【シリーズ第二弾 出版しました!!】

<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は二つ下をご覧ください。>

みなさまにお知らせです。3月27日に、シリーズ第二弾「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎~その後の邪馬台国から日本国誕生まで」を出版しました。

昨年8月に、「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国まで」を初出版いたしました。読まれた方々から、
「今までもやもやしていた日本古代史が、よく理解できた」
「多くの図表があり、とてもわかりやすかった。」
「邪馬台国の位置が、どうして今まで結論が出ていないのか、不思議。」
など、多くの感想をいただきました。この場を借りまして、深く御礼申し挙げます。

さてそれでは、邪馬台国はその後どうなったのでしょうか?。そして、大和朝廷との関係は?・・・。
学校の歴史の授業でも、そのあたりはさらっと流したのではないでしょうか。

その問いに答えたのが、今回の本です。

他にも、
・なぜ金印「漢倭奴国王」は、福岡県の志賀島で発見されたのか?
・倭の五王とは、本当は誰だったのか?
・日本国はいつどのように誕生したのか?
など、さまざまな疑問について、科学的に解き明かしていきます。



詳しい内容はこちらから・・・

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【訪問ありがとうございます!】初めて訪問くださった方へ

<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は、下にあります。>

訪問ありがとうございます。このブログは、様々な資料をもとに、日本古代史の真のすがたを解き明かしていくブログです。全体として、ひとつの読み物になってます。初めて訪問された方にわかりやすいよう、これまでの流れをまとめました。

【これまでの流れ】
日本の神話から始まり、中国史書、朝鮮史書を一通り読みながら、日本人(弥生人)の源流である倭人がどこからやってきて、邪馬台(壹)国、そして大和朝廷となったのかを、ひとつの壮大な仮説として導いてきました。その仮説のストーリーとは・・・

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土器は語る(9) ~ 庄内式土器は畿内が最古か?

一通り、土器についてみてきました。ここから、いくつか突っ込んだ検証をしていきます。

まず、「土器編年」についてです。
あらためて、「土器編年表」をみてみましょう(柳田康雄氏による)。


土器編年
「土器編年」とは、簡単に言えば、”土器が出土した地層や、土器の持つ特徴(文様や形)を基にして、土器の古さを時代順に並べていく”やり方です。日本の土器は、長らくこの方法により、その古さが定められてきました。その精緻さは、世界に誇るとまで言われているそうです。

一見すると、この方法で何ら問題はなさそうです。

ところが、実は大きな問題があります。
土器の古さを比較する際、同じ地域で出土した土器同士を比較するのはいいのですが、遠く離れた地域で出土した土器の比較はどうするのか、という問題です。

ここで登場するのが、「畿内一元史観」です。これはどういうことかというと、
大和朝廷は、遅くても4世紀には、日本統一をしており、当然文明の先進地であった。土器についても、畿内が最も進んでいた。全国のどこかで土器が出土した場合、畿内に同じような土器があるのかを調べ、それを基準とする。畿内の土器が最も古いのだから、その他の地域の土器は、それより時代が新しいものとする。”
というわけです。

このやり方で正しい場合もあるでしょう。しかしです。大前提である「畿内一元史観」が成り立たない場合はどうなるのでしょうか?。

こうした議論でよく話題となるのが、「庄内式土器」とそれに続く「布留式土器」です。「庄内式土器」は、3世紀頃、畿内で作られた土器です。古墳時代の始まりの時期ですね。

近年、これらの見方に疑問を呈する論が出ています。そのうちの一つですが、興味深い論説があるので、紹介します。「畿内出土庄内式土器の真実」(古賀達也の洛中洛外日記)より

”畿内の前期古墳の編年が「邪馬台国」畿内説を「保証」するかのように3世紀前半にまで古くされているのですが、その編年の根拠の一つとされているのが、弥生時代と古墳時代(布留式土器)の中間に位置するとされている庄内式土器です。この庄内式土器と纒向型前方後円墳が時代的に重なり、これを「邪馬台国」畿内説の根拠とされているわけです。そして、この纒向に全国の土器が集まっていることや、纒向の庄内式土器や大和の布留式土器が全国に伝播していることを根拠に、纒向(大和)が倭国の中心国「邪馬台国」と説明されています。
 こうした「邪馬台国」畿内説の「根拠」とされている庄内式土器や布留式土器について、服部さんは実際に考古学者への聞き取り調査や論文を精査され、次の驚くべき事実を報告されたのです。

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。

2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。

3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。

4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。

5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。

6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。

7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。

8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。

9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。

10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。

 ※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。”


ポイントとしては、

・中心地は、大阪府中河内地域である。

・畿内に、全国から土器が集められたとの事実はない。

・全国から出土する「庄内式土器」は、播磨のものである。

・布留甕の原型は、北陸地方で作られたものであり、そこから全国に広まった。

ということです。

こうした事実から、従来定説とされてきた”「庄内式土器」「布留式土器」の中心地は畿内であり、畿内から全国各地に移動していった。また全国各地の土器が、畿内に集められた。”、の根拠が、根本から覆されたということです。

この意味するところは、当時の畿内は、文明の先端地ではなかった、ということです。そして今までは、各地から出土した土器、特に「庄内式土器」「布留式土器」は、畿内のものより新しいとされてきましたが、逆に
畿内より古い可能性が出てきて、土器編年を抜本的に見直す必要が生じてきました。


注目は、”全国から出土した、従来大和のものとされてきた「庄内式土器」は、播磨のものであった”、という点と、”布留甕の原型は、北陸地方”という点です。

銅鐸のときにお話ししたとおり、銅鐸の流れも、兵庫県(淡路島含む)→大和、北陸地方→東海地方、という流れがありました。土器も、こうした動きと同じ流れのなかで行われた、と解釈すれば自然です。論文の詳細を見ていないので、断定的なことは言えませんが、納得感のある説と考えます。


一方こうした研究成果に対して、考古学の専門家は、どのような反応をしているのでしょうか?。みてみましょう。。「古墳の始まりを考える~新しい年代論と新たなパラダイム」(森岡秀人氏,芦屋市教育委員会文化財担当)からの抜粋です。


”この十年、年輪年代測定法によるデータが矢継ぎ早に発表され、また2003年5月には、AMS法炭素14年代測定法によって、弥生時代の開始年代が五百年遡るというデータが発表されました。これらのデータに、いまわたしたちは戸惑い、大きな衝撃を受けてます。”


科学的データが次々と発表され、今までの考古学会の常識が覆えされていることへの、いら立ちが伝わってきます。
その後、それらの詳細が書かれてますがそれは割愛します。注目したいのは、赤塚次郎氏の研究成果を引用して、

”全体的に庄内様式併行の土器が、北陸地方でも年輪年代では古く出てます。”

と書いていることです。これだけでは畿内も同様に古くなるのか、はっきりしませんが、少なくとも北陸地方の年代が、従来考えられていたより古いことだけは確かです。なお赤塚氏によると、東海地方の土器も従来より古くなる、としています。


そして最後に、”庄内様式の前半期の再検討が考古学に突きつけられた”、と締めくくってます。「まさしく」といった感じですね。


また、土器が語ること(3)で紹介しましたが、大阪府豊中市HPに

”庄内式の甕は、弥生時代後期の伝統的な甕のつくり方の上に、ケズリや底を丸くするといった新たなわざを取り入れてできました。そのわざとは、当時最も発達した土器文化をもった吉備地方(現在の岡山県)からもたらされたものでした。庄内式の甕は、当時としては最先端の土器だったのです。”

と説明されてます。

吉備(岡山県)と播磨(兵庫県) は、同じ瀬戸内文化圏と考えてよいでしょうから、古賀氏論文の、「大和の土器は播磨からもたらされた」という説を補強します。


ところで吉備といえば、有名な「楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)」があります。弥生時代後半(2世紀後半~3世紀前半)に造営された、双方中円形墳丘墓です。直径約43mという弥生墳丘墓として最大級ということもさることながら、のちに円筒埴輪になったとされる特殊器台・特殊壺が出土したことで知られてます。


その特殊器台・特殊壺については、箸墓古墳をはじめとした大和の古墳で出土してますが、吉備から伝わったことが知られてます。「吉備→大和」の流れであり、これも古賀氏論文を補強してますね。

<楯築墳丘墓特殊器台>
楯築 特殊器台
(岡山県古代吉備文化センターよりHP)

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土器が語ること(8) ~ 亀ヶ岡式土器が及ぼした影響

前回、突帯文土器の分布範囲が、福井から愛知県にかけてという話をしました。そしてその範囲の東は、亀ヶ岡式土器の分布エリアでした。今回は、その亀ヶ岡式土器について、みていきます。

亀ヶ岡式土器とは、前にも触れましたが、
”亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)は、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化(かめがおかしきぶんか)は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。”(Wikipediaより)です。

遮光式土偶が世界的にも有名ですね。

<遮光式土偶>

遮光器土偶 

(東京国立博物館蔵)

この亀ヶ岡式土器ですが、突帯文土器など、西日本の土器にも影響を及ぼしたことがわかっています。

その分布範囲の推移を、縄文晩期前葉~縄文晩期後葉(九州では弥生早期)~縄文晩期末(同弥生前期)で、みてみます。

<東日本系土器の西日本への影響>

東日本土器西への影響 


(「新潟県の弥生時代前期~中期」(渡邊裕之、新潟県教育庁文化行政課)より)

縄文晩期前葉には、淡路島~兵庫県あたりまででしたが、縄文晩期後葉(九州においては弥生早期)には、何と九州北部~九州中部にまで、範囲を広げました。それが、縄文晩期(九州では弥生前期)には、岡山県~四国東部まで後退してます。

縄文晩期は、九州では弥生時代早期ですから、九州北部で水田稲作が始まった頃です。ここで亀ヶ岡式土器の影響範囲が次第に東へ後退する時期は、ちょうど水田稲作が東へ伝播する時期と重なることは、注目です。

このように、亀ヶ岡式土器が、西日本の九州にまで影響を及ぼしていたことがわかりますが、さらに驚くべき発見がありました。

亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです(以前紹介しましたが、再掲します。)。

”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)



亀ヶ岡土器、沖縄1 


亀ヶ岡土器、沖縄2 

(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)

亀ヶ岡式土器は、まさに日本列島全体に影響を及ぼしたことになります。

ここでさらにもう一つ、興味深い研究成果を紹介します。

ひとつは、九州北部での最初の弥生土器の文様に、亀ヶ岡式土器の影響がある、というものです。これは、先に挙げた亀ヶ岡式土器の影響範囲の話と一致します。

”福岡県や佐賀県など北部九州での調査の結果、最初の弥生土器文様の大部分は、東北縄文の亀ヶ岡式文化の文様に起源することが明らかになりました。分析の結果、土器の粘土は地元産、文様は東北そのものであり、東北縄文人が北部九州に来て土器製作に関わったと考えました。また、東北の漆器も多数北部
九州に来ており、ものづくりでの東北縄文文化の影響は計りしれません。”(「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)




縄文土器から弥生土器
土器としては、突帯文土器のことかと思われますが、土器のみならず、以後隆盛を極める銅鐸の文様にまで影響を及ぼした、という指摘は、興味深いですね。考えてみれば、土器に影響を及ぼしたのであれば、銅鐸にも影響を及ぼしたとしても、何ら不思議はありませんね。

さらに、小林教授は、 
”中国北方の青銅器・鉄器文化の再検討の結果、戦国七雄の一つである燕国の鉄器などの痕跡を北部九州各地で確認したことです。これまでの定説よりも約250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧地域との間に直接的な交流があったことを明らかにしました。
この2つの発見により、弥生文化の成立は、想像を超える遠隔地とのダイナミックな交流によって達成されたものであることがわかりました。”

としてます。

弥生文化形成の流
(以上「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)

”弥生文化の形成に、中国北方地域からの影響もあった”、としてます。朝鮮半島経由でもたらされたのか、或は海上ルートなのかは別として、これも考えてみれば、充分にありうる話でしょう。

以上のとおり、弥生文化は、中国の江南や朝鮮半島のみならず、中国北方、そして日本の東北地域からの影響を受け、複合的に形成された、ということになります。何とも、壮大な話ですね。

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土器が語ること(7) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器の分布範囲が違う理由とは?


前回、縄文時代から弥生時代へと変わる過渡期における代表的な土器である、突帯文(とつたいもん)土器と遠賀川式(おんががわしき)土器を取り上げ、その違いについて、お話ししました。

突帯文土器は、在地の縄文系の人々のところへやってきた渡来系弥生人が教えて技術を取り入れ、縄文土器をベースに製作されるようになったと推定されます。

一方、遠賀川式土器は、その後、集団でやってきた渡来系弥生人が主体であり、環濠や青銅器副葬などの文化とともに、持ち込まれたと推定されます。そしてこの集団が、首長となり、地域一帯を支配したと考えられます。

このように、異なるバックボーンをもつ2つの土器ですが、実は興味深いデータがあります。

それは、2つの土器の日本列島での分布領域に、大きな違いがあることです。


まずは、突帯文土器の分布領域です。

突帯文土器分布図

(「水稲稲作と突帯文土器」(藤尾慎一郎)より) 

やや見づらいですが、図の通り、突帯文土器は、西日本のみに分布してます。九州北部から東へ伝播したものの、その東限は、福井県から愛知県のラインにかけてであり、そこで伝播が止まったことになります。ここで東日本は、縄文土器である亀ヶ岡式土器分布領域であることは注目です。つまり東日本では、突帯文土器が伝わってきたとしてもそれを受け入れず、従来の亀ヶ岡式土器を使い続けたということになります。


一方、遠賀川式土器です。

遠賀川式土器分布

西日本は「遠賀川式土器」主体で、この領域は、「突帯文土器」の分布とほぼ一致します。そして、中部・北陸・関東地方は「搬入遠賀川式土器+模倣土器」、東北地方は「遠賀川式模倣土器」のみです。

ここで、「遠賀川式模倣土器」とは、遠賀川式土器と類似した土器で、遠賀川式土器を模倣して作られたと考えられている土器で、一般的に「遠賀川系土器」と呼ばれます。


つまり、「遠賀川式土器」は、突帯文土器の分布領域の東限の福井県から愛知県のラインで止まりましたが、「遠賀川系土器」はさらに東へ北へと伝播しました。


最北の「遠賀川式土器」は、「砂沢遺跡」(図参照)から出土した土器です。

”青森県弘前市にある縄文~弥生時代の遺跡。縄文時代終末期の砂沢式土器の標式遺跡であり,古くからその存在は知られていた。 1987年から調査され,砂沢式土器に伴う水田の跡が確認された。それとともに弥生時代前期の土器である遠賀川系の土器が出土し,大きな話題となった。垂柳遺跡で確認された水田より古い時期にさかのぼることは明らかで,北九州に成立した弥生文化はきわめて速い速度で本州北端まで達したことが確認された。しかし稲作農耕はこの地に定着することなく終ったとされる。 ”

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


このように、遠賀川系土器と弥生時代水田遺跡の分布域が重なることが知られてます。このことから、水田耕作技術をもった集団が、遠賀川系土器を携えて、東へ北へと移動していったと、推測されます。

 

興味深いのは、その移動速度が速かったこと、そして東北地方の方が、関東地方より早く伝わったと考えられることです。


普通であれば、中部地方→関東地方→東北地方の順に伝播するはずですが、少なくとも現在までの発掘状況からすると、そうはなっていません。むしろ、最北端の青森県砂沢遺跡が、弥生時代前期という、きわめて早い時期に、水田耕作が始まっています。


こうしたことから、伝播は、陸地を伝わったのではなく、海上ルート、特に日本海から伝わったという見方が出ています。縄文時代から、日本海による交易ルートがあったと推定されてますから、不思議ではありませんね。

 水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(平成20年度 桜土手古墳展示館特別展「古の農ー古代の農具と秦野のムラ」より)

やや見にくいのですが、赤色のルートが、水田稲作の広がり、青色のルートが、「遠賀川式土器」の伝播を示しています。「遠賀川式土器」は、日本海を北上するルートと、内陸部を北上するルートがあったと推定されます。当時の人や物資の移動事情を考えれば、海上ルートが早かったのも、うなずけます。

では、なぜ「突帯文土器」は、伊勢湾付近で止まり、「遠賀川系土器」は、東北地方へと伝播したのでしょうか?。


その要因はいろいろあるでしょうが、やはり水田耕作技術との関連が強いと考えられます。つまり、”「突帯文土器」の時代の水田耕作技術は、小規模で灌漑技術などが進んでいなかったため、東北地方には受け入れられなかった。一方、「遠賀川系土器」の時代になり、渡来系弥生人の数も増え、水田耕作技術も進み、受け入れられるようになった。"

というストーリーです。

縄文時代の晩期は、気候が寒冷化したものの弥生早期から温暖化し始めたので、そのことも関係しているかもしれません。稲の品種改良により、耐寒性のある品種ができた可能性もあります。

いずれにしろ、水田耕作の東進・北進に連れ、渡来系弥生人も、関東・東北地方へ、相当数移住したことでしょう。


ここで注目すべき点があります。搬入された「遠賀川式土器」と、その「遠賀川系土器」を模倣して現地で製作された「遠賀川系土器」は、混在して出土することです。ということは、やってきた渡来系の人々と、現地の縄文人は、共存していたことになります。これは、九州北部においても同様で、「突帯文土器」と「遠賀川式土器」が、同じ遺跡から出土してます。

通常であれば、文化の異なる人々がやってきたのであれば、そこで大きな争いになるはずですが、そうではなく、お互い協力し合いながら、或は少なくとも棲み分けをしながら生活していたわけです。実際、遺跡や出土物をみても、大きな戦いの痕跡は、少ないとの報告もあります。

これは素晴らしいことではないでしょうか。近代においても、日本人は外来の文化をうまく取り入れて発展してきた、と言われていますが、そういった気質は、古代から引き継がれているのかもしれませんね。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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