翰苑(かんえん)を読む (後編) ~ やっぱり日出ずる処の天子は北部九州にいた!
後半です。原文を再掲します。
【原文】
a.憑山負海鎮馬臺以建都
b.分職命官統女王而列部
c.卑弥娥惑翻叶群情
d.臺与幼歯方諧衆望
e.文身黥面猶太伯之苗
f. 阿輩雞弥自表天児之称
g.因禮義而標秩即智信以命官
h.邪届伊都傍連斯馬
i. 中元之際紫綬之栄
j. 景初之辰恭文錦之献
【現代訳]
f.隋代には、倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」は、自ら天児の称を名乗って上表してきた。
g.中国の「礼」「義」や「智」「信」といった徳目によって官職名をつけ、それを倭国内の官僚組織としている。
【解説】
f.倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」とは、隋書倭国(原文は俀国 (たいこく))伝に出てくる多利思北弧(たりしほこ)のことです。
「自ら天児の称を名乗って上表した」とは、有名な「日出ずる処の天子」より、607年、隋の煬帝に国書を出したことを指しています。
「日出ずる処の天子」とは、推古天皇ではなく、まして聖徳太子ではありえないという話は、
「隋書倭国伝を読む その3 ~ 倭国王の多利思北孤(たりしほこ)とは推古天皇なのか?(2015/7/23号)」
「隋書倭国伝を読む その7 ~ 「日出ずる処の天子」と表現した理由とは?(2015/8/12号)」
でお話ししました。
g.徳目によって官職名をつける話も、隋書俀国 伝にありました。
【現代訳】
h.倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる、という地理的位置に存在している。
【解説】
さて、ここで倭国の都の位置、すなわち邪馬臺国の位置を示しています。
原文の「邪」は、「斜めに」の意味です。また、同じく原文の「連」とは、「間に国がある」ことを示しています。すると、現代訳に書いたように、
「ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる」意味となります。
さて、以前のブログ
「魏志倭人伝を読む その2 ~ 邪馬台国までの道程 ここが長年の論争の天王山!(2015/4/26号)」
にて、魏志倭人伝の記載から倭国の国々の位置を推定しました。
ブログでは、帯方郡から伊都国さらに邪馬台国までの道程を示しながらでしたので、道程上にない斯馬国は示してません。では、斯馬国はどこにあったのか、ですが、
かつては、糸島半島の北側が斯馬郡、南側が恰土(いと)郡だったことから、斯馬国、伊都国の位置が、特定できます。
図に表すと、下図のとおりです。

この地図をご覧ください。邪馬臺国から見て、確かに斜めの位置に伊都国があり、その向こうに斯馬(しま)国があるのがわかります。
翰苑の編者は、当然のことながら魏志倭人伝を念頭に置きながら、別の表現を用いて邪馬臺国の位置を示したわけです。
もちろん文字の解釈の違いから、異なる考え方をとる方もいますが、少なくとも邪馬臺国は、伊都国や斯馬国の近傍にあったことは動かし難いでしょう。
そうなると、邪馬台国畿内説は、とてもではないが成り立ち得ないことが、はっきりわかります。
【現代訳】
i.倭国は、後漢の中元年間(光武帝の末年)に金印紫綬の栄を受け、
j.魏の景初年間にあや錦をうやうやしく献上するといったふうに、中国の天子との淵源は深い。
【解説】
あの後漢の光武帝から、建武中元二年(57年)に金印を授けられた話です。金印は、九州博多湾岸の志賀島から出土しました。
志賀島から出土した金印
刻印
「漢委奴国王」と刻印されており、通常は「かんのわのなのこくおう」と読まれ、倭の奴(な)の国王に授けられた印とされてます。
それに対して、
本当は「かんのいどこくおう」と読むべきであり、委奴(いど)国王に授けられた印である。
さらに、
委奴(いど)国
=委(い)国
=倭(い)国 (邪馬壹(やまい)国の「壹」と同じ表音)
=大倭(たいい)国
=俀(たい)国 (邪馬臺(やまだい)国の「臺」と同じ表音)
である、とお話ししました。
詳しくは、
「隋書倭国伝を読む その1 ~ なぜ倭国伝(わこくでん)ではなく俀国伝(たいこくでん)なのか?(2015/7/13号)」
をご覧ください。
いずれにしろ、ここでは、金印を授けられたのは倭国であり、奴国という国名はどこにも出てこないことは注目すべきことです。
つまり、中国側にとっての相手国は倭国であり奴国ではなかったということが、ここからも明確になります。
そして最後に、倭国からの朝献について記載されています。景初の年号から、景初二年(238年)の卑弥呼による朝献を指していることがわかります。
以上で、翰苑は終わりです。
短い文章のなかに、1世紀から7世紀までの倭国すなわち九州王朝の歴史を、見事に凝縮して描いています。このような歴史的に見てもきわめて貴重な書物が、九州の太宰府天満宮に保存されていることは、ありがたいことです。
この点をもってしても、太宰府という地が、古代よりどれほど大切なところだったかがわかると思います。
そして最も大事なポイントは、金印授与から、卑弥呼、さらには「日出ずる処の天子」にいたる一連の話を、同じ王朝の話として捉えていることです。そしてその王朝の都は、必然的に北部九州ということになります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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【原文】
a.憑山負海鎮馬臺以建都
b.分職命官統女王而列部
c.卑弥娥惑翻叶群情
d.臺与幼歯方諧衆望
e.文身黥面猶太伯之苗
f. 阿輩雞弥自表天児之称
g.因禮義而標秩即智信以命官
h.邪届伊都傍連斯馬
i. 中元之際紫綬之栄
j. 景初之辰恭文錦之献
【現代訳]
f.隋代には、倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」は、自ら天児の称を名乗って上表してきた。
g.中国の「礼」「義」や「智」「信」といった徳目によって官職名をつけ、それを倭国内の官僚組織としている。
【解説】
f.倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」とは、隋書倭国(原文は俀国 (たいこく))伝に出てくる多利思北弧(たりしほこ)のことです。
「自ら天児の称を名乗って上表した」とは、有名な「日出ずる処の天子」より、607年、隋の煬帝に国書を出したことを指しています。
「日出ずる処の天子」とは、推古天皇ではなく、まして聖徳太子ではありえないという話は、
「隋書倭国伝を読む その3 ~ 倭国王の多利思北孤(たりしほこ)とは推古天皇なのか?(2015/7/23号)」
「隋書倭国伝を読む その7 ~ 「日出ずる処の天子」と表現した理由とは?(2015/8/12号)」
でお話ししました。
g.徳目によって官職名をつける話も、隋書俀国 伝にありました。
【現代訳】
h.倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる、という地理的位置に存在している。
【解説】
さて、ここで倭国の都の位置、すなわち邪馬臺国の位置を示しています。
原文の「邪」は、「斜めに」の意味です。また、同じく原文の「連」とは、「間に国がある」ことを示しています。すると、現代訳に書いたように、
「ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる」意味となります。
さて、以前のブログ
「魏志倭人伝を読む その2 ~ 邪馬台国までの道程 ここが長年の論争の天王山!(2015/4/26号)」
にて、魏志倭人伝の記載から倭国の国々の位置を推定しました。
ブログでは、帯方郡から伊都国さらに邪馬台国までの道程を示しながらでしたので、道程上にない斯馬国は示してません。では、斯馬国はどこにあったのか、ですが、
かつては、糸島半島の北側が斯馬郡、南側が恰土(いと)郡だったことから、斯馬国、伊都国の位置が、特定できます。
図に表すと、下図のとおりです。

この地図をご覧ください。邪馬臺国から見て、確かに斜めの位置に伊都国があり、その向こうに斯馬(しま)国があるのがわかります。
翰苑の編者は、当然のことながら魏志倭人伝を念頭に置きながら、別の表現を用いて邪馬臺国の位置を示したわけです。
もちろん文字の解釈の違いから、異なる考え方をとる方もいますが、少なくとも邪馬臺国は、伊都国や斯馬国の近傍にあったことは動かし難いでしょう。
そうなると、邪馬台国畿内説は、とてもではないが成り立ち得ないことが、はっきりわかります。
【現代訳】
i.倭国は、後漢の中元年間(光武帝の末年)に金印紫綬の栄を受け、
j.魏の景初年間にあや錦をうやうやしく献上するといったふうに、中国の天子との淵源は深い。
【解説】
あの後漢の光武帝から、建武中元二年(57年)に金印を授けられた話です。金印は、九州博多湾岸の志賀島から出土しました。
志賀島から出土した金印

刻印

「漢委奴国王」と刻印されており、通常は「かんのわのなのこくおう」と読まれ、倭の奴(な)の国王に授けられた印とされてます。
それに対して、
本当は「かんのいどこくおう」と読むべきであり、委奴(いど)国王に授けられた印である。
さらに、
委奴(いど)国
=委(い)国
=倭(い)国 (邪馬壹(やまい)国の「壹」と同じ表音)
=大倭(たいい)国
=俀(たい)国 (邪馬臺(やまだい)国の「臺」と同じ表音)
である、とお話ししました。
詳しくは、
「隋書倭国伝を読む その1 ~ なぜ倭国伝(わこくでん)ではなく俀国伝(たいこくでん)なのか?(2015/7/13号)」
をご覧ください。
いずれにしろ、ここでは、金印を授けられたのは倭国であり、奴国という国名はどこにも出てこないことは注目すべきことです。
つまり、中国側にとっての相手国は倭国であり奴国ではなかったということが、ここからも明確になります。
そして最後に、倭国からの朝献について記載されています。景初の年号から、景初二年(238年)の卑弥呼による朝献を指していることがわかります。
以上で、翰苑は終わりです。
短い文章のなかに、1世紀から7世紀までの倭国すなわち九州王朝の歴史を、見事に凝縮して描いています。このような歴史的に見てもきわめて貴重な書物が、九州の太宰府天満宮に保存されていることは、ありがたいことです。
この点をもってしても、太宰府という地が、古代よりどれほど大切なところだったかがわかると思います。
そして最も大事なポイントは、金印授与から、卑弥呼、さらには「日出ずる処の天子」にいたる一連の話を、同じ王朝の話として捉えていることです。そしてその王朝の都は、必然的に北部九州ということになります。
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