旧唐書日本伝を読む その2 ~ 則天武后・玄宗皇帝と日本人との意外な接点
ここからは、遣唐使の話が中心となります。ここで有名な則天武后(そくてんぶこう)と玄宗皇帝(げんそうこうてい)が登場します。二人ともあまりにも有名で、いわば伝説の人であり、日本人とは何のかかわりもなさそうですが、実は意外なところで接点がありました。
【現代訳】
則天武后(そくてんぶこう)の長安三年(703年)、日本国の大臣粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が来朝して国の産物を献上した。朝臣真人とは、中国の戸部尚書(とぶしょうしょ)のような者である。彼は進徳冠(しんとくかん)をかぶっていたが、その冠の頂は花形で、四枚の花はびてなびらが四方に垂れるつくりになっている。彼は身には紫色の上衣を着用し、白絹の帯をしめている。真人は経書や史書を好んで読み、文章をつづることもでき、ものごしは穏やかでみやびていた。則天武后は、麟徳殿(りんとくてん)に彼を招いて宴を催し、司膳卿(しぜんけい)の官を授け、留めおくことなく本国に帰還させた。
【解説】
則天武后(623?~725年)というと、中国史上唯一の女帝であり、一般に残酷な恐怖政治をした程度の認識しかありません。
その則天武后が、遣唐使の粟田朝臣真人という日本人を招き、宴席を設けて、官職を授けたとあります。当然粟田朝臣真人は則天武后と会っていたことになります。
実は、則天武后は、皇后時代には百済を滅亡させ、白村江の戦い(663年)において、倭国と旧百済連合軍を撃ち破るなど、われわれにも関係が深い存在です。
則天武后

【現代訳】
玄宗の開元年間(713~741年)の初め、日本国は再び使者を遣わして来朝させた。その使者はその機会に儒者から経書を教えてもらいたいと願い出た。そこで玄宗は四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(ちょうげんもく)に命じ、鴻臚寺(こうろじ)に呼んで教えさせた。日本の使者はそこで玄黙に広幅の布を贈って入門料とした。その布には「白亀(はくき)元年の調布(ちょうふ)」と書きつけてあったが、中国人は、日本で調として布を納める制度があろうなどとは嘘だろうと疑った。その使者は、中国でもらった贈り物のすべてを投じて書籍を購入し、海を渡って帰っていった。
その時の副使の朝臣仲満(なかまろ)は、中国の国ぶりを慕って、そのまま帰国せずに留まり、姓名を朝衡(ちょうこう)と改め、唐朝に仕えて、佐補闕(さほけつ)・儀王璲(ぎおうすい)の学友を暦任した。衡は都に留まること五十年、書物を愛し、自由を与えて故国に帰らせようとしても、留まって去ろうとしなかった。
【解説】
もうひとり有名な皇帝が出てきます。第九代皇帝玄宗(685~762年)です。楊貴妃を寵愛してから政務に取り組まなくなり、国が乱れたとされてます。
実は、玄宗は則天武后の孫にあたります。則天武后は、もとは唐の第二代皇帝大宗(598~649年)の側室であり、皇帝の息子(のちの第三代皇帝高宗)を籠絡して、皇后に上りつめた人です。
玄宗もそうした血を引いていたということでしょうか?。
もっともこうした話は、古代中国のみならず、日本でもあまたありますし、現代世界でも、この手の話は、枚挙にいとまがありません。
人間の性は、昔も今も変わっていないということでしょう。
玄宗皇帝

【現代訳】
玄宗の天宝十二年(753年)、日本はまた使者を遣わして、貢物を献上させた。
粛宗(しゅくそう)上元年間(760~762年)に朝衡を抜擢し、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・鎮南都護(ちんなんとご)に任じた。
徳宗(とくそう)の貞元二十年(804年)、日本は使者を遣わして来朝させた。そして、学生の橘逸勢(たちばなのはやなり)と学問僧の空海を中国に滞在させた。
元和元年(806年)、日本国使判官高階真人(たかしなのまひと)は奏上した。
「前回の学生たちは、学問もどうやら成就いたしましたので、本国に帰ることを望んでおります。ただちに臣といっしょに帰らせていただきとう存じます。」
帝は願いどおりにしてやった。
文宗の開成四年(839年)、日本はまた使者を遣わして、貢物を朝廷に献上させた。
【解説】
日本人にも有名な人が出てきます。朝衡すなわち阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。中国で大出世しましたが、最後まで帰国せず、異国の地で亡くなりました。
百人一首に読まれている
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 御笠の山に いでし月かも」
を詠んだ歌人としても有名ですよね。
この歌は、一般的には、帰国する仲麻呂を送別する宴席にて、友人の前で奈良の春日山や御笠山に出た月を思って詠んだ歌とされてます。
阿倍仲麻呂(百人一首より)

ところがこの歌には、「天の原とは何か?」「地形からみて御笠山は月が出るにふさわしい形状でない」などの多くの疑問があります。
これに対して、古田武彦氏は、長崎県壱岐島に天の原という地名があることなどから、
「仲麻呂が唐に向かう船上、壱岐の天の原を通過したときに九州を振り返ると、御笠山(福岡県春日市宝満山)より月が出ていたことを詠んだ歌である。」
との説を提唱していますが、なかなか説得力があります。
実は、この歌のみならず、万葉集をはじめとした当時の多くの歌については、解釈できないことが多々あります。そもそも、古事記、日本書記などの史書には、多くの矛盾する内容を含んでおり、古来より学者たちを悩ませています。
古田武彦氏は、その要因として、
「九州王朝などの神話や歌を盗用して、畿内の神話や歌としているからだ。」
と指摘しています。
これらについては、非常に大きなテーマであり、興味深い話でもあるので、いずれお話ししたいと思います。
もうひとりたいへん有名な日本人空海の名前が出てきて、新唐書日本国伝は終わります。
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【現代訳】
則天武后(そくてんぶこう)の長安三年(703年)、日本国の大臣粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が来朝して国の産物を献上した。朝臣真人とは、中国の戸部尚書(とぶしょうしょ)のような者である。彼は進徳冠(しんとくかん)をかぶっていたが、その冠の頂は花形で、四枚の花はびてなびらが四方に垂れるつくりになっている。彼は身には紫色の上衣を着用し、白絹の帯をしめている。真人は経書や史書を好んで読み、文章をつづることもでき、ものごしは穏やかでみやびていた。則天武后は、麟徳殿(りんとくてん)に彼を招いて宴を催し、司膳卿(しぜんけい)の官を授け、留めおくことなく本国に帰還させた。
【解説】
則天武后(623?~725年)というと、中国史上唯一の女帝であり、一般に残酷な恐怖政治をした程度の認識しかありません。
その則天武后が、遣唐使の粟田朝臣真人という日本人を招き、宴席を設けて、官職を授けたとあります。当然粟田朝臣真人は則天武后と会っていたことになります。
実は、則天武后は、皇后時代には百済を滅亡させ、白村江の戦い(663年)において、倭国と旧百済連合軍を撃ち破るなど、われわれにも関係が深い存在です。
則天武后

【現代訳】
玄宗の開元年間(713~741年)の初め、日本国は再び使者を遣わして来朝させた。その使者はその機会に儒者から経書を教えてもらいたいと願い出た。そこで玄宗は四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(ちょうげんもく)に命じ、鴻臚寺(こうろじ)に呼んで教えさせた。日本の使者はそこで玄黙に広幅の布を贈って入門料とした。その布には「白亀(はくき)元年の調布(ちょうふ)」と書きつけてあったが、中国人は、日本で調として布を納める制度があろうなどとは嘘だろうと疑った。その使者は、中国でもらった贈り物のすべてを投じて書籍を購入し、海を渡って帰っていった。
その時の副使の朝臣仲満(なかまろ)は、中国の国ぶりを慕って、そのまま帰国せずに留まり、姓名を朝衡(ちょうこう)と改め、唐朝に仕えて、佐補闕(さほけつ)・儀王璲(ぎおうすい)の学友を暦任した。衡は都に留まること五十年、書物を愛し、自由を与えて故国に帰らせようとしても、留まって去ろうとしなかった。
【解説】
もうひとり有名な皇帝が出てきます。第九代皇帝玄宗(685~762年)です。楊貴妃を寵愛してから政務に取り組まなくなり、国が乱れたとされてます。
実は、玄宗は則天武后の孫にあたります。則天武后は、もとは唐の第二代皇帝大宗(598~649年)の側室であり、皇帝の息子(のちの第三代皇帝高宗)を籠絡して、皇后に上りつめた人です。
玄宗もそうした血を引いていたということでしょうか?。
もっともこうした話は、古代中国のみならず、日本でもあまたありますし、現代世界でも、この手の話は、枚挙にいとまがありません。
人間の性は、昔も今も変わっていないということでしょう。
玄宗皇帝

【現代訳】
玄宗の天宝十二年(753年)、日本はまた使者を遣わして、貢物を献上させた。
粛宗(しゅくそう)上元年間(760~762年)に朝衡を抜擢し、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・鎮南都護(ちんなんとご)に任じた。
徳宗(とくそう)の貞元二十年(804年)、日本は使者を遣わして来朝させた。そして、学生の橘逸勢(たちばなのはやなり)と学問僧の空海を中国に滞在させた。
元和元年(806年)、日本国使判官高階真人(たかしなのまひと)は奏上した。
「前回の学生たちは、学問もどうやら成就いたしましたので、本国に帰ることを望んでおります。ただちに臣といっしょに帰らせていただきとう存じます。」
帝は願いどおりにしてやった。
文宗の開成四年(839年)、日本はまた使者を遣わして、貢物を朝廷に献上させた。
【解説】
日本人にも有名な人が出てきます。朝衡すなわち阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。中国で大出世しましたが、最後まで帰国せず、異国の地で亡くなりました。
百人一首に読まれている
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 御笠の山に いでし月かも」
を詠んだ歌人としても有名ですよね。
この歌は、一般的には、帰国する仲麻呂を送別する宴席にて、友人の前で奈良の春日山や御笠山に出た月を思って詠んだ歌とされてます。
阿倍仲麻呂(百人一首より)

ところがこの歌には、「天の原とは何か?」「地形からみて御笠山は月が出るにふさわしい形状でない」などの多くの疑問があります。
これに対して、古田武彦氏は、長崎県壱岐島に天の原という地名があることなどから、
「仲麻呂が唐に向かう船上、壱岐の天の原を通過したときに九州を振り返ると、御笠山(福岡県春日市宝満山)より月が出ていたことを詠んだ歌である。」
との説を提唱していますが、なかなか説得力があります。
実は、この歌のみならず、万葉集をはじめとした当時の多くの歌については、解釈できないことが多々あります。そもそも、古事記、日本書記などの史書には、多くの矛盾する内容を含んでおり、古来より学者たちを悩ませています。
古田武彦氏は、その要因として、
「九州王朝などの神話や歌を盗用して、畿内の神話や歌としているからだ。」
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