中国、朝鮮資料と日本神話を融合させると、あら不思議・・・!?
ここまで、長きにわたり、中国史書や朝鮮史書などの資料を読んできました。その中には、さまざまなことが書かれており、一見すると、何の脈絡もないようにとらえられてしまう内容もありました。しかしながら、視点を広くかつ大きくもち、日本人の祖先のひとつとされる倭人の有史以来の流れを、時代を追って組み立てていくと、ひとつの壮大なストーリーが描けることがわかります。そのストーリーとは、
"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいた。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国した(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸した。倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成したが、その中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹(やまい)国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)であった。邪馬壹国は、その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立した。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王である。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていった。それに対して、一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代した。その中で、国名を日本国と改名した。"
というものです。ここまでは、前回の復習です。
さて、このブログでは、スタートから、何回かにわたって、神話についてお話ししました。そこでは、"神話とは単なる古代人の作り話ではなく、何らかの歴史的史実を、わかりやすく表現したものである可能性がある"として、具体例を挙げ、お話ししました。そして、古事記、日本書紀などの日本神話についても、概要を紹介しました。
それでは、上に挙げた中国、朝鮮史書と、日本神話とは、どのような関係にあるのでしょうか?。何の関係性もないのでしょうか?。考えてみましょう。
まず、古事記、日本書紀の、神話部分の概略を挙げます。”国産み”から”国譲り”そして、”神武東征”までです。
"イザナギ、イザナミの両神は、8つの島を産みます(国産み)。両神の産んだ多くの神々のうち、最後に産まれたのが、天照大神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)らです。イザナギは、天照大神に高天原を、須佐之男命に海原を治めさせようとしますが、乱暴狼藉を働いたため、須佐之男命は高天原を追放され、出雲へと降り立ちます。その地で結婚し、出雲を治める大国主命(おおくにぬしのみこと)を娘婿とします(古事記では6代孫となっている)。
高天原を治めていた天照大神たちは、「葦原中国(あしはらのなかつこく)を治めるのは、天照大神の子孫だ。」として葦原中国へ子、孫たちを遣わして迫り、大国主命は国を譲ります(国譲り)。そして、天照大神の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)は、筑紫の日向に降り立ちます(天孫降臨)。
神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)は、日向の高千穂から東へ旅立ち、宇佐、阿岐国、吉備国と移動して浪速国へ進みます。そこで長髄彦(ながすねひこ)と闘い破れるものの、紀国へ回り、そこから北上、大和へ入り、再び長髄彦と闘い、ついに勝利を収め、神武天皇として即位します。"
さて、いかがでしょうか?。上に挙げた中国、朝鮮史書とじっくり見比べてください。
何か気づきましたか?。
よくよく見較べると、大枠のストーリーとして、似ている点があります。
具体的には、
1.日本人の祖先は、どこからかやってきて九州北部(筑紫)に定住した。
2.のちの神武天皇は、筑紫から東へ向かい、畿内大和に居を構えた。
という点です。
1については、神話では、やってくる前の場所を、高天原としていますが、これを九州上陸前の場所、すなわち朝鮮半島南部から対馬、壱岐にかけて、としたらどうでしょう。話がぴったり合うのではないでしょうか?。
古田武彦氏は、「"高天原(たかあまはら)とは、抽象的な概念ではなく、"海人(あま)族"の住んでいる地域の中心拠点を指している。」との説を提唱しました。そして、「その海人族が、もともと日本にいた人びとに闘いを挑み、勝ったのが"国譲り"であり、九州北部に上陸したのが、"天孫降臨"である」とされました。(「盗まれた神話」)。
そんなのは、「単なるこじつけだ」との意見もありますが、確かにそのように解釈すると、すっきりします。
中国史書にも、倭国王の姓を「阿海(あま)」と記録されていることも、この説を、後押しします。
ちなみに、わたくしたちの使う「天国」も、もとは、「てんごく」ではなく、「あまぐに」だったことになります。
2については、新唐書日本伝に、
「国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」
とあります。
こちらについては、日本側の記録をもとに中国側が記載したともみられます。また都を筑紫(九州)から大和に遷したとするいわゆる東遷説になってます。いずれにしろ当時の中国では、「神武天皇の時代に"九州→大和への移動"があった」ということを認識していたということです。
以上のように考えると、うまく解釈できますので、冒頭のストーリーに補足します。
"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいました。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国しました(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸しました。上陸した倭人の支配者である天照大神たちは、元々住んでいた日本人たちの支配者大国主命に対して支配権の譲渡を迫り、大国主命は譲ります(「国譲り」神話)。そして天照大神は、孫の瓊瓊杵尊を、支配者として送ります(「天孫降臨」神話)。
倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成しました。一方、その一分派であった神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)は、東へ向かい、大和に居を構え、神武天皇として即位しました(「神武東征」神話)。
倭国の中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹(やまい)国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)でした。邪馬壹国は、その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立しました。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王でした。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていきました。それに対して、一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代しました。その中で、国名を日本国と改名しました。"
国譲り神話
神武東征神話
いかがでしょうか?。すんなりハラ落ちしたでしょうか?。
一方、、読者の皆さんの中には、
「ちょっと待ってくれよ。そんなのは都合のいい勝手な解釈に過ぎないのではないか?」
との考えをもたれた方もいると思います。それらの疑問に対しては、今後、少しずつお話していきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいた。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国した(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸した。倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成したが、その中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹(やまい)国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)であった。邪馬壹国は、その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立した。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王である。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていった。それに対して、一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代した。その中で、国名を日本国と改名した。"
というものです。ここまでは、前回の復習です。
さて、このブログでは、スタートから、何回かにわたって、神話についてお話ししました。そこでは、"神話とは単なる古代人の作り話ではなく、何らかの歴史的史実を、わかりやすく表現したものである可能性がある"として、具体例を挙げ、お話ししました。そして、古事記、日本書紀などの日本神話についても、概要を紹介しました。
それでは、上に挙げた中国、朝鮮史書と、日本神話とは、どのような関係にあるのでしょうか?。何の関係性もないのでしょうか?。考えてみましょう。
まず、古事記、日本書紀の、神話部分の概略を挙げます。”国産み”から”国譲り”そして、”神武東征”までです。
"イザナギ、イザナミの両神は、8つの島を産みます(国産み)。両神の産んだ多くの神々のうち、最後に産まれたのが、天照大神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのおのみこと)らです。イザナギは、天照大神に高天原を、須佐之男命に海原を治めさせようとしますが、乱暴狼藉を働いたため、須佐之男命は高天原を追放され、出雲へと降り立ちます。その地で結婚し、出雲を治める大国主命(おおくにぬしのみこと)を娘婿とします(古事記では6代孫となっている)。
高天原を治めていた天照大神たちは、「葦原中国(あしはらのなかつこく)を治めるのは、天照大神の子孫だ。」として葦原中国へ子、孫たちを遣わして迫り、大国主命は国を譲ります(国譲り)。そして、天照大神の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)は、筑紫の日向に降り立ちます(天孫降臨)。
神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)は、日向の高千穂から東へ旅立ち、宇佐、阿岐国、吉備国と移動して浪速国へ進みます。そこで長髄彦(ながすねひこ)と闘い破れるものの、紀国へ回り、そこから北上、大和へ入り、再び長髄彦と闘い、ついに勝利を収め、神武天皇として即位します。"
さて、いかがでしょうか?。上に挙げた中国、朝鮮史書とじっくり見比べてください。
何か気づきましたか?。
よくよく見較べると、大枠のストーリーとして、似ている点があります。
具体的には、
1.日本人の祖先は、どこからかやってきて九州北部(筑紫)に定住した。
2.のちの神武天皇は、筑紫から東へ向かい、畿内大和に居を構えた。
という点です。
1については、神話では、やってくる前の場所を、高天原としていますが、これを九州上陸前の場所、すなわち朝鮮半島南部から対馬、壱岐にかけて、としたらどうでしょう。話がぴったり合うのではないでしょうか?。
古田武彦氏は、「"高天原(たかあまはら)とは、抽象的な概念ではなく、"海人(あま)族"の住んでいる地域の中心拠点を指している。」との説を提唱しました。そして、「その海人族が、もともと日本にいた人びとに闘いを挑み、勝ったのが"国譲り"であり、九州北部に上陸したのが、"天孫降臨"である」とされました。(「盗まれた神話」)。
そんなのは、「単なるこじつけだ」との意見もありますが、確かにそのように解釈すると、すっきりします。
中国史書にも、倭国王の姓を「阿海(あま)」と記録されていることも、この説を、後押しします。
ちなみに、わたくしたちの使う「天国」も、もとは、「てんごく」ではなく、「あまぐに」だったことになります。
2については、新唐書日本伝に、
「国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」
とあります。
こちらについては、日本側の記録をもとに中国側が記載したともみられます。また都を筑紫(九州)から大和に遷したとするいわゆる東遷説になってます。いずれにしろ当時の中国では、「神武天皇の時代に"九州→大和への移動"があった」ということを認識していたということです。
以上のように考えると、うまく解釈できますので、冒頭のストーリーに補足します。
"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいました。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国しました(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸しました。上陸した倭人の支配者である天照大神たちは、元々住んでいた日本人たちの支配者大国主命に対して支配権の譲渡を迫り、大国主命は譲ります(「国譲り」神話)。そして天照大神は、孫の瓊瓊杵尊を、支配者として送ります(「天孫降臨」神話)。
倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成しました。一方、その一分派であった神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)は、東へ向かい、大和に居を構え、神武天皇として即位しました(「神武東征」神話)。
倭国の中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹(やまい)国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)でした。邪馬壹国は、その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立しました。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王でした。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていきました。それに対して、一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代しました。その中で、国名を日本国と改名しました。"
国譲り神話
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神武東征神話

いかがでしょうか?。すんなりハラ落ちしたでしょうか?。
一方、、読者の皆さんの中には、
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