土器が語ること(11) ~ 中国遼河文明と縄文土器との関係

器について様々な視点からみてきましたが、今回が最終回です。

中国の古代文明というと黄河文明、長江文明などが思い浮かびますが、その文明に影響を及ぼしたと考えられる文明があります。「遼河文明」です。

”中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。
大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
このように黄河文明や長江文明と異質でありながら、古代の中華文明に大きな影響を与えたと考えられ、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。”(Wikipediaより)

遼河文明の名前を初めて聞いた方も、多いのではないでしょうか?。

それは、発見、発掘が新しかったこともさることながら、われわれの固定観念として、遼河流域は、砂漠地帯であり、とても文明が発展したような地域には思えなかったこともあるでしょう。

ところが実際には、
”従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている。”(Wikipediaより)
というわけです。

有名な紅山文化をみていきましょう。
中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃~紀元前2900年頃に存在した新石器時代の文化。万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。”(Wikipediaより)

紅山文化領域


<紅山文化出土品、玉竜>
紅山文化 玉竜

<円筒陶器(紀元前4700-2900年)>
 紅山文化 円筒陶器

<太陽神の玉器>
紅山文化 太陽神の玉器 

<象頭の玉器>
紅山文化 象頭玉器

出土品を見ると、確かにのちの中国文明とも共通するものを、感じさせますね。

さて、ではこの遼河文明ですが、どのように始まったのでしょうか。

”遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められることから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性も考えられる。”

なんと、遼河文明を担った人々と、北欧のフィンランドやノルウェー、ロシア北西部などに住むウラル系民族は、同じルーツだというのです。実際に、ウラル系民族住んでいるところからは、櫛目文土器が出土してます。

では、北欧の人々と、遼河文明の人々は、どのような関係なのでしょうか?

下図は、Y染色体ハプログループN系統の人々の分布領域です。

Y染色体N系統と紅山文化  


シベリア(ロシア北部)から北欧にかけて、濃く分布しています。一方、遼河文明の地は、薄い分布です。これは、どのように理解したらよいのでしょうか?

N系統の人々の移動を、あらためて見てみましょう。

崎谷満氏(CCC研究所所長)は、”祖先型が出アフリカ後、南アジアへ達し、東へルートをとって東南アジアへ達したようである。ここでNO*祖型からN祖型、O祖型が分化したと推定される(N系統の分化は8800年前か6900年前)。”と述べてます。(「DNAでたどる日本人10万年の旅」より)

このことから、当初東南アジアにいた祖先型であるNO*が,N祖型とO祖型に分岐したのち、そのN祖型が北上して遼河流域にやってきて、遼河文明を発展させたと推定されます。

ちなみにもうひとつのO祖型は、その後O2系統やO3系統に分岐して、黄河文明や長江文明を開化させたと考えられます。

その後、遼河文明を担った人々は、気候の変動や、他民族から追われて北上したのち、さらに西へ、西へと移動して、最終的に、北欧の地にたどりついたと、考えられます。
一部の人々は、朝鮮半島さらには日本列島にもやってきたと推定されます。実際、現代日本人のなかにも、少ないながらもN系統の人がいます。

Y染色体N系統移動ルート


ではその根拠はあるのでしょうか?

最もわかりやすいのが、櫛目文土器の出土です。
”最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、フィンランドでは紀元前4200年以降、朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる。
日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があり、また、弥生土器にも似た文様をもつものがある。”

以前のブログで、土器は東アジア発祥であり、西へと伝播した、との話をしました。その時期はさらに古い時代ではありますが、同じ流れです。

<櫛目文土器、ソウル市岩寺洞遺跡、紀元前4000年頃>
櫛目文土器 
(Wikipediaより)

そして注目すべきは、日本との関係です。

上記の通り、曾畑式土器との類似が指摘されているように、縄文文化にも影響を及ぼした、との説があります。確かに、Y染色体N系統の人々は、日本にもやってきたと考えられてますから、その可能性も充分にあります。

このように、中国遼河流域に紀元前6200年頃から繁栄した文明が、北欧に伝播し、さらには朝鮮半島、日本列島にも伝播し影響を及ぼしたことが、考古学のみならず、遺伝子工学的にも言えることは、興味深いですね。

最後にもうひとつ、興味深い話を紹介します。

突然ですが、皆さんは日本の「ズーズー弁」についてご存じでしょうか?。

「ズーズー弁」とは、一般的には東北地方の方言で、「し」対「す」、「ち」対「つ」およびその濁音「じ」対「ず」(「ぢ」対「づ」)の区別がありません。
たとえば「寿司(すし)」を、「すす」と発音します。
東北・北海道地方のほか、富山県・島根県・鳥取県など日本海沿岸にみられます。

なぜこのように発音するのかと言えば、諸説ありますが、「寒い地方であり、少ないエネルギーで発音しやすくするため」との説が強いようです。確かに、極寒の冬に外で話すときは、唇がかじかんで話しにくくなるので、「ズーズー弁」の方が話やすい、とも思えます。

ところがです。とても興味深い説があるのです。

ズーズー弁の音を中舌母音の[ɨ]と呼びますが、その起源は、ウラル語族(およびアルタイ語族)だ、というのです。

となると、「ズーズー弁」は、N系統の人々が、遼河文明とともに日本にもってきた可能性があります。

そう考えると、東北・北海道のみならず、日本海側の島根、鳥取、富山で、「ズーズー弁」が話されているのも、うなずけます。

古代世界の文明が、東アジアの日本列島から西の北欧までつながっている、とは何とも壮大な話ですね。

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土器は語る(10) ~ 「遠賀川式土器」と神武天皇

今回は、話題を「神話」に絡めてお話しいたします。

弥生式土器の代表的なものとして、「遠賀川式土器」の話をしました。「遠賀川式土器」とは、弥生時代初期に、福岡県の遠賀川流域付近で作られ始め、やがて西日本に伝わり、さらには東北地方へも、製作技術が伝播しました。伝播ルートとしては、陸地は当然として、海上ルートによるものもあったことが推定されています。

<遠賀川式土器の伝播>
 水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(秦野市HP「平成20年度桜土手古墳展示館特別展」より)

さて、この話を聞いて、何か連想した方はいるでしょうか?。

キーワードは、「遠賀川」「西から東へ」「海上ルート」です。

ここでピンときた方は、かなりな古代史マニアです。

答えは、「神武天皇東征神話」です。時代は異なるのですが、同じパターンであり、注目したいところです。

「神武天皇東征神話」とは、
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、のちの神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。”(「古事記」、Wikipediaより)

その後大和へ向かい、在地の長髄彦(ながすねひこ)と戦い、一度は敗れるものの勝利して、居を構え、即位します。

神武天皇の出発地は、一般的には、宮崎県の日向とされてます。私は、筑紫の日向、具体的には福岡市西部、糸島市境の日向峠周辺地域と考えてますが、それはいずれ取り上げるとして、ここでの注目は、一年間滞在したという「岡田宮」です。実は、この[岡田宮」の場所が、よくわかっていません。

今のところ、3つの候補地があります。福岡県の岡田宮(おかだのみや)、一宮神社、神武天皇社です。

神武東征出発地

一番わかりやすい岡田宮ですが、福岡県北九州市八幡西区岡田町にあります。
”かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。”(Wikipediaより)

次が、福岡県北九州市八幡西区山寺町にある一宮神社です。一宮神社は岡田神社(岡田宮)の元宮で、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社が昭和25年に合祀された神社です。
神社由緒書きによると、
”・王子神社は、神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり、一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。
大歳神社は、三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
諏訪神社は、花尾城主麻生氏が、信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。”

王子神社ですが、神武天皇が天皇即位前で、王子(皇子)だったので、その名がついたとか。

最後の神武天皇社ですが、福岡県遠賀郡芦屋町にあります。芦屋(あしや)は、古くは蘆屋と書き、筑前国続風土記は、「蘆屋こそが神武天皇が東征のおり入った岡湊(おかのみなと)である」としています。正確には、芦屋岡松原の地にあったとされてます。社用地が陸軍飛行場として徴用されたため、現在地に移転させられました。

以上3つの候補地ですが、まず岡田宮は、元宮が一宮神社なので、消えます。では一宮神社と神武天皇社とどちらなのか?、ですが、今のところ不明です。一宮神社の王子神社内には古代祭祀場があるなど、雰囲気的にもぴったりですが、神武天皇社のほうは、移転したため、歴史的なものは、破壊消滅した可能性もあります。何とも言えないところです。

ですがひとつだけはっきりしていることがあります。

いずれの場所にしろ「遠賀川流域」であることです。


日本書記によれば、神武天皇は、崗之水門(おかのみなと、崗の湊)を経たとあります。つまり、「崗」が、「遠賀(おんが)」に変化したわけです。その名の通り、当時は海岸線が現在より上流部まで入り込んでおり、港として発展しました。神武天皇は、その後舟で進軍したわけですから、その出立地にふさわしいところになります。 


「遠賀川式土器」が、西日本さらには東日本にも広まっていったのは、海運によるところが大きかったわけですが、その理由がわかりますね。


ところで古事記によれば、神武天皇は、岡田宮で一年間、何をしていたのでしょうか?。東へ行くのなら、すぐに出発すればよさそうなものです(なお日本書記には、逗留の記載なし)。

それはおそらく、舟を築造したり、兵士、兵器や食料を集めたりなど、兵力を調達していたのではないでしょうか?。

そのように考えれば、納得できますね。

そしてその後、阿岐国(広島県)、吉備国(岡山県)を経て、畿内に向かいます。この海上ルートも、瀬戸内海があったからたまたま進んだのではなく、遠賀川式土器の伝播ルートになるなど、古代から極めて重要であった海上ルートを使った、ということでしょう。

ここで、神武天皇が、「海人族」であることを思い出してください。この海上ルートは、「海人族」の海上ルートであったはずです。そして阿岐国(広島県)、吉備国(岡山県)は、その「海人族」の配下にあった国でしょう。その海上ネットワークを使って、畿内侵攻を試みた、ということになります。

<神武天皇東征>
神武東征1 

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土器は語る(9) ~ 庄内式土器は畿内が最古か?

一通り、土器についてみてきました。ここから、いくつか突っ込んだ検証をしていきます。

まず、「土器編年」についてです。
あらためて、「土器編年表」をみてみましょう(柳田康雄氏による)。


土器編年
「土器編年」とは、簡単に言えば、”土器が出土した地層や、土器の持つ特徴(文様や形)を基にして、土器の古さを時代順に並べていく”やり方です。日本の土器は、長らくこの方法により、その古さが定められてきました。その精緻さは、世界に誇るとまで言われているそうです。

一見すると、この方法で何ら問題はなさそうです。

ところが、実は大きな問題があります。
土器の古さを比較する際、同じ地域で出土した土器同士を比較するのはいいのですが、遠く離れた地域で出土した土器の比較はどうするのか、という問題です。

ここで登場するのが、「畿内一元史観」です。これはどういうことかというと、
大和朝廷は、遅くても4世紀には、日本統一をしており、当然文明の先進地であった。土器についても、畿内が最も進んでいた。全国のどこかで土器が出土した場合、畿内に同じような土器があるのかを調べ、それを基準とする。畿内の土器が最も古いのだから、その他の地域の土器は、それより時代が新しいものとする。”
というわけです。

このやり方で正しい場合もあるでしょう。しかしです。大前提である「畿内一元史観」が成り立たない場合はどうなるのでしょうか?。

こうした議論でよく話題となるのが、「庄内式土器」とそれに続く「布留式土器」です。「庄内式土器」は、3世紀頃、畿内で作られた土器です。古墳時代の始まりの時期ですね。

近年、これらの見方に疑問を呈する論が出ています。そのうちの一つですが、興味深い論説があるので、紹介します。「畿内出土庄内式土器の真実」(古賀達也の洛中洛外日記)より

”畿内の前期古墳の編年が「邪馬台国」畿内説を「保証」するかのように3世紀前半にまで古くされているのですが、その編年の根拠の一つとされているのが、弥生時代と古墳時代(布留式土器)の中間に位置するとされている庄内式土器です。この庄内式土器と纒向型前方後円墳が時代的に重なり、これを「邪馬台国」畿内説の根拠とされているわけです。そして、この纒向に全国の土器が集まっていることや、纒向の庄内式土器や大和の布留式土器が全国に伝播していることを根拠に、纒向(大和)が倭国の中心国「邪馬台国」と説明されています。
 こうした「邪馬台国」畿内説の「根拠」とされている庄内式土器や布留式土器について、服部さんは実際に考古学者への聞き取り調査や論文を精査され、次の驚くべき事実を報告されたのです。

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。

2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。

3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。

4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。

5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。

6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。

7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。

8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。

9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。

10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。

 ※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。”


ポイントとしては、

・中心地は、大阪府中河内地域である。

・畿内に、全国から土器が集められたとの事実はない。

・全国から出土する「庄内式土器」は、播磨のものである。

・布留甕の原型は、北陸地方で作られたものであり、そこから全国に広まった。

ということです。

こうした事実から、従来定説とされてきた”「庄内式土器」「布留式土器」の中心地は畿内であり、畿内から全国各地に移動していった。また全国各地の土器が、畿内に集められた。”、の根拠が、根本から覆されたということです。

この意味するところは、当時の畿内は、文明の先端地ではなかった、ということです。そして今までは、各地から出土した土器、特に「庄内式土器」「布留式土器」は、畿内のものより新しいとされてきましたが、逆に
畿内より古い可能性が出てきて、土器編年を抜本的に見直す必要が生じてきました。


注目は、”全国から出土した、従来大和のものとされてきた「庄内式土器」は、播磨のものであった”、という点と、”布留甕の原型は、北陸地方”という点です。

銅鐸のときにお話ししたとおり、銅鐸の流れも、兵庫県(淡路島含む)→大和、北陸地方→東海地方、という流れがありました。土器も、こうした動きと同じ流れのなかで行われた、と解釈すれば自然です。論文の詳細を見ていないので、断定的なことは言えませんが、納得感のある説と考えます。


一方こうした研究成果に対して、考古学の専門家は、どのような反応をしているのでしょうか?。みてみましょう。。「古墳の始まりを考える~新しい年代論と新たなパラダイム」(森岡秀人氏,芦屋市教育委員会文化財担当)からの抜粋です。


”この十年、年輪年代測定法によるデータが矢継ぎ早に発表され、また2003年5月には、AMS法炭素14年代測定法によって、弥生時代の開始年代が五百年遡るというデータが発表されました。これらのデータに、いまわたしたちは戸惑い、大きな衝撃を受けてます。”


科学的データが次々と発表され、今までの考古学会の常識が覆えされていることへの、いら立ちが伝わってきます。
その後、それらの詳細が書かれてますがそれは割愛します。注目したいのは、赤塚次郎氏の研究成果を引用して、

”全体的に庄内様式併行の土器が、北陸地方でも年輪年代では古く出てます。”

と書いていることです。これだけでは畿内も同様に古くなるのか、はっきりしませんが、少なくとも北陸地方の年代が、従来考えられていたより古いことだけは確かです。なお赤塚氏によると、東海地方の土器も従来より古くなる、としています。


そして最後に、”庄内様式の前半期の再検討が考古学に突きつけられた”、と締めくくってます。「まさしく」といった感じですね。


また、土器が語ること(3)で紹介しましたが、大阪府豊中市HPに

”庄内式の甕は、弥生時代後期の伝統的な甕のつくり方の上に、ケズリや底を丸くするといった新たなわざを取り入れてできました。そのわざとは、当時最も発達した土器文化をもった吉備地方(現在の岡山県)からもたらされたものでした。庄内式の甕は、当時としては最先端の土器だったのです。”

と説明されてます。

吉備(岡山県)と播磨(兵庫県) は、同じ瀬戸内文化圏と考えてよいでしょうから、古賀氏論文の、「大和の土器は播磨からもたらされた」という説を補強します。


ところで吉備といえば、有名な「楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)」があります。弥生時代後半(2世紀後半~3世紀前半)に造営された、双方中円形墳丘墓です。直径約43mという弥生墳丘墓として最大級ということもさることながら、のちに円筒埴輪になったとされる特殊器台・特殊壺が出土したことで知られてます。


その特殊器台・特殊壺については、箸墓古墳をはじめとした大和の古墳で出土してますが、吉備から伝わったことが知られてます。「吉備→大和」の流れであり、これも古賀氏論文を補強してますね。

<楯築墳丘墓特殊器台>
楯築 特殊器台
(岡山県古代吉備文化センターよりHP)

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土器が語ること(8) ~ 亀ヶ岡式土器が及ぼした影響

前回、突帯文土器の分布範囲が、福井から愛知県にかけてという話をしました。そしてその範囲の東は、亀ヶ岡式土器の分布エリアでした。今回は、その亀ヶ岡式土器について、みていきます。

亀ヶ岡式土器とは、前にも触れましたが、
”亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)は、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化(かめがおかしきぶんか)は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。”(Wikipediaより)です。

遮光式土偶が世界的にも有名ですね。

<遮光式土偶>

遮光器土偶 

(東京国立博物館蔵)

この亀ヶ岡式土器ですが、突帯文土器など、西日本の土器にも影響を及ぼしたことがわかっています。

その分布範囲の推移を、縄文晩期前葉~縄文晩期後葉(九州では弥生早期)~縄文晩期末(同弥生前期)で、みてみます。

<東日本系土器の西日本への影響>

東日本土器西への影響 


(「新潟県の弥生時代前期~中期」(渡邊裕之、新潟県教育庁文化行政課)より)

縄文晩期前葉には、淡路島~兵庫県あたりまででしたが、縄文晩期後葉(九州においては弥生早期)には、何と九州北部~九州中部にまで、範囲を広げました。それが、縄文晩期(九州では弥生前期)には、岡山県~四国東部まで後退してます。

縄文晩期は、九州では弥生時代早期ですから、九州北部で水田稲作が始まった頃です。ここで亀ヶ岡式土器の影響範囲が次第に東へ後退する時期は、ちょうど水田稲作が東へ伝播する時期と重なることは、注目です。

このように、亀ヶ岡式土器が、西日本の九州にまで影響を及ぼしていたことがわかりますが、さらに驚くべき発見がありました。

亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです(以前紹介しましたが、再掲します。)。

”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)



亀ヶ岡土器、沖縄1 


亀ヶ岡土器、沖縄2 

(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)

亀ヶ岡式土器は、まさに日本列島全体に影響を及ぼしたことになります。

ここでさらにもう一つ、興味深い研究成果を紹介します。

ひとつは、九州北部での最初の弥生土器の文様に、亀ヶ岡式土器の影響がある、というものです。これは、先に挙げた亀ヶ岡式土器の影響範囲の話と一致します。

”福岡県や佐賀県など北部九州での調査の結果、最初の弥生土器文様の大部分は、東北縄文の亀ヶ岡式文化の文様に起源することが明らかになりました。分析の結果、土器の粘土は地元産、文様は東北そのものであり、東北縄文人が北部九州に来て土器製作に関わったと考えました。また、東北の漆器も多数北部
九州に来ており、ものづくりでの東北縄文文化の影響は計りしれません。”(「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)




縄文土器から弥生土器
土器としては、突帯文土器のことかと思われますが、土器のみならず、以後隆盛を極める銅鐸の文様にまで影響を及ぼした、という指摘は、興味深いですね。考えてみれば、土器に影響を及ぼしたのであれば、銅鐸にも影響を及ぼしたとしても、何ら不思議はありませんね。

さらに、小林教授は、 
”中国北方の青銅器・鉄器文化の再検討の結果、戦国七雄の一つである燕国の鉄器などの痕跡を北部九州各地で確認したことです。これまでの定説よりも約250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧地域との間に直接的な交流があったことを明らかにしました。
この2つの発見により、弥生文化の成立は、想像を超える遠隔地とのダイナミックな交流によって達成されたものであることがわかりました。”

としてます。

弥生文化形成の流
(以上「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)

”弥生文化の形成に、中国北方地域からの影響もあった”、としてます。朝鮮半島経由でもたらされたのか、或は海上ルートなのかは別として、これも考えてみれば、充分にありうる話でしょう。

以上のとおり、弥生文化は、中国の江南や朝鮮半島のみならず、中国北方、そして日本の東北地域からの影響を受け、複合的に形成された、ということになります。何とも、壮大な話ですね。

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土器が語ること(7) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器の分布範囲が違う理由とは?


前回、縄文時代から弥生時代へと変わる過渡期における代表的な土器である、突帯文(とつたいもん)土器と遠賀川式(おんががわしき)土器を取り上げ、その違いについて、お話ししました。

突帯文土器は、在地の縄文系の人々のところへやってきた渡来系弥生人が教えて技術を取り入れ、縄文土器をベースに製作されるようになったと推定されます。

一方、遠賀川式土器は、その後、集団でやってきた渡来系弥生人が主体であり、環濠や青銅器副葬などの文化とともに、持ち込まれたと推定されます。そしてこの集団が、首長となり、地域一帯を支配したと考えられます。

このように、異なるバックボーンをもつ2つの土器ですが、実は興味深いデータがあります。

それは、2つの土器の日本列島での分布領域に、大きな違いがあることです。


まずは、突帯文土器の分布領域です。

突帯文土器分布図

(「水稲稲作と突帯文土器」(藤尾慎一郎)より) 

やや見づらいですが、図の通り、突帯文土器は、西日本のみに分布してます。九州北部から東へ伝播したものの、その東限は、福井県から愛知県のラインにかけてであり、そこで伝播が止まったことになります。ここで東日本は、縄文土器である亀ヶ岡式土器分布領域であることは注目です。つまり東日本では、突帯文土器が伝わってきたとしてもそれを受け入れず、従来の亀ヶ岡式土器を使い続けたということになります。


一方、遠賀川式土器です。

遠賀川式土器分布

西日本は「遠賀川式土器」主体で、この領域は、「突帯文土器」の分布とほぼ一致します。そして、中部・北陸・関東地方は「搬入遠賀川式土器+模倣土器」、東北地方は「遠賀川式模倣土器」のみです。

ここで、「遠賀川式模倣土器」とは、遠賀川式土器と類似した土器で、遠賀川式土器を模倣して作られたと考えられている土器で、一般的に「遠賀川系土器」と呼ばれます。


つまり、「遠賀川式土器」は、突帯文土器の分布領域の東限の福井県から愛知県のラインで止まりましたが、「遠賀川系土器」はさらに東へ北へと伝播しました。


最北の「遠賀川式土器」は、「砂沢遺跡」(図参照)から出土した土器です。

”青森県弘前市にある縄文~弥生時代の遺跡。縄文時代終末期の砂沢式土器の標式遺跡であり,古くからその存在は知られていた。 1987年から調査され,砂沢式土器に伴う水田の跡が確認された。それとともに弥生時代前期の土器である遠賀川系の土器が出土し,大きな話題となった。垂柳遺跡で確認された水田より古い時期にさかのぼることは明らかで,北九州に成立した弥生文化はきわめて速い速度で本州北端まで達したことが確認された。しかし稲作農耕はこの地に定着することなく終ったとされる。 ”

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


このように、遠賀川系土器と弥生時代水田遺跡の分布域が重なることが知られてます。このことから、水田耕作技術をもった集団が、遠賀川系土器を携えて、東へ北へと移動していったと、推測されます。

 

興味深いのは、その移動速度が速かったこと、そして東北地方の方が、関東地方より早く伝わったと考えられることです。


普通であれば、中部地方→関東地方→東北地方の順に伝播するはずですが、少なくとも現在までの発掘状況からすると、そうはなっていません。むしろ、最北端の青森県砂沢遺跡が、弥生時代前期という、きわめて早い時期に、水田耕作が始まっています。


こうしたことから、伝播は、陸地を伝わったのではなく、海上ルート、特に日本海から伝わったという見方が出ています。縄文時代から、日本海による交易ルートがあったと推定されてますから、不思議ではありませんね。

 水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(平成20年度 桜土手古墳展示館特別展「古の農ー古代の農具と秦野のムラ」より)

やや見にくいのですが、赤色のルートが、水田稲作の広がり、青色のルートが、「遠賀川式土器」の伝播を示しています。「遠賀川式土器」は、日本海を北上するルートと、内陸部を北上するルートがあったと推定されます。当時の人や物資の移動事情を考えれば、海上ルートが早かったのも、うなずけます。

では、なぜ「突帯文土器」は、伊勢湾付近で止まり、「遠賀川系土器」は、東北地方へと伝播したのでしょうか?。


その要因はいろいろあるでしょうが、やはり水田耕作技術との関連が強いと考えられます。つまり、”「突帯文土器」の時代の水田耕作技術は、小規模で灌漑技術などが進んでいなかったため、東北地方には受け入れられなかった。一方、「遠賀川系土器」の時代になり、渡来系弥生人の数も増え、水田耕作技術も進み、受け入れられるようになった。"

というストーリーです。

縄文時代の晩期は、気候が寒冷化したものの弥生早期から温暖化し始めたので、そのことも関係しているかもしれません。稲の品種改良により、耐寒性のある品種ができた可能性もあります。

いずれにしろ、水田耕作の東進・北進に連れ、渡来系弥生人も、関東・東北地方へ、相当数移住したことでしょう。


ここで注目すべき点があります。搬入された「遠賀川式土器」と、その「遠賀川系土器」を模倣して現地で製作された「遠賀川系土器」は、混在して出土することです。ということは、やってきた渡来系の人々と、現地の縄文人は、共存していたことになります。これは、九州北部においても同様で、「突帯文土器」と「遠賀川式土器」が、同じ遺跡から出土してます。

通常であれば、文化の異なる人々がやってきたのであれば、そこで大きな争いになるはずですが、そうではなく、お互い協力し合いながら、或は少なくとも棲み分けをしながら生活していたわけです。実際、遺跡や出土物をみても、大きな戦いの痕跡は、少ないとの報告もあります。

これは素晴らしいことではないでしょうか。近代においても、日本人は外来の文化をうまく取り入れて発展してきた、と言われていますが、そういった気質は、古代から引き継がれているのかもしれませんね。

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テーマ : 歴史
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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