纏向遺跡は邪馬台国か?(14)~北部九州の「邪馬台国広域地域圏」
前回、奴国(通説)の領域が、福岡平野を中心としたエリアであること、その領域が私が邪馬台国と考える領域とほぼ同じであること、をお話しました。
ところで邪馬台国畿内説においては、纏向遺跡を中心として、奈良盆地のみならず、その周辺領域も包含した広い地域を、邪馬台国「広域地域圏」とする説を紹介しました。もっとも、纏向遺跡を中枢とする以上、無理があることもお話ししました。
では、九州北部においても、同様な邪馬台国「広域地域圏」というものはありうるのでしょうか?。それを検討していきます。
ここでいう広域地域圏は、邪馬台国はいくつかのクニの連合国家である、という考え方に基づいてます。連合国家というからには、当然親密な交流があることが前提です。となると、同じ文化圏ということになります。
九州北部で特徴的な文化としては、甕棺墓があります。紀元前から継続的に採用され、王墓クラスのものもあります。卑弥呼の時代である3世紀頃には少なくなりましたが、同一文化圏の指標としては、わかりやすいもです。
ではその甕棺墓は、どのように分布しているでしょうか?。
図のとおり甕棺墓は、福岡平野を中心として、西は佐賀県唐津まで、東は遠賀川中上流域まで、南は久留米、肥前まで広がってます。西はさらに、佐賀県武雄から長崎県まで、南は熊本県まで広がってます。
興味深いのは、遠賀川下流域から東の宗像地方などは、甕棺墓の文化圏ではなかったことです。福岡平野が安曇族とすれば、宗像族と阿雲族は、文化が異なったことになります。
そして図の赤線で囲った部分が、邪馬台国広域地域圏と考えられる領域です。この領域のなかに、福岡平野はもちろん、甘木・朝倉、久留米、瀬高、大宰府など、邪馬台国の候補地とされる地域が含まれているところに注目です。
たとえば図中の瀬高は、旧山門(やまと)郡に属しますが、江戸時代の儒学者新井白石が邪馬台国候補地に唱えたことで有名です。その後、白鳥庫吉、坂本太郎、井上光貞氏らも唱えました。
町にある権現塚古墳は、地元では「卑弥呼の墓」ともいわれてます。神護石の ある山は「女山(ぞやま)」と呼ばれてますが、女王卑弥呼をそれとなく暗示しているようにも思えます。
甘木・朝倉は、安本美典氏(元産業能率大学教授)が唱えてます。平塚・川添遺跡など、大規模遺跡があることで知られてます。
久留米市の御井町には、高良大社(高良玉垂宮)があります。筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座してます。高良山は、神籠石で知られてますが、景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれました。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台もなりました。
同じく久留米市の三瀦(みずま)町に大善寺玉垂宮があります。三瀦は、古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が、変化したものとされます。奇祭「鬼夜」で知られてます。
一説では倭国王とされる筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる「岩戸山古墳」は、久留米市の東南に接する八女市にあります。ということは、筑紫の君磐井の宮は、古墳の付近にあったと推察されます。
もちろん領域内には大宰府があります。倭国の都との説があることは、以前お話しました。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(1) ~ 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?
を参照ください。
以上のとおり、この領域内にいくつもの邪馬台国の候補地があります。これはどうしてかというと、時代とともに邪馬台国の都が移動したため、とも考えられます。
このように考えると、北部九州にいくつもの邪馬台国候補地がある理由もわかります。
そしてこれだけ広大な面積であれば、魏志倭人伝のいう「七万余戸」もありうるでしょうね。
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では、九州北部においても、同様な邪馬台国「広域地域圏」というものはありうるのでしょうか?。それを検討していきます。
ここでいう広域地域圏は、邪馬台国はいくつかのクニの連合国家である、という考え方に基づいてます。連合国家というからには、当然親密な交流があることが前提です。となると、同じ文化圏ということになります。
九州北部で特徴的な文化としては、甕棺墓があります。紀元前から継続的に採用され、王墓クラスのものもあります。卑弥呼の時代である3世紀頃には少なくなりましたが、同一文化圏の指標としては、わかりやすいもです。
ではその甕棺墓は、どのように分布しているでしょうか?。

図のとおり甕棺墓は、福岡平野を中心として、西は佐賀県唐津まで、東は遠賀川中上流域まで、南は久留米、肥前まで広がってます。西はさらに、佐賀県武雄から長崎県まで、南は熊本県まで広がってます。
興味深いのは、遠賀川下流域から東の宗像地方などは、甕棺墓の文化圏ではなかったことです。福岡平野が安曇族とすれば、宗像族と阿雲族は、文化が異なったことになります。
そして図の赤線で囲った部分が、邪馬台国広域地域圏と考えられる領域です。この領域のなかに、福岡平野はもちろん、甘木・朝倉、久留米、瀬高、大宰府など、邪馬台国の候補地とされる地域が含まれているところに注目です。
たとえば図中の瀬高は、旧山門(やまと)郡に属しますが、江戸時代の儒学者新井白石が邪馬台国候補地に唱えたことで有名です。その後、白鳥庫吉、坂本太郎、井上光貞氏らも唱えました。
町にある権現塚古墳は、地元では「卑弥呼の墓」ともいわれてます。神護石の ある山は「女山(ぞやま)」と呼ばれてますが、女王卑弥呼をそれとなく暗示しているようにも思えます。
甘木・朝倉は、安本美典氏(元産業能率大学教授)が唱えてます。平塚・川添遺跡など、大規模遺跡があることで知られてます。
久留米市の御井町には、高良大社(高良玉垂宮)があります。筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座してます。高良山は、神籠石で知られてますが、景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれました。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台もなりました。
同じく久留米市の三瀦(みずま)町に大善寺玉垂宮があります。三瀦は、古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が、変化したものとされます。奇祭「鬼夜」で知られてます。
一説では倭国王とされる筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる「岩戸山古墳」は、久留米市の東南に接する八女市にあります。ということは、筑紫の君磐井の宮は、古墳の付近にあったと推察されます。
もちろん領域内には大宰府があります。倭国の都との説があることは、以前お話しました。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(1) ~ 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?
を参照ください。
以上のとおり、この領域内にいくつもの邪馬台国の候補地があります。これはどうしてかというと、時代とともに邪馬台国の都が移動したため、とも考えられます。
このように考えると、北部九州にいくつもの邪馬台国候補地がある理由もわかります。
そしてこれだけ広大な面積であれば、魏志倭人伝のいう「七万余戸」もありうるでしょうね。
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