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三国志魏志東夷伝序文を読む 後編 ~ 長老の説いた「異面の人」とは誰を指しているのか?

前編では、中国が西域を征したことがテーマでしたが、では東域はどう描かれているのでしょうか?

【現代訳】
その上公孫淵が父祖三代に至り、遼東を支配していたが、天子はそこを中華から遠く離れた地域とし、海外のことを委ねたので、とうとう東夷は中華から隔てられ、交通が断たれて、中華と通交することができなくなった。景初年間の中頃、大規模に軍隊を出して、公孫淵を誅殺した。また軍に川を進ませ、海を航行させて樂浪郡と帶方郡を設置したところ、海の上はひっそりとして静まりかえり、東夷は屈服した。その後、高句麗が背反し、全軍の内一軍を出して派遣してこれを討伐し、追い詰めて追い詰めて遙か遠くまで行き、烏丸、骨都を越えて、沃沮を通り過ぎ、肅愼の地元を経て、東に大海を望む地に至った。その土地の長老の説明によると「変わった顔立ちをした人々が日の出るところの近くにいる」という。その法や風俗は身分の上下を分けて秩序立っている。それぞれ国名があり、詳しく採録することができた。夷狄の国とはいえ、俎豆(祭りの供物をのせたり盛ったりする器、転じて祭祀を言う)の儀礼がある。中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。それゆえ、その国を選び出し、その異同を示して、これまでの正史が備えていなかったところを補うものとする。

【解説】
公孫淵(こうそんえん)が、中国と東夷との交流を邪魔していたことは、以前のブログ
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?」(2015/5/16号) 
でお話しした通りです。
その公孫淵を討ち( 238年8月)、楽浪郡、帯方郡を設置することにより、東夷との交流が復活しました。まさにその直前に、卑弥呼が魏の皇帝に使いを出したわけです(238年6月)。

次いで、烏丸、骨都、沃沮を通り過ぎて肅愼、最後に東に海を臨む地域に至った、とあります。それがどこなのか?ですが、素直に読めば、下の図の通りになります。

三国志時代の東アジア

そこの長老の言葉は、有名です。
「変わった顔立ちをした人々が日の出るところの近くにいる」と言ったと。
さて、これはどこの人びとを指しているのでしょうか?。ここまでお読みの方には、もうおわかりでしょう。

原文は、
異面之人近日之所出
です。

「日の出ずる所」とは、東方を指していることに異論はないでしょうから、問題は「異面の人」です。
「異面の人」とは、文字通りの意味は、「変わった顔の人」となります。異民族であれば、顔立ちも違ってくるのですが、単純にそれだけではないようです。この「異面」について、再び張莉氏の論文から考えていきます。

【論文】
顔志古は、「漢書」地理志の「(原文略)楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来たりて獻見すと云ふ」の倭人について次のように注釈している。「(原文略)如淳曰く、如墨委面は帯方東南の万里に在り。臣瓉曰く、倭は国名なり用墨を謂わず。故に是を委と謂ふなり。師古曰く、如淳、如墨委面を云ふに、蓋し音は委字のみ。此の音は否なり。倭音は一戈切なり。今猶ほ倭国有り。魏略に云ふ、倭は帯方東南大海中に在り。山島に依り国を為す。千里を渡海し、復た国有り。皆倭種なり。」。如淳は、三世紀中ごろの魏の人、臣瓉は三~四世紀にかけての晋の人、顔志古は七世紀の唐の人である。
臣瓉が言ったように、如淳は「倭」の意を踏まえた「委」を述べていると筆者は考える。如淳は「漢書」地理志の「(原文略)楽浪海中に倭人あり」を受けて「(原文略)如墨委面は帯方東南萬里に在り」と注釈している。この二つの文章を対照すると「如墨委面」は「倭人」のことになるので、「委」は「倭」の意味を捉えたものである。また、西晋時代に書かれた「三国志」魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十には「(原文略)粛慎の庭を踐(ふ)み、東、大海に臨む、長老説くに、異面之人有り、日の出ずる所に近し。遂に周(めぐ)りて諸国を観(み)、其の法俗、小大の区別、各々有する名号を采り、詳らかに紀を得るべし」とあり、「三国志」魏書の「異面之人」は発音からみて如淳の「如墨委面」を受けて記述したものと思われ、鯨面の倭人を意味したものと考えて間違いはないであろう。

【解説】
ややわかりにくい文章ですが、前半部分は、「委」と「倭」について、如淳、臣瓉の見解を踏まえて顔志古が解説したものです。中身については細部に入いるので、いずれまたお話したいと思います。
ここでのポイントは、「異面の人」について、
異面=委面=倭面(いめん)
と断定していることです。
つまり、
異面の人=鯨面(顔に入れ墨をした)の倭人
ということです。

なお、以前「翰苑」についてお話しましたが、実はブログで割愛した注釈のなかに、
「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王師升が至る有り」
の記載があります。これは、倭の国王の師升が、中国皇帝の安帝に107年に朝貢したことを記録しているのですが、その倭の国王を「倭面」と表現していることからも、この仮説が正しいことがわかります。

東夷伝序文に戻ります。
「その法や風俗は身分の上下を分けて秩序立っている。」、「祭祀をしっかりと執り行っている」と特徴を挙げ、「中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。」と最大限の評価をしています。
なお、この「中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。」は、
「漢書地理志の中の倭人 ~ 孔子は日本にあこがれていた!? 」(2015/11/12号)
でお話した漢書地理志の一節
「故(ゆえ)に孔子、道の行はれざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也夫(か)」
を受けているのは、間違いないでしょう。
いかに倭国を高く評価していたか、わかります。

そして最後に、「その国を選び出し、その異同を示して、これまでの正史が備えていなかったところを補うものとする。」とあり、東夷伝を書くにいたった理由を示しています。つまり、前漢の時代に成し得なかった東域の果ての地、すなわち倭国の詳細をここに書き記すことができたことを誇らしげに記しているわけです。これで、三国志魏志東夷伝のなかにおいても、なぜ倭人伝についての記載が、質・量ともに圧倒的に多いのかが理解できます。

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三国志魏志東夷伝序文 前編 ~ 陳寿が三国志のなかで東夷伝を書いた理由とは?

前回まで、倭人に関する中国最古級資料として、論衡、漢書、金石文を読んできました。そこからは、もともと揚子江流域に住んでいた倭人が、戦乱の時代に朝鮮半島を経て(あるいは海上にて)、日本本土へ移動したことが推察されました。

成立年代として次に続くものとしては、三国志になります。三国志魏志倭人伝については、これまでのブログでお話ししてきました。そこには、日本本土に住む当時の倭人の生活が生き生きと描かれています。

実は、三国志のなかには、その他にも倭人に関する記事があります。魏志東夷伝序文、韓伝、東沃沮(とうよくそ)伝などですが、とても興味深い内容であり、参考になるので、それらを読んでいきます。

まずは、三国志魏志東夷伝序文です。名前の通り東夷伝の冒頭にあり、東夷伝を書くに至った背景について記されています。そして、最後に倭が出てくるわけですが、その扱いは格別です。

なお現代訳が手元にないので、中国正史に見える古代日本 https://traitor.jp/china/
から、お借りしました。

【現代訳】
書経には「(中国の教化は)東は海に至るまで。西は流砂が覆う地にまで(広がった)」と記されている。当然、中華の九服の制が適切に行われたことを言っているのだ。しかし辺境のまた外については、翻訳を重ねた風聞が聞こえてくるばかりであった。歩いたり馬車に乗って行けるところではなく、未だに国の風俗やその外国のことを知る者はいない。虞(帝舜)からに至るまでの間、西戎は白環から礼物の献上があり、東夷は肅愼から貢ぎ物があった。皆久しい間、朝貢にきているが、その遠く遙かなことは以上の通りである。漢帝国の時代、張騫を派遣して西域を調査させ、黄河の源流を突き止めさせ、諸国をつぶさに巡り、遂に都護を置いて支配した。その後、西域のことが具体的に調査できるようになり、そのため、史官が詳しく記録に載せることができたのだ。が建国され、西域をことごとく支配下に置くことはできなかったが、その大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師の屬は朝貢してこない年がなく、ほとんど漢の時代と変わらない。

【解説】
前半は、"中国国内は統一されたが、その外の国々の様子は、よく分からなかった。漢の時代に西域に張騫(ちょうけん)を派遣し調査して都護を置いたので、西域のことはよくわかるようになった。魏の時代には、西域は支配できなかったが、朝貢をしてこない年はない。"とあり、中国の威光が西域にまで広がったことを称えてます。

張騫の大月氏への使節団

張騫使節団


出てきた国々を図で示すと、以下の通りになります。

前漢時代の西域  

これら西域の国々を横断するのが、シルクロードです。張騫 が月氏のもとへ派遣されたのがBC139年で、結局同盟には至りませんでしたが、周辺諸国を調査し、支配を強め、BC59年に都護府を置くことができました。その頃には、地中海沿岸の国々から、中国までの交易ルートは確保されていたでしょう。すなわちシルクロードです。

シルクロードの東の起点は長安ですが、西の始点がどこかは諸説あります。いずれにせよ少なくとも地中海近辺までは通じていたわけですから、ローマ帝国、ペルシャ帝国との交易にも利用されたはずです。

当時の日本、すなわち倭国もその頃には、中国との交流があったことを考えると、シルクロードにあったこれらの国々の情報は、倭国にも入っていたことでしょうし、交易品もあったことでしょう。中国から倭国への人の移動もあったわけですから、遠い西域の人びとが倭国に来たこともあったのではないでしょうか?。

となると、しばしばトンデモ説として聞かれる、"古代日本の〇〇は、実は△△人だった"といった類の話も、物理的には可能な話である、と言えます。もちろん、事実かどうかは別の話になりますが・・・。

さて、西域の国の一つに、鄯善があります。この鄯善とは、楼蘭(ろうらん)のことです。あの楼蘭の美女のミイラで有名ですよね。1980年に、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で発見されました。BC19世紀、約3800年前に埋葬されたもので、死亡時の年齢は40歳前後、身長約155センチメートルと推定されています。

復元された容貌です。気品を感じさせる美しさです。ヨーロッパ人の血が70パーセント入っているアーリア系人種のようです。

楼蘭の美女

 ヨーロッパ系の人であったことが、諸々議論を呼びましたが、考えてみれば、張騫の西域への派遣よりさらに1700年も前の人です。当時、ヨーロッパ系の人が住んでいても何の不思議もありません。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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