隋書倭国伝を読む その5 ~ 意外と華やかだった?当時の倭国の生活
続いて、風俗の話になります。
【現代訳】
倭(原文は俀(たい))国の服飾としては、男子は裙襦(くんじゅ、スカート状のものと肌着)を着ける。袖は筒袖である。履物は編んでつくった浅ぐつの形に似て、漆で固めてあり、足に紐でくくりつける。庶民は裸足が多い。金や銀を使って飾りをつけることは許されない。
「魏志倭人伝」に記された当時は、ひと幅の布を横にまとい、結んでつなぎ合わせ、縫うことはなかった。また、頭も冠を載せず、ただ髪をみずらにして両耳の上に垂らしていただけだった。
隋代になって、俀国王ははじめて冠の制度を定めた。冠は色織りの絹でつくり、金銀で綴った模様をつけて飾りとしている。
婦人は髪を後ろで束ね、また裙襦を着けている。スカートにはみな縁どりがある。竹を細く裂いて櫛とし、草を編んで敷物とし、皮を織り込んで敷物の表とし、文様のある毛皮で縁取りをする。
【解説】
服装についてです。男子は裙襦 を着ていた、とあります。つまりズボンではなく、女性のはくスカート状のものを、着用していたようです。前回掲載した聖徳太子絵図を見ると、そのようにも見えます。
金銀を使っての飾りは許されないとありますが、ということは、金銀が豊富で手に入りやすい状況だったといえます。そもそも手に入れることができなければ、わざわざ禁止する必要はなかったからです。
女性については、やや時代は下りますが、高松塚古墳壁画に描かれているような格好に近いと思われます。
高松塚古墳壁画
そして冠の制度を定め、金銀で飾っていた、とあります。 もちろん上層部の人びとだけでしょうが、華やかだった様子がうかがえます。当時の服飾というと、前回掲載した聖徳太子絵図を思い浮かべて、地味で質素なものを想像してしまいますが、それとは随分と隔たりがありますね。
金の冠は、福岡県の宗像大社沖津宮祭祀遺跡や宮地嶽古墳出土のほか、各地で出土してます。そのなかでも秀逸とされる宮地嶽古墳の金銅透彫冠(竜文の透かし彫り、6世紀末~7世紀はじめ)を、紹介します。
冠は、飛鳥地方からは、藤の木古墳から出土してますが、時代はさかのぼります(6世紀後半)。同時代のものとしては、宮地嶽古墳出土の宝冠に匹敵する冠は出土してません。もし 俀国が、飛鳥地方を中心としたものであるならば、その周辺に冠などがたくさん出土したり、どこかに保管されていてもよさそうなものですが、そうした話は聞いたことがありません。もちろん、これから出土する可能性はありますが・・・。
【現代訳】
武器としては、弓・矢・片刃の刀・矛・石弓・槍・斧がある。皮に漆を塗って鎧とし、骨で矢尻(やじり)をつくる。軍備はあるけれども、征服のための出兵はない。王は、臣下を朝廷に集めるときは、必ずきちんと武装を整えた兵隊を整列させ、国の音楽を演奏させる。戸数は十万ほどである。
風俗としては、殺人・強盗・姦淫は死刑、窃盗は、盗品と等価のもので償わせ、償う財産のないものは奴隷に落とす。その他の罪は、その軽重に応じて流刑にしたり、杖刑(じょうけい)に処したりする。
訴訟事件を訊問(じんもん)追求して、罪を承認しない者に対しては、木で膝を抑えつけたり、強弓の弦で項(うなじ)をごしごし引くなどの拷問をする。また争っている者たちに、熱湯の中の小石をつかみ上げさせ、「道理の通らない者は、たちまちやけどをして手がただれる」という。また、甕(かめ)の中の蛇を掴ませ、「不正なものは手をさされる」という。人々はとても無欲でがつがつせず、争いごとはまれで、盗賊も少ない。
【解説】
武器に続いて、刑罰の話です。現代の感覚からみると、ずいぶんと厳しく思えますが、それに関し何も言及されていない ことからみて、当時の東アジアのなかで、普通のことだったと思われます。
尋問の方法も、拷問であり、自白の強要につながりかねないやり方です。
ショッキングなのは、争いの解決方法です。双方の言い分を聞いたうえで、大岡越前風の裁きをすることを想像してましたが、最後は、言ってみれば占いのようなやり方に頼るとのことです。このようなやり方だったなら、いわれのない罪をかぶせられた人びとが、おおぜいいたのではないでしょうか?。
ただし、争いごとはまれで、盗賊も少なかったとのことで、少しほっとします。ようは、そもそも争いごとや、犯罪を疑われることに巻き込まれるなという思想であり、そのような思想が浸透していたからこそ、平和な社会だったとも解釈できます。
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【現代訳】
倭(原文は俀(たい))国の服飾としては、男子は裙襦(くんじゅ、スカート状のものと肌着)を着ける。袖は筒袖である。履物は編んでつくった浅ぐつの形に似て、漆で固めてあり、足に紐でくくりつける。庶民は裸足が多い。金や銀を使って飾りをつけることは許されない。
「魏志倭人伝」に記された当時は、ひと幅の布を横にまとい、結んでつなぎ合わせ、縫うことはなかった。また、頭も冠を載せず、ただ髪をみずらにして両耳の上に垂らしていただけだった。
隋代になって、俀国王ははじめて冠の制度を定めた。冠は色織りの絹でつくり、金銀で綴った模様をつけて飾りとしている。
婦人は髪を後ろで束ね、また裙襦を着けている。スカートにはみな縁どりがある。竹を細く裂いて櫛とし、草を編んで敷物とし、皮を織り込んで敷物の表とし、文様のある毛皮で縁取りをする。
【解説】
服装についてです。男子は裙襦 を着ていた、とあります。つまりズボンではなく、女性のはくスカート状のものを、着用していたようです。前回掲載した聖徳太子絵図を見ると、そのようにも見えます。
金銀を使っての飾りは許されないとありますが、ということは、金銀が豊富で手に入りやすい状況だったといえます。そもそも手に入れることができなければ、わざわざ禁止する必要はなかったからです。
女性については、やや時代は下りますが、高松塚古墳壁画に描かれているような格好に近いと思われます。
高松塚古墳壁画

そして冠の制度を定め、金銀で飾っていた、とあります。 もちろん上層部の人びとだけでしょうが、華やかだった様子がうかがえます。当時の服飾というと、前回掲載した聖徳太子絵図を思い浮かべて、地味で質素なものを想像してしまいますが、それとは随分と隔たりがありますね。
金の冠は、福岡県の宗像大社沖津宮祭祀遺跡や宮地嶽古墳出土のほか、各地で出土してます。そのなかでも秀逸とされる宮地嶽古墳の金銅透彫冠(竜文の透かし彫り、6世紀末~7世紀はじめ)を、紹介します。

冠は、飛鳥地方からは、藤の木古墳から出土してますが、時代はさかのぼります(6世紀後半)。同時代のものとしては、宮地嶽古墳出土の宝冠に匹敵する冠は出土してません。もし 俀国が、飛鳥地方を中心としたものであるならば、その周辺に冠などがたくさん出土したり、どこかに保管されていてもよさそうなものですが、そうした話は聞いたことがありません。もちろん、これから出土する可能性はありますが・・・。
【現代訳】
武器としては、弓・矢・片刃の刀・矛・石弓・槍・斧がある。皮に漆を塗って鎧とし、骨で矢尻(やじり)をつくる。軍備はあるけれども、征服のための出兵はない。王は、臣下を朝廷に集めるときは、必ずきちんと武装を整えた兵隊を整列させ、国の音楽を演奏させる。戸数は十万ほどである。
風俗としては、殺人・強盗・姦淫は死刑、窃盗は、盗品と等価のもので償わせ、償う財産のないものは奴隷に落とす。その他の罪は、その軽重に応じて流刑にしたり、杖刑(じょうけい)に処したりする。
訴訟事件を訊問(じんもん)追求して、罪を承認しない者に対しては、木で膝を抑えつけたり、強弓の弦で項(うなじ)をごしごし引くなどの拷問をする。また争っている者たちに、熱湯の中の小石をつかみ上げさせ、「道理の通らない者は、たちまちやけどをして手がただれる」という。また、甕(かめ)の中の蛇を掴ませ、「不正なものは手をさされる」という。人々はとても無欲でがつがつせず、争いごとはまれで、盗賊も少ない。
【解説】
武器に続いて、刑罰の話です。現代の感覚からみると、ずいぶんと厳しく思えますが、それに関し何も言及されていない ことからみて、当時の東アジアのなかで、普通のことだったと思われます。
尋問の方法も、拷問であり、自白の強要につながりかねないやり方です。
ショッキングなのは、争いの解決方法です。双方の言い分を聞いたうえで、大岡越前風の裁きをすることを想像してましたが、最後は、言ってみれば占いのようなやり方に頼るとのことです。このようなやり方だったなら、いわれのない罪をかぶせられた人びとが、おおぜいいたのではないでしょうか?。
ただし、争いごとはまれで、盗賊も少なかったとのことで、少しほっとします。ようは、そもそも争いごとや、犯罪を疑われることに巻き込まれるなという思想であり、そのような思想が浸透していたからこそ、平和な社会だったとも解釈できます。
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