旧唐書倭国伝を読む ~ 倭国はかつての倭奴国(いどこく)だった!
今回から、隋(581-618年)の次の王朝である唐(618-907年)について書かれた史書「唐書」に入ります。
唐書は、後晋の945年の成立です。
唐書といっても、面白いことに、旧唐書とそれから百年ほどたって書かれた新唐書の二つがあります。
二つに分かれた理由は、旧唐書が、初唐にかたよって書かれており、晩唐は薄いなど、多くの問題がありました。そのため北宋時代に新唐書が編纂されることになったというわけです。
そして注目すべきポイントは、旧唐書のなかに倭国伝と、日本国伝の二つが、分かれて編纂されていることです。
つまり別々の国として扱われているということです。
今回は、まず倭国伝です。
【現代訳】
倭国は、古の倭奴国である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の大きさは、東端から西端までは歩いて五ヶ月の行程、南北は三か月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
この国の集落には城郭はなく、木で柵をこしらえ、草で屋根を葺いている。その周辺の五十国余りは、すべて倭国に所属している。倭国王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国をとりしまらせている。皆はこの一大率を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。
【解説】
冒頭にいきなり衝撃的な記載が出てきます。
「倭国は、かつての倭奴国なり。」
と。
倭奴国とは、例の九州博多湾岸にある志賀島から出土した金印に刻印されている「漢委奴国王」の委奴国のことです。
委奴国王をどのように読むかは意見が分かれます。「わのなのこくおう」と読むのが一般的です。すなわち「奴国」=「なこく」という小国とする意見です。
本ブログでは、「かんのいどこくおう」と読むべきであるとお話ししました。詳細は、
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは? (2015/6/12号)”
を参照ください。
どのように読むにしろ、委奴国が博多湾岸を中心とした位置にあることは、邪馬台国畿内論者も異論ないところです。
倭国はもともと委奴国だったということは、つまり倭国はもともと博多湾岸を中心とした位置にあったということになります。
となると、邪馬台国がもともと畿内にあったとする説は、成立しません。邪馬台国畿内説を成立するさせるために残る選択肢は、「もともと博多湾岸にあったが、いつの時点かに畿内に移動した。」とする東遷説です。
もっとも、「だから中国史書は信用できないのだ。」といういつもながらの解釈をする人もいるでしょうが・・・。
また、一大率(いちだいそつ)という言葉が出てきます。今までのブログを読まれた方には、記憶のある言葉でしょう。そうです、魏志倭人伝に全く同じ文章がありました。そして、この一大率は、伊都国に置いたとありました。詳細は、
”魏志倭人伝を読む その5 ~ 倭の政治 いよいよ卑弥呼登場! 謎の国々とは?(2015/5/11号)
を参照ください。
伊都国の位置も、博多湾岸近辺であることは異論がありません。
となると、この記載からも、倭国の都が博多湾岸近辺にあったと考えるのが自然でしょう。なぜなら畿内の王朝が諸国を監視させる組織の中心を、ここまで遠く離れた地に置くことは、考えられないからです。
倭国全体の位置関係を図示しますと、それがはっきりします。
倭国領域図

【現代訳】
倭の地には女性が多く、男性は少ない。かなりの文字が通用している。人々の習俗として仏教を信仰している。だれもが裸足で歩き、ひと幅の布で身体の前後を蔽っている。身分の高い人は錦織のかぶりものをかぶり、一般人はみなさいづちまげを結い、冠や帯は用いない。婦人は無地のスカートをはき、丈の長い襦袢を着、髪はうしろで束ね、長さ八寸の銀製の花を腰の左右に二、三本ずつ下げ、それによって身分の高下の等級を表している。衣服の制(つくり)はかなり新羅のそれに似ている。
唐の太宗(たいそう)の貞観(じょうがん)五年(631年)、倭国王は使者を遣わして、その土地の産物を太宗に献上させた。太宗は倭国からの道のりが長いことに同情し、所管の役人に命じて、毎年貢物を届けなくてもすむように取りはからせ、さらに新州の刺史(しし)高表仁(こうひょうじん)に使者のしるしを持たせて倭国に派遣し、いたわりなつけさせようとした。ところが表仁には、遠国を手なずける外交的手腕がなく、儀礼のいき違いから倭国の王子といさかいを起こし、国書を読み上げることもなく帰国してしまった。
貞観二十二年(648年)になって、倭国王はさらに新羅の来た使者にことづけて上表文を届け、太宗の機嫌をうかがいあいさつをしにきた。
【解説】
風俗については、今までの史書をほぼ踏襲しています。
631年に、遣唐使が派遣された、とあります。それに対して、高表仁を倭国に遣わしますが、王子とケンカしてしまいます。
そして648年の新羅の使者を通じた上表文をもって倭国の話は終わります。
それ以後、中国史書に倭国の話は出てきません。では、その後、倭国はどうなったのでしょうか?。
それは、次回の日本国伝を読むと、明らかになります。
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唐書は、後晋の945年の成立です。
唐書といっても、面白いことに、旧唐書とそれから百年ほどたって書かれた新唐書の二つがあります。
二つに分かれた理由は、旧唐書が、初唐にかたよって書かれており、晩唐は薄いなど、多くの問題がありました。そのため北宋時代に新唐書が編纂されることになったというわけです。
そして注目すべきポイントは、旧唐書のなかに倭国伝と、日本国伝の二つが、分かれて編纂されていることです。
つまり別々の国として扱われているということです。
今回は、まず倭国伝です。
【現代訳】
倭国は、古の倭奴国である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の大きさは、東端から西端までは歩いて五ヶ月の行程、南北は三か月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
この国の集落には城郭はなく、木で柵をこしらえ、草で屋根を葺いている。その周辺の五十国余りは、すべて倭国に所属している。倭国王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国をとりしまらせている。皆はこの一大率を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。
【解説】
冒頭にいきなり衝撃的な記載が出てきます。
「倭国は、かつての倭奴国なり。」
と。
倭奴国とは、例の九州博多湾岸にある志賀島から出土した金印に刻印されている「漢委奴国王」の委奴国のことです。
委奴国王をどのように読むかは意見が分かれます。「わのなのこくおう」と読むのが一般的です。すなわち「奴国」=「なこく」という小国とする意見です。
本ブログでは、「かんのいどこくおう」と読むべきであるとお話ししました。詳細は、
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは? (2015/6/12号)”
を参照ください。
どのように読むにしろ、委奴国が博多湾岸を中心とした位置にあることは、邪馬台国畿内論者も異論ないところです。
倭国はもともと委奴国だったということは、つまり倭国はもともと博多湾岸を中心とした位置にあったということになります。
となると、邪馬台国がもともと畿内にあったとする説は、成立しません。邪馬台国畿内説を成立するさせるために残る選択肢は、「もともと博多湾岸にあったが、いつの時点かに畿内に移動した。」とする東遷説です。
もっとも、「だから中国史書は信用できないのだ。」といういつもながらの解釈をする人もいるでしょうが・・・。
また、一大率(いちだいそつ)という言葉が出てきます。今までのブログを読まれた方には、記憶のある言葉でしょう。そうです、魏志倭人伝に全く同じ文章がありました。そして、この一大率は、伊都国に置いたとありました。詳細は、
”魏志倭人伝を読む その5 ~ 倭の政治 いよいよ卑弥呼登場! 謎の国々とは?(2015/5/11号)
を参照ください。
伊都国の位置も、博多湾岸近辺であることは異論がありません。
となると、この記載からも、倭国の都が博多湾岸近辺にあったと考えるのが自然でしょう。なぜなら畿内の王朝が諸国を監視させる組織の中心を、ここまで遠く離れた地に置くことは、考えられないからです。
倭国全体の位置関係を図示しますと、それがはっきりします。
倭国領域図

【現代訳】
倭の地には女性が多く、男性は少ない。かなりの文字が通用している。人々の習俗として仏教を信仰している。だれもが裸足で歩き、ひと幅の布で身体の前後を蔽っている。身分の高い人は錦織のかぶりものをかぶり、一般人はみなさいづちまげを結い、冠や帯は用いない。婦人は無地のスカートをはき、丈の長い襦袢を着、髪はうしろで束ね、長さ八寸の銀製の花を腰の左右に二、三本ずつ下げ、それによって身分の高下の等級を表している。衣服の制(つくり)はかなり新羅のそれに似ている。
唐の太宗(たいそう)の貞観(じょうがん)五年(631年)、倭国王は使者を遣わして、その土地の産物を太宗に献上させた。太宗は倭国からの道のりが長いことに同情し、所管の役人に命じて、毎年貢物を届けなくてもすむように取りはからせ、さらに新州の刺史(しし)高表仁(こうひょうじん)に使者のしるしを持たせて倭国に派遣し、いたわりなつけさせようとした。ところが表仁には、遠国を手なずける外交的手腕がなく、儀礼のいき違いから倭国の王子といさかいを起こし、国書を読み上げることもなく帰国してしまった。
貞観二十二年(648年)になって、倭国王はさらに新羅の来た使者にことづけて上表文を届け、太宗の機嫌をうかがいあいさつをしにきた。
【解説】
風俗については、今までの史書をほぼ踏襲しています。
631年に、遣唐使が派遣された、とあります。それに対して、高表仁を倭国に遣わしますが、王子とケンカしてしまいます。
そして648年の新羅の使者を通じた上表文をもって倭国の話は終わります。
それ以後、中国史書に倭国の話は出てきません。では、その後、倭国はどうなったのでしょうか?。
それは、次回の日本国伝を読むと、明らかになります。
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