、単につじつまを合わせるために、「二倍年歴」を唱えたのではありません。"魏志倭人伝を忠実に読むと「二倍年歴」になる"と主張したのです。

魏志倭人伝の版本を、ご覧ください。
魏志倭人伝 二倍年暦2 

本文の
”其の人寿考、或は百年、或は八、九十年。”
の前に、小さい文字で、何か書いてありますね。これは、後年になって、東晋末の政治家・歴史家である 裴 松之(はい しょうし、372-451年)が注釈をつけたものです。
具体的には、
”注:魏略に曰う「其の俗、正歳・四節を知らず。但春耕・秋収を計りて年紀と為す。”
と記載してます。魏略(ぎりゃく)とは、魏を中心に書かれた歴史書で、現在は散逸してますが、それを引用して、
”当時の倭人は暦をもっておらず、春と秋、つまり種まきや苗の植え付けの時期と、刈り入れの時期をもって、1年と数えている”
と注釈しています。
したがって、”我々の1年が、倭人にとってみれば、2年になる”と解釈できるわけです。

初めて聞かれた方にとっては、「そんな馬鹿な」と思われた方も多いでしょう。実際、この「二倍年歴説」は、学会では、相手にされていないようです。一般的には、”この記述は「春に耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」と述べているだけで、この記述をもって史書に記された年数を勝手に二倍に解釈するのは牽強付会との意見もある。”(Wikipediaより)

しかし、そうであるなら、単に1年に一つの基準点、たとえば「春耕」を基準とすればいいだけの話で、たとえば「春耕を計りて年紀となす」と記載するだけでよさそうなものです。わざわざ、「春耕」と「秋収」という2つを基準点に挙げているのは、意味があると思われます。

ただし、この文章だけを取り上げて、ああだこうだ言ったところで、結論は出ないでしょう。

論証としては、他に「二倍年歴」が使われている例があるのか、です。
皆さんは、何か思い浮かびますか?

ここで思い浮かぶのが、古代天皇の寿命です。古事記、日本書記とも、古代天皇は総じて長寿です。

初代神武天皇が137歳、
6代孝安天皇が123歳、
7代孝霊天皇が106歳、
10代崇神天皇が168歳、
11代垂仁天皇が、153歳
12代景行天皇が、137歳
神功皇后が100歳、
15代応神天皇が130歳

と、15代、神功皇后含めて16名中、ちょうど半分の8名の天皇が、100歳以上です。現代の感覚から言っても、「長生きが過ぎる」でしょう。

これに対して、一般的には、「天皇の神々さを示すために、あえて作り話を書いたのだ。」とかされているようです。またこれが、「古代天皇架空説」の根拠のひとつとされています。私もかつてそのように思っていました。

しかしよくよく考えてみると、もしそうした目的で架空の年齢を記載するなら、もっと神々さを示すために、200歳や300歳の天皇がいてもよさそうです。しかしながら、最も長寿の天皇でさえ、10代崇神天皇の168歳です。それが天皇の神々さを示すのに、ちょうどいい年齢なのでしょうか?
それとも、「200歳や300歳とすると、さすがにそれでは、嘘くさい」と考えて、168歳を最長寿としたのでしょうか?。何か、すっきりしませんね。

これを二倍年暦で解釈すれば、崇神天皇は83歳、次に長寿の垂仁天皇は76.5歳となり、現実的になります。

古代天皇の年齢については、次回以降、掘り下げます。

<崇神天皇>・・・168歳まで生きた?
崇神天皇

            (『大日本帝紀要略』より)

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No title

この2倍年暦はよく分からないんですよね。

太陽が再び上るまでが「一日」・・・なるほど
月が再び現れるまでが、一月・・・なるほど
花が咲いて、再び咲くまでが一年・・・なるほ・・って違う?

陽の年、陰の年ってな考えなのでしょうか???

Re: No title


コメントありがとうございます。陽の年、陰の年、面白いですね。確かに、新暦で2〜8月が、耕作、種蒔き、苗植え、9月〜1月が、収穫、農閑期、ですから、ぴったりくる表現かもしれませんね。

No title

2倍年暦は主張としては面白いですが
実際にはどうですかね

>単に1年に一つの基準点、たとえば「春耕」を基準とすればいいだけの話

素朴な古代社会なら、特に誰も基準を作らない、作る必要もなかったと思いますが

魏の使者が邪馬台国の古老に「おいくつですか?」と聞いたとして
古老A「そうじゃのうー、50回は種まきしたかの」
古老B「わしなんか100回近く刈り取りしたぞー、ひゃはは」

魏の使者「倭の人は暦を知らず、春に種まきしたとか秋に刈り取りしたとかでザックリ年を数えてるようだ。(自称だけど)結構長生き」

Re: No title


コメントありがとうございます。二倍年歴は非常に難しい問題です。ご指摘のように考える方も多いと思います。「古代人の年齢に関する認識など、その程度だったのだ。」と。
しかしながら、私はそのように古代倭人が未開な人びとであったとは考えません。年齢というものは、とても大事なものです。同じ村で多くの人々が暮らすなかで、誰がどのくらいの年齢なのかについて、古代の人々が無関心であったはずはありません。
いずれにしろ、魏志倭人伝の記述だけでは、何とでも解釈しうるところであり、結論は出ないでしょう。
他の角度から、多面的に考える必要があります。ブログにも書いた通り、古代天皇が超長寿である理由、現代にも残る風習、今もパラオでは二倍年歴であること、などから、総合的に検証すべきです。
そのなかで、どの考え方が矛盾なく説明しうるのかを追求すべきと考えます。

No title

お返事ありがとうございます。私も2倍暦は面白い考えだと思いますし、前回書いたのも私の考える「常識」ですので、これで2倍暦の論破にはなっていないことは承知してます。
まあ、今後本当に邪馬台国が見つかり、墓に書かれた「享年」と埋葬者の年代を比べることができればはっきりするんですが。

あと「常識」ついでに一つだけ言わしてもらえれば
卑弥呼の死後一族の娘「台与」が13歳で後継者についたとありますが、これも本当は6歳半くらいということですか?
まあ、日本でも安徳天皇のように幼君がついたことはあり否定はできませんが「6歳半で即位したと考えたほうが合理的」な理由はなにかありますでしょうか?

Re: No title

ご指摘の件については、「たかだか6歳の少女が王になったところで、国が治るはずはないし、政治などできないではないか。」という考えがあると思います。
しかしながら、それは現代の感覚だと考えます。安徳天皇が即位したのは1歳半です。ようは、しかるべき地位にしかるべき人がいればいい、ということです。当時は、権力者の顔など見ることすらできなかったわけですから。
では、6歳の少女に何ができるのか?、ですが、それは当時の政治体制を考えればわかります。以前書いた通り、当時は、二元政治でした。魏志倭人伝にも、"卑弥呼には弟がいて、補佐していた。"とあります。つまり、卑弥呼は祭祀を執り行っていたわけで、実務政治を執り行なうものは、別にいました。壹与も、卑弥呼同様に祭祀を担っていたのであり、実務政治を執り行う者は他にいたのだと考えれば、何も不自然ではないと思います。

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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