新唐書日本伝を読む その6(最終回) ~ 大和朝廷(日本国)の本当の始まり
国内体制も安定し、律令国家が確立します。
【現代訳】
長安元年(701年)、日本の国王に文武が立ち、大宝と改元した。文武は、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)を遣わして、日本の産物を唐に朝貢させた。朝臣真人とは、ちょうど唐の尚書(しょうしょ)のような役である。粟田は進徳冠(しんとくかん)をかぶり、冠の頂には四本の花飾りがあり、紫の上衣を着、白絹の帯をしめている。真人は学問を好み、文章を書き連ねることができ物腰が美しかった。則天武后は彼を麟徳殿(りんとくでん)に招いて宴を開き、司膳卿(しぜんけい)の位を授けたうえで帰国させた。
文武が死ぬと、その子の阿用(あよう)が位を継いだ。
元明(げんめい)が死ぬと、その子の聖武が位を継ぎ、白亀(はくき)と改元した。
開元年間(713-741年)の初め、粟田は再び来朝し、唐の儒者たちから経書の額を教えてもらいたいと願い出た。そこで帝は、四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(げんもく)に、鴻臚寺(こうろじ)に出向き、粟田の指南役になってやるようにと詔(みことのり)した。粟田は趙に大幅の布を献じて弟子入りの礼とし、帰国する時ぬは、唐朝から贈られた物をすべて書物に換えて持ち帰った。
粟田の副使として来朝した朝臣仲満(なかまろ)は、中国を慕って帰国を承知しなかった。彼は姓名を中国風に変えて朝衡(ちょうこう)と名乗り、左補闕(さほけつ)・儀王(ぎおう)の学友を歴任し、広く知識を備え、長期間滞在したのちにやっと帰国した。
聖武が死んで、その娘の孝明が位を継ぎ、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)(749年)と改元した。
天宝十二年(753年)、朝衡は再び来朝し、そのまま住みついて、上元年間(760-762年)には、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・安南都護(あんなんとご)に抜擢された。
【解説】
701年に、あの有名な大宝律令が制定されるとともに、年号が大宝に定められます。
すでに九州王朝(倭国)は、白村江の戦いで破れ疲弊して没落し、それに代わり大和朝廷(日本国)が、実権を握っていきます。その実権を完全掌握したのが、701年です。
古田武彦氏は、701年を「ONライン」と名付けています。つまり、OLD(倭国)からNEW(日本国)へ変わる境目という意味です。
それを内外に高らかに宣言したのが、大宝律令の制定と大宝という年号開始というわけです。
引き続いて、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)の話になります。旧唐書にも出てきましたが、破格の扱いです。私たちにとっては、のちほど出てくる 阿部仲麻呂の方が有名ですが、彼をしのぐ賞賛ぶりです。
ちなみに朝臣真人粟田とは、唐より帰国後、その知見を活かして藤原不比等らとともに大宝律令の編纂にかかわるなど、大きな功績を挙げ、大宰帥も歴任、正三位になってます。
朝臣真人粟田

【現代訳】
当時、新羅が海路を封鎖したので、日本は航路を変更して明州(めいしゅう)・越州(えっしゅう)経由で朝貢するようになった。
日本では孝明が死に、大炊(おおい)が位を継いだ。淳仁が死ぬと聖武の娘の高野姫(こうやひめ)を王とした。高野姫が死ぬと、白壁(しらかべ)が位を継いだ。
建中元年(780年)、日本国の使者の真人興能(まひとおきよし)が国の産物を献上した。真人とは、おそらく官名を氏(うじ)とした者であろう。興能は書にすぐれており、彼の用いる日本産の紙は、蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった。
貞元年間(785-805年)の末、日本国王は桓武といい、使者を遣わして来朝させた。使節団の中にいた学士の橘逸勢(たちばなのはやなり)と仏僧の空海は、そのまま唐に残留して学問を習得したいと望んだ。それから二十年以上たって、日本国の使者の高階真人(たかしなのまひと)が来朝した(806年)。そして橘逸勢たちと一緒に帰らせてほしいと願い出た。憲宗(けんそう)は「よろしい」と詔した。
桓武の次に諾楽(なら)が位を継いだ。その次は嵯峨(さが)、その次は浮和(ふわ)、その次は仁明(にんみょう)である。仁明は、開成(839年)にまた唐に入貢した。その次は文徳(もんとく)、その次は清和(せいわ)、その次は陽成(ようぜい)である。その次の光孝(こうこう)が即位したのは、わが光啓(こうけい)元年(885年)にあたる。
【解説】
歴代天皇の話が続きます。この時代になると、事実関係もしっかりとしてきますので、さらりと流すことにします。
細かい話になりますが、真人興能がもっていった紙が「蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった」とあります。日本での紙づくりは、日本で始まったとの説と、中国・朝鮮より伝わったと説があります。いずれにしろ、当時の技術先進国である中国の人が驚くほどの紙製造技術をもっていた、というのは驚きです。当時から、様々な技術を取り入れながら改良していく技術立国であったことを示していると言えますね。
【現代訳】
日本国の東海の島々の中には、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たに)の三つの小国の王がいる。日本国の周囲は北は新羅と海をへだて、西北は百済と海をはさんで向いあい、西南は越州(えっしゅう)の方角にあたる。日本には絹糸や綿を産し、珍しい物があるということである。
【解説】
最後に、総論的な話になります。
三つの国がどこなのかはわかっていませんが、表音から邪古(やこ)は屋久島、波邪(はや)は隼人つまり九州南部、多尼(たに)は種子島とも言われています。
ここであえて3つの国名を挙げ、国王がいる、とまで言っているということは、ウラを返せば日本国に完全には服属していなかったということでしょう。
以上で、新唐書日本伝は終わりです。
これまで中国王朝の正史として、二十四史を順に紹介してきました。次に宋史があるのですが、だいぶ時代が下ってから編纂されたものであり、日本古代史からみた同時代史とは言い難いので、新唐書までとします。今後、必要に応じて随時取り上げることとします。
実はもうひとつ、二十四史ではありませんが、同時代史として価値のある史書「翰苑(かんえん)」があります。次回は、その翰苑を読んでいきます。
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【現代訳】
長安元年(701年)、日本の国王に文武が立ち、大宝と改元した。文武は、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)を遣わして、日本の産物を唐に朝貢させた。朝臣真人とは、ちょうど唐の尚書(しょうしょ)のような役である。粟田は進徳冠(しんとくかん)をかぶり、冠の頂には四本の花飾りがあり、紫の上衣を着、白絹の帯をしめている。真人は学問を好み、文章を書き連ねることができ物腰が美しかった。則天武后は彼を麟徳殿(りんとくでん)に招いて宴を開き、司膳卿(しぜんけい)の位を授けたうえで帰国させた。
文武が死ぬと、その子の阿用(あよう)が位を継いだ。
元明(げんめい)が死ぬと、その子の聖武が位を継ぎ、白亀(はくき)と改元した。
開元年間(713-741年)の初め、粟田は再び来朝し、唐の儒者たちから経書の額を教えてもらいたいと願い出た。そこで帝は、四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(げんもく)に、鴻臚寺(こうろじ)に出向き、粟田の指南役になってやるようにと詔(みことのり)した。粟田は趙に大幅の布を献じて弟子入りの礼とし、帰国する時ぬは、唐朝から贈られた物をすべて書物に換えて持ち帰った。
粟田の副使として来朝した朝臣仲満(なかまろ)は、中国を慕って帰国を承知しなかった。彼は姓名を中国風に変えて朝衡(ちょうこう)と名乗り、左補闕(さほけつ)・儀王(ぎおう)の学友を歴任し、広く知識を備え、長期間滞在したのちにやっと帰国した。
聖武が死んで、その娘の孝明が位を継ぎ、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)(749年)と改元した。
天宝十二年(753年)、朝衡は再び来朝し、そのまま住みついて、上元年間(760-762年)には、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・安南都護(あんなんとご)に抜擢された。
【解説】
701年に、あの有名な大宝律令が制定されるとともに、年号が大宝に定められます。
すでに九州王朝(倭国)は、白村江の戦いで破れ疲弊して没落し、それに代わり大和朝廷(日本国)が、実権を握っていきます。その実権を完全掌握したのが、701年です。
古田武彦氏は、701年を「ONライン」と名付けています。つまり、OLD(倭国)からNEW(日本国)へ変わる境目という意味です。
それを内外に高らかに宣言したのが、大宝律令の制定と大宝という年号開始というわけです。
引き続いて、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)の話になります。旧唐書にも出てきましたが、破格の扱いです。私たちにとっては、のちほど出てくる 阿部仲麻呂の方が有名ですが、彼をしのぐ賞賛ぶりです。
ちなみに朝臣真人粟田とは、唐より帰国後、その知見を活かして藤原不比等らとともに大宝律令の編纂にかかわるなど、大きな功績を挙げ、大宰帥も歴任、正三位になってます。
朝臣真人粟田

【現代訳】
当時、新羅が海路を封鎖したので、日本は航路を変更して明州(めいしゅう)・越州(えっしゅう)経由で朝貢するようになった。
日本では孝明が死に、大炊(おおい)が位を継いだ。淳仁が死ぬと聖武の娘の高野姫(こうやひめ)を王とした。高野姫が死ぬと、白壁(しらかべ)が位を継いだ。
建中元年(780年)、日本国の使者の真人興能(まひとおきよし)が国の産物を献上した。真人とは、おそらく官名を氏(うじ)とした者であろう。興能は書にすぐれており、彼の用いる日本産の紙は、蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった。
貞元年間(785-805年)の末、日本国王は桓武といい、使者を遣わして来朝させた。使節団の中にいた学士の橘逸勢(たちばなのはやなり)と仏僧の空海は、そのまま唐に残留して学問を習得したいと望んだ。それから二十年以上たって、日本国の使者の高階真人(たかしなのまひと)が来朝した(806年)。そして橘逸勢たちと一緒に帰らせてほしいと願い出た。憲宗(けんそう)は「よろしい」と詔した。
桓武の次に諾楽(なら)が位を継いだ。その次は嵯峨(さが)、その次は浮和(ふわ)、その次は仁明(にんみょう)である。仁明は、開成(839年)にまた唐に入貢した。その次は文徳(もんとく)、その次は清和(せいわ)、その次は陽成(ようぜい)である。その次の光孝(こうこう)が即位したのは、わが光啓(こうけい)元年(885年)にあたる。
【解説】
歴代天皇の話が続きます。この時代になると、事実関係もしっかりとしてきますので、さらりと流すことにします。
細かい話になりますが、真人興能がもっていった紙が「蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった」とあります。日本での紙づくりは、日本で始まったとの説と、中国・朝鮮より伝わったと説があります。いずれにしろ、当時の技術先進国である中国の人が驚くほどの紙製造技術をもっていた、というのは驚きです。当時から、様々な技術を取り入れながら改良していく技術立国であったことを示していると言えますね。
【現代訳】
日本国の東海の島々の中には、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たに)の三つの小国の王がいる。日本国の周囲は北は新羅と海をへだて、西北は百済と海をはさんで向いあい、西南は越州(えっしゅう)の方角にあたる。日本には絹糸や綿を産し、珍しい物があるということである。
【解説】
最後に、総論的な話になります。
三つの国がどこなのかはわかっていませんが、表音から邪古(やこ)は屋久島、波邪(はや)は隼人つまり九州南部、多尼(たに)は種子島とも言われています。
ここであえて3つの国名を挙げ、国王がいる、とまで言っているということは、ウラを返せば日本国に完全には服属していなかったということでしょう。
以上で、新唐書日本伝は終わりです。
これまで中国王朝の正史として、二十四史を順に紹介してきました。次に宋史があるのですが、だいぶ時代が下ってから編纂されたものであり、日本古代史からみた同時代史とは言い難いので、新唐書までとします。今後、必要に応じて随時取り上げることとします。
実はもうひとつ、二十四史ではありませんが、同時代史として価値のある史書「翰苑(かんえん)」があります。次回は、その翰苑を読んでいきます。
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