FC2ブログ

シリーズ第三弾を出版しました!!

<この記事は当面、この位置に掲載します。最新記事は2つ下にあります。>

9月27日に、「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史」シリーズ第三弾を出版しました。

前二著で、日本神話の「国譲り」「天孫降臨」から、邪馬台国の誕生、倭の五王、白村江の戦い、壬申の乱を経て、日本国が誕生するまでを、科学的視点をもって解き明かしてきました。

今回は時代をぐっと遡り、「日本人はいつ、どこからやってきたのか?」というテーマです。アフリカを出てから日本列島にたどり着き、繁栄を極めるまでを、描き出します。

今まで同様、科学的視点から切り込みますが、その結果と神話との間に、不思議な関係があることもわかりました。その関係とは?

これまでのブログの内容を編集し直し、ひとつの流れとしてわかりやすくまとめました。是非、購読賜りますようお願い申しあげます。

<目次>
第一章 中国最古級資料からみた倭人の源流
第二章 一年で二回の歳を数えたという「二倍年歴」説は本当か?
第三章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<基礎編>
第四章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<応用編>
第五章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<発展編>



詳しい内容はこちらです。


続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【訪問ありがとうございます!】初めて訪問くださった方へ

<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は、下にあります。>

訪問ありがとうございます。このブログは、様々な資料をもとに、日本古代史の真のすがたを解き明かしていくブログです。全体として、ひとつの読み物になってます。初めて訪問された方にわかりやすいよう、これまでの流れをまとめました。

【これまでの流れ】
日本の神話から始まり、中国史書、朝鮮史書を一通り読みながら、日本人(弥生人)の源流である倭人がどこからやってきて、邪馬台(壹)国、そして大和朝廷となったのかを、ひとつの壮大な仮説として導いてきました。その仮説のストーリーとは・・・

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

纏向遺跡は邪馬台国か?(14)~北部九州の「邪馬台国広域地域圏」

前回、奴国(通説)の領域が、福岡平野を中心としたエリアであること、その領域が私が邪馬台国と考える領域とほぼ同じであること、をお話しました。

ところで邪馬台国畿内説においては、纏向遺跡を中心として、奈良盆地のみならず、その周辺領域も包含した広い地域を、邪馬台国「広域地域圏」とする説を紹介しました。もっとも、纏向遺跡を中枢とする以上、無理があることもお話ししました。

では、九州北部においても、同様な邪馬台国「広域地域圏」というものはありうるのでしょうか?。それを検討していきます。

ここでいう広域地域圏は、邪馬台国はいくつかのクニの連合国家である、という考え方に基づいてます。連合国家というからには、当然親密な交流があることが前提です。となると、同じ文化圏ということになります。

九州北部で特徴的な文化としては、甕棺墓があります。紀元前から継続的に採用され、王墓クラスのものもあります。卑弥呼の時代である3世紀頃には少なくなりましたが、同一文化圏の指標としては、わかりやすいもです。

ではその甕棺墓は、どのように分布しているでしょうか?。


邪馬台国広域地域圏  

図のとおり甕棺墓は、福岡平野を中心として、西は佐賀県唐津まで、東は遠賀川中上流域まで、南は久留米、肥前まで広がってます。西はさらに、佐賀県武雄から長崎県まで、南は熊本県まで広がってます。

興味深いのは、遠賀川下流域から東の宗像地方などは、甕棺墓の文化圏ではなかったことです。福岡平野が安曇族とすれば、宗像族と阿雲族は、文化が異なったことになります。

そして図の赤線で囲った部分が、邪馬台国広域地域圏と考えられる領域です。この領域のなかに、福岡平野はもちろん、甘木・朝倉、久留米、瀬高、大宰府など、邪馬台国の候補地とされる地域が含まれているところに注目です。

たとえば図中の瀬高は、旧山門(やまと)郡に属しますが、江戸時代の儒学者新井白石が邪馬台国候補地に唱えたことで有名です。その後、白鳥庫吉、坂本太郎、井上光貞氏らも唱えました。
町にある権現塚古墳は、地元では「卑弥呼の墓」ともいわれてます。神護石の ある山は「女山(ぞやま)」と呼ばれてますが、女王卑弥呼をそれとなく暗示しているようにも思えます。

甘木・朝倉は、安本美典氏(元産業能率大学教授)が唱えてます。平塚・川添遺跡など、大規模遺跡があることで知られてます。

久留米市の御井町には、高良大社(高良玉垂宮)があります。筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座してます。高良山は、神籠石で知られてますが、景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれました。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台もなりました。

同じく久留米市の三瀦(みずま)町に大善寺玉垂宮があります。三瀦は、古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が、変化したものとされます。奇祭「鬼夜」で知られてます。

一説では倭国王とされる筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる「岩戸山古墳」は、久留米市の東南に接する八女市にあります。ということは、筑紫の君磐井の宮は、古墳の付近にあったと推察されます。

もちろん領域内には大宰府があります。倭国の都との説があることは、以前お話しました。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(1) ~ 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?
を参照ください。

以上のとおり、この領域内にいくつもの邪馬台国の候補地があります。これはどうしてかというと、時代とともに邪馬台国の都が移動したため、とも考えられます。

このように考えると、北部九州にいくつもの邪馬台国候補地がある理由もわかります。

そしてこれだけ広大な面積であれば、魏志倭人伝のいう「七万余戸」もありうるでしょうね。

無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村







テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

纏向遺跡は邪馬台国か?(13)~奴国(通説)の範囲

前回、邪馬台国当時の大規模集落として九州北部の比恵・那珂遺跡の概要をお話しました。遺跡の規模・内容もさることながら、注目は、遺跡南の須玖岡本遺跡が、クニの首都であり比恵・那珂遺跡が、副首都だったと考えられることです。

そのクニですが、一般的に、「奴(な)国」とされてます。

奴国は、三国志魏志倭人伝に出てくるクニです。伊都国の東南百里のところにあると記載されてます。一里を短里の約75mとすると、伊都国は今の糸島市とされてますから、その南東7.5kmにあることになります。通説では、福岡平野に面したエリアとされてます。

そのエリアにある福岡県の志賀島にて、江戸時代に「漢委奴国王」と刻印されている金印が発見されました。
中国史書の後漢書倭伝には、
”57年に、後漢の光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に金印を賜った。”
という記載があり、この記事と一致していることから、志賀島の金印は、漢の光武帝が下賜した、とされてます。

このことから通説では、金印の「漢委奴国王」を「漢の委(倭)の奴の国王」と読んでいます。
ようは、「奴(国)の国王がもらった金印」ということです。それだけ奴国は強大な国だったことになります。

一方、この説に対しては異論があります。
漢の皇帝は、服属のしるしとして近隣諸国に印を下賜してますが、あくまで与えた先は国全体を統治している国、すなわち都のある国です。当時の倭国は数十カ国からなるなる連合国家のようなものでした。その一つの国に過ぎなかった「奴国」に、最高の金印を下賜するはずがありません。

古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)は、「漢倭奴国王」を
「漢の委奴(いな、いぬ、いど)国王」
としました。「倭奴」とは、元来の国名は「倭」ですが、卑字である「奴」をつけたものです。北方異民族であった「匈奴(きょうど)」も同じですね。

つまりこの金印は、漢の光武帝が倭国王に下賜した金印だった、ことになります。このほうが、すっきりしますね。そしてこの倭国の王とは、魏志倭人伝に初めて名が出てくるのちの「邪馬台国」の王ということになります。
詳細は
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは?”
を参照ください。

前段の整理が長くなりましたが、ようは通説では、奴国とは福岡平野に面したクニということです。

その領域の詳細について、考古学的成果から詳細に分析した論文があるので、紹介します。
「奴国とその周辺」(久住猛雄、福岡市教育会)です。なお論文では通説どおり、「福岡平野のクニ」=「奴国」としてます。

A.西の境界
・奴国の西には伊都国があったので、その間にある早良平野をどうとらえるかが、問題となる。早良平野には、弥生後期までは、吉武遺跡群を中核とする「クニ」が存続した可能性が高いが、それ以降は、奴国に編入された。
・奴国と伊都国との境界の遺跡には「環濠」が存在することから、奴国と伊都国に一定の緊張関係があったことが示唆される。
【解説】
まず西の境界ですが、伊都国との間には、吉武遺跡群があります。紀元前2世紀頃から吉武高木、吉武樋渡遺跡と続く遺跡で、特に吉武高木遺跡の3号木棺墓には、剣・鏡・玉の三種の神器が副葬されており、最古の王墓とされてます。ということは、相当な勢力をもった集団がいた、つまり「クニ」があったことになります。その「クニ」との関係について、奴国に編入された、と推定してます。
また、伊都国との関係も、友好関係ではなく一定の緊張関係があった、という指摘は注目ですね。魏志倭人伝では、”伊都国には特に一大率という長官を置いて国々を検察した。諸国はこれを恐れはばかった。”という記載がありますが、何となくその状況を彷彿とさせますね。

<吉武高木遺跡出土の三種の神器>
吉武高木遺跡 
(福岡市博物館HPより)

B.北・南・南東端
・奴国の中核領域は、那珂川と御笠川の両領域である。金印出土の志賀島、能古島も含め、博多湾岸の大部分は奴国であろう。
・那珂川・御笠川上流では、弥生時代中期~後期初頭の拠点集落として、安徳遺跡がある。この一角に広形銅矛13本を埋納した安徳原田遺跡がある。これが那珂川上流での奴国南端を示す象徴的埋納であろう。
・御笠川上流域は、二日市地峡帯が南端、北方の高雄山付近が、南東境界であろう。
【解説】
博多湾岸の大部分は奴国の領域ですが、注目は、広形銅矛が埋納されている安徳原田遺跡を南端としていることです。
埋納というと、銅鐸の埋納が知られてます。なぜ埋納したのか、その理由はよくわかってませんが、一つの説として、他の「クニ」や集落との境界に、辟邪(へきじゃ)の意味を込めて埋めた、といわれてます。銅矛も同じように辟、邪の意味を込めて埋納したのでしょうか?。
銅鐸埋納については、
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎
を参照ください。

C.東側
福岡平野東部を画する月隈丘陵までであろう。丘陵の東側は、別の政治領域であり、推定「不弥(ふみ)国」であろう。
【解説】
月隈丘陵を東の境界として、その東を「不弥国」と推定してます。ちなみに、これについて私の見解は、?です・・・。

以上、細かくなってわかりずらくなりましたが、奴国の領域を示すと、下図のとおりです。

奴国(通説)領域

さて、この図をみて、どこかで見た図と似ているな、と思われた方もいるかもしれません。
以前、邪馬壹(台)国の領域を推定したものです。

 邪馬台国位置


久住氏は、考古学的」成果から、私は主として魏志倭人伝から推定したのですが、久住氏の推定する「奴国」と、私の推定した「邪馬壹(台)国」が、ほぼ同じ領域です。

これは偶然の一致でしょうか?。

ちなみに論文のなかで、久住氏は、邪馬台国の位置について言及していません。しかしながら、別論文において、”弥生時代後期の北部九州で、日本列島における最初の都市が成立していた可能性”を発表してます(「弥生時代における<都市>の可能性ー北部九州、特に比恵・那珂遺跡群を例としてー」)。

「都市」として成立していたかどうかは別として、少なくとも弥生時代後期において、博多湾岸に日本最大級の「クニ」があったことは間違いありません。

となると、その領域こそ「邪馬壹(台)国」の可能性が最も高い、と考えますが、いかがでしょうか?。

無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村




テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

纏向遺跡は邪馬台国か?(12)~比恵・那珂周辺遺跡群

前回まで纏向遺跡について、魏志倭人伝からみた検証をしてきました。その結果、纏向遺跡は魏志倭人伝の描く倭国やその都である邪馬台国の姿とは多くの点で合致しないことがわかりました。昨今のマスコミ報道では、邪馬台国は纏向遺跡で決まりみたいな論調ですが、それとは大きく異なることになります。

ところで皆さんのなかには、
「魏志倭人伝は今から1600年以上前に編纂された史書で、しかも当時の中国人が倭国の伝聞を基に書いたものだ。内容が合致していないのものも当たり前だ。だからといって、邪馬台国ではない、とはいえないのではないか?」
という疑問をもたれた方もおられるでしょう。

確かにそういう考え方もあります。もちろん、魏志倭人伝のすべての記載が事実だったのか、という検討は、当然すべきです。
しかしながら、魏志倭人伝を疑いはじめたら、「そもそも邪馬台国なるものなど実際に存在したのか?」ということにまで発展しかねません。何せ、日本の史書である古事記、日本書記には、「邪馬台国」という国名は、一切出てこないわですから・・・。

この話はまた別の機会に譲るとして、ここからは、別の視点で考えていきます。

別の視点とは、
「魏志倭人伝の記載に合致する遺跡が、他に日本国内にあるのか?」
ということです。

もしそのような遺跡が存在しているのであれば、そこが倭国、あるいは邪馬台国だった可能性があります。少なくとも、纏向遺跡より可能性が高い、と言えることになります。

ではそのような遺跡があるのか、みてみましょう。

前回までの、関川氏の論文にもありますが、当時の日本で最大の遺跡群は、九州博多平野の遺跡群です。私は、ここを邪馬台国と比定してますが、一般的には「奴国(なこく」)とされてます。

この件はすでにお話してますので、ここでは触れません。今回は、その中心領域といわれる、「比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡」を紹介します。太字は「福岡市博物館HP、比恵・那珂モノがたり」からの抜粋です。

比恵・那珂遺跡群(以下、比恵・那珂)は福岡平野の中央部を北流して博多湾に流れ込む那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に広がる遺跡群です。現在でいうと博多駅と竹下駅の間に位置しています。
遺跡の名称としては分けられていますが、同時代に人々が活動したひとつの遺跡です。また、比恵の東側には山王(さんおう)遺跡(比恵甕棺遺跡(ひえかめかんいせき))、那珂の南側には五十川遺跡があり、地形的な隔たりがないことや発見される遺構の内容から大きな一連の遺跡として捉えることができます。

比恵那珂~須玖岡本遺跡位置 




 
比恵那珂遺跡群周辺


【解説】
福岡平野全体の遺跡分布図からです。比恵・那珂遺跡のみならず、すぐ南の須玖岡本遺跡をはじめ、大きな遺跡群が数多く分布しているのがわかります。

”宅地化が進む現状からは遺跡の当時の姿を想像することは難しく、その重要性を理解するのは一筋縄ではいきません。
遺跡の範囲として比恵が65ヘクタール、那珂が83ヘクタール、山王遺跡が15ヘクタールが登録され、全体の面積としては164ヘクタールという広大な範囲となります。これは佐賀県神埼郡にある吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)の約4倍に相当する広さとなります。
北部九州屈指の遺跡であり、弥生時代から古代にかけては何度も歴史の表舞台に登場する、日本の歴史を読み解く上では重要な遺跡でです。”


比恵那珂遺跡構造

【解説】
全体は山王遺跡も合わせ、164haという広大な面積です。なお、さらに周囲の須玖岡本遺跡群も一体とみなす説もあります(柳田康雄氏)。

”縄文時代から弥生時代へと時代が移り変わる頃になると、比恵・那珂が広がる丘陵周辺の低位な場所に小さな集落がぽつりぽつりと形成され始めます。
人々は水場に近い場所に集落を形成する一方で、食料を保管する貯蔵穴(ちょぞうけつ)は水気を避けるため丘陵の高い場所につくりました。注目されるのは那珂南西側では二重に環濠(かんごう)が巡る集落が出現したことです。この環濠は、最古の農村として有名な板付遺跡の環濠より先行するものと考えられており日本でも最古級の環濠とされています。のちに北部九州から全国に広がった環濠集落という暮らしの方法を、朝鮮半島から最初に取り入れたのは比恵・那珂に住む人々だったのです。”
【解説】
日本における環濠集落の先駆けであったことがわかります。

”前期から中期にかけては、河川の沖積作用が増大したため低湿地が拡大しはじめました。この頃、比恵・那珂の人々は丘陵を覆っていた照葉樹林の森を切り開いて集落の拡張をはじめます。
集落が大きくなると同時に墓地が各所で作られるようになります。前期には山王遺跡で土壙墓・木棺墓群、中期初頭~前半には比恵北側を中心として甕棺墓が、中期中頃~後期には那珂北側に甕棺墓が集中する傾向がみられます。”
【解説】
弥生中期頃に、九州北部独特の甕棺墓が現れます。

”弥生時代の埋葬遺構が多く見つかる比恵・那珂ですが、墓に銅鏡を副葬するような有力者の存在を示す例は発見されていません。比恵で発見された甕棺墓には唯一、細形銅剣(ほそがたどうけん)が副葬されていました。この銅剣の出土は集団を統率する実力者が存在していたことを示すとともに、この頃の奴国内での比恵・那珂の立場や役割を教えてくれるモノでもあります。
【解説】
弥生時代に銅鏡を副葬するような有力者の存在は確認されてません。当然実力者はいたでしょうが、ここでいう有力者とは首長という意味だと考えられます。
では有力者すなわち首長はどこにいたのか?、ですが、当時は南の須玖岡本遺跡にいたと考えられますが、それはのちほど出てきます。

”弥生時代中期以降、比恵・那珂を代表する遺構として数百もの井戸が掘られます。県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中していることは、比恵・那珂に多くの人々が集まり暮らしていたことを示唆してくれます。また、これらの井戸には祭祀(さいし)に用いられたとされる彩色土器などが繰り返し投げ入れられていることがよくあります。
比恵・那珂に住む人々の活動が一気に盛んになるのは弥生時代中期後半以降で、後期には丘陵のほとんどの場所で開発が行われたようです。”
【解説】
”県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中している”ということは、弥生時代中期以降の現福岡県では最大の人口密集地だったということになります。

”中期後半に掘られた大溝(おおみぞ)は、丘陵内部を縦横に走り、多くの労働力を用いて集落を拡大させていったことが分かります。また、各所で大型の掘立柱建物が造営されるなど、丘陵が徐々に開発され、眺望が開けていく様子も明らかとなりました。比恵北東側の沖積地には中期中頃~後期にかけての大規模な水田(東比恵三丁目遺跡)が開発され、比恵・那珂に住む人々の生活を支えていました。”
【解説】
多くの人々の食料を供給するだけの水田もありました。

”この時期の奴国の拠点は、春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)を中心とする大集落にありました。舶載(はくさい)された鏡を大量に副葬する「王墓(おうぼ)」が発見された須玖岡本遺跡は、奴国の政治と祭祀の中核でした。その周辺で発見された大量の青銅器鋳型や工房跡の発見は、弥生の青銅器工業団地とも称されています。比恵・那珂では「王墓」こそ発見されていませんが、須玖岡本遺跡群に並ぶほど多様な遺構と多彩な遺物をもつ遺跡であり、比恵・那珂は奴国の副都心であったと言えます。”
【解説】
当時の都は須玖岡本遺跡でした。王墓からは、質・量ともに王にふさわしい品が副葬されてました。

弥生時代の後期後半以降も比恵・那珂の発展は続き、古墳時代となっても丘陵の大がかりな開発は絶えることなく行われました。そして集落の拡大だけではなく新しい要素もみられます。古墳時代初頭には首長墓(しゅちょうぼ)として、福岡平野最初の前方後円墳である「那珂八幡古墳」が那珂中央部に築造されました。そして弥生時代の終わり頃から古墳時代はじめ頃には比恵・那珂を縦走する並列溝(へいれつみぞ)がつくられました。全長1.5㎞以上も延びるこの並列溝は、その形状から両側に側溝をもつ道路である可能性が考えられています。道路沿いには規格的な配置を持って方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が並ぶように築造されました。”
【解説】
古墳時代初頭には、那珂八幡古墳が築造されます。3世紀中頃から後半と推定されますが、時期的には卑弥呼死去から壹与(いちよ、いよ)の時代に重なります。

”弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃、比恵・那珂が発展する一方で、先の須玖岡本遺跡群を中心とする地区では遺構が減少することが報告されています。このことは「奴国」の中心が比恵・那珂に移ったことを示しており、奴国の首都が移転したとも言えます。奴国内でも主要な位置を占めるようになった比恵・那珂には、倭国内の各地域や朝鮮半島の土器等の様々なモノが持ち込まれました。この時期前後に北部九州へと伝播した土器が比恵・那珂を介して九州各地に広がっていったとする研究もあり、比恵・那珂を拠点とした広範囲の交易ルートが確立されていたことが分かります。”
【解説】
この頃、クニの都が須玖岡本遺跡群から比恵・那珂遺跡群へと移転した、としてます。

以上が、概要です。

無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村




テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

最新記事
最新コメント
読者登録
メールで更新情報をお知らせしますので、こちらに登録ください。
メルマガ購読・解除
図とデータで解き明かす日本古代史の謎
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
おすすめの本
ブロとも一覧

アアト日曜画家

☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆

中国通史で辿る名言・故事探訪

幕末多摩・ひがしやまと

客船の旅

黒田裕樹の歴史講座

しばやんの日々

Paradise of the Wild bird…野鳥の楽園…
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR