FC2ブログ

新著の紹介~シリーズ第4弾の出版です!

この記事は当面この位置にあります。最新記事は2つ下にあります。

いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。

8月27日に、シリーズ第4弾「図とデータで解き明かす日本古代史の謎4 イネ・土器・銅鐸の東伝が語る真実」
を出版いたしました。

これまで、日本人がいつどこからやってきて倭国を形成し、やがて日本国となるまでを、神話、史書、考古学、その他科学的データを用いて、一つの壮大なストーリーとして描いてきました。

今回はそれをさらに究明しました。
テーマとして、イネ・土器・銅鐸を取り上げてます。

普段はこれらを別々にとらえてしまいがちですが、関連がないはずがありません。そしてこれまで描いてきたストーリーと重ね合わせると、古代日本の姿が浮かぶ上がってきます。是非お読みください。きっと真実の歴史が見えてきます!!

続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

纏向遺跡は邪馬台国か(18)~まとめ、纏向遺跡と神話の関係とは?

さてここまで17回にわたり、纏向遺跡についてみてきました。ここでまとめをします。

■纏向遺跡は3世紀始め頃に出現し、3世紀半ばには消滅するという、わずか100年余の期間に存続した遺跡である。

■周辺の弥生時代遺跡と同様の特徴をもつことなどから、異文化の人々がやってきて征服して造られたものではない。

■造った人々は、周辺に住んでいた人々だったと推定される。ただし、吉備や九州北部の影響を受けており、出自として注目される。

■三国志魏志倭人伝の描く「倭国」や「邪馬台国」の様子とは異なる部分が多い。項目で検討すると、12 項目中4項目(33%)しか合致していない。

■畿内全域を広域地域圏として「邪馬台国」を捉える考え方もあるが、銅鐸祭祀との関連などからみて、同一文化圏として成立するかは疑問である。

■一方、同時代の遺跡として最大級である九州北部の「比恵・那珂周辺遺跡群」は、魏志倭人伝からみると、100%合致している。

■九州北部の広域地域圏としては、福岡平野から筑紫平野にまでわたる地域が想定され、一つの文化圏として想定しうる。

■客観的データからみると、「纏向遺跡=邪馬台国」は成立し難い。「比恵・那珂周辺遺跡群」のほうが、可能性が高いといえる。

■纏向遺跡には、人が居住していた臭いが感じられないという特異性がある。造られた目的として、「三輪山信仰の施設ではないか」、あるいは「古墳造営キャンプではないか」という説がある。

■天皇の宮と仮定すると、第10代の崇神天皇のころに造られた可能性がある。ただしそれには、「二倍年暦」説を採用する必要がある。

以上です。

最後に、大胆な仮説をお話したいと思います。

古事記・日本書紀によれば、神武天皇が九州日向から大和にやってきて、大和地方を支配下に置くようになったわけです。

その話と、纏向遺跡とはどのような関係になるのでしょうか?。

神武天皇が大和にやってきたのは紀元前1世紀前半と推定してることは、すでにお話しました。
” 一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか” 

古事記・日本書紀によれば、すぐに大和一帯を支配したかの如き描写です。しかし実態は、そのようなものではなかったのではないか?、と考えられます。

史実としては、大和に入ったものの、実権を握るというにはほど遠く、地元有力豪族の娘と結婚することにより、姻戚関係を築きながら、次第に力を蓄えていったと考えます。実際、初代神武天皇から第4代の懿徳(いとく)天皇の皇后は、すべて地元有力者である事代主、磯城県主、物部系です。
そのようにして地盤を固めながら、最終的に大和地方を支配するようになったのであり、纏向遺跡はその拠点であった、と捉えられます。

ちなみに第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化(かいか)天皇までは、欠史八代といわれ、架空の人物とされてます。古事記・日本書紀の事績がないからですが、上の仮説であれば、いうなれば彼らは有力豪族の婿養子のようなもので、力もなかったから事績に残るようなこともできなかった、という解釈もできますね。

さてこの仮説は立証できるでしょうか。

まとめで記したように、纏向遺跡はもともと周辺に住んでいた人々が造ったわけです。
また吉備や九州との係わりが深いことがわかってます。

私の仮説からみれば、もともと周辺に住んでいた人々とは、神武天皇の末裔です。
神武天皇は吉備・九州北部と関わりが深いわけですから、これとも合致してます。

遺跡と上のストーリーが一致しているといえそうです。

もうひとつ、この説を補強する資料を紹介します。

下の図は、5世紀から7世紀にかけての、大和盆地の勢力分布図です。
この図をみると、大王(天皇)家は確かに纏向遺跡周辺に基盤をもってますね。一方、そのすぐ北に物部氏、南に大伴氏、北方離れた春日地域に和邇(わに)氏、西方に葛城氏が勢力をもっていたことを示しています。

大和盆地勢力図 
よくみると、奈良盆地の中央が空白地帯になっていますね。これは前にお話したように、この地帯は網状流路であり、川が幾筋にも流れていて氾濫が頻繁に起こるので、人が常住するのに適していない土地でした。そのため各氏族も支配が及んでいなかった、という解釈ができます。

さて、この図をみて、あれ?、と思いませんでしょうか?

他の氏族たとえば和邇氏や葛城市氏が広大な面積を支配しているのに比べて、天皇家の支配領域がずいぶんと狭くないでしょうか?。

しかもこの図は、纏向遺跡のあった3世紀頃より200年以上のちの勢力図です。纏向遺跡のあった時代は、その範囲はもっとずっと小さかったでしょう。とても大和盆地全体を支配していたとはいえません。

位置も大和盆地の南東部です。必ずしも条件のいい土地とは思えません。条件のよくない土地だったからこそ、それまであまり利用されてなかったわけです。

その後の宮である藤原宮や平城京は、遠く離れた場所です。裏を返せば、その時代すなわち7世紀後半まで、そのような場所に進出できなかったのだ、という見解も成り立ちます。

このことからも、大和王権は神武天皇がやってきた当初から大和盆地全体を支配してきたのではなく、はじめは小さな地域から何代もかけて次第に勢力を拡大してきた、ということが窺えます。

あくまで現時点での仮説であり、可能性はあると考えますが、皆さんはどのように考えられるでしょうか?。

さて長きにわたり纏向遺跡についてみてきましたが、以上でこの章は終わりにしたいと思います。

ここまでみてきたとおり、「纏向遺跡=邪馬台国」という説に対しては多くの疑問が出されているところです。したがって安易に結論づけることなく、まずは調査研究を粛々と進めることが大切でしょう。

纏向遺跡の発掘調査はまだ全体の数パーセントしか行われていせん。もしかしたらこれからあっと驚くものが出土する可能性もあります。今後の調査状況を見据えつつ、いずれまた取り上げたいと考えてます。

★無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから
http://www.mag2.com/m/0001682368.html

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

電子書籍でまた第一位になりました(「古代史」無料部門)

このたび第一弾の「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 神話の世界から邪馬台国へ」を、電子書籍出版しました。

日ごろの感謝をこめて、無料キャンペーン実施中です(12月30まで)

前著に引き続き、「日本史」無料部門で第一位になりました。
ありがとうございます。
日本史無料ランキング
是非、この機会に購読いただければ幸いです。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

電子書籍(無料)の「日本史」部門でTOPになりました!

先週、拙著シリーズ第二弾「その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を電子書籍出版しました。
日頃の感謝の気持ちをこめて、来週の20日(月)まで、無料キャンペーン中です。
おかげさまで、売上ランキング(無料)の「日本史」部門で、TOPになっております。総合でも昨日12位まで上がりました。期間限定ですので、是非みなさんも、ダウンロードしてみてください。もちろん、「無料」です!。
キンドルを使ったことがない方は、キンドル無料アプリをダウンロードすれば、PC,スマートフォンからも、読めますよ。

無料TOP3 

↓ 購入は、こちらです




テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

シリーズ第三弾を出版しました!!

<この記事は当面、この位置に掲載します。最新記事は2つ下にあります。>

9月27日に、「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史」シリーズ第三弾を出版しました。

前二著で、日本神話の「国譲り」「天孫降臨」から、邪馬台国の誕生、倭の五王、白村江の戦い、壬申の乱を経て、日本国が誕生するまでを、科学的視点をもって解き明かしてきました。

今回は時代をぐっと遡り、「日本人はいつ、どこからやってきたのか?」というテーマです。アフリカを出てから日本列島にたどり着き、繁栄を極めるまでを、描き出します。

今まで同様、科学的視点から切り込みますが、その結果と神話との間に、不思議な関係があることもわかりました。その関係とは?

これまでのブログの内容を編集し直し、ひとつの流れとしてわかりやすくまとめました。是非、購読賜りますようお願い申しあげます。

<目次>
第一章 中国最古級資料からみた倭人の源流
第二章 一年で二回の歳を数えたという「二倍年歴」説は本当か?
第三章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<基礎編>
第四章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<応用編>
第五章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<発展編>



詳しい内容はこちらです。


続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

最新記事
最新コメント
読者登録
メールで更新情報をお知らせしますので、こちらに登録ください。
メルマガ購読・解除
図とデータで解き明かす日本古代史の謎
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
おすすめの本
ブロとも一覧

アアト日曜画家

☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆

中国通史で辿る名言・故事探訪

幕末多摩・ひがしやまと

客船の旅

黒田裕樹の歴史講座

しばやんの日々

Paradise of the Wild bird…野鳥の楽園…
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR