古墳は語る(13)~前方後円墳の一番多い県はどこ?
前方後円墳の起源が、畿内ではなく、もっと西、具体的には、四国東部、播磨、九州北部といった地域の可能性が高いのではないか、という話をしました。
この点については議論百出のところなので、すぐに結論は出ません。そこでひとまず置いておいて、今回は前方後円墳の全国分布を、統計的にとらえてみましょう。
ここで皆さんに質問です。
「前方後円墳が、日本全体でどのくらいの数があるでしょうか?」
私などは、数百基ぐらいかな、などと思ってましたが、何とそれをはるかに上回り、約4700基もあるのです(5200基とも)。
随分とたくさんあるものですね。北海道・青森・秋田・沖縄を除く都府県にありますから、平均すると一都府県あたり、100基程度ある計算になります。
ではまた質問です。
「前方後円墳が一番多くある都府県は、どこでしょうか?」
まず思い浮かぶのは、奈良県・大阪府でしょう。前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴とされており、あの大仙陵(伝仁徳天皇陵)などの超大型古墳が大阪にあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳が、奈良県にあります。
ところがです、一番多い県は、何と意外にも東国の千葉県であり、733基もあります。そして2位が東国の群馬県(455基)、3位も東国の茨城(391基)と続きます。ようやく奈良県が4位(312基)で入りますが、5位が福岡県(267基)、6位が鳥取県(252基)と続き、大阪府が7位(202基)です。(「前方後円墳の理解-規模地域展開-」(白井久美子)より、以下も同様)
これまで抱いていたイメージと、ずいぶん異なりますね。これをどう理解すればいいのでしょうか。
”奈良県や大阪府は、面積が狭かったりなど、古墳の築造に適した土地が少ないからだ”、等の反論もあるでしょう。しかしながら、奈良県(3,671k㎡)・大阪府(1,905k㎡)を合計しても514基、合計面積(5,576㎡)では千葉(5,158k㎡)を上回りますが、千葉県の733基に遠く及びません。
”エリアからみても、千葉・群馬・茨城県で1,579基、全体の(34%)におよぶ。一方、近畿地方の上位3 府県の合計は642 基(14%)にとどまる。また、中国地方では旧伯耆国に際だって多く、山陰地方で確認された約400 基のほとんどが旧因幡・伯耆・出雲に所在するため、必然的に鳥取県に集中している。その数は、古墳時代を通じて別格の大規模古墳を築いた岡山県(旧備前・備中)を凌いでおり、ここにもまた別の原理が働いていると思われる。九州地方では、約560 基の半数近くが福岡県に在り、宮崎県と合わせて約8 割が2 県に集中している。半島に近い北部九州と瀬戸内海に通じる日向灘に偏在するといえる。”
ポイントとしては、
・東国の3県が多く、近畿3府県の約2.5倍にのぼる。
・中国地方では鳥取県に集中しており、その数は古墳大国ともいえる岡山県をしのいでいる。
・九州では半数が福岡県にあり、宮崎県と併せて8割を占める。
となります。
全国で4700基と言いながら、かなり偏っていることがみてとれます。
では別の切り口でみてみましょう。古墳の築造時期別に、どこの地域でどれだけ築造されたのかを表すグラフです。
このグラフでは、墳丘長60 m以上の大型前方後円墳の時期別分布を示しました。時期区分は前期・中期・後期に大別し、出現期の例は前期に、終末期の例は後期に含めてあります。
大型前方後円墳の年代観については、
・出現期新段階を3 世紀前葉、
・前期を3 世紀中葉~ 4 世紀中葉、
・中期を4 世紀後葉~ 5 世紀末葉、
・後期を6 世紀初頭~ 6 世紀末葉、
・終末期を7 世紀初頭~中葉
としてます。
また、ここで王権中枢域(中枢域と略称)としたのは奈良県・和歌山県・大阪府・京都府・滋賀県域と兵庫県の旧摂津・丹波、福井県の旧若狭を加えた地域です。その西側を西国、東側を東国としてます。
みての通り、中枢域は、前期・中期・後期と漸減してます。西国は、中期に増加しますが、後期に減少してます。
ところが、東国は、中期にやや減少しますが、後期には、235基と、約2倍に急増してます。
これをどのように理解すればよいのでしょうか?
普通に考えると、「前方後円墳」が大和王権の全国支配の象徴であるなら、大和王権が「前方後円墳」築造をやめれば、それから少し遅れて、各地方でも漸次やめていく、というのが自然です。実際、西国では、後期に中枢域と同じように、減少しています。
ところが、東国では、後期に急増してるわけです。
下図は、後期の大型前方後円墳(墳丘長60m以上)の分布です。
古代の行政区画別に、数量を記載してます。
”東国では、北武蔵などの新興の地も加えて内陸・海道の各地に大型前方後円墳が築造され、西国・中枢とは大きく異なる様相を呈してくる。さらに6 世紀後半以降に絞ると、関東地方(相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野〈上毛野〉・下野〈下毛野〉からなる古代の板東八国に相当する地域)に65 基が確認され、畿内(中枢域)11 基の6 倍に及んでいる(第3 図)。”
現代の奈良県にやや色の濃いところがみられるものの、群馬県・千葉県をはじめとした関東地方が圧倒してます。
さらに、”墳丘長100 m以上の大型前方後円墳は、関東地方に33 ~ 35 基あり、畿内17 基の2 倍に達している。しかも、それらは畿内の大王や有力豪族の墓に匹敵する規模をもち、上毛野・高崎市観音塚古墳・綿貫観音山古墳、上総・木更津市金鈴塚古墳では、王族や中央の有力豪族の墓に迫る豪華な副葬品が出土している。”
以上のとおり、関東地方の前方後円墳は、数量で中枢域のもを大きく上回り、大きさ・副葬品も、王族や中央の有力豪族の墓に匹敵するものとなってます。
こうした事実に対して、白井氏は、
”後期大型前方後円墳の造営に見える関東の特異性は、ヤマト王権のより北方への進出を背景とした政治的・軍事的基盤としての重要性によるところが大きい。また、関東各地の豪族がそれぞれ中央の有力豪族と結んで一定の領域を支配した構造を反映したものといえよう。この点で、関東の前方後円墳体系は後期に至って充実し、王権の思惑とは別により整備され強化されたといえよう。”と解釈してます。
簡単に言えば、「東北地方に勢力を張る「蝦夷」を支配する拠点としての象徴」ということでしょう。
しかしながら、「象徴」としての築造はわかりますが、そうであるなら中枢域を上回る巨大古墳の築造を、王権がやすやすと認めるものでしょうか?。そんなことを認めれば、王権の権威にも影響しかねません。
そもそも白井氏は、「大和王権はすでに関東以西を支配しており、その支配構造の象徴として前方後円墳がある」ことを前提としてますが、はたしてどうでしょう。頭を白紙にして純粋に統計データを分析すると、そのよう前提は成立してないのではないでしょうか?。
たとえば、図をご覧になれば一目瞭然ですが、新潟県には、一つも築造されてません。これはどういうことでしょうか?。
新潟県は、「蝦夷」支配の拠点でした。実際、647年に渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)が越国(新潟県新潟市付近)、648年に磐舟柵(いわふねのき/いわふねさく)が、新潟県村上市岩船周辺に築かれたことが、日本書記に記載されてます。「柵」とは、蝦夷支配のための軍事的防御施設のことです。
当時、そのような防御施設が築かれたということは、未だその地域は、蝦夷支配が確立していなかったことを表します。となると、なぜこの地域にも、関東と同じように前方後円墳が築造されなかったのしょうか?。
「いやいや、柵が築かれたのは7世紀であり、すでにその時期には、前方後円墳の築造は、終焉を迎えていたからだ」と言うかもしれません。
それならば、7世紀以前には、新潟県では蝦夷支配が確立されてなかったわけですから、その防御拠点は、富山・石川・岐阜県北部あたりとなります。そうでないと、大和まで一気に攻め込まれてしまいます。ところが、その3県もまた、前方後円墳はほとんど築造されていません。
このように、前方後円墳の分布は多様であり、畿内一元論的な立場では、解釈しきれません。
実際論文中でも
”王権中枢域であった近畿地方を中心とする放射状の動向だけでは説明しきれない古墳時代社会の側面が表れた”
と指摘してます。
特に東国については、それが顕著であり、
”王権の思惑とは別により整備され強化された”
とも指摘してます。
なお、東国には、前方後「円」墳伝播前に、前方後「方」墳が数多く築造されてます。このことから、大和王権の勢力が及ぶ前には前方後「方」墳だったが、支配下に入るにつれ、前方後「円」墳になった、との見解がされてます。つまり、
前方後「方」墳=大和王権支配前
前方後「円」墳=大和王権支配後
という図式です。ところが、前方後「方」墳は、大和をはじめとした畿内にも、後期になってさえも築造されているのです(河内、山城など)。この事実を、どのように解釈すればいいのでしょうか?
また論文中には、畿内中枢域には、”百舌鳥・古市・佐紀から交互に輩出される王陵の動向を見ると、王権が特定の一族に限られていたわけではなく、中枢域の複数の勢力が政権を担っていた状況がわかる。”とあります。
以上の客観的」データから見る限り「前方後円墳は、大和王権による全国支配の象徴である」と断定するには、決定的な論拠に乏しいことがわかります。
↓ シリーズ第二弾を電子書籍でも出版しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村