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後漢書倭伝から翰苑(かんえん)までのまとめ ~ 浮かびあがってきた九州王朝の姿

ここまで、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書俀(たい)国伝、旧唐書倭国伝・日本国伝、新唐書日本伝、翰苑(かんえん))を、読んできました。
日本について書かれている中国史書として、魏志倭人伝の他にもこれだけ多くの史書があることを知って、驚かれた方もいらっしゃると思います。
編纂された時代や編者の立場も異なるので、すべてぴったり、というわけにはいきませんが、中国人がとらえた日本の姿はほぼ一貫していることがわかります。


内容が膨大になってますので、ここでおさらいをしておきましょう。各史書のポイントをまとめますが、魏志倭人伝などに既出の内容は、重複しますので割愛します。
魏志倭人伝のまとめは、
「魏志倭人伝を読む まとめ ~ 邪馬台国の真の姿が見えてきた!(2015/5/28号)」
を参照ください。


【後漢書倭伝】
・前漢の武帝の頃、三十国ほどが使者を遣わしてきた。
・大倭王は邪馬臺国(邪摩惟(やまゐ)の訛りと思われる)に住んでいる。
・倭の地は、中国の会稽東冶(かいけいとうや)の東にある。
・朱崖(しゅがい)、耳(たんじ)に近く、制度・風習も同じものが多い。
・57年、倭奴(いど)国の使者が、光武帝のもとに朝貢してきた。
・倭国は南海を極めたので、倭国王に金印を賜った。
・107年、倭国王の帥升(すいしょう)が朝貢してきた。
・女王国から東、海を渡って千里に 奴(こぬ)国がある。
・会稽郡の海の彼方に東鯷 (とうてい)国がある。二十余国である。
・同じく会稽郡の海の彼方に夷州(いしゅう)、州(せんしゅう)がある。秦の始皇帝が徐福を派遣したところである。
・夷州、州の人々は、たまに会稽の市に来る。


【宋書倭国伝】
・421年、高祖武帝が倭国王讃(さん)に官職を授けた。
・425年、讃が朝貢した。
・讃の弟の珍(ちん)が後を継ぎ、朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。
・443年、倭国王の済(せい)が朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。
・451年、倭王済に、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官職を加えた。
・世継ぎの興(こう)が朝貢した。
・462年、安東将軍・倭国王に任命した。
・興の弟の武(ぶ)が倭王となった。
・478年、武は上表文を奉った。
・上表文の内容は、「東方では毛人の国55国、西方では衆夷の国66国、海を渡って北の95国を征した。高句麗が百済を攻めたので、戦おうと思う。自分を開府儀同三司に任命していただきたい」
・武を、使持節・都督倭・新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

【隋書俀(たい)国伝】
・国の境界は五か月行程、南北は三か月行程。東方は高地で西が低い。
邪靡堆(やまたい)に都を置いている。これが「魏志」の「邪馬臺(やまだい)」である。
・146-189年の頃には、戦乱があって王が定まらなかった。
・600年、俀王で姓は阿海(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)阿輩雞弥(あほきみ)という者が、使者を派遣してきた。
・俀国王の妻は雞弥(きみ)という。
・王の後宮には女が六、七百人いる。
・太子は、利歌弥多弗利(りかみたふり)という。
・中央官の位階に十二等級ある。
・阿蘇山という山があり、突然噴火する。
・607年、多利思北孤が朝貢してきた。国書には「日出ずる処の天子から、日没する処の天子へ」とあり、煬帝は不機嫌になった。
・608年、煬帝は使者裴世清(はいせいせい)を、俀国に派遣した。
竹斯(ちくしこく)に至り、また東に行き秦(しん)王国に着いた。秦王国の人々は、中国人と同じである。そこが夷州(いしゅう)と思われる。
・十余国を過ぎて海岸に達する。
竹斯国から東の諸国はみな俀国に属している。
・俀国王は裴世清らを迎えさせ饗応した。
・こののち往来は途絶えた。

【旧唐書倭国伝】
・倭国は古の倭奴(いど)国である。
・倭国王の姓は阿海(あま)氏で、一大率を置いて諸国を取り締まらせている。
・631年、倭国王は朝貢した。
・高表仁(こうひょうじん)を倭国に派遣したが、倭国の王子といさかいをおこした。
・648年、倭国王は新羅の使者にことづけて上表文を届けにきた。

【旧唐書日本国伝】
日本国は倭国の別種である。
・日本とつけたのは「太陽が昇るかなたにあるから」「倭国という名が雅美でないから」「日本はもと小国であったが、倭国の地を併合した」と言われる。
・唐に入朝した日本人は自慢を言い、信用のおける事実を挙げて質問に答えようとしないので、信用できない。
・703年、日本国の大臣粟田朝臣真人(あわたあそんまひと)が来朝して朝貢した。
・713-741年の初め、再び使者がやってきた。
・副使朝臣仲満(なかまろ)は朝衡(ちょうこう)と改め、日本に帰国しなかった。
・753年、また朝貢にやってきた。
・804年、使者がきた。空海らを滞在させた。
・839年、また朝貢にやってきた。

【新唐書日本伝】
・日本は古の倭奴(いど)国である。
・国王の名は阿海氏、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで三十二代、すべて尊(みこと)と呼ばれ、筑紫城に住んでいた。
・彦瀲の子の神武が立ち、あらためて天皇と呼ぶようになり、都を大和に遷した。
・650-656年の初め孝徳が即位し、年号を白雉(はくち)と改め、朝貢してきた。
・662年、蝦夷人とともに入朝してきた。
・670年、使者を遣わしてきて、唐が高句麗を平定したことを慶賀した。
・701年、国王に文武が立ち、大宝と改元した。
・日本国の東海の島々の中にがあり、は、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たに)の三つの小国の王がいる。
・国王は、神武の次の綏靖(すいぜい)から光孝(光孝、885年即位)まで続いている。

【翰苑(全訳)】
a.倭国は、山をよりどころとし、海に接したところに、国の鎮めを置き、そこを「馬臺(またい)」と称して都を建てている。
b.官職を分って任命され、女王に統率されてそれぞれ「~部」という形に分けられている。
c.卑弥呼は妖(あや)しい術によって民衆を惑わしている、とわたしたち中国人に見えるが、それはかえってこの国の民衆の心にかなっているようだ。
d.臺与(たいよ)は、まだいとけないうちに即位したが、ちょうどそのとき多くの人々の(内乱終結)への望みをかなえ、やわらげた。
e.倭人は、身体にも顔にも入れ墨をしており、さらに呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だと称していた。
f.隋代には、倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」は、自ら天児の称を名乗って上表してきた。
g.中国の「礼」「義」や「智」「信」といった徳目によって官職名をつけ、それを倭国内の官僚組織としている。
h.倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる、という地理的位置に存在している。
i.倭国は、後漢の中元年間(光武帝の末年)に金印紫綬の栄を受け、
j.魏の景初年間にあや錦をうやうやしく献上するといったふうに、中国の天子との淵源は深い。


いかがでしょうか?。
書かれている内容に多少の齟齬はあるものの、ほぼ整合性がとれていると言えるのではないでしょうか?。
そしてここに書かれていることは、
”北部九州を中心とした領域に国々があり、それらの国々を総称して倭国と呼んだ。それらの国々を治めていたのが、博多湾岸にあった邪馬台国(九州王朝)であり、その女王が卑弥呼や壹与であった。かつて「漢委奴国王」の金印を紫綬されたのも九州王朝の王である。

九州王朝の後の王が、倭の五王と呼ばれた王であり、「日出ずる処の天子」として隋の煬帝に国書を送ったのも、九州王朝の王であり、多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)である。

一方、神武も九州筑紫の出身であり、大和へ都を遷した。
倭国から日本国へと国名が変わったが、その経緯はよくわからない。”

概略こんな内容です。
ここでいまひとつはっきりしないのが、大和へ都を遷したとしている神武天皇と、九州王朝の関係です。中国側も、倭国から日本国へと国名を変えた経緯について、疑いをもっています。
どうしてそうなったかというと、日本国の使者が明確に説明しなかった、あるいはできなかったからです。ここに、大きなポイントがあると言えます。

そのあたりを解明するには、今度は日本の史書、すなわち古事記、日本書紀なども研究する必要があります。それは今後のお楽しみということになりますが、だいぶ先になりますので、気の早い読者のためにとりあえず結論を先に言ってしまいます。

九州王朝は、7世紀まで続きます。一方、畿内に進出した神武天皇は大和で基盤を築き、次世代以降次第に勢力を増していきます。ただしあくまで九州王朝の一分派の位置づけです。
白村江の戦い(663年)で敗れた九州王朝は力を失い、代わって畿内勢力が台頭、ついに701年をもって九州王朝は消滅し、大和朝廷が日本を治めることになりました。”

図で示すと、このようなイメージです。


<前>倭国領域
倭国領域 (2) 
<後>倭国から日本国へ
倭国から日本国へ

このブログを以前から読まれている方にとっては、納得しうるストーリーでしょうが、初めて読まれた方にとっては、単なるトンデモ説の一つと思われた方も多いと思います。

これから、ひとつひとつ掘り下げてお話していきたいと思いますが、その前に、そもそも九州王朝がどのようにしてできたのか、次回からはそのあたりを探っていきたいと思います。


*当ブログにおいて、著作を数多く引用させていただいている古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が、
  去る10月14日に天寿を全うされました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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