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魏志倭人伝を読む その3 ~倭の風俗 倭人は海洋民族だった!

前回までは、帯方郡から邪馬台国までの道程と、その他の国々の紹介でした。今回からは、倭人の風俗習慣についてです。かなり詳細に記されており、とても興味深いです。

男は、大人も子供も、顔にクマドリして、体にはイレズミをしている。昔からずっと、この国の使いは、中国へやってくると、みんな大夫だと自称していた。昔、夏王朝の少康王の子は、会稽の領主とされたとき、髪を切って体にイレズミをし、人食い魚に食われないようにしたという。現代の倭人は、潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。体にイレズミをしているのは、大型魚や水鳥を追い払うためである。後になると、このイレズミは、アクセサリーのようなものになる。国によって、イレズミのデザインが異なる。左にしたり右に描いたり、大きくしたり小さく描いたり、身分によっても違いがある。
この国が、どのあたりにあるかというと、中国の会稽東治の東の方角にあたる。
【解説】
倭人は入れ墨をしていたようです。入れ墨がどうして始まったのかは、一般的にはおまじないや装飾のためなどいろいろ言われてますが、入れ墨をすると海で大型魚などに襲われないため、と実利的な目的があったと説明しており、なるほどと思ってしまいます。また海に潜るのが得意とあり、海辺に住む、海洋民族であったことがわかります。
ほとんどの訳では、会稽東を、会稽東の間違いとしてます。会稽東冶とは今の福建省であり、かなりの南方になり、その東となると沖縄に当たります。それがまた魏志倭人伝が信用できない理由とされています。しかし実はそれも原文通り読むことにより説明できるので、会稽東治の東とします。


住民の風俗は淫らではない。男は、みな髪を束ねて木綿でしばり露出させたままである。幅の広い木綿の布を横にしてかぶり、しばってあるだけで、ほとんど縫っていない。女も髪を結わずに垂れたところを曲げて、しばってある。服を作っても、単衣のようなもので、まんなかに穴をあけて、首を突っ込んでかぶるだけである。
稲と麻などを栽培している。蚕に桑を与え、絹糸を紡いだりしている。細い麻布や硬めの絹織物や真綿を作る。
牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいない。
【解説】
倭人の風俗は淫らではない、とあります。それが現代と比べるとどうなのか、という点も関心がもたれるところですが、東夷伝にでてくる他国と対照的に描かれているところも興味深いです。稲、麻の栽培の他、養蚕をしていたことがわかります。
次に着ているものについて、詳細に記しています。こんなイメージでしょうか?。


弥生人の衣装  風俗博物館  図解古代史(成美堂出版)より

弥生人 

この絵では男性があまり入れ墨をしているように見えませんが、顔、体ともにもっと入れ墨をしていたのではないでしょうか?。
動物についても記載されています。馬はいない、とありますが、日本での出土事例は、古墳時代の4世紀後半が最古なので、記述と合致していると言えます。


武器としては、矛、盾、弓がある。この木の弓は、上半分が長く、下半分が短く、鉄や骨の矢じりを使う。海南島の儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)と、共通したところが多いようである。
倭国の土地柄は、温暖であるから、一年中、生野菜が食べられる。みな裸足でいる。家の中には部屋があり、父母や兄弟など、別々の部屋で寝る。赤土で作った絵の具を体に塗るのは、ちょうど中国人が白粉を塗るようなものかもしれない。食事には竹の器を使い、手で食べる。
【解説】
続いて武器についてです。矛、盾、弓とあり、銅矛圏であることを窺わせます。なお、魏志倭人伝には、銅鐸の話は一切出てきません。もし祭祀であれ使用されていたのであれば、、記載されていたはずです。ここからも、銅鐸圏内の話ではないことがわかります。
以上を総括して、中国の遥か南方の海南島の風俗と共通しているところが多い、と論じてます。突然、南方の地名が出てくることに唐突感を感じた方も多いでしょう。これについても諸説ありますが、いずれにしろ、倭人の生活は、温暖で魚介類を採るなど南方の海洋民族と似ていた、ということは、間違いないでしょう。

当時の集落の様子です。

吉野ヶ里歴史公園HPより
吉野ヶ里 集落



吉野ヶ里 住居


弥生人の食事は、このようなものだったようです。


弥生ミュージアムHPより
弥生時代 食事




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魏志倭人伝を読む その2 ~ 邪馬台国までの道程 ここが長年の論争の天王山!

前回は、帯方郡から始まり、海を渡り、九州の末盧国(唐津市)に上陸しました。今回はそこから徒歩の旅となり、邪馬台国を目指します。ご存じの方も多いと思いますが、次の伊都国からの読み方が定まらないために、邪馬台国がどこにあるかの論争がいまだに継続しているわけです。
その意味では、まさに魏志倭人伝最大の山場と言えます。


東南に向かって陸上を行くと、五百里ほどで伊都国(いとこく)に着く。長官を爾支(にし)といい、次官を泄謨觚(せもく)、柄渠觚(へこく)という。千戸ちょっとである。代々、王がいるが、女王国に統属している。帯方郡の使節は、行き帰りに必ずここに滞在する。
【解説】
伊都国は今の糸島半島付近でほぼ決まりと言ってよいでしょう。なお王がいること、また帯方郡の使節が必ず滞在するなど、他の国々とは一線を画していることは注目すべき点です。さて問題はここからです。


東南へ行くと奴国(ぬこく)に着く。百里である。長官を兕馬觚(じまく)と言い、次官を卑奴母離と言う。二万戸ちょっとである。
東へ行くと、不弥国(ふみこく)に着く。百里である。長官を多模(たも)と言い、次官を卑奴母離と言う。千戸あまりの家がある。
南へ行くと、投馬国(つまこく)に着く。水上を行くと二十日かかる。長官を弥弥(みみ)と言い、次官を弥弥那利(みみなり)と言う。五万戸ちょっとである。
【解説】
伊都国から各国への道程が書かれてます。奴国は二万戸とあります。一戸当たり何人で計算するかによりますが、かなりの人口をもった都市であったことがわかります。
以下、不弥国、投馬国と続きます。投馬国は、五万戸と奴国を上回る大都市であることがわかります。


南へ行くと、邪馬壹国(やまいちこく)に着く。女王の都のあるところである。水上を行くこと十日、陸上を行くこと一月かかる。伊支馬(いきま)という官吏がいて、次の官吏を弥馬升(やまし)、その次を弥馬獲支(みまかき)と言い、そのまた次を奴佳鞮(ぬかて)と言う。七万戸ちょっとである。女王国から北の国々については、その戸数や道程は、簡単ながら記録することができるが、しかし、それ以外の第三者的な国々は、とても遠くにあるため詳しく調べることができない。
【解説】
いよいよ邪馬台国に到着します。さきの伊都国からの記載をそのまま足していくと、南へ、しかもかなりの遠方にあることになります。ここが邪馬台国の位置がいまだに定まらない理由の一つです。実は、単純にそうはならないのですが、今回は、魏志倭人伝の全体像をつかんでもらうのが目的なので、ここでは、ここが最大の論点である、ということをお話しすることにとどめます。


次に斯馬国(しまこく)がある。次に已百支国(いはきこく)がある。次に伊邪国(いやこく)がある。次に郡支国(ぐんきこく)がある。次に弥奴国(みぬこく)がある。次に好古都国(こうことこく)がある。次に不呼国(ふかこく)がある。次に姐奴国(せぬこく)がある。次に対蘇国(たいそこく)がある。次に蘇奴国(そぬこく)がある。次に呼邑国(かいふこく)がある。次に華奴蘇奴国(かぬそぬこく)がある。次に鬼国(きこく)がある。次に為吾国(ゐごこく)がある。次に鬼奴国(きぬこく)がある。次に邪馬国(やまこく)がある。次に躬臣国(くしこく)がある。次に巴利国(はりこく)がある。次に支惟国(きゐこく)がある。次に鳥奴国(うぬこく)がある。次に奴国(ぬこく)がある。ここが女王国の境界の尽きるところである。この南に狗奴国(こぬこく)があり、男子を王としている。ここには、狗古智卑狗(ここちひこ)という官吏がいる。女王国には所属していない。
帯方郡から女王国に着くまでに、一万二千里である。
【解説】
次に、国の名前が続きます。女王国の境界が奴国とありますが、さきの奴国とは別の国でしょう。ちなみに、ここまでで30国です。そして奴国の南に邪馬台国のライバル国である狗奴国があります。狗奴国の存在がのちの卑弥呼に大きな影響を与えることになります。そして最後に帯方郡から邪馬台国までの距離が記載されてます。

ここまでの道程を地図に示すと、下記の通りとなります。古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)の説を基にしてますが、ここが議論百出のところなので、仮説ということにしておきます。
それぞれの国のエリアを点線で示してますが、実際にどれくらいだったのかは定かではありません。奴国が二万戸、邪馬台国が七万戸とあり、かなりの人口であったとすると、エリアがもっと広大であった可能性はあります。


末蘆国~邪馬台国3


なぜ奴国から邪馬台国へと進まないのか、とか投馬国へはどのように行くのか、あるいはその他の国はどこにあるのか、等々は、回を改めて詳しくお話しします。

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魏志倭人伝を読む その1~邪馬台国までの道程 日本上陸までは異論ないがその先は?

今回から、魏志倭人伝にはいります。記載されていることをひとつずつ押さえていくと、「なるほどそうだったのか」と思えることが多々あり、邪馬台国の姿も浮かび上がってきます。
そういう意味で、少し長くなりますが、全文の現代訳を載せ、ポイントを解説していきます。詳細は、回を改めてお話しします。
現代訳もさまざまありますが、ここでは、豊田有恒氏(作家、元島根県立大学教授)「歴史から消された邪馬台国の謎」の現代訳 を基に修正を加えてます。


 倭人は、帯方郡の東海の海上にいる。山ばかりの島で、国や集落を営んでいる。昔は百国ばかりあって、漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。現在、使者や通訳がやってくるのは、三十国ちょっとである。
【解説】
倭国がどこにあるか、から始まります。昔から交流があり、現在約三十国がやってくると記載してますが、注目すべきは、個々の国ごとに交流していたこと、また使者や通訳がやってくる国が三十余国であって、それ以外にも国が多数あったということです。


 郡から倭の国へ行くためには、海岸線に沿って航行していく。韓国を通るあいだ、南へ行ったり東へ行ったりするうちに、その北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。ここまでで、七千里ちょっとである。
【解説】
ここから邪馬台国までの道程です。始まりは郡です。これは当時の中国の出先機関であった帯方郡のことです。帯方郡についてはピョンヤン南部、ソウルなど諸説あります。
帯方郡から韓国を通り、狗邪韓国に到着とありますが、その北岸の狗邪韓国とあることから、倭の最北が狗邪韓国であり、倭は韓半島の南部に拠点をもっていたことがわかります。


 はじめて外洋を渡ると、一千里ほどで対海国(たいかいこく)に着く。この国では、長官を卑狗(ひこ)といい、次官を卑奴母離(ひぬもり)と呼ぶ。かれらの居住地は、まったくの孤島で、面積は四百里くらいである。この土地は、険しい山と深い森がほとんどで、道路ときたら鳥や獣の踏み分け道のようである。千余戸あるものの、良い田んぼはない。海産物を食べて自活しているが、海に乗って南北へ米の買い出しに出かけたりもする。
 さらに南へ向かい、外洋を超えて千里ちょっと行く。この海を瀚海(かんかい)と呼んでいる。やがて一大国(いちだいこく)へ着く。長官を亦卑狗(またひこ)といい、次官を卑奴母離(ひぬもり)と呼んでいる。面積は三百里四方くらいである。竹林や雑木林が多く、三千ばかりの家がある。少しばかり田畑もあるにはあるが、いくら耕しても食べていけない。そこで、この国も、南北に米の買い出しに出かけるのである。

【解説】
ここから船旅です。はじめに対馬、次に壱岐へと渡ります。どちらも長官、次官という同様の役人が置かれていることは、注目です。


もうひとつ外洋を渡ると。千里ちょっとで末盧国(まつろこく)に着く。四千戸ばかりである。人々は、海辺や山麓に住んでいる。草木が盛んに繁っているので、前を行く人が見えないほどである。水が深くても浅くても、みんな潜って、魚介類を捕ってくる。
【解説】
さらに船旅を続けて、日本本土に到着します。到着地の末盧国とは、旧肥前国松浦郡であった唐津市で間違いないでしょう。

ここまでは異論がないところです。地図に示すと以下のようになります。

韓国・九州写真


ここまでで皆さんのなかには、疑問をもたれ方もいるでしょう。
たとえば距離です。対馬から壱岐まで千里とあるが、一里=4kmとすると、4km✖️1000里=4000kmになり、そんなにあるはずがないではないか、と。
ご説ごもっともですが、ここでは当時は一里=4kmではなかった、とだけお話ししておきます。他にも諸々あろうかと思われますが、それは今後のお楽しみということに・・・。

次回はいよいよ議論百出の、邪馬台国までの道程です。


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風雲急を告げていた! 卑弥呼の時代の東アジア情勢

今回は、三国志の時代すなわち卑弥呼の時代の東アジア情勢を見てみましょう。
三国志の三国というのは、当時覇権を争っていた魏、呉、蜀を指しています。多くの小説や映画などで題材としてますが、魏では曹操、呉では孫権、蜀では劉備玄徳がリーダーですよね。そして蜀の劉備玄徳のもとに知将、諸葛孔明がいて、関羽、張飛がいたわけです。


<魏の曹操(155-220年)>

曹操 



<呉の孫権(182-252年)>

孫権 



<蜀の劉備玄徳(161-223年)>

劉備玄徳


一方、周辺には、北方に鮮卑、烏丸、東方に高句麗、夫余、東沃沮、濊、韓があり、さらにがあったわけです。




東アジア国々


三国志は最後に勝ち残った魏を中心に書いてます。当時の魏にしてみれば、呉、蜀との覇権争いをしつつ、北方の鮮卑らの侵攻に供えなくてはならないという不安定な状況でした。

遼東半島には公孫氏がいて、虎視眈々と勢力拡大を狙ってました。

魏としては、当然の作戦として東の高句麗、夫余、東沃沮、濊、韓を味方に引き込み、あるいは勢力の拡大を図ろうとしたでしょう。

対する呉は、遼東半島に地盤をもつ公孫氏と同盟を組み、魏を挟む打ちにしようと企みます。

そうした状況のなかで、魏は倭をどのように位置づけていたのか、を考える必要があります。

もちろん倭としても、こうした状況は把握していたでしょう。そのなかで倭のリーダーである卑弥呼は、どのような戦略を立てていたのか、を推測する必要があります。

こうした観点から魏志倭人伝を読み解くと、真実の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか?

ちなみに三国志で有名な戦と言えば、赤壁の戦いですよね。208年、曹操の魏に対し、劉備玄徳の蜀と孫権の呉が手を組み、長江の赤壁にて、諸葛孔明の奇策により、逆転勝利を収めました。 2008年に公開された映画「レッドクリフ」が話題になりました。当時の映画予告をYOU TUBEで見つけましたので、見られる方はご覧ください。当時の雰囲気がつかめると思います。






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三国志全体をながめると邪馬台国の姿が見えてくる!

前回から邪馬台国の話に移り、「魏志倭人伝」には「邪馬台国」という表記はなく、記載されているのは、「邪馬壹国」であることをお話ししました。さらに「魏志倭人伝」という書物はなく、三国志魏志東夷伝のなかの一つとして、倭人があり、それを「魏志倭人伝」と呼んでいる、という話もしました。ということは、邪馬台国を理解するには、三国志全体を把握しなければ、充分とは言えないということになります。

ここで、三国志全体の構造を見て見ましょう。

三国志構成2

ご覧の通り、三国志は、魏志、呉志、蜀志の3部構成となっており、その魏志の一番最後に、烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)があり、そのなかで、烏丸(うがん)、鮮卑(せんぴ)、夫余(ふよ)、高句麗(こうくり)、東沃沮(ひがしよくそ)、挹婁(ゆうろう)、濊(わい)、韓(かん)、と周辺諸国の国名が続き、最後に倭(わ)が出てきます。倭の中心が邪馬台国です。

当時中国では、魏、呉、蜀の3つの国が覇権を争ってました。最終的に魏が勝ち残りましたので、魏中心の構成となってます。魏の南部は呉と接し、西部は蜀と接してます。残りの北部に接する鮮卑、烏丸伝に加え、東部に接する高句麗ほか、東方の国々を、まとめて東夷として記載しているわけです。
なお東夷とは、東の野蛮な国という意味ですが、中国を世界の中心と考える中華思想の現れでしょう。

なお同じ東夷の国々のなかでも、倭に関する記載は最も多く、また内容も文化が非常に高く忠実な国として描かれていることは、注目すべきことです。有名な「親魏倭王」の金印を送ってますが、他の国には例がないほどの厚遇です。また魏志の最後を飾っていることも、意味があると言えます。

何はともあれ、邪馬台国を理解するには、三国志全体から当時の東アジアの情勢や政治制度、文化や習慣などを多角的にとらえていく必要がある、ということになります。

間違えとして、よくありがちですが、魏志倭人伝の表記ひとつを取り出して、「だからかれこれしかじかなのだ。」と短絡的に結論づけることは危険である、ということです。たとえば魏志倭人伝に書かれている文字に誤りがあるなら、同様の誤りが三国志の他の箇所にもあるのか、あるいは議論百出の邪馬台国までの距離などの記載についても、三国志のなかで同じ尺度で考えるべきでしょう。

それはさておき、まずは当時の東アジアの情勢をよく理解する必要があり、次回はそのあたりの話をしたいと思います。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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