邪馬台国までの道程をたどる(6) ~ 中国史書の行路表示のルールとは?
伊都国までやって来ました。ここまでは、論者の間で、さほどの違いはありません。問題はここからです。ここからをどう解釈するかで、邪馬台国の位置が、まったく異なったものとなります。魏志倭人伝解釈上のハイライトの一つと言ってもいいかもしれません。
【原文】
東南至奴国、百里、有二万余戸、東行至不彌国、百里、(中略)、有千余家、南至投馬国、水行二十日、(中略)、可五万余戸、南邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、(中略)、可七万余戸、
【読み下し文】
東南奴(ぬ)国に至ること、百里。(中略)、二万余戸有り。東行不弥(ふみ)国に至ること、百里。(中略)、千余家有り。南、投馬(つま)国に至ること、水行二十日。(中略)、五万余戸なる可し。南、邪馬壹(やまいち)国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。(中略)、七万戸なる可し。
【解説】
原文、読み下し文をそのまま読めば、
「帯方郡治→狗邪韓国→対海国→一大国→末蘆国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」
となります(下図A参照、連続式読法)。したがって、邪馬台国の位置が、上陸した九州北部からはるか遠い南の場所になり、沖縄説まで出てくるわけです。一方、畿内説の人は、「南は東の間違いだ」として、つじつまを合わせようとしています。
これらの説に対して、榎一雄氏は、伊都国までを、「直線行程」(主線行程)とし、以下は、「伊都国→奴国」「伊都国→不弥国」「伊都国→投馬国」「伊都国→邪馬台国」というように、伊都国を中心とした「傍線行程」として理解しました(下図B参照、放射線式読法)。榎氏が中国史書の文脈上の見地より疑いの一石を投じたことは、大きな意義がありますが、論争の結論は出ませんでした。
そこに衝撃的に登場したのが、古田武彦氏です。昭和46年に「邪馬台国はなかった」を発表して、一大センセーションを巻き起こしました。私も衝撃を受けた一人ですが、発想が奇想天外であり、内容が複雑多岐にわたるせいもあり、なかなか世間的には理解が進んでいません。また、論証方法が理工系出身の私からみて、正直わかりにくいところがあります。ここでは、古田氏の著作を基に、自分なりの理解をお話ししたいと思います。
まず、最初に押さえておくべきポイントがあります。それは、
”中国史書の行路表示法には、ルールがある”
ということです。そのルールを理解することなしに、勝手に一部分を取り出して解釈してはならない。ということです。
三国志魏志倭人伝を著した陳寿に先立ち、中国西域を記録した漢書を編纂した班固(AD32-AD92)も、当然のことながら、そのルールにのっとって書いています。では、そのルールとは、何でしょうか?。それは、
”実際にたどっていった「道行き」にそいつつ、その途において「傍線行路」を記載し、また終着点(首都)において、「四至」を記載する”
というものです。具体的には、下図のCを参照ください。
このルールによれば、先の<図A、連続式読法>は傍線行程、四至がないので、×です。また<図B、放射線式>も、主要行程であるはずの「帯方郡治~邪馬壹国」が傍線行程となっているのはおかしいし、さらに本来首都すなわち邪馬壹国を中心として四至を記載すべきところ伊都国を中心として四至を記載しており、×です。
では、どのように読み解くべきか、ですが、まず、主線行路、傍線行路を見極める必要があります。主線行路は「帯方郡治~邪馬台国」であることに異論がはありませんが、傍線行路が、はっきりしません。ここで、傍線行路かどうかを見極めるキーとなるのが、「至る」「到る」の表現です。
古田氏は、「三国志」すべてを調べた結果、全体のなかで、「至」は1096個、「到」は194個あり、その使用法を分類しました。それを今回の事例に即してまとめると、
(1)「動詞+至」の形(~して~に至る)が基本形である。
(2)主語・動詞が存在しない形について
a.文脈上、明らかであるから省略された場合
b.はじめから主語・動詞を欠いている「四至・傍線行路」の場合
の三つの場合があります。
ここで、帯方郡治から邪馬壹(台)国までに出てくる「至る」「到る」を動詞との関係で整理します。
①従・・・至倭
②循、行、歴、・・・到狗邪韓国
③度・・・至対海国
④渡・・・至一大国
⑤渡・・・至末蘆国
⑥行・・・到伊都国
⑦<ナシ>・・・至奴国
⑧行・・・至不弥国
⑨<ナシ>・・・至投馬国
⑩<ナシ>・・・至邪馬壹国
*②と⑥の「到」は、「邪馬台国はなかった」にはありませんが、「至」と「到」はほぼ同意義であり、わかりやすくするために付け加えました。同じく⑥もありませんが、付け加えました。
さて、以上のうち、①から⑥と⑧は、(1)の基本形「動詞+至」(~して~に至る)です。つまり実際に行った主線行程です。
問題となるのは、先行動詞のない、⑦、⑨、⑩です。このうち、⑩の「至邪馬壹国」(邪馬壹国に至る)ですが、①の「従郡至倭」(郡より倭に至るには)は、「倭の首都に至る」と同義であり、⑩の「至邪馬壹国」(邪馬壹国に至る)と同義です。したがって、⑩の「至」は①~⑨のすべての動詞を受けているとも言いえます。よって、この⑩は、(2)のa、すなわち先行動詞が省略された場合ということになります。
では、⑦の「至奴国」(奴国に至る)と、⑨の「至投馬国」(投馬国に至る)は、どうでしょうか?。両国とも倭国の首都ではありませんから、⑩とは異なり先行動詞はなく、(2)のb、すなわち「四至・傍線行路」の場合となります。
以上を整理して図示します。
”つまり、「帯方郡~邪馬壹国」の主線行程に対し、それぞれ伊都国、不弥国を分岐点として、傍線行程がのべられているのである。伊都国の場合は、東南に位置する奴国への道が陸路であるのに対し、不弥国の場合は、ここが港湾都市で、ここから「投馬国」までが「水行二十日」の距離であることがのべられている(この場合、「南」は直線方向だが、「水行」は迂回行路であって、さしつかえない)。
なぜ、「奴国」「投馬国」の二国は、都への主線行路に当たっていないのに、特記されるのであろうか?。その理由は、両国の人口を見れば直ちに判明する。奴国二万、投馬国五万、つまり都の「邪馬壹国」七万に次ぐ大国だからである(他はすべて千戸単位)。
ちょうど、後代の「道行き文」において、ひたすらみずからの目指す目的地に向かいながら、かたわら、右手や左手に分岐する風物を点綴しながらのべてゆく-それと同じ、実際行路の経験に立った、実地的・実際的表記法なのである”(以上「邪馬台国はなかった」より)
いかがでしょうか?。複雑で難解な話を、私なりに理解してお話しましたが、かなりわかりづらいかと思われます。それでも少なくとも、この行路図Dを、中国史書のルールに則った先の行路図Cと比べてもらうと、ルール通りになっていることがわかるかと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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【原文】
東南至奴国、百里、有二万余戸、東行至不彌国、百里、(中略)、有千余家、南至投馬国、水行二十日、(中略)、可五万余戸、南邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、(中略)、可七万余戸、
【読み下し文】
東南奴(ぬ)国に至ること、百里。(中略)、二万余戸有り。東行不弥(ふみ)国に至ること、百里。(中略)、千余家有り。南、投馬(つま)国に至ること、水行二十日。(中略)、五万余戸なる可し。南、邪馬壹(やまいち)国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。(中略)、七万戸なる可し。
【解説】
原文、読み下し文をそのまま読めば、
「帯方郡治→狗邪韓国→対海国→一大国→末蘆国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」
となります(下図A参照、連続式読法)。したがって、邪馬台国の位置が、上陸した九州北部からはるか遠い南の場所になり、沖縄説まで出てくるわけです。一方、畿内説の人は、「南は東の間違いだ」として、つじつまを合わせようとしています。
これらの説に対して、榎一雄氏は、伊都国までを、「直線行程」(主線行程)とし、以下は、「伊都国→奴国」「伊都国→不弥国」「伊都国→投馬国」「伊都国→邪馬台国」というように、伊都国を中心とした「傍線行程」として理解しました(下図B参照、放射線式読法)。榎氏が中国史書の文脈上の見地より疑いの一石を投じたことは、大きな意義がありますが、論争の結論は出ませんでした。

そこに衝撃的に登場したのが、古田武彦氏です。昭和46年に「邪馬台国はなかった」を発表して、一大センセーションを巻き起こしました。私も衝撃を受けた一人ですが、発想が奇想天外であり、内容が複雑多岐にわたるせいもあり、なかなか世間的には理解が進んでいません。また、論証方法が理工系出身の私からみて、正直わかりにくいところがあります。ここでは、古田氏の著作を基に、自分なりの理解をお話ししたいと思います。
まず、最初に押さえておくべきポイントがあります。それは、
”中国史書の行路表示法には、ルールがある”
ということです。そのルールを理解することなしに、勝手に一部分を取り出して解釈してはならない。ということです。
三国志魏志倭人伝を著した陳寿に先立ち、中国西域を記録した漢書を編纂した班固(AD32-AD92)も、当然のことながら、そのルールにのっとって書いています。では、そのルールとは、何でしょうか?。それは、
”実際にたどっていった「道行き」にそいつつ、その途において「傍線行路」を記載し、また終着点(首都)において、「四至」を記載する”
というものです。具体的には、下図のCを参照ください。

このルールによれば、先の<図A、連続式読法>は傍線行程、四至がないので、×です。また<図B、放射線式>も、主要行程であるはずの「帯方郡治~邪馬壹国」が傍線行程となっているのはおかしいし、さらに本来首都すなわち邪馬壹国を中心として四至を記載すべきところ伊都国を中心として四至を記載しており、×です。
では、どのように読み解くべきか、ですが、まず、主線行路、傍線行路を見極める必要があります。主線行路は「帯方郡治~邪馬台国」であることに異論がはありませんが、傍線行路が、はっきりしません。ここで、傍線行路かどうかを見極めるキーとなるのが、「至る」「到る」の表現です。
古田氏は、「三国志」すべてを調べた結果、全体のなかで、「至」は1096個、「到」は194個あり、その使用法を分類しました。それを今回の事例に即してまとめると、
(1)「動詞+至」の形(~して~に至る)が基本形である。
(2)主語・動詞が存在しない形について
a.文脈上、明らかであるから省略された場合
b.はじめから主語・動詞を欠いている「四至・傍線行路」の場合
の三つの場合があります。
ここで、帯方郡治から邪馬壹(台)国までに出てくる「至る」「到る」を動詞との関係で整理します。
①従・・・至倭
②循、行、歴、・・・到狗邪韓国
③度・・・至対海国
④渡・・・至一大国
⑤渡・・・至末蘆国
⑥行・・・到伊都国
⑦<ナシ>・・・至奴国
⑧行・・・至不弥国
⑨<ナシ>・・・至投馬国
⑩<ナシ>・・・至邪馬壹国
*②と⑥の「到」は、「邪馬台国はなかった」にはありませんが、「至」と「到」はほぼ同意義であり、わかりやすくするために付け加えました。同じく⑥もありませんが、付け加えました。
さて、以上のうち、①から⑥と⑧は、(1)の基本形「動詞+至」(~して~に至る)です。つまり実際に行った主線行程です。
問題となるのは、先行動詞のない、⑦、⑨、⑩です。このうち、⑩の「至邪馬壹国」(邪馬壹国に至る)ですが、①の「従郡至倭」(郡より倭に至るには)は、「倭の首都に至る」と同義であり、⑩の「至邪馬壹国」(邪馬壹国に至る)と同義です。したがって、⑩の「至」は①~⑨のすべての動詞を受けているとも言いえます。よって、この⑩は、(2)のa、すなわち先行動詞が省略された場合ということになります。
では、⑦の「至奴国」(奴国に至る)と、⑨の「至投馬国」(投馬国に至る)は、どうでしょうか?。両国とも倭国の首都ではありませんから、⑩とは異なり先行動詞はなく、(2)のb、すなわち「四至・傍線行路」の場合となります。
以上を整理して図示します。

”つまり、「帯方郡~邪馬壹国」の主線行程に対し、それぞれ伊都国、不弥国を分岐点として、傍線行程がのべられているのである。伊都国の場合は、東南に位置する奴国への道が陸路であるのに対し、不弥国の場合は、ここが港湾都市で、ここから「投馬国」までが「水行二十日」の距離であることがのべられている(この場合、「南」は直線方向だが、「水行」は迂回行路であって、さしつかえない)。
なぜ、「奴国」「投馬国」の二国は、都への主線行路に当たっていないのに、特記されるのであろうか?。その理由は、両国の人口を見れば直ちに判明する。奴国二万、投馬国五万、つまり都の「邪馬壹国」七万に次ぐ大国だからである(他はすべて千戸単位)。
ちょうど、後代の「道行き文」において、ひたすらみずからの目指す目的地に向かいながら、かたわら、右手や左手に分岐する風物を点綴しながらのべてゆく-それと同じ、実際行路の経験に立った、実地的・実際的表記法なのである”(以上「邪馬台国はなかった」より)
いかがでしょうか?。複雑で難解な話を、私なりに理解してお話しましたが、かなりわかりづらいかと思われます。それでも少なくとも、この行路図Dを、中国史書のルールに則った先の行路図Cと比べてもらうと、ルール通りになっていることがわかるかと思います。
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