一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか
ここまで、「二倍年歴」について、みてきました。”魏志倭人伝が描いた3世紀頃の日本では、「二倍年歴」であったこと、それよりさらに遡った古代では、「二倍年歴」さらには「多倍年歴」が使われていた可能性があること”を、お話しました。
ところで、皆さんのなかには、「何でそんなことにこだわるのか。古代の人が「二倍年歴」だろうが、たいした話ではないじゃないか?」と思われた方もいるかもしれません。
ところが、そうではないのです。
古代の日本の年代は、西暦〇〇年のように、絶対年代が定められているわけではなく、古事記、日本書記にある、天皇在位による年歴だけが、手がかりとなっています。たとえば、神武天皇の在位年数が75年、仁徳天皇が86年、などです。
古事記、日本書記の各記事が、西暦何年にあたるのかについては、実在の天皇であり、かつ記事の記載が史実とみなされる天皇、たとえば推古天皇の即位年である西暦593年を基準にして、そこから各天皇の在位年数をさかのぼって比定するわけです。
ですから「二倍年歴」とすると、そのさかのぼる年数が今までの半分になり、各時代の出来事が、今まで考えられていたよりずっと新しい時代の話になってしまいます。
たとえば、神武天皇の即位年です。一般的には紀元前660年とされ、それが皇紀元年とされています。そこから、今年2016年が、660年+2016年で、皇紀の2676年になります。それが、大幅に変わってきます。
まずは、古代天皇の寿命と在位年数を、みてみましょう。古事記、日本書紀の記事からまとめると、以下の通りです。
ご覧のとおり、寿命、在位年数とも、ずいぶんと長いですね。もう少し詳しく見ると、興味深いことがあります。
たとえば、2代の綏靖天皇は、古事記では45歳、日本書紀では84歳で亡くなってますが、ほぼ「二倍」です。
同様に、8代の孝元天皇、9代の開化天皇も、日本書紀が、古事記のほぼ「二倍」です。
逆に、21代の雄略天皇は、古事記では124歳、日本書紀では62歳と、古事記が「二倍」です。
26代の継体天皇は、古事記43歳、日本書紀82歳と、日本書紀が、ほぼ「二倍」です。
これは、後世に伝えられた年齢にも二通りあり、通常の「一倍年歴」で伝えられた記事と、「二倍年歴」で伝えられた記事が混在していたためと考えられます。逆の見方をすれば、「二倍年歴」が存在していた痕跡、とも言えます。
さて、ここから、神武天皇即位年を推測してみましょう。
実は、26代の継体天皇については即位の経緯が釈然としないこともあり、前の武烈天皇と系統的に断絶しているとの説が、多くの論者から指摘されています。このことから、古田氏は、”継体天皇以降、「二倍年歴」になったのではないか”と、推定してます。
継体天皇の即位年は、西暦の507年でほぼ間違いないとされているので、この年を基準にします。神武天皇即位から、継体天皇即位までの年数を単純にたしますと、
1144年
となります。
ここから、神武天皇即位年は、継体天皇即位年からさかのぼり、
507年-1144年=-637年=紀元前637年
となります。
皇紀によれば、神武天皇即位は紀元前660年ですから、23年ほどずれますが、天皇在位空白期間もあったでしょうから、ほぼほぼ合っていると言えます。
ところで、この紀元前660年即位の根拠は、あるのでしょうか?。これは、日本書紀神武天皇の条にある、
”辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)”
とあり、60年に一回巡ってくる「辛酉(かのととり)」の年を手掛かりに、定められたようです。
ただしこの皇紀ですが、もともと日本で古来から使われていたのかと思いがちですが、実はそうではありません。江戸時代ころに出てきた考え方をもとに、明治期になって初めて制定されました。
それまでの日本人は、長い歴史を、西暦のように絶対年代で表すことはなく、”〇〇天皇の△年”のように、表していました。それが、西洋文明がはいってきた影響もあったのでしょう、”われらが日本でも、それに匹敵する暦が必要だ”となり、皇紀が定められた、と言っていいかもしれません。
話が少し広がりましたが、そもそもの神武天皇即位年も、強力な根拠があったわけではないことだけは確かです。
話を、元に戻します。
次に、1144年すべてが「二倍年歴」だとして、「一倍年歴」に直すと、
1144÷2=572年
です。
すると、神武天皇即位年は、
507年-572年=-65年=紀元前65年
となります。
当然、「二倍年歴」が「一倍年歴」に変わった時点を変えれば、結果も変わります。19代の允恭天皇は寿命81歳、在位40年とかなり長いので、「二倍年歴」の可能性があります。次の安康天皇からは、寿命、在位年数ともに少なくなっているので、「一倍年歴」に変わった可能性があります。そこで、神武天皇から允恭天皇までを「二倍年歴」、次の安康天皇から武烈天皇までを「一倍年歴」として、計算してみます。
神武天皇~允恭天皇 1090年(二倍年歴)
安康天皇~武烈天皇 54年(一倍年歴)
1090年を「一倍年歴」に直すと
1090÷2=545年
これに、54年をたすと
545+54 = 599年
継体天皇即位年からさかのぼり、
507年- 599年=-92年=紀元前92年
となります。
以上、二つのケースをまとめると、神武天皇即位年は、
紀元前65年~紀元前92年
となります。
ただし、在位空白期間があったり、在位年をだぶってカウントしている場合もあるので、巾をみて、
紀元前50年~紀元前100年
すなわち、
紀元前1世紀後半
と推定されます。
ところで、皆さんのなかには、「古事記、日本書紀の記事だけから推定しても、説得力がない。もっと、はっきりした証拠はないのか?」との感想を持たれた方も、おられるかもしれません。そこで、もう少し掘り下げてみます。
一つ参考になりそうな資料は、「七支刀」です。「七支刀」とは、以前のブログ
「七支刀(しちしとう)銘文を読む ~ 物部氏ゆかりの石上神社秘宝が物語る古代日本の真実とは?」
(2016/2/11号)
でもお話しましたが、奈良県天理市にある石上神社に伝来している鉄剣です。その銘文の解釈については諸説あるものの、
"369年に百済王が倭王に七支刀を贈った"
との説が有力です。
一方、日本書紀神功皇后摂政52年条に、
”百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上された”
との記述があり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められています。
このことから
神功皇后摂政52年=西暦369年
が確定します。
神武天皇即位から、神功皇后の前の仲哀天皇までの在位期間846年になるので、これをたすと神武天皇即位から七支刀献上までは、「二倍年歴」では、
846年+52年=898年
となります。これを「一倍年歴」に直すと、
898年÷2=449 年
となります。
ここから、神武天皇即位年は、
369年-449 年=-80 年=紀元前80年
となります。
この結果が、先ほどの「紀元前50年~紀元前100年」との試算結果の範囲内であることが、確認できます。
これで、考古学から見た根拠ができました。
★神武天皇東征は、紀元前1世紀前半に行われたのか・・・?
下は、神武天皇絵図です。
(月岡芳年「大日本名将鑑」より)
後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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ところで、皆さんのなかには、「何でそんなことにこだわるのか。古代の人が「二倍年歴」だろうが、たいした話ではないじゃないか?」と思われた方もいるかもしれません。
ところが、そうではないのです。
古代の日本の年代は、西暦〇〇年のように、絶対年代が定められているわけではなく、古事記、日本書記にある、天皇在位による年歴だけが、手がかりとなっています。たとえば、神武天皇の在位年数が75年、仁徳天皇が86年、などです。
古事記、日本書記の各記事が、西暦何年にあたるのかについては、実在の天皇であり、かつ記事の記載が史実とみなされる天皇、たとえば推古天皇の即位年である西暦593年を基準にして、そこから各天皇の在位年数をさかのぼって比定するわけです。
ですから「二倍年歴」とすると、そのさかのぼる年数が今までの半分になり、各時代の出来事が、今まで考えられていたよりずっと新しい時代の話になってしまいます。
たとえば、神武天皇の即位年です。一般的には紀元前660年とされ、それが皇紀元年とされています。そこから、今年2016年が、660年+2016年で、皇紀の2676年になります。それが、大幅に変わってきます。
まずは、古代天皇の寿命と在位年数を、みてみましょう。古事記、日本書紀の記事からまとめると、以下の通りです。
古代天皇の寿命と在位年数 | |||||||
代 | 天皇名 | 寿命 | 在位年数 | ||||
古事記 | 日本書紀他 | 日本書紀 | |||||
1 | 神武 | 137 | 127 | 75 | |||
2 | 綏靖 | 45 | 84 | 30 | |||
3 | 安寧 | 49 | 57 | 39 | |||
4 | 懿徳 | 45 | 77 | 33 | |||
5 | 孝昭 | 93 | 113 | 82 | |||
6 | 孝安 | 123 | 137 | 100 | |||
7 | 孝霊 | 106 | 128 | 75 | |||
8 | 孝元 | 57 | 116 | 56 | |||
9 | 開化 | 63 | 111 | 60 | |||
10 | 崇神 | 168 | 120 | 68 | |||
11 | 垂仁 | 153 | 140 | 100 | |||
12 | 景行 | 137 | 106 | 60 | |||
13 | 成務 | 95 | 107 | 60 | |||
14 | 仲哀 | 52 | 52 | 8 | |||
神功皇后 | 100 | 100 | 69 | ||||
15 | 応神 | 130 | 110 | 40 | |||
16 | 仁徳 | 83 | 110 | 86 | |||
17 | 履中 | 64 | 70 | 5 | 神武~允恭 | ||
18 | 反正 | 60 | 59 | 4 | 在位年数計 | ||
19 | 允恭 | 78 | 81 | 40 | 1,090 | 年 | |
20 | 安康 | 56 | 56 | 3 | |||
21 | 雄略 | 124 | 62 | 24 | |||
22 | 清寧 | 41 | 4 | ||||
23 | 顕宗 | 38 | 48 | 3 | 安康~武烈 | ||
24 | 仁賢 | 50 | 11 | 在位年数計 | |||
25 | 武烈 | 18 | 9 | 54 | 年 | ||
計 | 1,144 | ||||||
26 | 継体 | 43 | 82 | 24 | 即位年 | 507 | 年 |
ご覧のとおり、寿命、在位年数とも、ずいぶんと長いですね。もう少し詳しく見ると、興味深いことがあります。
たとえば、2代の綏靖天皇は、古事記では45歳、日本書紀では84歳で亡くなってますが、ほぼ「二倍」です。
同様に、8代の孝元天皇、9代の開化天皇も、日本書紀が、古事記のほぼ「二倍」です。
逆に、21代の雄略天皇は、古事記では124歳、日本書紀では62歳と、古事記が「二倍」です。
26代の継体天皇は、古事記43歳、日本書紀82歳と、日本書紀が、ほぼ「二倍」です。
これは、後世に伝えられた年齢にも二通りあり、通常の「一倍年歴」で伝えられた記事と、「二倍年歴」で伝えられた記事が混在していたためと考えられます。逆の見方をすれば、「二倍年歴」が存在していた痕跡、とも言えます。
さて、ここから、神武天皇即位年を推測してみましょう。
実は、26代の継体天皇については即位の経緯が釈然としないこともあり、前の武烈天皇と系統的に断絶しているとの説が、多くの論者から指摘されています。このことから、古田氏は、”継体天皇以降、「二倍年歴」になったのではないか”と、推定してます。
継体天皇の即位年は、西暦の507年でほぼ間違いないとされているので、この年を基準にします。神武天皇即位から、継体天皇即位までの年数を単純にたしますと、
1144年
となります。
ここから、神武天皇即位年は、継体天皇即位年からさかのぼり、
507年-1144年=-637年=紀元前637年
となります。
皇紀によれば、神武天皇即位は紀元前660年ですから、23年ほどずれますが、天皇在位空白期間もあったでしょうから、ほぼほぼ合っていると言えます。
ところで、この紀元前660年即位の根拠は、あるのでしょうか?。これは、日本書紀神武天皇の条にある、
”辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)”
とあり、60年に一回巡ってくる「辛酉(かのととり)」の年を手掛かりに、定められたようです。
ただしこの皇紀ですが、もともと日本で古来から使われていたのかと思いがちですが、実はそうではありません。江戸時代ころに出てきた考え方をもとに、明治期になって初めて制定されました。
それまでの日本人は、長い歴史を、西暦のように絶対年代で表すことはなく、”〇〇天皇の△年”のように、表していました。それが、西洋文明がはいってきた影響もあったのでしょう、”われらが日本でも、それに匹敵する暦が必要だ”となり、皇紀が定められた、と言っていいかもしれません。
話が少し広がりましたが、そもそもの神武天皇即位年も、強力な根拠があったわけではないことだけは確かです。
話を、元に戻します。
次に、1144年すべてが「二倍年歴」だとして、「一倍年歴」に直すと、
1144÷2=572年
です。
すると、神武天皇即位年は、
507年-572年=-65年=紀元前65年
となります。
当然、「二倍年歴」が「一倍年歴」に変わった時点を変えれば、結果も変わります。19代の允恭天皇は寿命81歳、在位40年とかなり長いので、「二倍年歴」の可能性があります。次の安康天皇からは、寿命、在位年数ともに少なくなっているので、「一倍年歴」に変わった可能性があります。そこで、神武天皇から允恭天皇までを「二倍年歴」、次の安康天皇から武烈天皇までを「一倍年歴」として、計算してみます。
神武天皇~允恭天皇 1090年(二倍年歴)
安康天皇~武烈天皇 54年(一倍年歴)
1090年を「一倍年歴」に直すと
1090÷2=545年
これに、54年をたすと
545+54 = 599年
継体天皇即位年からさかのぼり、
507年- 599年=-92年=紀元前92年
となります。
以上、二つのケースをまとめると、神武天皇即位年は、
紀元前65年~紀元前92年
となります。
ただし、在位空白期間があったり、在位年をだぶってカウントしている場合もあるので、巾をみて、
紀元前50年~紀元前100年
すなわち、
紀元前1世紀後半
と推定されます。
ところで、皆さんのなかには、「古事記、日本書紀の記事だけから推定しても、説得力がない。もっと、はっきりした証拠はないのか?」との感想を持たれた方も、おられるかもしれません。そこで、もう少し掘り下げてみます。
一つ参考になりそうな資料は、「七支刀」です。「七支刀」とは、以前のブログ
「七支刀(しちしとう)銘文を読む ~ 物部氏ゆかりの石上神社秘宝が物語る古代日本の真実とは?」
(2016/2/11号)
でもお話しましたが、奈良県天理市にある石上神社に伝来している鉄剣です。その銘文の解釈については諸説あるものの、
"369年に百済王が倭王に七支刀を贈った"
との説が有力です。
一方、日本書紀神功皇后摂政52年条に、
”百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上された”
との記述があり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められています。
このことから
神功皇后摂政52年=西暦369年
が確定します。
神武天皇即位から、神功皇后の前の仲哀天皇までの在位期間846年になるので、これをたすと神武天皇即位から七支刀献上までは、「二倍年歴」では、
846年+52年=898年
となります。これを「一倍年歴」に直すと、
898年÷2=449 年
となります。
ここから、神武天皇即位年は、
369年-449 年=-80 年=紀元前80年
となります。
この結果が、先ほどの「紀元前50年~紀元前100年」との試算結果の範囲内であることが、確認できます。
これで、考古学から見た根拠ができました。
★神武天皇東征は、紀元前1世紀前半に行われたのか・・・?
下は、神武天皇絵図です。

(月岡芳年「大日本名将鑑」より)
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