日本人は、どこからやってきたのか?(21) ~ 「倭人」は東アジアの交易を担っていた!?
前回は、台湾周辺を含めた琉球諸島から中国周王朝へ、キイロダカラガイを「貝の道」で運んでいた、という話でした。この話を聞くと、あの中国史書「論衡(ろんこう)」に記載されている有名な文章を思い出します。
”周の時代、天下は太平で、倭人がやって来て暢草(ちょうそう)を献じた。”(異虚篇第一八)
”成王(せいおう)の時代、越常(えっしょう)は雉を献じて、倭人は暢草を献じた。”(恢国篇第五八)
「暢(鬯)草」ですが、「鬯」とは「にほいざけ」で、くろきびで作った酒、神に供える酒だ、と言います。そして
「鬯草」とは、その神酒にひたす、香りのいい草のことですが、具体的によくわかっていません。
そして問題は、この「倭人」です。この「倭人」が誰を指しているのか、もわかっていません。わかってませんが、「倭人」が周王朝(紀元前1046年頃~紀元前256年)に「暢草」を朝貢したのは確かです。
ちなみに「越常」とは、今のベトナム付近に住んでいた人々と考えられてます。その「越常」と「倭人」が、対比して描かれているわけです。このことから、周王朝は、「越常」と「倭人」を、同列とみなしていたことがわかります。
「暢草」を、日本列島に自生するウコンだとして、日本列島に住んでいる「倭人」が、周王朝に朝貢したのだ、とする説もあります。確かに、沖縄は日本におけるウコンの主要生産地です。もっとも、日本にウコンが伝わった経緯は、「平安時代に中国から琉球に伝わった」とされてるようです(「ウコンについて(食品成分有効性評価及び健康影響評価プロジェクト解説集)」(永田 純一 (国立健康・栄養研究所 食品機能研究部)より)。そうなると、「暢草」=「ウコン」説は成立しませんね。
一方、前に「論衡(ろんこう)」についてお話したときに、張莉氏(元同志社女子大学准教授)の論文から、
”暢(ちょう)は鬯艸(ちょうそう)のことであり、「鬯」と同意の「鬱」について、説文解字五下に
「一に曰く、 鬱鬯は百艸の華、遠方鬱人の貢ぎする所の芳艸なり。これを合醸 して、以って神を降ろす。 鬱は今の鬱林郡なり。」とある。
鬱林郡は今の広西省桂平県に当たり、「鬯」の産地が中国南方にあったことが知られ、「論衡」の 鬯艸 とつながる。「三国志」魏書倭人条の中には、 鬯草の記録はない。周王朝に鬯草を献上した倭人のことは著者陳寿も必ず知っていたはずで鬯草が日本産であるならば、1988文字の長文で書かれた倭人条内に特産物としてそのことが記されないはずがない。したがって「論衡」の倭人とは、中国南部に定住していた越族の中の倭人を指すと思われる。”(「「倭」「倭人」について」より)
という考え方を紹介しました。
詳細は、
「論衡(ろんこう)の中の倭人 ~ 倭人が周王朝に献じたものとは?」(No.51)
を参照ください。
確かに、「三国志魏志倭人伝」には、「ウコン」の記載はありません。それほど貴重なものであり、特産品として古代から中国王朝に献じていたものであるならば、当然記載されるべきものです。このように考えると、張莉氏の説のほうが、説得力があると思われます。つまり、「周王朝に朝貢したのは、中国南部に定住していた越族の中の倭人である。」ということです。
中国南部の越族の中の倭人が、「暢草」をどのルートで周王朝まで運んだのかはわかりません。しかしながら、鬱林郡が海の近くにあったことを考えると、海岸沿いに舟で運んだ可能性もあります。そのルートは、前回お話した「貝の道」とも重なってきます。となると彼らは、台湾・琉球諸島から、周王朝にキイロダカラガイを運んだ人々と同じ「海洋民族」であった可能性が大です。
前に、「倭人」について、弥生時代に日本列島にやってきた「渡来系弥生人」と定義しました。「縄文人」と区別するために便宜上、そのように定義したわけですが、もう少し広くとらえて、”「倭人」とは、中国南部から揚子江下流域、台湾、琉球諸島にかけて住んでいた「海洋民族」の総称である。”としてもいいかもしれません。
そしてもしかすると、「倭人」は、当時の日本列島にも九州をはじめとした地域に住んでいたかもしれません。何せ、当時の日本の人々は、海洋民族が多かったわけですから・・・。
となると、”「倭人」の住んでいた領域は、私たちの考えるよりはるかに広大なエリアであった”ということになります。その「倭人」が、中国をはじめとした東アジア圏の海洋交易を担っていた可能性があります。なんとも壮大な話になりますね。
<倭人の活動範囲イメージ>
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