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【新著です!】

 この記事は、しばらくの間この位置におきます。
最新記事は、二つ下にあります。

2年ぶりとなりましたが、シリーズ第七巻が出版の運びとなりました。

題名は
「図とデータで解き明かす 日本古代史の謎 7
古事記・日本書紀のなかの史実①
天地開闢からアマテラス誕生まで」

です。

『古事記・日本書紀』の神話とな何なのか?
・単なる創作か?
・あるいは何らかの史実を表したものなのか?
この問いに対して、科学的視点をもって説き明かしていきます。

まずはkindle本で出版します。紙の本は、数か月先になります。
購読いただければ幸いです。




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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (2) 国譲り② アメノホヒ

 
前回はタカムスヒの子、オモヒカネについての話で終わりました。訳文を再掲します。

タカムスヒアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、
思金(オモヒカネ)
「この葦原中国は、我が子の治めるべき国と委任して与えた国である。 この国に迅速に荒れすさぶ国津神たちが多くいるようだ。どの神を葦原中国に派遣すべきか。」問うた。オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になった。そこでアメノホヒを遣わしたが、オオクニヌシにへつらい従って、3年経っても復命しなかった。】


さて話し合いの結果、遣わす神をアメノホヒと決定しました。
アメノホヒとは、
”アマテラスとスサノオが誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。

葦原中国平定のために出雲のオオクニヌシの元に遣わされたが、オオクニヌシを説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達がオオクニヌシの子である事代主(コトシロヌシ)神や建御名方(タケミナカタ)神を平定し、地上の支配に成功すると、オオクニヌシに仕えるよう命令され、子の建比良鳥(タケヒラトリ)命出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。また、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建てたとも伝わる。”(Wikipedia「アメノホヒ」より)

せっかく遣わしたアメノホヒですが、なんとオオクニヌシに媚びへつらい従ってしまいます。始めに遣わしたオシホミミといい、アマテラスの子達はなんとも頼りないですね。しかしこれは逆に言えば、いかにオオクニヌシの勢力が強大で、とても太刀打ちできまいと思ったからでしょう。
その一方、異なる伝承もあります。

”任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神経津主(フツヌシ)神とともに地上を平定した英雄として讃えられている。
ただし『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として「火日」の意味として太陽神とする説がある。”(同上)

出雲国造神賀詞では、見事平定した英雄として称えられていおり、まったく逆な描かれ方です。
出雲国造神賀詞とは、
”出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。”(Wikipedia「出雲国造神賀詞より)

古事記編纂は712年なので、ほぼ同時期です。720年に編纂された日本書紀にも同様の記載があります。ではなぜ出雲国造神賀詞では、古事記・日本書紀と真逆の描かれ方がされているのでしょうか?

『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるから、との説明がされていますが、はたしてそうでしょうか?


”武光誠は、『神賀詞』に見られる国譲り神話のほうがその原形に近いとしている。この説によると、この神話は元々出雲氏の祖・天穂日命が大国主神を鎮めるという形で伝えられたが、朝廷による支配が強まると、天穂日命の手柄が軽んじられるようになってしまった。
一方、瀧音能之(2012年)は『神賀詞』では天穂日命が復命を怠った神とされていないと同時に、国譲りの交渉にも直接関わっていないことを指摘して、このことから『神賀詞』に見られる伝承は記紀の神話を意識して整えられたものであると主張している。”(Wikipedia「国譲り」より)

諸説ありますが、ヤマト王権の考えとは逆のストーリーを勝手に創作できるはずもありません。となると、やはりこちらが原型だった可能性が高いと推察されます。

もうひとつ、注目点があります。

”また、アメノホヒの後裔氏族として野見宿禰(ノミノスクネ)、その子孫として土師氏があり、土師氏から秋篠氏、菅原氏、大枝氏(後の大江氏)へ改姓したとのこと。菅原氏からは堂上家である高辻家、五条家、唐橋家、桑原家、清岡家、東坊城家が派生し明治期には内五家が子爵になったとのこと。大江氏からは中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門(匡衡の妻)らが選出されているとのこと。
また大江匡衡の曾孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。その曾孫として鎌倉期に頼朝を支えた大江広元がいるとされる。
(Wikipedia「アメノホヒ」より)

野見宿禰といえば、2つの有名な伝承が、日本書紀に記載されています。

”野見宿禰については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和国の当麻邑に力自慢の当麻蹶速(タイマノケハヤ)という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿禰を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿禰は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地(現・奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。そして、野見宿禰はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿禰の「野見」は、『出雲風土記』飯石(いいし)郡条に「能見」地名の記載があり、この地の出身とされている

野見宿禰に関する2つ目の伝承として、埴輪を発明したとするものがある。『日本書紀』垂仁32年7月6日条によれば、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛(ヒバスヒメ)命が亡くなった時、それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿禰が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを奏上し、これを非常に喜んだ天皇は、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿禰に与えたとある。”
(Wikipedia「土師氏」より)

以上の説話が史実に基づくものなのかはなんとも言えませんが、少なくとも土師氏の出自が出雲であることから生まれた話でしょう。さらに高天原が対馬・壱岐であるならば、後代に名家となる土師氏の淵源が北部九州となることにも注目です。

ちなみに卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳ですが、「土師の墓」が「土師墓」さらに「箸墓」になったとする説もあります。


誓約系譜 アメノホヒ



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第一巻が動画になりました!

 拙著第一巻の
図でわかりやすく説き明かす 日本古代史の謎
『神話の世界から邪馬台国へ』

の一部が動画になりました。

ご視聴いただければ幸いです。
youtu.be/d_YFbR-Uk_4






youtube制作会社より脚本の依頼を受けて作成したものです。

ノリは軽いですが、内容は濃いです。

コメントなどいただければうれしいです!

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古事記・日本書紀のなかの史実 (58) ~須賀と須佐

ヤマタノオロチを退治したスサノオですが、その後クシナダヒメとと暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き、そこで

「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁 」
(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を)


と詠みます。
そして、アシナヅチを呼んで「お前は私の宮の主となれ」と言い、名を稲田宮主須賀之八耳(イナダノミヤヌシスガノヤツミミ)神と名付けます。

まず須賀ですが、通説では、島根県雲南市大東町須賀にある須賀神社あたりとされています。

スサノオと妻のイナダヒメ、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(スガノユヤマヌシミナサロヒコヤシマノミコト。八島士奴美神)を主祭神とし、諏訪大社の分霊のタケミナカタを配祀する。

『古事記』によれば、スサノオはヤマタノオロチを退治した後、妻のイナダヒメとともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時にスサノオが詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」と称している。

天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰(スガネ)命であったものが、記紀神話の影響によりスサノオに結び付けられたとも考えられる。


背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、当社の奥宮となっている。この巨石は磐座であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものである。”(Wikipedia「須賀神社」より)

須賀神社






しかしながら、単純に須賀神社でいいのかという疑問があります。

まず注目は、
”本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰(スガネ)命であったものが、記紀神話の影響によりスサノオに結び付けられたとも考えられる。”
という指摘です。

神社の祭神は、必ずしも現在の祭神がもともとの祭神であるとは限りません。もともとの支配者の祭る神が、その支配者が征服された際に、征服者の神に代わることがしばしば起こります。須賀神社の場合も、その可能性があります。

門脇禎二氏(京都府立大学名誉教授)によれば、

”『古事記』『日本書紀』の出雲神話に出てくる地名や出雲関係の記事を拾っていきますと、どうしたことか、西方の斐伊川とその下流に関して出てくる話ばかりです。逆に申しますと、『記』『紀』には、出雲東部の意宇を中心とした歴史の動きはスポッと抜けているのです。”(「古代日本の「地域王国」と「ヤマト王権」上P14より)

”須佐の地域で語り継がれた話のなかに、須佐の首長の話もあったのだろうと思います。須佐之男命の須佐之男は、須佐の男という意味なのだろうと思います。

『記』『紀』に出てくる出雲の神話の原型は、すべて出雲西部の語部たちの間に語り伝えられてきたものが下敷きになっていたわけです。それが西部も統御した意宇の王たちに語り上げられ、さらに、意宇の王がヤマト朝廷の国造にされると、この出雲国造からヤマト朝廷に伝されたものだといえるようです。”(同上P41)

つまり出雲西部には、原イツモ国とでもいうべき巨大な勢力があり、国譲り神話など古事記・日本書紀に記載されている物語は、すべて彼らの神話だったというのです。

実際、出雲西部にある荒神谷遺跡からは、大量の銅剣358本の他、銅鐸、銅矛が発見されるなど、古代史をゆるがす画期となりました。

その後、東部のクニが勢力を拡大して原イズモ国を呑み込み、最終的にヤマト王権の支配下になったと述べています。

こうした動きのなかで、須賀神社とスサノオの結びつきが、あとから創られた可能性があります。

では、その西の勢力の中心は、どこにあったのでしょうか?

”スサノオの宮殿があったとされる地には須佐神社(島根県出雲市)がある。代々須佐神社の神職を務める稲田氏(後に須佐氏)はオオクニヌシの子孫であり、アシナヅチ・テナヅチから数えて2010年現在で78代目であるとしている。”(Wikipedia「アシナズチ・テナヅチ」より)

『出雲国風土記』に、スサノオが各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来スサノオの本宮とされた。社家の須佐氏は、オオクニヌシの子の賀夜奈流美命を祖とすると伝える。(Wikipedia「須佐神社」より)

古来、スサノオの本宮とされていること、社家の稲田氏(のち須佐氏)が古事記の
稲田宮主須賀之八耳と重なっていること、またオクニヌシの子孫と伝承されていることなど考えると、須佐神社こそ、スサノオの宮殿にふさわしいともいえます。

なお須佐神社の摂社に須賀神社があります。由緒は不明ですが、何らか関係している可能性がありますね。

須佐神社
須賀・須佐神社

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古事記・日本書紀のなかの史実 (45) ~ 誓約(古事記)

前回は、日本書紀の描く誓約神話を読み解きました。今回は、古事記の描く誓約神話をみてみましょう。
まず話の概要です。

”アマテラスがスサノオに対して、
「本当に心が清らかなことを、どうしたら知ることができるのか?」
という問いに対して、スサノオが次のように答えます。
「それでは二人が、それぞれ、神に誓いを立ててうけいをすることにしましょう。二人がそれぞれ子供を生んで、その子供によって、私の子供が清らかであるかどうか、神意を判断することにしたらどうでしょうか。」
そして五男神三女神が生まれます。そのプロセスは日本書紀と同じで、アマテラスがスサノオの十握剣を貰い受け三女神生まれ、スサノオがアマテラスの玉飾りを貰い受け五男神が生まれます。

アマテラスが次のように言います。
「あとから生まれた五人の男の子たちは、私の持物によって生まれた。したがってこの五人は、しぜん、私の子ということになる。先に生まれた三人の女の子は、お前の持物によって生まれた。したがってこの三人は、しぜん、おまえの子ということになる。

これに対してスサノオは、
「それごらんなさい。私の心は清らかでなんの異心も隠していなかった。それゆえ、私の生んだ子供は心のやさしい女の子だったじゃありませんか。うけいをしてみたらこういう結果になったのだから、この勝負は私の勝ちですね。
と勝ちを宣言します。”
(「古事記」(福永武彦訳)参照)

誓約

では論文をみてみましょう。

”一方『古事記』に記される「ウケイ」神話は、神代紀の各書とはかなり異なる点がある。特に事前の清心条件提示がない点が不審である。これでは「ウケイ」を行う意義がはっきりしない。そして事後に「手弱女(たおやめ)を得た」と喜び、勝ちを宣言する。
表1に示すように、神代紀の各書では全て事前にスサノオが男子を生めば勝ちという提案がなされていて、その結果その長子の名に正哉吾勝勝速日という長い尊称が附く。これは第六段の第三の一書に明記されているように、男子を産んだスサノオの勝ち名乗りである。『古事記』ではスサノオが女神を得たにもかかわらず男神にこの勝ち名乗りの尊称を附けたのは、全く意味をなさない。

【解説】
誓約の勝敗についてです。日本書紀には、「どうなったら勝ちか」が事前に決められてます。具体的には、スサノオが男子を生めば勝ち、という取り決めです。結果としてスサノオが男子を生んでますから、勝敗についてはスサノオの勝ちということですっきりします。

一方、古事記にはその条件が事前に明確に決められてません。つまり勝敗がはっきりとは決められないはずなのですが、なぜか事後に「手弱女(たおやめ)」を得たとして、一方的に勝利を宣言します。
ここで「手弱女」とは、”たおやかな女性。なよなよと優美な女性。”(デジタル大辞泉)。ここでは三女神のことです。その三女神をスサノオが得たことで勝利宣言したわけです。

整理すると、日本書紀では、事前の取り決めとしては、「スサノオが男の子を生んだら勝ち」でした。
日本書紀で生んだ子供は
・アマテラス 三女神
・スサノオ  五男神
でした。
日本書紀の場合、事前の取りきめが「スサノオが男の子を生んだらスサノオの勝ち」でしたから、スサノオが勝ちとなりました。これは明確ですね。

そして、ここがややこしいところですが、子の所属としては
・アマテラス 五男神
・スサノオ  三女神

である、とされてます。

一方古事記の場合、スサノオの生んだのは男神のようにとれますが、なぜかスサノオは、
「私の得た子は、女の子だった。だから私の勝ちだ。」
と一方的に勝利を宣言したのです。

この表記は原文では、
「我心清明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」
です。
「我所生子、得手弱女」の訳が微妙ですが、訳文どおり
「私が生んだ子供は心の優しい女の子だった」
とするのが自然でしょう。

つまりここではなぜか、自分(スサノオ)が生んだのは女の子だ、と言ってます。このあたりがすっきりしませんね。

ところで事前の取り決めは何だったでしょうか。
「二人がそれぞれ子供を生んで、その子供によって、私の子供が清らかであるかどうか」
でした。

スサノオの理屈としては、
私の生んだ子=女の子
女の子=清い子
→だから私の生んだ子供は清い子
→私の勝ち

というものになります。

後出しジャンケンのようなずいぶん勝手な理屈のようにも聞こえますが、これに対してアマテラスが何も文句を言っていないところをみると、古代においてはこのような論理が通用したともいえます。

またこのように考えると、「事前の清心条件提示があった」といえなくもありません。

ただいずれにしても、矢田氏のいうとおり、
”長子の天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に、私が勝ったという意味である正哉吾勝勝速日(まさかあかつかちはやひ)という尊称をつけたのは、意味不明である。”
ということは確かです。

このあたりについて、谷口氏は面白い解釈をしています。

”もともとは日本書紀が本来的であり、それを古事記が改変した。”
というのです。

そして
”前提条件にしないで、スサノオの勝利宣言という形にしたのは、表立って改変することが憚れたためかもしれません。ただそのおかげでアマテラスは男の子の親ということになって、その後の皇統の始祖につきますし、スサノオが暴れる展開にもつなげることができたということなのでしょう。”(「古事記の謎をひもとく」(谷口雅博),P38より)
と述べてます。

ようは、日本書紀の形だと、皇統につながる男の子(アマノオシホノミコト)を生んだのはスサノオですが、それではアマテラスが皇統の始祖とならない。そこで古事記では改変して、スサノオが生んだのは女の子ということにした、という解釈です。

ずいぶんと凝りに凝った解釈のようにも聞こえますが、なんともいえないところです。

いずれにしろ、このように誓約神話に関しては、古事記・日本書紀で話がかなり異なったものになってます。これはおそらく元となった話の成立年代がかなり古く、その後さまざまに伝承されるなかで次第に変遷していった、ということでしょう。

逆にいえば、巷でよくいわれる「古事記・日本書紀は、編纂時(8世紀)の官吏が創作した話だ。」という説も成立しがたい、ということになります。なぜなら創作であれば、ここまで多くのバージョンの物語を創作する必要もなかったわけですから・・・。

それにしても矢田氏は、古事記・日本書紀の複雑な話を、表1のようにきれいに整理したうえで、たいへん鋭い分析をしてます。いかにも理工系の学者らしいですね。

誓約諸伝比較↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!



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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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