宗像と宇佐の女神(8)~「比咩」は卑弥呼?
前回、矢田氏の提起した
「比咩」神=卑弥呼
という説には賛同できない、という話をしました。
さらに論文を読んでみましょう。
”卑弥呼が渡来人かどうかは『魏志』からは読みとれないが、当時の日本に、魏帝と親書をやりとりしてその恩寵を受けることができるようなリテラシーを備えた人物が、渡来系以外にいたとは思われない。仮に対外交渉がもっぱら渡来系官人によるものだったとしても、中国の皇帝や官人にこれほどの厚遇を受けるような指導者は、古代の日中交流史を通じて見当たらない。後漢の皇帝から金印を受領した奴国王や王侯並みの威信財を下賜された伊都国王の後継者たちに武力によらず推戴されたリーダーは、文明社会で名の通った高貴な血統の人物としか考えられないのではないか。
後漢滅亡後の混乱時帯方郡を建てた公孫氏が景初 2 年(238)に滅び、郡が魏の直轄となるや否や、卑弥呼が郡を通じて魏帝に遣使したことは、卑弥呼が中国と朝鮮半島の情勢に精通していたことを示している。”
【解説】
三国志魏志倭人伝に登場する卑弥呼ですが、出自はよくわかっていません。
”この国は、もともと男を王としていた。一つの都に七、八十年も住みつづけたのち、倭国は内乱になり、何年もの間、お互いに攻撃し合ったりしていた。そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。
祭祀を司り、人々を治めることができた。もう歳は、三十代半ばで、夫や婿はいない。弟がいて、国の政治を補佐している。卑弥呼が王になってから、見たものはほとんどいない。召使いの女たち千人が、身の回りの世話をしている。男はひとりだけ、食べ物や飲み物を差し入れたり、命令を伝えたりするため、出入りを許されている。卑弥呼のいる宮殿や楼観には、厳重な城柵がつくってあり、警備兵が武器をもって護衛している。"(「歴史から消された邪馬台国の謎」(豊田有恒)の訳を一部修正)
このようなイメージでしょうか?
乱れた倭国を治めるのに適切な人物、それもシャーマンとしての呪力に秀でた者として、卑弥呼が選ばれたのでしょう。もとは当時の倭国三十余国のどこかの国にいたと思われますが、それ以上は何とも言えません。したがって、これだけをもって、「比咩」神が卑弥呼とは言い切れません。
矢田氏は、なぜ「比咩」神が卑弥呼なのかについて、さらに2つを挙げてます。
1.魏志倭人伝の記載からいって、邪馬台国は宇佐である。
2.宇佐神宮本殿にある亀山は古墳であり、卑弥呼の墓である。
まず1ですが、魏志倭人伝の記載に従えば、邪馬台国は博多湾岸にあること、はすでにお話してます。
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-81.html
また2ですが、亀山が古墳であるとしても、整合がとれません。たとえば石棺が目撃されたことがあるようですが、長持型石棺です。長持型石棺は、大山古墳(伝仁徳天皇陵)に代表されるように、古墳時代中期(5世紀頃)のものと推定されます。卑弥呼が死去した3世紀中頃とは、時代が大きく異なります。
矢田氏は、
宇佐神宮=邪馬台国
亀山=卑弥呼の墓
であることからしても、
比咩神=卑弥呼
は間違いない、と述べてるわけですが、そうではないとなれば、間違った推測ということになってしまいます。
さらに読んでいきましょう。
”多くの神社が単に「比咩」と書く神を祭るのは、その神を指すのにそれだけで十分であったからなのである。セオリツなどの修飾語を付ける必要はもともとなかった。のち「ヒメ」という女神・女性の尊称が生じ、これが一般的になったため、「比咩」もこれと混同されてヒメと発音されることが多くなったのであろう。そこで他の女神とはっきり区別する必要がある場合、「比咩」に修飾語を付けるようになったと思われる。
前報で述べたように、瀬織津比咩の「セオリ」は、古代朝鮮語の「ソフル(=ソウル)」を意味すると考えられる。「ツ」は現在の「の」に当たる助詞である。これに倣って、セオリツ以外の比咩神にも他のヒメ神と同様に固有名を付加するようになったと思われる。中でも卑弥呼との縁を大事にする伝統がある神社や、古くに本社から勧請された神社は、修飾語を附けず単に「比咩(大)神」と表記してきた。これがヒメと発音されるようになっても、そのままの表記で遺ったと考えられる。現在の春日大社などの「比売(大)神」や「姫(大)神」は、それが当時の発音通りに書かれたものと考えられる。”
【解説】
「比咩」神には、頭にさまざまな名前がついてます。セオリツヒメもその一つです。もともとは「比咩」だけだったものを、「ソウルの姫」という意味の「セオリツヒメ」となった、と推測してます。そしてもともとの「比咩」とは「卑弥呼」の「ヒミ」だった、と推測してるわけです。
”比咩(ヒミ)が卑弥呼(ヒミコ)のこととすると、これまで述べてきた瀬織津姫(セオリツ)と比咩神の謎がよく理解できる。卑弥呼が日本に渡来して倭国の王となったとすると、渡来人が共通して篤く崇敬するのは当然のことと思われる。そして、宇佐神宮が託宣などで中央の政治に大きな発言力を持っていた理由も、この文脈から理解できるのではないか。そのころ朝廷を支えていたのは渡来人または渡来系の官僚であり、なによりも権力の中枢にいた藤原氏(中臣氏)が、秦王国と呼ばれた渡来人の中心地豊前地方の出であったらしい。
比咩が、次第に比売・姫・媛などと混同されてヒメと発音されるようになると、その他のヒメ神との区別がつきにくくなる。このため本来比咩(ヒミ)という神であったことを明らかにするため、「ソウルの」という修飾語を附けたのがセオリツ(瀬織津比咩)であったと考えられる。”
このあとの論文では、”日本書紀には「ソウルの姫」という名を入れるわけにいかなかった、その際、元の名である「比咩」も消し去った”、と推測してます。そして”「比咩」の表記も、「姫」に統一されたのではないか”、としてます。
つまり、
ヒミ(比咩)
→ヒメ
→(セオリツ)ヒメ
→姫 に統一
と変化した、と推測してるわけです。
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「比咩」神=卑弥呼
という説には賛同できない、という話をしました。
さらに論文を読んでみましょう。
”卑弥呼が渡来人かどうかは『魏志』からは読みとれないが、当時の日本に、魏帝と親書をやりとりしてその恩寵を受けることができるようなリテラシーを備えた人物が、渡来系以外にいたとは思われない。仮に対外交渉がもっぱら渡来系官人によるものだったとしても、中国の皇帝や官人にこれほどの厚遇を受けるような指導者は、古代の日中交流史を通じて見当たらない。後漢の皇帝から金印を受領した奴国王や王侯並みの威信財を下賜された伊都国王の後継者たちに武力によらず推戴されたリーダーは、文明社会で名の通った高貴な血統の人物としか考えられないのではないか。
後漢滅亡後の混乱時帯方郡を建てた公孫氏が景初 2 年(238)に滅び、郡が魏の直轄となるや否や、卑弥呼が郡を通じて魏帝に遣使したことは、卑弥呼が中国と朝鮮半島の情勢に精通していたことを示している。”
【解説】
三国志魏志倭人伝に登場する卑弥呼ですが、出自はよくわかっていません。
”この国は、もともと男を王としていた。一つの都に七、八十年も住みつづけたのち、倭国は内乱になり、何年もの間、お互いに攻撃し合ったりしていた。そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。
祭祀を司り、人々を治めることができた。もう歳は、三十代半ばで、夫や婿はいない。弟がいて、国の政治を補佐している。卑弥呼が王になってから、見たものはほとんどいない。召使いの女たち千人が、身の回りの世話をしている。男はひとりだけ、食べ物や飲み物を差し入れたり、命令を伝えたりするため、出入りを許されている。卑弥呼のいる宮殿や楼観には、厳重な城柵がつくってあり、警備兵が武器をもって護衛している。"(「歴史から消された邪馬台国の謎」(豊田有恒)の訳を一部修正)
このようなイメージでしょうか?

乱れた倭国を治めるのに適切な人物、それもシャーマンとしての呪力に秀でた者として、卑弥呼が選ばれたのでしょう。もとは当時の倭国三十余国のどこかの国にいたと思われますが、それ以上は何とも言えません。したがって、これだけをもって、「比咩」神が卑弥呼とは言い切れません。
矢田氏は、なぜ「比咩」神が卑弥呼なのかについて、さらに2つを挙げてます。
1.魏志倭人伝の記載からいって、邪馬台国は宇佐である。
2.宇佐神宮本殿にある亀山は古墳であり、卑弥呼の墓である。
まず1ですが、魏志倭人伝の記載に従えば、邪馬台国は博多湾岸にあること、はすでにお話してます。
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また2ですが、亀山が古墳であるとしても、整合がとれません。たとえば石棺が目撃されたことがあるようですが、長持型石棺です。長持型石棺は、大山古墳(伝仁徳天皇陵)に代表されるように、古墳時代中期(5世紀頃)のものと推定されます。卑弥呼が死去した3世紀中頃とは、時代が大きく異なります。
矢田氏は、
宇佐神宮=邪馬台国
亀山=卑弥呼の墓
であることからしても、
比咩神=卑弥呼
は間違いない、と述べてるわけですが、そうではないとなれば、間違った推測ということになってしまいます。
さらに読んでいきましょう。
”多くの神社が単に「比咩」と書く神を祭るのは、その神を指すのにそれだけで十分であったからなのである。セオリツなどの修飾語を付ける必要はもともとなかった。のち「ヒメ」という女神・女性の尊称が生じ、これが一般的になったため、「比咩」もこれと混同されてヒメと発音されることが多くなったのであろう。そこで他の女神とはっきり区別する必要がある場合、「比咩」に修飾語を付けるようになったと思われる。
前報で述べたように、瀬織津比咩の「セオリ」は、古代朝鮮語の「ソフル(=ソウル)」を意味すると考えられる。「ツ」は現在の「の」に当たる助詞である。これに倣って、セオリツ以外の比咩神にも他のヒメ神と同様に固有名を付加するようになったと思われる。中でも卑弥呼との縁を大事にする伝統がある神社や、古くに本社から勧請された神社は、修飾語を附けず単に「比咩(大)神」と表記してきた。これがヒメと発音されるようになっても、そのままの表記で遺ったと考えられる。現在の春日大社などの「比売(大)神」や「姫(大)神」は、それが当時の発音通りに書かれたものと考えられる。”
【解説】
「比咩」神には、頭にさまざまな名前がついてます。セオリツヒメもその一つです。もともとは「比咩」だけだったものを、「ソウルの姫」という意味の「セオリツヒメ」となった、と推測してます。そしてもともとの「比咩」とは「卑弥呼」の「ヒミ」だった、と推測してるわけです。
”比咩(ヒミ)が卑弥呼(ヒミコ)のこととすると、これまで述べてきた瀬織津姫(セオリツ)と比咩神の謎がよく理解できる。卑弥呼が日本に渡来して倭国の王となったとすると、渡来人が共通して篤く崇敬するのは当然のことと思われる。そして、宇佐神宮が託宣などで中央の政治に大きな発言力を持っていた理由も、この文脈から理解できるのではないか。そのころ朝廷を支えていたのは渡来人または渡来系の官僚であり、なによりも権力の中枢にいた藤原氏(中臣氏)が、秦王国と呼ばれた渡来人の中心地豊前地方の出であったらしい。
比咩が、次第に比売・姫・媛などと混同されてヒメと発音されるようになると、その他のヒメ神との区別がつきにくくなる。このため本来比咩(ヒミ)という神であったことを明らかにするため、「ソウルの」という修飾語を附けたのがセオリツ(瀬織津比咩)であったと考えられる。”
このあとの論文では、”日本書紀には「ソウルの姫」という名を入れるわけにいかなかった、その際、元の名である「比咩」も消し去った”、と推測してます。そして”「比咩」の表記も、「姫」に統一されたのではないか”、としてます。
つまり、
ヒミ(比咩)
→ヒメ
→(セオリツ)ヒメ
→姫 に統一
と変化した、と推測してるわけです。
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